音楽だより404

 

読書 竹内幸一

1月には、今季最強寒波とかいう脅し文句の予報がありました。それがやはり当たって寒い日がだいぶ続き、少し辛い日々で大変でしたね。雪が降らなければ初雪がうれしいし、寒さが厳し過ぎると日差しが恋しくなります。人の心とは勝手なものですね。

さて今月のテーマは「読書」です。私の体力的な条件や、仕事の時間のやりくりの関係から、私には読書が貴重な趣味になっています。というより、それ以外余りいろいろ出来ませんので、消去法でこれしかないという残り物だと言えなくもありません。

本を持ちまわるのが面倒なので、だいたい普段は、2階の食卓と、3階のパソコンのある机に読みかけの本を置いています。今2階では、最近テレビで刺激を受けた「漱石」を読んでいます。また3階では、すべての仕事が済んでから、風呂上りに世界文学全集を(何しろ長いので)のんびり気長に読んでいます。今はツルゲーネフの「ルージン」です。

それが通常の私の読書スタイルなのですが、時折それに臨時の飛び込みが入ります。今回は、その飛び込みの本について少し書いてみようと思いますので、お付き合いください。

先月「漂流ポスト」のことを書きましたら、「漂流郵便局というのもあるんですよ」と、ある方が本を3冊貸してくれました。「漂流郵便局」は、瀬戸内海の小さな島<粟島>にあります。ここにも、手紙を書くということによって、いろんなドラマが生まれていて、心打つ話がありました。

しかしながら、今回貸していただいた3冊の本の中でいちばん私が感動したのは、文芸春秋スペシャル季刊冬号(2011年)「この国で死ぬということ」でした。かなりの量の内容でしたが、それこそ貪るように、他の本はすべてお休みにして、4日間ほどで隅々まで読み通しました。

「人の生き死に」を扱っている内容ですので、こういう言い方には問題があるかもしれませんが、とにかく興味深く面白く読みました。それぞれの方の言葉の数々がしみ入るように、私の中に流れ込んできました。

なぜこうまでこの本が、私をひきつけたのでしょうか? 普段死生観についていつも何か考えていたわけではありません。しかしながら、古希が近づき、時には、いろんな心配になる症状に出会ったりしているうちに、いつか知らずエンディングはどうあるべきか?果たしてどうなるのだろう?という思いが地下水脈のように私の中に生まれてきていたのだろうと思います。そのスポンジのような餓えにも似た私の中へ、この本は見事にしみ込んでくれました。

この本の内容をざっと紹介してみますと次のようになります。最初に、巻頭随筆として、柳田邦男、上野千鶴子、藤原新也の3名の方が含蓄のある文を載せています。それから「死を想う」という題で、石牟礼道子、玄侑宗久他8名の方が書いています。続いて「看取りの作法」ということで、経験豊かな医者や介護関係の人たちの「無縁社会」「尊厳死」等についての文章があります。そして最後は「生きる心得」と題して、保坂正康、鴨下信一、早坂暁他8名のエッセイが続きます。

学者、医者、作家、俳優、宗教家・・・いろいろなことをたくさん学び、豊かな人生体験をしてきた人たちが、様々な思いを書いています。そのどれにも、作りものではない、その方だけの人生の真実があり、私を何度も大きくうなずかせてくれました。

どの方の意見を取り上げても、それに関してたくさん書くことが出来そうですが、残りのスペースのある分だけ、印象に残ったところを少しだけ抜き出してみたいと思います。

柳田邦男は「人は不安や苦悩の真っただ中にいる時、心がカオス状態のままでは生きる道標を示す光を見出せない。内面にあるものを書くという作業をすることで、心に渦巻くものに何らかの脈絡を見付ける」と言っています。これはまさに、漂流ポストや漂流郵便局の存在の証明です。柳田は、難病ALS(寝た切りで首も動かせない)の患者さんの短歌「病み伏せどなおも登らん思ひあり手鏡に見る今朝の雪山(田中俊一)」などを取り上げながら、それらは「命の伝道者の言葉だ」と書いています。魂のレベルの命を書くことによって他者に伝達しているというのです。

久坂部 羊は「苦しまずに死を迎えるのは難しい。それは医療を受けるからではないか」と問いかけています。在宅医療の医者として、作家としての体験から、最後の何週間かを苦しむための医療で無理やり引き延ばすのではなく、「自然死」を選んではどうかと、問題を投げかけているのです。苦しまないで済むのは魅惑的です。しかし、実際には安易に飛びつけない難しさもあります。考えさせられます。

詩人の杉浦日向子は「とりあえず、死ぬまで生きる。何のために生きるかとか、どこから来てどこへ行くのかなどという果てしない問いは、ごはんをまずくさせます」と書いています。

コラムニストの中野翠は「答えの出ない問いより、人生は思いがけないプレゼント。何が起きても生きていける」と思うことで、心が軽くなると書いています。

等々・・・いろいろ読んできましたが、あっちの意見になびき、こっちの意見にも納得しで、混沌とした中で本の感想が終わろうとしています。

この問いを受けた時、私ならどう答えるでしょうか?よくわかりませんが、人それぞれいろんな時期があって、悟った(諦めた)ような気分の時も、さびしい、空しいとあくせくのたうち回らざるを得ないときもあることでしょう。それは終末へ向かうために避けられないことで、生まれてきたものが持つ人間すべての宿命です。それが茨の道になるのか、心穏やかな日々になるのかわからないまま、あてもなく漂流して行くのだろうと思います。

漂流しながら、私の場合、この新聞にその時、時の思いを書くことで、ぼんやりして見分けにくい気持ちの整理が少しはできたらいいなと思います。どこまで続くかわかりませんが、その漂流の限界までどうぞ皆様、気長にお付き合いをしていただけたら嬉しいです。

 

ジャカランダの花が咲く

スペインの旅 №8

    ルベックムーン 安部康二郎

1時間30分の観光を終えグラナダへ戻りました。グラナダに着いて、ホテルの近くのレストランで夕食を取ることになっていましたので、歩いていきました。

レストランに入りテーブルにつくと、グラナダの大学生がおり、サークルでギターやマンドリン等で演奏しているので聴いてくださいと言いました。

4人で34曲歌って演奏した後で「CDを希望者のみでよいので買って下さい」と言ったので、10ユーロで買いました。

食事中に隣の席に座った福岡の夫婦から、「腰のほうは大丈夫ですか?」と聞かれたので、「アルハンブラ宮殿の見学が終わったので良くなりました」と話しました。

ホテルについても、腰のほうはあまり違和感がありませんでした。明日はバルセロナへ行きます。

 

バルセロナへ行く朝は、ホテルを645分に出発ですので、朝食はサンドイッチと牛乳のみです。バスに乗りマラガの飛行場に行く途中7時30分頃食べていて、この時間は丁度春の音楽祭で〔日本時間29日午後230分〕ギターを弾いているのかと思いました。

外の景色を眺めていたら、魅惑のギターステージで「さらばグラナダ」を弾いた竹内幸一先生と宗岡俊二さんの二重奏を思い出し、ギターの旋律が耳によみがえり、涙が溢れそうでした。

飛行場には予定の時間に着いたのですが、出発が1時間以上遅れて、ようやくバルセロナに到着しました。

荷物の受け取り場所で、一部の方の荷物が出てくるのに1時間ぐらいかかりました。またバスでレストランへ行く途中、道路で車が炎上しており、迂回してレストランに着きました。予定では午後1時頃の昼食が4時過ぎになり、お店ではオーナーと店員が内輪喧嘩をしているようでした。多分遅くなったせいだと思います。

この後、今回の旅行の目玉であるガウディー製作のサグラダファミリアへの見学へ行きます。

(つづく)

 

 

エスプレシボ400号到達記念特別寄稿

童話「鈴をつけた うり坊」5

                        永嶋 順子

 

 

 三郎おじさんは 鈴の音がきこえなくなると

「母さんイノシシがよろこぶだろうな。でも びっくりするかもなあ」

そして、大きな口をあけて

「あ ははは」

と笑うと、やさい畑のほうへ歩いて行きました。

 

母さんイノシシは、朝になっても帰って来ないうり平をさがして、山のなかを歩き回り、ふもとの近くまで出てきました。

「うり平どうしたのかしら どこかで迷子になってるのかもしれないわ。もしかしたら・・・つかまったのかも知れない。 ああ、きっとそうよ 人間が『いのししなべ』にして食べてしまう。 どうしよう だれか うり平を助けて下さい。 うり平 うり平!」

 かけあしで人間の家に近づいたとき、チリンチリンと鈴の音が聞こえてきました。

「あ だれか来る」

母さんイノシシが じっと見ていると あら、うり平ではありませんか。

「うり平!」「かあさん!」

かけよって、母さんにしがみついた うり平と うり平をしっかりだきしめた母さん。

ほかのうり坊たちも心配して集まってきました。みんな うり平の鈴を見て目を丸くしました。 

「ちび平 どこに行ってたの?」「その鈴はどうしたの ねえ どうしたの」

「ちょっとさわらせて」

みんな わいわい うり平をとりかこみました。

うり平は、ワナにかかったこと、おじさんに助けられたこと、鈴のこと、みんな話して聞かせました。

母さんがいいました。

「みんな心配してたのよ ほんとうに・・・。でもよかった。 うり平 こわかったでしょう。 あのね みんな聞いてね。もう少し大きくなるまで 子どもだけで食べものをさがしに行くのは とってもきけんなの。わかるわね」

 

子どもたちはこっくりとうなずきました。

みんなそろって寝床に帰ると、安心して母さんのそばで、おひるねをはじめました。

母さんイノシシは、うり平を助けてくれた人間に

「ほんとうにありがとうございました」

と心の中でお礼を言いました。

赤い葉っぱや黄色い葉っぱが はらはらと落ちてきて、おひるねのうり坊たちの上につもります。それはまるで かけ布団のようでした。

 

毎日のように雪が降り、寒い寒い日が続きました。

山はまだ冬です。ところどころに白い雪が残っていて時々冷たい風が吹いています。

母さんイノシシは、笹の葉をたくさん敷きこんだ 温かい寝床で休んでいます。

子どもたちは やわらかい土の上で ひなたぼっこをして おとなしくしています。

もう うり坊ではありません。大きくなって背中の しまもようも消えました。

小さなうり平もみんなと同じようにお兄さんイノシシになっています。

お日さまがぽかぽか あったかいお昼です。

もうすぐ春が来るのでしょうか。  

その時です。

「わん わん わわ~んっ」と

山の上のほうで何匹もの犬がほえるのがきこえました。

母さんは さっと立ち上がると耳をすましました。

「わん わーん わわんっ! わんわわーんっ」

と、恐ろしい犬が近づいてくるようです。子どもたちも立ち上がりました。

山の仲間のイノシシたちが、大人も子供もころがるように だだだぁーっとかけおりてきました。

「イノシシ狩りだあ」

とだれかが叫びました。

 そこへ ときどき うり太たちと遊んでくれる 大きなイノシシが走ってきました。

子どもたちが いのおじさんと呼んでいる イノシシです。

「早く 早く逃げるんだ! 母さんからはなれないで 谷のほうへ逃げろ! さあ早く!」

母さんも子どもたちも 死にもの狂いで山をかけおり、里山をかけぬけ、下の道まで来ました。ところが、そこには イノシシ狩の猟師が3人、鉄砲をかまえています。

犬に追われて、山から逃げて来たイノシシを 撃つのです。

イノシシたちは思わず立ち止まりました。でも 訓練された犬たちが、

「わわーん わーんっ」

と そこまで追いかけてきています。もう後にはもどれません。

            (つづく)

 

 

音楽だより403

 

正月が来たとて・・

竹内幸一

 201711日、朝824分です。コーヒーを一杯飲んで、恒例の新年初仕事に向かっています。外は今日も暖かそうな日差しが溢れています。この23日、背中に日差しを浴びてギターの朝練習をしていると、暑さを感じるほどでした。

 さて、そんな陽気な朝に、今年はスタートから少し重いことを書こうと思います。新しい年に、心機一転希望に満ちた日々を始めようとされている方には、ちょっと申し訳ない内容になるかもしれませんが、どうぞお付き合いください。

 年末より頭の中に「竹田の子守歌」の中にある歌詞のメロディーがなぜか流れていました。その歌詞とは「盆が来たとて何うれしかろ かたびらはなし 帯はなし」というところです。今年は正月に近づくにつれて「♪正月が来たとて何うれしかろ…♪」という、これまでになかったような気分になっているのです。

 様々な繰り返しによる継続行事のマンネリ感。政治や原発など社会情勢の言いようのない閉塞感。そんな背景からでしょうか、ちょっと極端ですが「♪正月が来たとて何うれしかろ やることはなし 夢はなし♪」というような、普段の正月らしからぬ思いがあることが正直なところの気分なのです。「このおめでたい出発のときに何を暗いことを言うんだ」とお叱りを受けるかもしれませんね。済みません。

 そんな気分でいる折に「漂流ポスト」というのがあることを知りました。テレビでも何度か取り上げられたそうなので、ご存知の方も多いかもしれません。

そのポストは、岩手県陸前高田市広田町の山の中にある喫茶店の前に、ひっそりとたたずんでいます。それは、東日本大震災で亡くなられた方に送る手紙などを受け取るポストなのです。送られてきた、たくさんの手紙には、長い間心の中にしまわれていた故人への思いが綴られています。

新聞やテレビで、東日本大震災のこと(熊本や、大火のあったところのなど他のところのこともそうです)は、なんとなく知っているような気でいます。大変だろうなとは思っています。

家を流されてしまったら、明日からどうしようと思ってしまいます。肉親が全て流されて一人ぼっちになってしまったら、生きていけるでしょうか?原発の影響で、住むところを追われて、新しい土地で慣れない仕事を始めたり、子供がいじめにあったりする苦労を、誰に訴えたらいいのでしょうか?

それらの一つ一つでさえ人生においては、ありえないほど大きな災難です。そして、その大きな災難の重荷を実は二つも三つも抱えて生きている方がいることも事実なのです。

その慟哭、悲しみ、さびしさ、虚しさ、悔しさ、怒り、諦め・・・、どれだけ涙を流したかわからない、その生き地獄のような日々が、私たちに理解できているでしょうか?

私たちの思いが至らないところで、その方々は、壮絶な日々を送っています。生きています。それこそ「盆が来たとて 正月が来たとて 何うれしかろ」の数年を生きているのです。

漂流ポストに、1枚の手紙を書けるようになるまでに、何年もかかるのです。このことの意味をよく考え、噛みしめたいと思います。のたうち回る悲しみの日々の時は、とても手紙どころではないのです。その気持ちをなだめ現実を認めて、あなたは天国、私はここと言える日が来て1枚の手紙が書けるのです。

このポストを作った喫茶店の店主の赤川勇治さんは言います。「一行でもいいから書くことによって、自分の気持ちが分解していくんじゃないか、表に出るんじゃないかということで手紙にたどりついた。」

赤川さんの喫茶店では、漂流ポストに届けられた手紙をゆっくりと読むことが出来るそうです。遺族の皆さんが、苦しみや悲しみを共有できる場所になっているのです。
これまで、漂流ポストには200通以上の手紙が寄せられているそうです。
 手紙を綴ることで、生きる希望を見出そうとしている人がいます。その1例だけをご紹介しましょう。

あの日、高野さんは仕事の休憩中、自宅に戻った智則さんと昼ご飯を食べていました。
「お昼食べ終わって『行ってきます』っていうのを『行ってらっしゃい』って。『お母さんきょう夜勤だから』って言ったのが最後。」
その2時間後に、町を襲った津波で智則さんは帰らぬ人となりました。。

“おーい、トモおかあさんだよ、元気かぁ?トモが空に行ってから、4年。会いたいよ、声が聞きたいよ。
おかあさんはトモの表情、声、体温を感じられない生活にぜんぜん慣れないや。ときどき、どこからか聞こえてくるトモと同じような車のエンジン音に、トモが帰ってきたって思うんだよ。近くに居るなら、顔見せて、声聞かせて、お願いだから。”

「悲しみとかつらさが全部なくなるわけじゃない。
でも、ほんのちょっとでも手紙を出したことで、自分が楽になる。ちょっとだけ笑えた。」

そんな過酷な生きざまを伝える手紙が集まるのが、漂流ポストなのです。

比較したところで何の意味もありません。私も含めそれぞれの方の重荷が少しも変わるわけではないのです。それぞれの方が手に持てるいっぱいいっぱいの重荷を抱えながら、どの方も、生きているのです。

この一年、この新聞が私の「漂流ポスト」の代わりをしてくれる気がします。今年もどうぞよろしくお願いします。 

 

ジャカランダの花が咲く

スペインの旅 №7

    ルベックムーン 安部康二郎

ミハスは地中海が見渡せるミハス山麓に広がり「アンダルシアのエッセンス」とも言われ、白壁の家が続く美しい町です。アルハンブラ宮殿から2時間15分程かかりました。

ミハスの町に到着してバスの終点の広場まで行く途中は、登りの坂道でした。両脇の家はジャカランダの木を植えており、丁度沢山の花が咲いていて、白壁にマッチしていました。このミハスの美しさがとても印象に残りましたので、「ジャカランダの花が咲くスペインの旅」と題して、紀行文を書いています。

観光する目的地に着き、昼食を含む1時間30分の自由行動になりました。ロバタクシー乗場やレストラン、みやげ物屋が並ぶ表通りと、出発の時に集合する案内図をもらい、解散しました。

元野球選手だった板東英二に似たマドリードの現地案内人が「ミハスのオリーブ石鹸は最高に良いものですので、ぜひ買って下さい」としきりに言っていましたので、添乗員と一緒にお店に買いに行きました。

その後、みやげ物屋、闘牛場、展望台等を散策して、地中海が見えるレストランのテラスで昼食をとりました。とりあえずビールを注文すると、ツマミが一緒についてきて、その余りの多さと乱雑な盛り付けにはびっくりしました。イタリアのナポリと勘違いしたのか、私はスパゲティー、家内はピザを注文して食べました。

昼食を終えた後で、絵ハガキやガイドブックによく使われるサン・セバスチャン通りへ行く途中、皮製品を売っているみやげ物屋の前を通ったら、売り子が帽子を買ってと日本語で言ってきました。15ユーロというので「10ユーロなら買う」と言ったら、それで良いと言いました。店の中で支払いの時13ユーロと言ったのでいらないと言ったら、10ユーロ」(1,200円)になりました。買った帽子を被ると、似合う似合うと笑っていました。

サン・セバスチャン通りに行った後、ラ・ペーニャ聖母礼拝堂を見ました。この場所から、フェンヒローラの町と地中海が一望できました。 (つづく)

 

 

エスプレシボ400号到達記念特別寄稿

童話「鈴をつけた うり坊」4

                        永嶋 順子

 

 そこで うり坊たちは はなの先でやわらかい土をほってみました。

「あ ほんとだ! みみずがいるよ」

「わあ いるいる」「ここにもいるよ」

イノシシはお芋やくりも すきだけれど みみずが大好きなのです。

みんな むちゅうで食べました。でも、みみずはたくさんたべても あんまりおなかいっぱいにはなりません。

 うり太が大きな声でいいました。

「さあ もう帰ろう かあさんがきっとさがしてるよ」

うり坊たちは母さんの心配そうな顔を思いうかべて、急にさびしくなって、かけ足で山に帰って行きました。

 

けれど一匹のうり坊が、まだのこっていました。ちびのうり平です。みみずほりにもあきて みかんの畑の端に来ていました。

「あれっ これなんだ?」

そこには金あみで作った箱のようなものがあって、まわりに おいしそうなさつまいもが並べてあります。 

「お芋 もらっても いいのかな」

うり平は箱のまわりのさつまいもを食べてみました。

「お・い・し・い ああ 箱の中にも大きいのがあるよ」

今度は箱の入り口に頭をつっこんで そろそろ中に入りました。その時です。

うしろで がちゃんと音がしました。あわててふりかえると、えっ 入り口の戸がしまっています。

「たいへんだ! ぼく 出られない 出られないよ どうしよう」

うり平は

「ぶあ~ん」

と泣きました。だれも返事をしません。

「ぶあ~ん」「ぶあ~ん」「みんな お山に帰ってしまったんだ」

その時、猫のような動物が通りかかりました。鼻の上に白い筋があります。

『ハクビシン』といってイタチの仲間なのです。

「やい うり坊 バッカだなあ。おまえ おれたちハクビシンのための ワナにかかったんだ。おれたちがみかんを食べてしまうから人間がしかけたのさ。かわいそうに もう山には帰れないよ。じゃーな」

ハクビシンはみかんの木にするすると登りました。

うり平はワナの かなあみを中から鼻で押してみました。小さなキバで入口の戸をこわそうとがんばりました。何度もなんども・・・ でも入口はあきません。

 

いつの間にか朝になっていました。

「かあさ~ん」

と うり平は泣きました。

その声はこれから畑仕事に出かけようとしていた 三郎おじさんの耳に

「ぶあ~ん」と聞こえました。

「ん? あの声はなんだ?」

 

おじさんは みかん畑にやってきました。

「あれあれ うり坊が かかっとるわ」

おじさんが ワナのそばに近づくと、うり平は がたがたふるえながら、また

「ぶあ~ん」と泣きました。

おじさんはしゃがんで、うり平をじっと見ていましたが ポケットの中から赤いひもと大きな鈴を取り出しました。

 おじさんは ワナの入り口をあけて うり平をだきよせると赤いひもに鈴を通して うり平の首にむすびつけました。 

「これでよし。よくにあうじゃないか」 

「さあ 山にお帰り。もうこんなところに来るんじゃないよ」

うり平は胸がいっぱいになって お礼もいえず ちりん ちりん と大急ぎで山に帰って行きました。

            (つづく)

音楽だより402

 

ナマケモノ時間

竹内幸一

 もう12月ですね。なんだか早回しのビデオを見ているように一年が過ぎて行きます。そんなせかせかした折に、自分自身も、そして皆さんも少しだけ、のんびりできればいいなと思って、今年最後の新聞に取り組んでいます。さてどういう内容になるでしょうか?どうぞお付き合いください。

 いろいろとお願いして助けてもらっている方にお礼を言うと、「私、暇人(ひまじん)ですから」という受け答えをしてくれることがあります。それを聞くと、なんだかほっと肩の力が抜けて楽になります。

「私、失敗しませんから」(笑)もなかなか言えませんが、「私、暇人ですから」というのもなかなか言えない言葉だと思いませんか。

実際は、いろいろ抱えていながら、そう言ってくれる姿勢に感心します。そういう風に見られたくないという気持ちが少しでもあると、そう割り切って自分を表現できない気がします。

それと対極に、「主婦だって、いろいろと忙しいんですから」と、少しキッとなって言われたりすると、「そうでしょうねえ」と答えるしかありません。

果たして自分はどちらのタイプだろうなと考えた時、たぶん、見栄やぶりっこから、なんだかんだと理由を付けて、「何かと忙しいんですよ」と言ってしまいそうな気がします。「時間はたっぷりありますから、その仕事、喜んで引き受けますよ」と言えるような、器の大きい人間になりたいものですが、私にはそこまでの心のゆとりがありません。

まあ、この話題はそれぐらいにして、今回のタイトルの「ナマケモノ時間」のほうに話をすすめましょう。この「ナマケモノ時間」というのは、ある陶芸家の方が、博多で作品展を開くというお知らせのはがきに書いてあるものです。

普通(というのも変ですが)、こういうはがきの場合、出来のいい作品を写真にして、バンと中央に大きく出しそうな気がします。ところが、このはがきの写真は、その陶芸製作者の男性が、立膝をして美味しそうにせんべいをかじっている写真なのです。しかも、その穏やかな表情には、なんとも言えない味わいがあります。

せんべいをかじりながらお茶を飲むということでしょうか、一応中央に湯吞が写っています。それは、生活になじみ、溶け込んだ器というような、さりげない主張なのかもしれませんが…。

その写真の余白に、白抜きのペン字のような手書き文字で「ナマケモノ時間」とあります。そして、なんとこの陶芸工房の名前も「ナマケモノ工房」というのです。

ついでに付け加えるとこの方のメールアドレスは、それ以上に徹底していて namakemonogusa@****となっています。

 「私、暇人なんです」もなかなか言えませんが、この「ナマケモノ」という使い方も、肩ひじを張っている人には難しいことでしょう。

 朝寝、朝酒で身上をつぶしてしまうような、本物のナマケモノもいることでしょう。しかし、もちろんこの方は違います。博多や東京で作品展を開くような立派な仕事をしていながら、「ナマケモノ時間」というゆとりの言葉を身の周りに置いています。

 師走だ、年末だ、年の暮れだ…とあくせくしているときに、(同じほど仕事やお付き合いをしていても)この「ナマケモノ時間」という気分を持っているかどうかは、精神的に大きな違いがありそうな気がします。

 よく言われることですが、忙しいという字は、心を亡くすことだそうです。自分を見失って、ひたすら走り回って、心身を擦り減らしている自分の人生の時間の中に、この「ナマケモノ時間」のゆとりや癒しがほしいと思います。

 出来そうでなかなか出来ることではありません。自分のあるがままの姿を見つめ、そこにある程度の自分を信じるゆとりの肯定感がなければ、その発想に至らない気がします。

 自分を肯定できないタイプの人の場合は、なるべく何かを振りかざして、自分を飾ろうとすることでしょう。中身がないことを感じれば感じるほど、何かでそれをカバーしたくなります。見栄やハッタリの思いからは、「自分はナマケモノ」・・・という発想の言葉は出てきません。

 無理して突っ張らないで、「自分はこれでいいんだ」「のんびりやっていこう」と、肩の力が抜けたらいいですね。

 いただいたご案内のはがきを何度も眺めています。ギャラリーのある博多での作品展に、喜んで行くことにしています。楽しみです。

 そうそう、その案内はがきの文面の終わりのほうに

「来春4月頃 大分県国東半島へ 半農半陶を夢見て移住する予定です。」という文が付け加えられていました。

 

スペインの旅 №6

  ルベックムーン 安部康二郎

宮殿の見学が終わった後、20分ぐらいかけて穏やかな坂道を上るとお花畑があり、四季それぞれの花が咲いていました。その見晴らしの良いところに別荘がありました。ヘネラリフェと言うそうです。

 

雪解け水を利用した水路や噴水が設けられ、離宮中央に位置するアセキアの中庭は、スペイン様式を代表する庭園でよく整備されていました。

帰り道に、宮殿から家内に昨夜のフラメンコショーがあったと思われる場所を尋ねたら、1kmぐらい離れた同じ目の高さの位置にありました。サクラモンテの丘といい、斜面に穴を穿ち洞窟住居の中でロマ族の人がショーをしたそうです。

グラナダ市内は標高600mぐらいで、それより200m高いこの場所から一望できる景色は、天気も良かったのですが素晴らしいものでした。

宮殿の見学を終えて感じたことは、想像し

ていた宮殿のイメージと違い、森の中にあり、部屋は狭く飾り気や華やかさもありませんでした。また、アベンセラツヘス家の男性36人の惨殺もあって暗く感じました。

タレガが「アルハンブラ宮殿の想い出」という題名にしたのを不思議に思っていました。帰国してスペイン文化研究家の濱田滋郎氏が執筆した本を読んでいたら、アルハンブラ宮殿のことが掲載されていました。その中に題名についての解説がありました。

『タレガの曲に14世紀の歴史的建造物「アルハンブラ宮殿」のただよい残る、モーロ(ムーア)人たちの夢の香りを表現したものだと言われる。モーロ人たちは、15世紀末、この宮殿から追われ北アフリカの地へと去っていたのだった。この曲に最初に付けられた題名は「イボカシオン(祈り)」だったと伝えられる。』と書いていました。

アルハンブラ宮殿は米国人作家による「アルハンブラ物語」が世に出たこと、題名が「アルハンブラ宮殿の想い出」になって、美しいトレモロ奏法を使いギターで弾かれた事、そして世界遺産に登録された事で、世界的に有名になったのではと思います。

私は『アルハンブラ宮殿の想い出』としてギターを弾きます。

この後バスで、白亜の美しい家が建ち並ぶミハスへ行きます。    (つづく)

新年号より声楽・ピアノ科の高橋由紀子先生の連載が始まります。お楽しみに。

エスプレシボ400号到達記念特別寄稿

童話「鈴をつけた うり坊」3

                        永嶋 順子

 

「ええっ」

おばあさんは泣きそうな顔になりました。

「おばあさん これはイノシシが来たんだよ」

「まあ とっても楽しみにしてたのに・・」

おばあさんはがっかりしました。

おじいさんは、だまって さつまいもの葉っぱや つるを かたづけました。

「ざんねんだわ。来年はイノシシよけの柵を作りましょうよ」

「おや 小さな足あとがいっぱいついてるよ ほら・・」

「あら うり坊たちがきたのね」

ちょっと考えておばあさんは顔を上げました。

「ねえ おじいさん 柵の外がわに うり坊のために小さないも畑を作ってやろうかしら」

「そりゃあいい」

とおじいさんは顔をくしゃくしゃにして笑いました。

お月見のおそなえは、白いおだんごだけでした。

でも まんまるいお月さまは笑っているように見えました。

 

お月見がおわると、秋が深まります。

山は遠くから見ると赤や黄色の着物をきて、お洒落をしているように見えるのです。

イノシシの子どものうり坊たちは秋が大好き。なぜって山にはおいしい栗やどんぐりが食べきれないほど たくさん落ちているのですもの。

母さんイノシシも、人間がいるふもとの方に行かなくても子どもたちの食べ物はいろいろあるから安心です。

ゆっくりおひるねして、暗くなっても まだのんびりねむっていました。

でも六匹のうり坊たちは じっとしていません。母さんが寝ている間に山の中を歩き回っているうちに、いつのまにか ふもとの畑ににおりてきていました。

イノシシは夜行性といって、ひるまより夜のほうが元気なのです。

うり坊たちはずいぶん大きくなりました。背中のしまもようも もうじき消えてなくなるでしょう。

 

「おい 三郎おじさんの みかん畑に行ってみようよ」

と、いちばん身体の大きな うり太がいいました。

「だめよ かあさんといっしょでなければ迷子になるわ」

と女の子の うり子が口をとがらせていいました。

「なんだよ 弱虫。 だいじょうぶ ぼくがついているから」

と、うり太がえらそうにいうので、みんな 大丈夫なような気がしてきて

「行こうか」「行こうよ」

といいだしました。

「ちび平もいく?」

と うり助が聞きました。

「うん 行く。 ぼく もうちび平じゃないよ。 もうすぐお兄さんイノシシになるんだ」

と、うり平は頭をぐーっとのばしていいました。 

「よし 行こう」

「ぼくたち ぼうけんだね」

みんな、わくわくしながら三郎おじさんのみかん畑に入って行きました。

みかんの畑はひろくて、まだ少しあおいみかんがたくさんなっていました。 

うり坊たちは、みかんを たべてみました。

「あ~ん まだすっぱいよ」

「すっぱい」 「すっぱい」

と、みんな かおをしかめて いいました。

「あのね みかんの木の下に みみずが いるって かあさんがいってたよ」

と、うり次郎がいいました。 (つづく)

音楽だより405

 

50年目の交差 竹内幸一

2月は逃げると言います。28日しかない最短月で、5週目がないのでゆとりがありません。それで何とか遅れないようにと、この新聞にとりかかりました。

最近何だか重く深刻な話題が続きましたので、今月はちょっとほのぼのしたお話を書こうかと思いますが、さてさてどうなりますか・・・。

この話は、気恥ずかしい気もしますが、もう半世紀を過ぎた賞味期限切れの時効の話になりますので、思い切ってここに書かせてもらおうと思います。どうぞ懐かしい思い出話にお付き合いください。

それは私が17歳ごろのことでした。当時高校を休学して国立病院に入院していました。中学生の頃半年入院して手術していた腎臓病の再発で、再入院となっていたのです。このときは結局、人生の方向が変わる2年ほどの入院生活を送ることになりました。

時折訪ねてくる学友は、学園祭や大学入試のことなど私には眩しい話をしてくれました。それぞれが未来へ向けて歩きだしている様子が伝わってきたものです。それに引き換え、私の場合は、いつ退院できるという見通しもなく、只々ベッドの上で日を過ごすばかりでした。

そんな若い私を哀れに思ったのか、神様が思いがけないプレゼントを贈ってくれたのです。

突然、降ってわいたように妖精のような彼女が目の前に現れたのです。彼女はその国立病院に付属する看護学校の学生でした。病棟実習であちこち院内を回る中で、私の入院していた病棟にもやってきたのです。

その実習中に、ほんの小さなきっかけだったと思いますが、話をするようになりました。そして不思議なことに病棟を離れてからも時折訪ねてきてくれるようになったのです。

そうこうしているうちに彼女がノートを持ってきてくれました。いろんな思いを書いた2冊のノートが二人の間を行き来するようになりました。

暇に任せてノートにいろんなことを書きました。そして彼女の書いてくれた文を何度も読みました。夢、幻のような時間でした。

エレベーターホールの踊り場の端の窓のところで出会い、ノートを交換しました。短い立ち話でしたが、それは自分で言うのも変ですが、まるで映画の1シーンのような清らかな青春の想い出になりました。

いろいろ話をしたと思うのですが、その中でなぜか一つだけ思い出したことがあります。「どんな曲が好き?」という私の問いに彼女が「ジャガーズの君に会いたい」と言ったのです。50年前の遠い記憶を確かめるためにYouTubeで調べてみたら、ちゃんとありました。♪若さゆえ苦しみ、若さゆえ悩み…♪という歌詞のグループサウンズの曲でした。おしゃれな曲が好きなんだなあと思ったので、覚えていたのでしょう。

そんなたわいないお付き合いが続いたのは、多分半年ぐらいではなかったかと思います。時期が来て彼女は卒業して、私の全く知らない世界へと消えていきました。新しい仕事、そして家庭へと人生を歩んでいったのです。

私はまた見通しの立たないベッドの日々になりました。もしかしたら彼女は、「この人このままここで亡くなるのかも」と思ったこともあったのかもしれません。愛とか恋とかに発展して結びつくはずのないお付き合いでした。お別れには何の愁嘆場もなく、淡々としたもので、さらっと当たり前のようにそれぞれの道を歩んでいく事になったのです。

彼女がいなくなってから1年ほど入院していました。あまり変化はなかったのですが、「試しにしばらく退院してみるか」という感じで恐る恐る社会に出てみました。それからどういうめぐりあわせだったのでしょうか、いつの間にかここまで来てしまいました。

彼女とはしばらく年賀状のやり取りをしていましたが、それも途絶えて何十年かが過ぎました。確か、子供さんを亡くされたという喪中はがきを受け取って以来、連絡が途絶えた気がします。

長い時間が過ぎた後の、ほんの半月ほど前のことですが、何気なく新聞を見ていたら、ふと彼女の名前が目に入りました。ある病気のお世話をする専門家という事で、彼女の働きを紹介する記事でした。新聞の半ページほどもある大きなスペースでした。

電話を持ち鉛筆でメモを取っている写真が掲載されていましたが、それにはどうもピンときませんでした。しかし、その経歴や名前からして、彼女に間違いないと確信しました。

新聞記事はしばらく寝かせていましたが、ふと思い立って、もう一度読み直しました。やはり何とか連絡したいと思ったのです。この記事に書かれている相談窓口に電話をする、あるいは施設に出掛けるとか考えましたが、「仕事中に申し訳ないしな」と思いなおし、郵便を送ることにしました。

簡単な手紙を書き、最近のエスプレシボや23日後に迫っていたコンサートのチケットも入れて、郵送しました。コンサートに来てもらえたら嬉しいなと思っていたら、コンサートの前日にその封筒が返送されてきました。がっかり。

彼女の勤め先の施設名の住所では、彼女に届かないようでした。残念、縁がなかったのか、このまま捨てるしかないかとあきらめつつ、ふと住所をよく見ると、「東」という一字が宛名から抜けているのに気が付きました。

もうコンサートには間に合いませんが、「東」を入れてもう一度そのまま送りました。

すぐにメールが届きました。

「ご無沙汰しています…(そうですね50年ですから)・・・私も古希が近づきましたので随分変わりました。町でお会いしても分からないでしょうね・・・」

遠く離れて巡っていたそれぞれの星が、50年目にまた遭遇することになった不思議な瞬間でした。

 

連載その1 ダイエットで健康             高橋由紀子(声楽&ピアノ科)

今年一年、連載担当になりました声楽・ピアノ科の高橋です。よろしくお願いいたします。前回の連載は、20118月から20128月まででした。今読み返してもしょうもない文章ばかりで恥ずかしい限りです。今回も、今のところ掲載するほどのネタもなく、前回以上にしょうもない文章になると思いますが、ご容赦ください。

 今回の連載は1月からの予定でしたが、年末から年始にかけて風邪をこじらせてしまい、今月号からの連載となりました。滅多に引かない風邪ですが、引いてしまうと免疫がないせいか高熱でなくても本当にきつかったです。風邪は安静にするのが一番と分かってはいるのですが、途中、徹夜などの無理をしてしまったこともあり、結局、三週間抜けませんでした。

 歳を重ねるにつれ、無理が利かなくなったり、いろいろなものが出てくるものです。50歳の誕生月に帯状疱疹になり、自分の身体を顧みることになりました。それまで、運動もせずに食べたいものを好きなように食べていましたので、毎年の健康診断で、標準体重プラス23kg(肥満3%)などと表示されていました。帯状疱疹が出た時は、それよりもさらに3kgほど増えていましたので、まずは標準体重(肥満0%)を目標に6kgダイエットしようと考えました。

 運動は、基礎代謝を上げる為に筋肉をつける必要がありますので、代謝量の大きい大腿部を鍛えるスクワットと腹筋を毎日行うようにしました。また有酸素運動として、歩けるところはなるべく歩くように心掛けたり、毎日8階までの階段の昇降を取り入れたりしました。ジム通いなどは長く続かないタイプなので、日常の生活の中で出来ることを行いました。

 食事は、自分が一日消費するであろうカロリーより摂取カロリーが少なくなるように気を付けました。ただ、カロリーの計算は大まかで、袋の外に書かれたカロリー表などを参考にしたり、料理の種類でだいたいこれくらいかな?というくらいで、きっちりと計算はしませんでした。満腹感を味わいたいので、カロリーの少ないものをたくさん食べるようにし、夕食は18時までに取るように心掛け、18時を超える場合は、カロリーの少ない消化の良いものを選ぶようにしました。平日の昼食がほとんど外食でしたので、朝食と夕食で栄養素のバランスやカロリーの調整をしました。特にこれは食べたらダメというものは設けずにストレスを溜め込まないように気を付け、毎日同じ時間に体重を量りました。

 結果、3ヵ月で6kg減の標準体重に、さらに7か月で5kg減の美容体重に、さらに6ヵ月で2kg減のBMI19(肥満-15%)となり、14ヵ月で13kg減となりました。あと2kg減でモデル体重でしたが、私の食生活の制限ではこれ以上は無理で、BMI18.5以下が低体重と言われていますので、自分の中でもこれ以上落とす必要性も感じなくなりました。

 正直、若い頃に比べて基礎代謝が落ちてくるこの年齢で、ここまで落とせるとは思ってもいませんでした。無理しすぎない程度の運動と食事制限でコツコツと行ったせいか、きつかったという思いも少なく、楽しみながらダイエットをすることが出来ました。

 ダイエット後の感想ですが、13kg減らすと体が軽くなり、階段の昇降なども息切れすることもなく、とても楽になりました。毎日10kgの米袋を抱えていたようなものですから楽になるのも当然ですね。コレステロールや中性脂肪の値などもぐ~んと良くなり、健康面でもとても良かったと思います。

 その後1年半ほど経ちますが、2kg前後の増減はありつつも、ほぼリバウンドすることなく体重を保っています。プラス2kgが運動に真剣に取り組む合図だと考え、また、毎年の健康診断に向けて増えた分は必ずリセットするようにしています。帯状疱疹から始めたダイエットですが、運動や食事への意識が高まり、これからの健康を維持するためにも良いリセットになったと思います。

ジャカランダの花が咲く

スペインの旅 №9

    ルベックムーン 安部康二郎

サグラダ・ファミリア(聖家族教会)は1882年に建築家フランシスコ・デ・ビヤールが着工し、アントニ・ガウディが引き継ぎましたが、彼の死後(1926年没)もいまだに建設が続いています。未完の教会は完成すると、4本の塔、18本の鐘楼がそびえる予定だそうです。

サグラダ・ファミリアに着いたら、日曜日だったためか多くの観光客で賑わっていました。教会に入るのに入場券が必要ですが予約していた時間が変わったので入場できるか心配でしたが、現地の案内人の手配で無事に入場できました。

中に入ると協会の祭壇やいすなど整ってほぼ完成しており、ミサが出来る状況でした。

エレベーターで塔の最上階に昇ると、バルセロナの市内が一望出来ましたが、見る場所が限られており、次々と人が昇ってきますので、ゆっくり見ることはできませんでした。

降りるときは螺旋階段で幅が狭く、下を見るとゾッとしましたが、何とか1階のフロアーに着きました。

その後自由行動になったので、模型や工事写真等がある地下の展示室を見て、土産物や絵葉書や高校生の孫にTシャツを買って集合する場所へ行きました。再度外に出てサグラダ・ファミリアの撮影スポットで写真を撮りました。

(つづく)

 

 

エスプレシボ400号到達記念特別寄稿

童話「鈴をつけた うり坊」6

                        永嶋 順子

 

 「よしっ 道を突き切って、谷のむこうまで走るんだ!」

と、いのおじさんが叫びました。

その時、パーン パーンッ と鉄砲の音がしました。みんなの後ろを守っていた いのおじさんが

「ぐあーーっ」

といって 倒れるのが見えました。

「うしろを見てはだめ! 走るのよ 走るのよ」

と、母さんイノシシがいった時、また パーン と音がしました。

「早く行って! むこうのやぶの方までー 止まっちゃだめ! 走ってー!」

と、母さんが叫びました。

イノシシの子どもたちは、むちゅうで谷を通り、やぶを目がけて走りました。

ああっ と声をあげて うり代がころびました。前を走っていたうり平が気づいて、すぐ助け起こし

「大丈夫だ。さあ早く!」 

と いっしょに走りました。

みんな息を切らしながら、深いやぶに逃げ込みました。

「うり次郎 うり助 うり子 うり代 うり平 みんないるか?」

と、うり太が名まえを呼びました。子どもたちは六匹全員そろっています。

耳をすますと、もう犬の声も、鉄砲の音もしません。あたりはしーんと 静まっています。

「かあさんは?」「かあさんがいない」「かあさんが来ないよ」

「かあさ~ん」

みんな大きな声は出しません。ふるえながら小さな声で母さんを呼びました。

              (つづく)

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