音楽だより408

 

思い立ったら     竹内幸一

もう6月です。正月だ、税金申告だ、音楽祭だ等と言っているほんの短い間に、早くも半年が過ぎようとしています。するすると過ぎ去っていく日々を思いつつ、今月は「思い立ったら」というテーマで書かせていただこうと思います。どうぞお付き合いください。

最近DVDを借りて「マルタのやさしい刺繍」という映画を見ました。これは、スイスの小さな村に住む80歳のおばあちゃんとその仲間のお話です。マルタは長年一緒に過ごした夫を亡くしてうつうつとした日々を過ごしています。7か月も経つのに、まだ夫の写真を胸に抱いてないと眠りにつけないほどです。

そんな折、村の合唱団の旗がネズミにかじられたから、マルタに繕ってほしいという依頼が来ます。マルタは若いころ洋裁をしていたのを村人は知っていたからです。

それで、仲良しの友達とその旗の生地を買うために街の洋品店へバスに乗って出かけます。そのお店の陳列品を見ていると、50年ほど前にしていたころの洋裁の品物が懐かしく目に入るのです。それを見ているうちにふと周りの人に「パリでお店を出すのがその頃の私の夢だったのよ」とつぶやきます。

それがお話のすべての始まりになる、軽いつぶやきでした。一緒に行っていた仲間は、落ち込んでいるマルタを励ますためにも「いいじゃない、やってみれば」とすすめるのです。「まさか、こんな齢で今更…もう無理よ。出来っこない」とマルタは相手にしません。でもおしゃべり仲間といろいろ話しているうちに、「もしかしたら」という気持ちも芽生えてくるのですが、決心はなかなかつきません。

しかしながら、だんだん「夫から引き継いで細々とやっている雑貨屋を改装してみたら」という夢が沸いてきます。「牧師である息子が何というか…」等、あれこれ考えるのですが、ついに心が決まるのです。その吹っ切れた時のぱっと輝く笑顔のなんと生き生きしていたことでしょうか。

久しぶりにミシンを出して練習を重ね、友人の手伝いもあり、ついに開店へこぎつけます。そのお店はマルタが得意にしていた美しい刺繍入りの女性用の下着を売るランジェリーの店でした。

女性の下着という事で、村の保守的な人々は「いやらしい」と大騒ぎ。牧師である息子もかんかんになって怒り「父さんが死んで頭が狂ったか」とののしります。様々な妨害が続き、一時はマルタも悲しげに天を仰いで諦める場面もあります。

「思い立ったら」で、仲間のおばあちゃんの一人は、夫の介護のために運転免許を取るのに挑戦、もう一人はパソコンを学ぶのにチャレンジ。そしてそれが後に再開したマルタの店の貴重な戦力になっていくのです。

この映画を見た人が「まだ私は若い、何でもできそう」と声を弾ませていたのが印象的でした。皆さんも「思い立った」ら、年齢などでくじけずに一歩を踏み出してみてください。

それはともかく、この映画の中で時折スイスの村の風景が映し出されました。私はそのたびに、何だか息を呑んで見入っていました。なぜかわからないのですが、その風景にとても魅了されて、それだけのためにもう一度最初から映画を見たほどでした。

緑あふれる草原や小さな村のたたずまい、遠いアルプスの山々・・・美しき水車小屋の娘とかアルプスの少女ハイジとかを彷彿とさせるスイスの自然のイメージがとても印象的でした。

こういうところへ行ってみたいなあ。あんな景色を見ながら、長年の蓄積疲労で病んでいる心身の洗濯をする。そんな心豊かな静養の時間がすごせたらいいな。そんな何とも言いようのない憧れの夢が沸いてきたのです。

そして突然「思い立った」のです。「スイスへ行けたらいいな」、「スイスへ行ってあの景色を見たい」・・・そしてついに「いや行こうと思えば行けるかも」と気持ちが進んでいったのです。

ほんのささやかなことから、何か大きな夢が広がってきました。そういえば過去に、2回音楽院の皆さんと独自のツアーを組んで旅行をしています。1回目は、フランス、スペインの旅、2回目はオーストリア、ドイツ、ハンガリーの旅でした。あの後、もう、旅行はこれで打ち止めと決め込んでいました。

しかし、人生の最後(たぶん)に、もう一度だけご希望の方とツアーが組めたらいいなという気になってしまったのです。だいたい15名程度の方が賛同して下さることになれば、実現するかもしれません。具体的なことがわからないので、決めにくいでしょうが、この新聞の読者の皆様に検討していただいていたらうれしいです。そのうち資料を作ります。

来年、音楽院は35周年になります。その記念にとこじつける(笑)理由も浮かびました。長い事頑張ってきたんだから、疲れた目や体に少しだけご褒美があってもいいかも…

と言っても、以前トレドの古い街を歩き回った様な体力はもうありません。56日ぐらいのわりに短い期間で、無理のない行程を組まなければ、私はとても皆さんと一緒には歩いて回れません。年配の方も、安心して参加出来、楽しめるようなツアーにできればと思っています。

気の早い話ですが、出来れば、来年の第35回春の音楽祭終了後の5月の終わりごろにと思っています。音楽祭後のお休みと5月の終わりの5週目のお休みを合わせて、何とか1週間ほどのお休みが取れたらと次第にワクワクしながら考えています。

それまで、あと1年。「思い立ったら」・・・の夢が大きくなりました。皆さんもご一緒に夢を見てください。そのためには、これから何とか元気で過ごさないと。

 

来浦通信 <№1

かねてより準備をしていました沖縄からの移住が、418日についに実現しました。私の生家のあるところは国東町来浦(くのうら)ですが、そこに、陶芸家の伊藤英明・花さんご夫妻が入ってくれたのです。なんだか息子夫婦があとをついでくれたような嬉しい気持でいます。

これから、<来浦通信>という事で、ゼロからスタートの暮らしや仕事の変わっていく様子を知らせていただけることになりました。この新聞の読者の皆様と一緒に、末永く応援が出来ればと思います。どうぞよろしくお願いします。

頂いたメールだけでは流れがつかみにくいときは、私の返信なども入れさせていただくことにします。ご愛読をお願いします。

 

💛おはようございますー!来浦に来て初めての雨模様です。昨日大阪から助っ人で来てくれていた両親が帰って行きました。

ずっとワイワイと賑やかでしたが今朝はシトシト静かな雨の音が心地よく響いています。まだまだ片付けが残っていますが台所など生活感が出て来ました!!

早くある程度片付けて、畑の場所を耕したりして、野菜を植える準備をしたい。。。それからそれから。。。と頭の中は次々とやりたい事でいっぱいです!

今朝、御近所のOさんが訪ねて来てくれていろいろな事、例えば草刈のことやケーブルテレビのことやマムシの事!など教えてくれました。本当に親切にして頂いて有難いです。

昨日は両親を宇佐の駅まで送っていった帰りにホームセンターで人生初の草刈り機を購入しました!我が家の草刈り機デビューです!(笑)

毎晩家の裏山で鹿が鳴きます!すごく近い所で鳴きます。その神秘的な声の響きを聞きながらのお風呂が今一番のお気に入り😍です!

💛本当にいくつになっても親の存在はありがたいものです!父は私たち以上に?ワクワク楽しかったようです!

ある日の夕方に外のスペースで小休止にお茶をした時に、父が心底からの声で「はぁ〜ホンマに幸せやなぁ〜!」と呟いて嬉しそうだったのが印象的でした。

本当はもうしばらく私たちと一緒に作業をしたい気持ちだったかも知れません。

💛今朝は空き家バンクのKさんが来てくれてわたしは使わないけれどまだまだ使えるものがあるので相談したところ、52日にウチで無料の欲しい方に差し上げる会!を越名さんにもお手伝いただいて開催する事になりました!少しでも誰かに使ってもらえると嬉しいですねー👏お知らせまで!!!

💛今日もお忙しい中遠い所訪ねて下さり!ありがとうございました🌠お天気も良く想像以上に多くの皆さんに来ていただいて楽しんで頂けました!しかも沢山の器やお着物が新たな持ち主に出会う事になリました。Kさんにもお手伝いいただき本当に楽しい時間でした〜!

来てくれてた方々はほとんどが私たちと同じ移住して来られた方達で、いろんな方と交流出来たのも嬉しかったです!

今日は夕方から畑のスペースを耕し始めました!全くの素人なのでお隣のTさんにいろいろ教えて頂きながらです!とても勉強になります!!!本当にいい方ばかりで有り難いです🙌

工房がキチンと整って家の床の工事が完成したあかつきには!竹内さんのliveとお食事会を企画させて下さい😁楽しみにしています!ちなみに来週の火曜日にシルバーさんが不要品の回収に来てくれる事になりました。今日は本当にありがとうございました。

◎高橋先生の連載はご病気のため今月はお休みです。

ジャカランダの花が咲く

スペインの旅 №12

    ルベックムーン 安部康二郎

この後グエル公園に行きました。ガウディのパトロンだったグエル伯爵と組んだプロジェクトで、「海の見える場所で60戸の住宅を建設する予定だったが資金面や家の購入者が集まらず、途中で工事を中断され、その後公園として生まれ変わりました」との説明でした。

〔別府のルミエールの丘と想ったらイメージが合うと思います。〕

残ったのは、住宅2戸入り口のモニメントゾーンと市場の跡地、ベンチのタイル装飾が美しい公園、色鮮やかな破砕タイルで造ったトカゲの噴水などがガウディの主要な作品の一つだと言っていました。(つづく)

最終回

エスプレシボ400号到達記念特別寄稿

童話「鈴をつけた うり坊」9

                        永嶋 順子

 

「もうすぐ 小さなうり坊たちが生まれるの。あなたたちが赤ちゃんだった時とおんなじうり坊よ。だから お兄ちゃんたちはもう 母さんから離れてくらすのよ」

大きくなった6匹の子どもたちは母さんの話をだまって聞きました。それは、とても とてもつらい話でした。

「わかった かあさん」

と、しばらくしてうり太がいいました。

「ぼくたち大丈夫。自分で生きていく。ねえ みんながんばろうな」

と、はっきりとした声でいうと、うり次郎とうり助も「うん」「うん」「がんばる」と母さんを見つめていいました。

女の子のうり子と うり代はしっかりと手をつないで

「わたしたち いつもいっしょにいようね」

と、いいました。

そして、一匹ずつ母さんに抱きよせられてから、バイバイと手をふって、何度もふりかえりながら山のおくに 入っていきました。

 

 けれどまだ一匹残っています。そうです。『鈴をつけたうり坊』だった あのちび平だけは母さんから はなれられません。

「ぼく、ひとりじゃいやだ。かあさんといっしょがいいんだ」

と、しくしく泣くのです。

「うり平 うり平は母さんのお腹の中で 母さんの栄養をもらって生まれてきたのよ。うり平の手も足も からだもみんな母さんからできたの。だからいつだって 母さんはうり平といっしょなのよ」

「ほんとう? いつも ぼくといっしょなの?」

「そうよ わかったのね。いつもいっしょよ。それに うり平はとってもしっかりしたお兄さんになったわ。もう大丈夫。 さあ、母さんが見てるからね。うり平お兄さん レッツ ゴー」

うり平は少し元気になって歩き出しました。

少し行った時、

「うり平 ちび平 元気でねえ」

と、母さんの声が小さくきこえました。

うり平は立ちどまりました。ぱっと うしろをむいて 母さんのところへ 駆けもどりそうになりました。

でも うり平は 歯をくいしばって 足をふんばって がまんしました。そして

「ぼく、一人前のイノシシだもん」

ぐっと胸をはり、頭を持ち上げると

「かあさんといっしょ。かあさんといっしょ」と、歌うようにいいながら みんなの行ったほうへ歩いていきます。

うり平の足はだんだんはやくなりました。

          〈終わり〉

音楽だより407エスプレシボ5月号

     
  竹内幸一

 34回目の春の音楽祭が無事終了し、一息ついている月末です。恒例の行事が、たくさんの方のご協力で今年も続けられたことに、心よりお礼を申し上げます。スタッフの皆様、そしてご出演の皆様、有難うございました。

 さて今月は、別府の家に、小さな仏壇を買い入れましたので、そのことについて少し書かせていただこうと思います。よろしくお願いします。

 無人になった生家に、沖縄から陶芸家の方が入ってくれるようになりましたので、暇を見つけて家の片づけをしました。別府の家が狭いので、ほとんどのものは前の畑で焼くか、不燃物にするかで処分をしました。ちょっともったいないかなと思うものも、思い切って捨てて、別府の家に荷物が増えることを防ぎました。

 その厳格な処分を免れて別府まで引っ越してきたのは、34冊のアルバムと、父母の位牌だけでした。

 幼いころからのアルバムは、少し迷いましたが、それを焼く気分にはやはりなれませんでした。私たちのいなくなった後、次の代が処分することになることでしょう。

 位牌に関しては、たくさんありましたが、父母のもの以外は、お寺さんに相談して墓に納めました。父母の位牌だけは、別府に持ち帰ることにし、それを納める仏壇を購入することにしました。

 何しろ別府の家は狭いので、一番小さくて、そして一番安い卓上の仏壇を求めました。パソコンを置いてある部屋の机のはしを整理し、スペースをあけて、仏壇を置きました。小さな仏壇ですので、父母の二つの位牌で、もうすでに満杯の感じとはいえ、きちんと父母の位牌がおさまりました。

 丁度いい父母の写真がありましたので、額に入れて並べて仏壇の上に飾りました。

 これまでは、何か月かに一回家の掃除に帰り、その終了挨拶という事で、帰る寸前に線香をたき手を合わせていました。あとの日は、ネズミの走り回る無人の家で、誰に見守られることもなく、位牌はただただ静かに暮らしていました。

 それが、別府に引っ越してきてからは、小さな狭い仏壇ですが、手の届くところに、毎日父母が存在するという事になりました。写真もありますので、何だか温もりまで伝わってくるような感じもするほどです。

 孫たちが休みで来ていると、時折「ひいばあ・・・ピアノに行ってくるよ」とか言いながら、小さな手を合わせてくれることがあります。細いながらも、命の連鎖のバトンがあることに胸が熱くなります。

 春休みに来ていた孫が帰った後、ふと仏壇を見ると、小さな置手紙に気が付きました。亡き母が、この四月に新一年生になったひ孫を、あの世から笑顔で見てくれていることでしょう。

 

 別府に住んで約50年。仏壇のない家で暮らしてきました。あまり深く考えることはありませんでしたが、いわばゼロからのスタートで、夫婦で作り出す歴史が、すべての感じでした。連綿と続いてきている命の連鎖に思いをはせることは、皆無と言ってもよいほどでした。

生身魂として、母が田舎で暮らしてくれていても、それはどこかで、切れていました。その一人の暮らしの、いろんなわずらわしさや淋しさから、私は目を背けていました。たまに家に帰って、妙なセールスマンから売りつけられた品を見て、怒ったりしていました。独りの無力な母をだまして物を売りつけることは、そう難しくはなかったのでしょう。母を責めるのは酷だったのだろうと思います。今になってそれがよくわかります。

 それぞれの生活が、重なることなく長い時間が過ぎるばかりでした。私たちは、街での暮らしに追いかけられ、目の前のことを乗り越えていくばかりでした。

今こうして仏壇を設置してみて初めて、父母がよみがえってきた気持ちがしています。もう孝行することもできなくなり、手遅れとも言えますが、気分的には、何だか一緒に暮らせるようになった気がするのです。

 最近新聞で、「残心」という言葉を知りました。

 武道や芸事などで、物事が終わった後への緊張感の持続の事のようです。勝負に勝っても、茶をたて終わっても、それから後の所作が美しいかどうかが、大切なのだそうです。

 話は飛びますが、「余情残心」ともいう心がけは、もしかしたら仏壇にもあるのではないかと、ふと思いました。位牌や写真から、あとに残されたものに、どんな語り掛けがあるのか。声が聞こえてくるのか。

 その声は、父母が懸命に生きてきた日々の暮らしからにじみ出てくる、残心だろうと思います。その残心を聞き取れる感受性も大事ですが、聞き取ってもらえる、何かを残すことも生あるうちに考えておきたいものです。

 息子や娘、そして孫たちなどが、私の入る仏壇から、私の「余情残心」を、どのように感じてくれるだろうかと、時折考えながら、これからの日々を送れたらと思います。

 仏壇をこのパソコンのすぐそばに置くことで、私は今ようやく、父母の「残心」を少し味わえるようになりました。ありがたいことです。

 

 

連載その3  春の音楽祭                 高橋由紀子(声楽&ピアノ科)

 

 今年も春の音楽祭が無事に終了しました。

 今年は、ひとりの生徒さんの卒業の回となり、いつも以上にしみじみと音楽祭を見ていました。

 今回卒業となった生徒さんは、6歳から10年間、ピアノのレッスンを受けました。去年は受験生で、勉強に部活に忙しい日々を過ごしていましたが、今年が音楽祭参加10回という節目でもあり、もう一年頑張って参加することになりました。また、去年は思うような演奏が出来ず涙の音楽祭となり、そのリベンジという思いもあったのかもしれません。そして、今年は無事に演奏を終える事が出来、笑顔で卒業してくれました。

思えば、お姉ちゃんのレッスンからのお付き合いで、最初に会った時はまだオムツをしていて、Aのレッスン室の床をハイハイせずにお尻でずっていました。お母様には、お姉ちゃんから含めて約15年間送り迎えをしていただき、感謝状をお渡ししたいくらいです。本当にお疲れ様でした。

今回卒業ということで寂しくなりますが、これからの人生において音楽という宝物を時々引き出しから引っ張り出して、より豊かな人生を送ってもらえればと願っています。

 

 春の音楽祭も今年で34回となりました。プログラムを見直すと、平成5年の第10回から毎年参加させていただいていました。毎年欠けることなく参加出来た事は本当に幸せだと思っています。

 音楽祭では、生徒さん方が主役となり、その裏方仕事である会場の準備・司会・進行・お土産渡しなど、院長先生をはじめ、すべて講師の先生方が担当します。また、それまでのいろいろな準備は院長先生の奥様が取り計らってくださり、先生方は安心して当日を迎えます。年々、先生方も要領を得て「次はこう」「ここはこう」みたいな感じでされていて、加えて抜群のチームワークで、年に一度の音楽祭をつつがなく終了させています。

 私はここ何年間か、司会を担当させていただいていますが「読み間違えないように」「嚙まないように」と思えば思うほど、変に訛ってしまったり(笑)本当に拙い司会で申し訳ないと思っています。

私自身、終わった後は反省も多々あるのですが、毎年行われる音楽祭は楽しみにしています。午前の『幼児・学生の部』では、子供たちの成長にほっこりしたり、お子さん方を見つめる親御さんやご家族の暖かい眼差しにほっこりしたりしています。

午後の『一般の部』では、何十年も参加されている生徒さん方もたくさんいらっしゃるので、毎年、元気で参加されている姿を見るたび嬉しくなります。

 サンシティー音楽院の先生方は、自分の受け持ちの生徒さんだけでなく、すべての生徒さん方を見ていてくださり、去年涙で終わった私の生徒さんの事も気を掛けてくださっていて「今年も参加出来て良かった」と喜んでくださりました。

 このように、サンシティー音楽院の音楽祭はこじんまりとしていますが、暖かい音楽祭だと思っています。生徒さん方は「人前での演奏は緊張する」「避けられるものなら避けて通りたい」とお思いになるかもしれませんが、一年の頑張りの発表の場として、また、一年ぶりの再会の場として、ぜひ参加していただきたいです。

 来年の音楽祭もぜひみなさんにお会いできる事を願っています。

ジャカランダの花が咲く

スペインの旅 №11

    ルベックムーン 安部康二郎

 

バスに乗り、ガウディが5年かけて設計した邸宅、カサ・ミラ邸の見学、外壁に埋め込まれ色とりどりのガラスモザイクがあるカサ・バトリョ邸の見学をしました。そのあと予定の時間にレストランでシーフードの夕食をとりました。4時過ぎと遅い昼食でしたが、皆さん完食してホテルに着きました。

明日は午前中に市内観光とガウディが手掛けたグエル公園他を見学し、午後にはオプショナルツアーでカヴェワイナリーとモンセラットを観光します。

朝起きてカーテンを開けると、部屋が一番端だったのでバルセロナ市街が一望できました。昨日買った絵葉書の中に市内の写真があり、光景が同じで、左の方向にサクラダ

ファミリアが見えました。

朝食を終えてバスに乗り、最初に世界遺産のサン・パウ病院を見学しました。カタルーニャの銀行パウ・ジルの寄付によって建てられた建物で、建築家は音楽堂と同じリュイス・ドメイク・イ・モンタネールで、1902年に着工し、完成まで約30年近い年月を要したそうです。ムデハル様式の複合建築で48ある病棟は、地下でつながっているそうです。現在は、修復中で外からの見学でした。続く

 

 

エスプレシボ400号到達記念特別寄稿

童話「鈴をつけた うり坊」8

                        永嶋 順子

 

「そうだったの? みんなよくがんばったわね!」

母さんは涙を流しながら一匹ずつ ぎゅ~っと抱きしめました。

母さんは少し足を引きずっています。鉄砲で うたれて、けがをしていたのです。

「わたしたちを守ってくれた いのおじさんは、うたれて、つかまってしまったの」

と、悲しそうにいいました。女の子たちは、母さんの足のきずをやさしくなめました。

母さんはそっと寝床に横になりました。

 

 里山に菜の花がいっぱい咲いて、春が来ました。

母さんの傷がだいぶんよくなったので、みんなで食べ物を探しに出かけることにしました。

さあ、子どもたちは張り切って出発です。

かあさんといっしょ かあさんといっしょ うれしくて うれしくて・・・

「かあさんこんな長い山芋ほったよ。」

「あたしの赤い実のほうがおいしそうよ」

「こんな虫つかまえたよ。」

子どもたちは大さわぎして笑いあいました。

「いただきま~す」

みんなで食べるご飯のおいしいこと!

「あなたたち もう一人前ね」

母さんがほほえんで いいました。

「一人前って?」

「自分たちで ちゃんと生きていけるってことよ」

 

ある日 母さんは子どもたちを集めていいました。

「あのね よく聞いて。 あなたたちは自分で食べ物をさがすことが出来るようになったわね。だから いつまでも母さんに甘えていてはだめ。ひとり立ちってこれからは自分で生きて行くの」

子どもたちはびっくりしました。

「ええっ そんなのいやだ かあさんといっしょじゃないと いやだあ」

「かあさんといたい」

「まだ ここがいい」「ここにいるー」

と、口々にいいました。

「あのね」

母さんは子どもたちの顔をみまわしていいました。    (つづく)

 

 

 

音楽だより409

 

七夕記念日     竹内幸一

梅雨入り宣言が間違いではないのかなと思わせる日が続いていました。降る時は降る、晴れるときは晴れるという平穏な日々でないと、いろんな困ったことが起きますね。農作物の生育が心配です。

さて今月は、今一番身近なことで旬と言える「実家への移住生活スタート」の話題をやはり取り上げておきたいと思います。嬉しい「来浦通信」も始まりましたので、記録を残しておく意味でも、入居の様子などを少し書かせて下さい。

思い起こせばこの新聞に「77日の奇跡」という記事を昨年書いています。それからちょうど1年になります。先哲資料館に古文書などをお願いできた事、空き家バンクに出したHPを見て、はるばる沖縄から見学に来られたお二人とお会いできたことの二つが、昨年の77日でした。どちらも長年どうしたらいいのだろうと、重荷に思っていたことなので、その解決がうれしくて思わず「奇跡」と書いてしまったほどでした。それで、勝手ながらわが家ではこの77日を「竹内家七夕記念日」として後世に残すことにしました。(笑)

418日に伊藤さんお二人と奥さんのご両親が来浦入りしました。引っ越し荷物の到着は翌日の予定になっていましたので、その日は、お世話になっている近所の従兄弟の皆さんにも来ていただいて、簡単な弁当での「歓迎昼食会」を開きました。

それが終了して散会した後、伊藤家の皆さんが、家の裏にある「竹内家累代の墓」の掃除を始めました。なんだかその気持ちがうれしくて、胸が熱くなりました。いつも誰もいなくてほったらかしにされていた墓が、掃き清められ、庭にあった花も飾られました。

翌日の引っ越しの日、私たちは午前中行事があったので、午後到着したのですが、家の中を覗いてみてびっくり仰天しました。荷物の多いこと多いこと。かなり広い家なのですが、どこも荷物の入った箱で埋め尽くされていました。

そのうえ尚びっくりしたのは、昨日私たちが来浦を離れた後で、親子4人組が、それこそ徹夜でしたのではないかと思うほど、不要家具、冷蔵庫、本など重いものをたくさん隣りの蔵の土間に運び出していたのです。その膨大な山を見ながら、その作業量の多さに、唖然としてしまいました。すごい!!働き者の仕事量に感嘆するばかりでした。

そういう不要物は市のシルバー人材センターの皆さんが2度にわたって収集に来てくれたそうです。また、使えそうなものは、1回目の来浦通信にありましたように、市の主催でフリーマーケットが開かれ、そのおかげでそうとう品物が出て行ったようです。

そんなことがいろいろ終了した後、ようやくお二人の意向に沿った部屋作りが始まりました。あの荷物の山を想像しただけで、気が遠くなるほどでしたが・・・。

その成果をフリーマーケットの時に少し見せていただきましたが、その変わりように目を見張りました。アンティークに統一された色合いの色調に、お二人の個性が溢れていました。また今度いつかその変わりようを見せていただくのが楽しみです。

さてここで、毎月いただく「来浦通信」をより楽しんでいただくために、少し登場人物の紹介をさせていただこうと思います。

最初にOさんのことを書きましょう。この方は、確か7人ほどの兄弟の末っ子で、私の父の実家になる家を継いでいる方です。私とは従兄弟になります。母の存命中から、畑や庭の草刈りなどいろいろと助けていただいていました。自衛隊、電気屋さん、会社勤め・・・そして今は定年で自由の身になっているようです。同じ隣保班という事もあり、いろいろと伊藤さんたちも引き続き大変お世話になっているようです。先日はBSアンテナを取り付けてもらったという連絡もありました。元電気屋さんの威力発揮です。初めての地で心強い支えになってくれている方です。

Tさんはお隣りに住んでいる方です。畑を耕運機で耕してもらったり、また農作業のことなどで、伊藤さんたちがとてもお世話になっているようです。

この方は長男で家を継いでいますが、兄妹がたくさんいました。確か小学校の12年の時だったと思いますが、家の前にある池(今は埋め立てていてない)に私が落ちて、あわや溺れるという時、隣りの次男になる方が、池から引っ張り上げてくれたそうです。間違えばあの時私は死んでいたかも?

長女の方は、黒いかばんを首にかけ、パンチのはさみを持ったバスの車掌さんでした。バスに乗ってその人から切符を買ったりするのが照れくさかったものです。あの頃はバスのお客さんが多かったなあ・・・いつもぎゅうぎゅう詰めでした。

遊びに行ったとき、次女の方から勉強しているノートを見せてもらったことがありました。たぶん方程式かなんかでしたが、ぎっしり数字や文字が書いてあり、へ~中学になるとこんな難しいことをやるんだとびっくりしたのを覚えています。

三女の方とは同級生でした。この人と、その隣りの家の姉妹と一緒に、4人でよく遊びました。いっけんをしたりかくれんぼをしたり、とてもいい遊び相手でした。地理的条件から、いつも女の子と遊んでいたのが、私の性格にどう影響があったのでしょうか?

なつかしい・・・ですが、今はどの方とも音信がありません。変わっているだろうなあ。みんなどうしているんだろうなあ?子育てを終えていいおばあさんになっているのかな?

ちょっとTさんのことで思い出話が長くなりましたが、まあ、そういう優しい方に恵まれているので、私もこちらで安心して伊藤さんたちの暮らしの応援が出来ます。どうぞ来浦通信を楽しみに読んでください。

 

連載その4

ヒメスズメバチ

高橋由紀子(声楽&ピアノ科)

                  

数年前の7月のある日、寝ている頭側の壁の中で「ガサガサ」「ブ~ン」と音が聞こえてきました。耳を澄ますと何やら羽音のようで、何かの虫が床下の通気口から入り棲みついたのかなと思っていました。

そして、初めて羽音を聞いてから何日か経った頃、私の部屋の下の通気口に、よく見るスズメバチの巣があることに気が付きました。茶色のグラデーションのような巣は美しい芸術品のようでもありました。

気づいた時は通気口の間に巣が見える程度で、このまま居座られては困ると思い、試しに私の部屋から蚊取り線香を吊るして、煙を送り込んでみました。すると「何だ何だ」という感じで、結構大きな2匹の蜂が出てきました。出てきた二匹は「この煙は何だ?」と相談するように顔を付き合わせたり、巣の前をうろうろしたり、まるで周辺を警戒する番人のようでした。煙がなくなり周辺の安全も確認できると、また巣に戻っていきました。

結局、出ていく気配もなく、どうしたものかと思っている間に、通気口はしっかり塞がれ、2cmほどの入口を残すのみの立派な要塞が出来上がっていました。こんな立派な巣を作られたのは初めてだったので、取りあえず蜂の種類を調べて対策を考えることにしました。

蜂の特徴は、体調が約3cmほどで、お尻の部分が黒いということでした。調べた結果、スズメバチの一種で『ヒメスズメバチ』ということが分かりました。

大きいのに名前は『ヒメ』とは可愛いなあと思ったのですが、文献を読んでいるうちに納得しました。「性格は警戒心は強いが、他種ほどに攻撃的ではなく温厚」「毒も弱い」「よほどの事が無い限り刺される心配は少ない」「巣の大きさは小さく、成虫の数も多くて100匹前後」「9月には営巣を終え、巣を離れる」「越冬するのは新女王のみ」などと書かれていました。「温厚で秋には出て行ってくれるのであれば」ということで、両親とも相談し、そのままにしておくことにしました。

そして、床下に棲みついた蜂との共同生活が始まりました。一日の流れとしては、朝、一直線にかなりのスピードでどこかへ飛び立ち、夕方帰ってくるという感じでした。「アシナガバチ類のさなぎや幼虫を餌にする」と書かれていたので、どこかにあるアシナガバチの巣を目指して出掛けていたのかもしれません。たまに庭に落ちた熟した柿の実を吸っている姿も見られ、人間でいう「甘いものは別腹」という感じでした。

また、すべての蜂がいなくなるわけではなく、巣の入り口には必ず1匹が門番のようにじっと構えていました。外から仲間が帰ってくると、確認するように顔をくっつけて、そして中に通していました。まさに門番だなあと感心して見ていました。

巣の前は花壇で、その横の通り道までは約1.5mほどでしたが、人が通っても特に騒ぐこともなく、ただ「見られてる」ような視線を感じるくらいでした(笑)

両親は庭仕事などで外に出ることも多かったのですが、近くに寄ってくることもなかったそうです。どちらかというと私たちの方が観察するのが楽しくなり、「今日も早い時間に出勤していったよ」「さっき帰ってきたわ」「門番は当番制なのかな」などと楽しく話すようになっていました。

それから、約3ヵ月ほどの共同生活もあっという間に終わり、10月の初めには巣立って行ってしまいました。その後、同じ場所に巣を作ることもなく今に至っています。

スズメバチというと危険なイメージを持ちがちでしたが、ただ恐れて巣を撤去することばかりを考えずに、「どの種類の蜂なのか」「どこに巣を作っているのか」などを考慮した上で、蜂と同居するのもありと思ったひと夏の出来事でした。

ジャカランダの花が咲く

スペインの旅 №13

    ルベックムーン 安部康二郎

 

帰り道、木陰でギターケースを前に置き「アルハンブラの想い出」の曲をギターで弾いている人がおり、マドリードやバルセロナでも同じ光景を見て、音楽や芸術の国だと思いました。

中心部にもどり、午後のオプショナルツアーの話を添乗員がしました。集合時間と場所の説明があり、サン・ジュセップ市場まで行って自由行動になりました。

サン・ジュセップ市場はバルセロナ最大の市場で多くの人がいて混雑しており歩きづらかったのですが、家内と見て廻りました。果物が特に多く野菜や魚介類のほかナッツ等がありました。

各国の市場を見ましたが中国のウイグル自治区のウルムチでは、バザールと言い羊の肉、羊の肉をヤキトリみたいにしたシシカバブ、香辛料、ジュータン、飾りナイフを売っておりました。またメルボルンやニュージーランドでは、牛肉やハム、ソーセージ、衣類等があり、国によって違い、日本の築地市場もマグロ等で外国人の旅行スポットになっているようです。

市場を出ると道路を隔てて向かいのビルの3階のベランダで宣伝のためかマリリン・モンロー?が白いスカートをなびかせていました。  (以前テレビで見ました)

             (つづく)

来浦通信 <№2>

こんばんは!今日も気持ちの良い一日でしたねぇ〜。

今日は庭木の手入れと窓拭きに精を出しました!!毎日気持ち良く働きご飯も美味しく夜はぐっすり寝て体も心もどんどん元気になって健康的な日々です!

畑はお隣のTさんから雨降りの後に土を耕した方がいいよ!と教えて頂いたので雨待ちです。表面を軽く耕したら耕運機で耕して下さるそうです!ありがたや〜🙌

やってみたい事だらけ。。。楽しみです。昨日は夕方に元小学校の前の八坂神社さんに行ってみました。凄く素敵な神社ですね。御神木の立派なイチョウの木!!家のスグ近くに本当にいろいろな神社やお寺があり神さまがたくさんいらっしゃる場所なんだ。。。と感じています!

明日か明後日は今国見で開催されているギャラリー巡リに行こうと思っています。

今朝お隣のTさんがフラリと来てくれて昨日の雨で畑を掘り返しやすくなっているから耕運機で耕してみてあげよう!と、早速機械で耕してくれました🙌🙌本当にありがたいですー!

まったく畑素人なのでいろいろ教えて頂きながらです!今からTさんに教えてもらった苗を早速買いに行く所です!いよいよ畑デビューです💐いい先生がお隣にいて下さり心強い💪です!

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昨日沖縄からの友達が帰って行きました。国東をとても気に入って、また秋に来てくれるみたいです!この家もとても素敵😍!と大興奮していました〜!私たちも一緒に石仏を巡ったり、温泉に行ったり満喫の時間でした〜!!!

今日から再びいろいろ掃除に片付け開始です!夕方Oさんの家に掛け軸を届けに行ったのですがあいにくお留守でしたのでまた明日にでも訪ねてみます😁明日は朝からシルバーさんが来てくれて、まだ少し残っている不要品を持って行ってくれる予定です!明日でラストです。御報告まで!

 

 

音楽だより406

 

いざ、スタート!竹内幸一

3月が終わろうとしています。月4回のレッスンという事で、私たちの仕事は、だいたい5週目がお休みになります。その休みの間にこの新聞などを、月末の仕事としてこなすのが通例です。

ところが今月は、29日(合奏団の練習)、30日(老人ホーム慰問コンサート)、31日(雪で延期の文化教室のレッスン)と、偶然全部予定が入ってしまいました。それで、まだ月半ばで少し早いのですが、新聞作成に取りかかりました。

さて今月は、田舎の家の新しいスタートが始まりますので、そのことを少し書かせていただこうと思います。どうぞお付き合いください。

思い起こせば、丁度1年前の4月頃でした。田舎の田畑や宅地の税金の請求書が市役所から届き、それに「空き家バンク」登録募集のチラシが同封されていたことから事は始まりました。あれから丸1年。我が家にとっては、大変革の大型プロジェクトが進行し、ついに来る418日に、沖縄から陶芸家のご夫婦が入居する運びとなりました。

私個人にとりましては、田舎の生家に16年、そしてここ別府に住んで50年になります。故郷を離れて半世紀ですので、田舎とは縁遠くなっているのは間違いありません。しかしながら、父母はもちろん、それをさかのぼる代々の先祖が暮らしてきたことを思うと、やはり、言いようのない愛着があります。時折田舎の家に帰って、掃除をしたり、片づけをしたりしながら、「もうすぐ、ここに勝手に入れんようになるなあ」と、妻と感慨深く話すこともありました。

しかしながら、そのような変化への愛着の気持ちは、20年住んだ沖縄を離れる方も同じことでしょう。最近もらったメールに、次のようなのがありました。

 

『今朝はシトシト雨模様の沖縄です。

昨日はお天気も良く、あたたかく、うつわのSALE日和でした!

朝早くから本当に沢山の人に来ていただき大盛況に終わりました!!!

本当にありがたかったです。。。。。。。

これで沖縄での販売納めです

(個別の注文などがあり制作の方は3月いっぱいまで!)なんだか感慨深いです。

夜、ドタバタの一日が終わり夫婦二人でささやかに、いただきもののシャンパンがあったので、前日の夜の残り物ごはんで、小さな乾杯、おつかれさま!をしました。

沖縄に修行に来た頃の事や、二人で工房を立ち上げた頃の事、さまざまな日々や出逢った人達の事を思い出し、じんわりと良い時間でした。。。。

そんな時間にふとPCを開いたら竹内さんからのメールが届いておりました!

いろいろ入居に向けての点検などしていただき、準備していただき、心遣いしていただいて。。。。

本当にありがたく思っています。

お庭の美しい梅の花の写真に、なんだか胸がいっぱいになりました。この梅の花が咲いている場所に

来月には引っ越しをしているなんて、本当に不思議な気持ちです。。。。

また4月18日の来浦への到着時刻の予定など詳しく決まって来ましたらお知らせしますのでどうぞよろしくお願い致します。

本当にお世話になりありがとうございます!』

20年暮らした沖縄で、たくさんの方と心が触れ合ったのでしょう。そのお人柄を慕って、どれだけの方がお別れを惜しんだことでしょうか。これで最後という特別セールに多くの方が駆け付けてくれたのは、その人脈の財産があればこそだと思います。

そういう一つの大きな到達点を卒業し、国東で、またゼロから人生を切り開こうとする精神力には、何だか強く打たれるものがあります。私が故郷の家に持つ小さな感傷などとは比べ物にならない、人生を賭けた重々しい新しい出発に、厳粛なものさえ感じます。希望や不安など、いろんな思いをたくさん抱えながら、来浦にやってきて住んでくれることに、胸が震える思いです。

空き家バンクに登録したとき、実はあまり期待をしていませんでした。なかなかここにきて住んでくれる方は見つからないだろうな…3年の登録期間が過ぎても、このまま変わらずに、12か月に1回掃除を続けることになるのだろう・・・と覚悟していたのですが、何と、何と、市のインターネットに広告を出してから、2か月ほどで、不思議なご縁が生まれました。

しかも、お付き合いするほどにお人柄の良さがわかりました。この人たちにぜひ住んでもらいたいと思いながら日を過ごすことが出来ました。幸せな日々を送りながら1年過ごし、今日に至ったのです。

こちらは家の不用品などの整理を続け、沖縄の方は、向こうでの暮らしの始末をきちんとつけ、いよいよ新生活が始まることになりました。

人生の開拓に前向きで、アイデアも豊富な方々なので、きっと、来浦に新しい拠点が生まれ、多くの方が集うようになることでしょう。「来浦に思い切って飛び込んできてよかった」と言ってもらえるように、少しでも応援が出来ればとも思っています。

陶芸と音楽のコラボ企画が生まれ、別府からも応援に行けたらと今から夢見ています。

軌道に乗って落ち着いてきましたら、この新聞の読者の皆さんもお誘いして、陶芸窯元見学ツアーなども企画したいものですね。楽しみにしていてください。

心はずむ芽吹きの春です。新しく人生をスタートさせるお二人に、心からの大きな拍手を贈ります。

 

連載その2  紫外線対策と日傘                 高橋由紀子(声楽&ピアノ科)

 

 春ですね。4月生まれの私にとってワクワクする季節です。

 しかし、この時期から紫外線もぐっと強くなってきますね。肌があまり強くない私にとっては、日焼けはやっかいなものでしかありません。シミやしわ、肌の老化の原因になる紫外線は、極力避けたいものです。皮膚科の先生からも紫外線対策をしっかりするように言われ、UVケア商品を見直しているところです。

 その中で、使用していた日傘が強風の時に骨が曲がってしまったので、日傘を新調することにしました。今まではUVカット99.9%のものを使用しており(一級遮光=遮光99.99%以上、UVカット99.9は当たり前の時代ですが)、自分の中では、ほとんど100%カットされているので大丈夫と思ってました。

 ところが「日傘 100%」で検索してみると、可視光線100%だけでなく、紫外線A波・B波)・赤外線も100%カットなる代物があることを初めて知りました。99.99%と比べると、たったの0.01%の違いですが、やはり違いがあるようです。「遮光率99.99%、紫外線遮蔽率99.9%以上」と表示されている日傘とLEDライトを当て透け具合をチェックすると、たった遮光率0.01%の差でも光が透けているのが分かりました。傘の内側が黒で、コーティング加工されていると「完全遮光かな」と思いがちですが、LEDのライトを生地表から当ててみると、完全遮光でない場合、光が透けて簡単に見分けがつくので、確認してみると良いと思います。

 100%完全遮光の日傘を扱ってる会社が2社ありました。2社の日傘を比べてみた場合、性能は全く遜色ないというか、全く同じようなことが書かれていました。2社共に裏地にブラックラミネート加工をし、紫外線・赤外線・可視光線100%カットで、ほぼ同等の性能があるようです。ただ違うのは組み立てが日本か中国かということでしょうか。個人的には安心&信頼&品質という点でメイドインジャパンなのですが、デザインや種類の多さでは、もう一つの会社も気になりました。ただ、2社とも価格が10,000円を優に超えてきます。傘に10,000円以上掛けるのは私的にはかなり勇気がいる事で、「置き忘れたらどうしよう!」「間違って持って行かれたらどうしよう!」など、いろいろと考えてしまいます。

 ちょうど某デパート(別府店)に行くことがあり日傘売り場を覗いてみたところ、10,000円超えの日傘がごろごろありました。「もしかして取り扱ってる?」と思い見てみましたが、どれも遮光率99.99%やUVカット99.9%のものばかりでした。店員さんに尋ねても100%カットの日傘は知らないらしく「下からの照り返しがあるので100%はあり得ません」の答えでした。照り返しのことは分かっているので、「日傘本体の性能で100%カットの日傘を取り扱っている会社があるようですが?」と尋ねても「100%はあり得ないと、上からも言われています」の一点張りでした。実際に取り扱っていなくても、いろいろな傘の情報は持っていると思ったのですが、何も聞けそうにないので、早々に退散しました。たまに博識な店員さんに遭遇すると、詳細な説明マジックでドンと背中を押してもらって購入に至る場合があるので、それを期待したのですが、今回は外れでした。結果、まだまだ悩んでいます(汗)
 紫外線がもっと強くなる前に、自分の行動範囲や日傘の使用頻度などを考えながら、0.01%の違いを重視して購入するか否か判断したいと思います(笑)

 

ジャカランダの花が咲く

スペインの旅 №10

    ルベックムーン 安部康二郎

 

昨年の618日にテレビ放送していた薬師丸ひろ子のスペインの旅で、サクラダ・ファミリアの作業現場から彫刻家の外尾悦郎氏とガウディの会話をしていました。「ガウディは歴史上の人物だと思っていたが、この工事を見て今も生き続けている。この時代に生きていて良かった。」と薬師丸ひろ子が言っていましたが、私もそう思いました。

教会の名で総称される建物は、その大きさと重要度によって大聖堂(カテドラル)、教会(イグレシア)、礼拝堂(エルミータ)と大別されます。特に大聖堂は都市部に置かれたいわば教会の親玉で、司教座聖堂という正式名がしめすとおり、高位聖職者がつかさどる教会の総本部に当たる。とガイドブックに書いていました。

トレドの教会は大聖堂でサグラダ・ファミリアは教会だそうです。大聖堂はヨーロッパの各地にありますが、たぶん日本にはないのではと思います。

今回の旅行で、キリスト教のカトリックがいかに偉大か「百聞は一見に如かず」で良くわかりました。

この後市内のカタルーニャ音楽堂を見学しました。ガウディと同時代に活躍した建築家リュイス・ドメイク・イ・モンタネール(名前が長くて覚えられない)の最高傑作だそうです。音楽堂の入り口だけ見たのですが、モザイクタイルで飾られた優美な柱や細やかな彫刻は素晴らしいものでした。

(つづく)

 

エスプレシボ400号到達記念特別寄稿

童話「鈴をつけた うり坊」7

                        永嶋 順子

 

子どもたちは のどがからからです。みんな そろそろと沢におりて、ちろちろ流れる水で のどを うるおしました。

 気がつけば もううす暗くなっています。母さんはまだ来ません。

6匹の子どもたちは、遠まわりして とぼとぼと自分たちの山に帰って行きました。

もしかしたら、母さんが先に帰っているかもしれない。

でも母さんはいませんでした。

みんなつかれて、いつもの寝床にかたまって うとうとと 眠りました。

 

 少しだけ眠って、おなかがすいた子どもたちは まだ落ちているどんぐりをさがして食べました。無事に逃げた仲間のイノシシは帰っているのに、母さんは帰ってきません。

 その頃、近所のお百姓たちが集まっていました。

「イノシシには困るのう。田んぼに入って稲を食い荒らす。芋も野菜も大損害じゃ」

「きのうのしし狩は5頭しとめたらしいなあ」

毎年お百姓さんはイノシシの被害に困って、冬の決められた間だけイノシシ狩りを猟師に頼むのです。でも 人間の大切なお米や野菜は、おなかが空いたイノシシがどうしても欲しい食べ物でもあるのです。

 

 朝が来て、また夜が来てみんながしょんぼり集まっているとき、がさ、がさ、と小さな音がしました。子どもたちは はっとして立ち上がりました。

 もしかして・・そう母さんです! 母さんが帰ってきたのです。

6匹の子どもたちはかけだしました。

「かあさ~ん かあさ~ん」

母さんに抱きつくと みんな 大きな声で泣きじゃくりました。

「みんな そろってる? さあ早くお顔をみせて 」

「ああ、無事だったのね。よかったわあ。本当によかった!」

「かあさんあのね。わたしがころんだ時、うり平ちゃんが助けてくれたの」

と うり代がいいました。

            (つづく)

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