音楽だより400

 

承認欲求  竹内幸一

 猛暑続きの日々が終わってから、何だかはっきりしない日々が続いています。公園でも散歩したくなるような「秋うらら」とか「菊日和」という素敵な秋の季語の柔らかな日差しがほしいですね。

 さて、今月はまた、先月のBMCに続き妙なタイトルです。いったい何のことでしょうか?

脱原発、脱金権政治の「脱」は意味が分かることでしょう。では「承認欲求」とは?どういうことでしょうか。まずその説明から入りたいと思います。

 その説明のためのサンプルとして、この新聞の「400号」という事を取り上げてみようと思います。このエスプレシボの第1号は、昭和58年の71日に発行されています。音楽院開院前に私がしばらく入院したことのお詫び、そして、711日に開かれるホテル白菊での開院記念パーティーのことが主な記事になっています。全部手書きの文字で、私の超へたくそな文字が躍っています。

 この発行から、33年と4カ月過ぎ、今月が400号という節目の番号になりました。この事を、すごいなあ、良く続けたもんだと、褒めてもらいたい、認めてもらいたいというのが「承認欲求」ということです。

 さてそこで久し振りに再度【アドラー心理学】の登場です。アドラーは、人が生きていく上においてこの「承認欲求」を完全否定しています。なぜなんでしょうか?

 「承認には終わりがないのです。他者からほめられ、承認されることによって束の間の「価値」を実感することもあるでしょう。しかし、そこで得られる喜びなど、しょせん外部から与えられたものに過ぎません。他者にねじを巻いてもらわなければ動けない、ぜんまい仕掛けの人形と変わらないのです」

「ほめられることでしか幸せを実感できない人は、人生の最後の瞬間まで<もっとほめられること>を求めます。その人は<依存>の地位に置かれたまま、他者に操られる人生を送ることになるのです」

 そういうアドラーの文章ではちょっと意味がわかりにくいと思いますので、私の言葉で言い換えてみましょう。

自分のやっている事を他人がどう評価するかは、全くこちらがコントロールできないことです。ほめることもあれば、無視したり、けなすこともあるでしょう。そのどうなるかわからないものに依存して、びくびくしながら自分の人生を生きているとしたら、それは極端な話、他者のための人生になるのです。

この新聞にしても、私の耳に入らないだけで、いろんな思いが裏にはあることでしょう。「自慢ばかりして」、「よくこんな幼稚なことを人前に出せるな」、「生意気な、何様と思っているんだ」という事もあるかもしれません。

また、この新聞に書いたことを踏まえて話をしていると、話が伝わらないことがあります。そこで、新聞をもらってくれただけで、読んでくれていないんだなと気が付きます。かと思えば、「第何号がないのでもう一部もらえませんか」と催促してくれる人もあります。通し番号で揃えて、保管してくれているのだろうと思います。

この新聞に限らず、私はホームページでも洗いざらい自分の暮らしや考え方を発表しています。たわいない家庭のことを書いたり、ある意味過激な原発のことを書いたりしています。

こんなことをしているのは、もしかしたら、私にはある意味厚かましさというか、鈍感力(笑)があるのかもしれません。これを読むと笑われるのではとか、腹を立てる人もいるのではと思うと、だんだん書くのが嫌になってくることでしょう。それは、人前に自分をさらけ出すのをやめることにもつながります。

曲がりなりにもこの新聞が33年続いたという事は、たぶん、この新聞を出すのは自分のためになると、どこかで強く思っていたからでしょう。発行回数が増えるごとに、それは自分を信じる一つの支えにもなって行きました。

ほめられればもちろん嬉しい、励みにもなります。しかしそれは、グリコのおまけみたいなもので、私が新聞を出すという事の裏付けは別のところにあった気がします。

アドラー心理学は「自立」という事をとても大切な柱にしています。「ほめられるからする、叱られるからしない」という教育で子供を育ててほしくないと言っています。子供を信頼して交友関係を結ぶことで、子供の自立を願うことを教育の柱にしているのです。

人の顔色を見て暮らすのではなく、自分の考えで、自分から進んで、自分のために行動できるようにすることは、「脱承認欲求」でもありますし、それが自立という事だろうと思います。

「あなたは他者の期待を満たすために生きているのではない」「他者もまた、あなたの期待を満たすために生きているのではない」のです。

またアドラーは「その他大勢になることの勇気」をすすめています。周りの人間の中で、「自分は特別である」ことを望むのが承認欲求です。自分がその集団の中で、きちんとした存在位置があるという支えに、人から認められることで、自分が特別であることを求めるのです。

「自分はその他大勢でいいんだ」という勇気の一歩が、幸せの根底になるというのです。なかなかきつい言葉ですね。他人に依存して、自分は、その他大勢ではない、特別なんだと、内心でもがき苦しむうちは、幸せとは距離があるという事でしょう。

肩の力を抜いて、自分の足で、自分の人生をゆっくり踏みしめながら歩けたらいいですね。

 

連載その12<最終回>

鹿児島生活18年⁈

 元ヴァイオリン科講師 徳田美和

 

こんにちは。暑い日差しの夏がようやく終わり、風も、雲も、虫の声も、秋らしくなってきました。皆さん、お元気ですか?

今回で最後のエスプレシボ、何か特別なことを書かないといけない気がして何も思い浮かばず、最後の最後まで締め切りぎりぎりとなってしまいました。院長先生、ごめんなさい!結局、今思っていることを、素直につづります。

4月から鹿児島生活を始めて、半年が経ちました。

4月〜6月頭は、隔週で大分・別府と行き来しており、大分を離れたもののまだ実感が沸いておらず、大分と鹿児島との生活を楽しんでいました。その後、体調を少し崩したのをきっかけに、6月後半〜8月は落ち着いて鹿児島生活を送ることに。

すると7月は、寂しいという気持ちになってしまいました。今まで会えていた大分の皆さん(生徒さん、先生方、友人、お世話になった方々)に、会いたい時に簡単に会えない距離になってしまったこと。ふと、立ち寄っていた喫茶店に行けない、大好きな風景が見られなくなってしまったこと。そして、鹿児島では音楽活動の輪もまだ少ししかないため、自分の居場所がまだないように感じてしまうこと。あ〜、こんな風に思う時がやっぱり来たのだなぁと、自分を客観的に見つつ、その想いにぎゅっとなったりしました。

そんな日々を過ごしながらも、8月は有り難いことに演奏をする機会が何件かあり、とにかく11つの演奏会に没頭する事にしました。そうすると、新しい出会いもあり、練習に没頭する事で音楽に取り組む奥深さを感じることもでき、新しい気持ちになっていくものです。7月の想いから、1歩前に進めた気がしました。

そして9月。

両親と過ごす何気ない日々、プライベートでもドライブをして大自然を見て感じたり、小学時代の友人と語ったり、幼い頃から大好きなイタリア人の神父様にお会いしたり、音楽以外の時間も沢山過ごしました。この時間は、今だから持てること。音楽づくしだった日々も大切な時間でしたが、こうして今まで持つことができなかった時間を過ごせているのもとても大切な時間だと今は思っています。

その時、その時で、大切なことは形を変えてちゃんとやってくる、と思います。さみしいな、と思う気持ちを味わうのも大切なこと。その中で、幸せだな、感謝だなと気付いた事も大切なこと。全て偶然ではなく必然で、なるようになっているのだなと、落ち着いて思っています。

大分に17年も住んでいたのだから、鹿児島6ヶ月はやっぱりいろんな事を思うのは当たり前の事で。でも、これから鹿児島生活なのだなと、ようやく前向きに実感できているので、とにかく11日を大切に、素直に、丁寧に過ごして、大分17年の歴史のように、これからも積み重ねていきたいと思います。もちろん、たまには大分に来たりもして

その日々の積み重ねの中で生まれる音楽も楽しみたいと思います。大分生活17年を上回る、これから過ごした18 年後、私は何を思っているのだろう⁈楽しみです。

これまで、つたない文章を読んでくださり、ありがとうございました!これからもサンシティー音楽院を想っています。エスプレシボも楽しみにしています。

皆さん、どうぞお元気で🍀🍀

 

徳田美和先生へ

2年間にわたって、隔月12回の連載お疲れ様でした。波乱万丈で激動?の人生史に残る記録がここに掲載できましたね。

決心を固めて新しい出発をすることは、いろんな困難や寂しさがあったことでしょう。しかし、とてもいい形で再スタートが出来たように思います。おめでとうございます。

これから鹿児島に根を張って、素敵な音楽人生を続けて下さい。(竹内)

ジャカランダの花が咲く

スペインの旅 №4

  ルベックムーン 安部康二郎

 

メスキータ見学後、グラナダへバスで3時間ほどかけていきました。どこを見てもオリーブ畑でした。

 ホテルに着いて大変なことが起こりました。夕食後、ギックリ腰が勃発したのです。コルドバの坂道を歩いたせいか、バスに長時間座っていたせいかわかりませんが、椅子から立ち上がることが出来ませんでした。

 やっとの思いで部屋に行きましたが、夜のフラメンコショーは腰が悪化するといけないので、参加を中止することにしました。

 家内がこの事を添乗員に話をしたら湿布薬を持っていて、これを使って下さいと渡してくれました。この湿布薬を貼り動かずにベッドの中で7時ごろより寝ていました。

 朝起きたらだいぶ良くなっていたので、アルハンブラ宮殿に行けると言ったら、家内が夕べのフラメンコショーで皆が「ギターを弾くご主人がどうして来なかったの?」と言ったそうです。

ショーが終了した後、外に出たらアルハンブラ宮殿に明かりが灯され、対岸から見る景色は最高だったそうです。家内が嬉しそうにそんな話しをしてくれました。

 私が住む団地に、去年スペインに行った友人がいますが、開口一番「あべさんスペインではフラメンコショーが凄く良かったよー」と話したのを思い出し、とても悔やまれるギックリ腰でした。アルハンブラ宮殿の次に楽しみにしていたのですが…残念‼ (つづく)

 

エスプレシボ400号到達記念特別寄稿

童話「鈴をつけた うり坊」1

                        永嶋 順子

 

 大きな山のふもとの里山は、若葉の季節です。風がさわさわふいて、低い木々の間にはお日さまが明るく照らしています。

 あら 何かいますよ。かわいた落ち葉をたくさんしいて、ふかふかの寝床にイノシシの母さんと、生まれたばかりの赤ちゃんが6ぴき、母さんイノシシのおっぱいを飲んでいるのです。

イノシシの赤ちゃんは小さいとき背中に白いしま模様があって、それがまるで野菜の瓜のように見えるので『うり坊』っていうのです。

母さんはうり坊たちに名前をつけました。

からだの大きな順番に うり太、うり次郎、うり助、女の子は うり子、うりよ、いちばん小さな男の子は うり平です。うり平は甘えんぼうで、母さんのおっぱいから いつまでもはなれません。母さんはうり平のことを ときどき ちび平って呼びます。

子どもたちに おなかいっぱいおっぱいを飲ませたら、たけのこ掘りに行かなくてはと考えています。

 

やがて雨ばかりの梅雨が過ぎると暑い夏がやって来ます。

うり坊たちはずいぶん大きくなりました。母さんについて食べものを探しに行くこともできるようになりました。

でも暑い夏は大好きな木の実はまだあおいので食べ物が少ないのです。

おなかが空いてたまらないときには畑に入って、西瓜やカボチャを食べてしまうこともあります。

もしもお百姓さんに見つかったら

「こら~っ」て、追いかけられるので気をつけなければなりません。 (つづく)

 400号のお祝いに心温まる童話をいただきました。ありがとうございます。(竹内)

 

 

音楽だより399

 

B.M.C  竹内幸一

 今年の夏は猛暑続きで大変でしたね。皆様お変わりないでしょうか。まだまだ残暑が厳しいですが、涼しい秋風の吹くころまでへこたれずに、何とか気力で乗り切りましょう。

 さて今月は意味不明のタイトルですね。造語ですので、誰も分からないことでしょう。では種明かしを…

昨年から誕生日に近い日に、小さなコンサートをしようと言う企画をスタートさせました。ちょっとおしゃれに?Birthday Memorial Concert というタイトルを英語の先生に付けていただきました。しかしそれではちょっと長たらしいので、その頭文字をとってB.M.Cという略称を考えたのです。あと何年使えるかわかりませんが、どうぞしばらく略称ともお付き合いくだされば嬉しいです。

 この夏の日々は本当に暑かったですね。朝起きてすぐに、げんなりして溶けてしまいそうでした。何かと休憩したがり、寝転んでうつらうつらする時間が相当ありました。しかしながら、頭のどこかでこのB.M.Cのことが気になり、「ちょっとは、今やっとかんとな…」と、むっくり起き上がってギターを手にした日々でした。

 大げさなことを言えば、この目標が私の細々となっている最後の生命力となって、何とかこの夏を乗り越えられたのではないかと思うほどです。考えれば、これから毎年このB.M.Cを抱えて夏を過ごすことになりますので、夏の暑さ対策(笑)に十分なりそうです。

  さて今年のプログラムは、昨年同様2部構成にしました。

1部は、 「大バッハの片鱗を求めて」という事で、プレリュードばかり4曲に取り組んでみましたが、解釈も表現もまだまだ霧の中です。実のところ、バッハのことはよくわかりませんが、雰囲気が好きなので、ちょっとかじってみたというところです。少しでもこんな感じのところが好きなんだという事が、皆様に伝わればいいのですが・・・。

 様々なバッハの名曲がありますが、その深遠な世界には到底手が届きません。生まれ変わってまたギター弾きになったら、もう少しきちんとバッハが弾けたらいいなと夢見ていますが果たして?

 第2部は、「郷愁・母の残像」と題して、母をテーマにした作品ばかりを集めてみました。童謡や古い歌謡曲ですので、みなさまにおなじみの曲ばかりではないかと思います。

 私事になりますが、私は昨年母を亡くし、この秋で1年になりました。それで、一周忌の追悼にもなればと思って、母に関する作品を選んでみました。お母さんが健在な方、またもう既に亡くされた方、皆さんそれぞれ違った形でのお母さんとの暮らしの想い出があることでしょう。ご一緒に、少しの間その日々を思い浮かべてもらえることが出来れば、とても嬉しいです。

  2部で演奏する中の1曲に「母さんギター」という美空ひばりの歌った古い曲が入っています。若い娘が寝たきりの母親の介護をしながら、ギターを酒場などで弾いて暮らしを立てている様子が歌われている歌詞の曲です。

♪娘ざかりをお前だけ 苦労させると 泣いた母♪

寝たきりのお母さんが、手を合わせるようにして、娘に感謝している情景が浮かんできます。

 酔った客がくれたお花を、お母さんへのお土産に持って帰ります。好きな人が出来ても、短い命の母のために諦めます。そんな娘がいて、その娘を待っている母親がいたという介護の話は、もう昔々のおとぎ話でしょうか?

 今、全国で介護におけるひどい現実がよく見聞きされます。10年間介護をして、母を看取りましたという美談のような話もありますが、実際はとても苦労の多い毎日だったのだろうと思います。また認知症の親の介護で仕事をやめざるを得ず、収入がなくなり困窮してしまったというような、共倒れの話もよく聞きます。

そう言うような悲惨な介護問題を聞くにつけ、ほんの2カ月ほど入院し89歳で亡くなった私の母に感謝の気持ちが強く湧いてきます。終末は選んでできることではありませんが、最期の日まで話ができ、何の迷惑もかけることなく逝ってくれたことを、心から有難く思うばかりなのです。

 医療費の削減とかで、介護に厳しい政治が我々団塊の世代に襲い掛かっています。介護する側として、またされる側として、これから団塊の世代には過酷な現実が待っています。子供たちに負担をかけなければいいがと心配にもなります。

 しかしながら、自分の未来は選択できません。癌になりたくてなる人もいなければ、呆けようと思って認知症になる人もいません。どういう巡り合わせかわかりませんが、ただただ与えられた運命の状況のままに余命を全うするしかありません。

 いつでしたか生徒さんとそんな話をしていましたら、「そのために私はギターをしているんです」と言ってくれる方がいました。難しい、分からない、出来ないと言いながら、指をたくさん使ってギターで苦労することが、脳細胞の活性化につながるという事は、健康雑誌の記事にもよく出ています。

 音楽院で楽器を学び、声を出して歌うという事は、

その方の人生の未来を変えられるという、素晴らしい特典の時間を贈ることになるのです。(と…これは余りにも音楽院の虫のいい宣伝でした。笑)

 今度のコンサートで弾くことにしているそのほかの古い曲でも、現代に通じる厳しい世相を反映した内容の曲がいくつかあります。シングルマザーの問題(現代は6人に一人の子供が貧しい暮らしをしているそうです)、戦争で子供を失う問題等ありますが、コンサートの折に少しお話をさせていただければと思います。

 第2回目のB.M.C、皆様の応援をいただけると、この夏の苦労が実ります。未熟な演奏で申し訳ありませんが、どうぞよろしくお願いします。 

 

連載その11

イタリアローマ研修の旅Ⅳ

 ピアノ&声楽科講師 白石まさ子

 

今回はバチカン美術館について書きたいと思います。

バチカン美術館は歴代ローマ法王のコレクションを展示している世界最大級の美術館です。短く観覧時間を見積もっても3時間はかかります。美術館の中は年代やテーマごとにいくつもの美術館や博物館群に分かれて、有名な美術品をあげるときりがありません。

まずは素晴らしいの一言しか出てこないのは壁から天井にラファエロと弟子たちが描いた壁画“ラファエロの間”です。その中でもラファエロ最高の傑作と言われている「アテネの学堂」はとても有名な壁画です。この壁画の右下隅の方にラファエロの自画像が小さく描かれています。それを探してみるのも楽しいですよ。

そして“ラファエロの間”を出て歩いて歩いて小さな入り口を入るとそこは有名な“システィーナ礼拝堂”です。ミケランジェロが描いたシスティーナ礼拝堂の祭壇壁と天井画は言葉も出ない壮大な美しさです。

特に祭壇壁のフレスコ画“最後の審判”は縦14m13mもある大作で大勢の観光客が写真やビデオを撮っていました。天井画には有名な“アダムの創造”も描かれています。

今回私は朝早い時間に訪れたので観光客も少なくじっくり鑑賞することができました。バチカン美術館は朝一番早い時間に訪れるのがベストですね。

そしてこのシスティーナ礼拝堂では新しいローマ法王を選ぶ会議「コンクラーベ」が行われ、新しいローマ法王が決まると礼拝堂の煙突から出る煙の色で知らされるそうです。ちなみに白煙は決定、黒煙は再投票。

このシスティーナ礼拝堂を出るとあとは出口に向かいます。ツアーで訪れると時間制限がありゆっくり鑑賞することができないかもしれませんが、この“ラファエロの間”とシスティーナ礼拝堂はバチカン美術館の後半最後にあるので時間配分を考えていくのがオススメです。

 

 

ジャカランダの花が咲く

スペインの旅 №3

  ルベックムーン 安部康二郎

 

 グラナダへ出発する朝のことです。バイキングの朝食が済み、出かける準備をベッドの横でしていたら、腰にピリッときて違和感を感じました。これは「ギックリ腰」かと気になったのですが、歩くのに支障がなかったので、用心すれば大丈夫と思いバスに乗りました。

 マドリッドのアト―チャ駅より9:30分発の超特急列車AVEでコルドバへ行きます。

アト―チャ駅では乗車する前にX線での手荷物検査がありました。ヨーロッパでは、テロがあるのでチェックするのだろうと思いました。

 コルドバは紀元前2世紀にローマ帝国の植民地時代から発展しました。8世紀半ばから11世紀初めはイスラム王朝後のウマイヤ朝時代の都として栄華を極めました。古都、旧市街は今でも城壁に囲まれ、栄華を謳歌したイスラム時代の遺構を垣間見ることが出来る所だそうです。

 コルドバへは1時間50分で着きました。駅に到着してバスに乗る前に添乗員が「これがジャカランダですよ」言います。見上げると紫色の花をいっぱい咲かせていました。

 バスを降り、昼食をするレストランまで歩いていたら、観光用のロバタクシーがいました。22年前に旅行した気候や雰囲気が似ている中国のトルファンを思い出しました。

 食事後は、旧ユダヤ人街を歩きました。白い家並みと迷路のような小路が続き、壁には沢山の花が鉢に入れてかけられており、中庭はきれいな花で飾られていました。通称「花の小径」と言うそうです。

 メスキータの塔が見えるところが撮影のスポットと案内人が言ったので、記念撮影をし、その後メスキータに行きました。

 メスキータはスペイン語でイスラム教寺院のことだそうです。ウマイヤ王朝の創始者アブド・アッラフマーン1世の命を帯び785年に建てられ、その後4回増築され数万人収容できる巨大なモスクです。13世紀キリスト統治時代には、内部にカテドラルが作られイスラム教とキリスト教が共存する珍しい建物です。

 寺院の中に入ると、大理石でできた柱は大きく、イスラム教とキリスト教の柱は異なっていました。柱の上の薄暗い闇の中に浮かび上がる赤茶と白の馬蹄形のアーチは幻想的でした。  (続く)

ハーモニアス別府

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音楽だより398

 

77日の奇蹟  竹内幸一

また熱中症の報道がたくさん出る時期になりました。皆様、自分だけは大丈夫と油断しないようにお願いします。この夏をみんなで無事に乗り切りましょう。

さて今月は、わが家にとって歴史的ともいえることが、この77日に二つ重なりましたので、それを書かせていただきたいと思います。

ご縁が出来まして、77日に、大分県立先哲資料館の方に、我が家にある古文書などを見て頂くことにしていました。当日は資料館の方が二人きてくれ、いろいろ調べた後、用意したものをすべて資料館へ収集してくれました。

白くて薄い紙にぼろぼろの古文書などを大切に包み、段ボール8箱ほどを大事そうに持ち帰ってくれました。長い間、日の目を見ることのなかった古文書、掛け軸、和綴じの本などが、資料館の中でお役に立つことが出来ることになり、嬉しい限りでした。

こういうものをどうしたものか、勝手に処分もできないしと思っていましたので、永年の重荷が肩から下りてほっとしました。何とそれに加え、もう一つこの77日に奇跡のようなことが起きました。

5月頃でしたか、まあダメもとでと、国東市の空き家バンクに無人になった実家を登録しました。丁度熊本・大分地震がそのころあり、市の担当の方が、「めっきり問い合わせや見学が減りました」と嘆いていましたので、これは長期戦だな、登録期限3年が過ぎても難しいかも知れないなと覚悟していました。

ところがなんと、わずか2か月後の77日に市の担当の方からメールが届きました。

【昨日、ご案内させていただいた沖縄から移住を考えているご夫婦で、40代の奥さんと50代の旦那さん。2人共、陶芸家の方で、20年近くやられているそうです。今すぐに移住されるわけではなく、1年後ぐらいに考えており、来浦の竹内さんの物件が、ホームページでどうしても気になり、今回、3日間の滞在で、物件を見に来られました。

本日の20時の福岡空港発の飛行機で、沖縄に戻られるのですが、どうしても大家さんの竹内さんにお会いしたいとの事です。お忙しいとは思いますが、少し時間を作っていただければと思います。時間は、何時ぐらいが一番都合がよいでしょうか?よろしくお願いします。】

都合も何も、どんぴしゃり。この日は資料館の方と逢うために仕事もやり繰りして、田舎に帰ることにしていましたので、願ってもない日でした。いろいろ抜けられない行事もありますし、簡単に「はい帰ります」と言えないこともありますので、まさに幸運でした。

急いで実家に帰ると、もうすでにレンタカーで伊藤さんご夫妻は到着していました。やあやあと挨拶を交わした時、お二人のお人柄の良さがすぐわかりました。それからしばらく家に上がってお話しをし、沖縄に帰ってからはメールの交換をしながら、信頼関係が深まって行きました。

ご本人の了解も得ましたので、伊藤さんのメールをごく一部だけですがご紹介します。お人柄の良さが分かっていただけることと思います。

【先日は竹内さんご夫婦とタイミング良く御逢いすることができ本当にうれしく思っています。あの後福岡空港で待ち時間があり、竹内さんから手渡していただいた『音楽だより』読ませていただきました。竹内さんのお人柄やご家族の雰囲気が伝わって来ました。

『夜霧に消えた白』じーーんと泣きそうになりました。

実は我が家も たろう とゆう猫が居たのですが昨年6月に突然姿が見えなくなり。。。。

『空き家バンク登録』の記事、こちらはあの来浦の家への想いを感じました。どれも素敵な内容で二人でとても良い方とご縁が出来た事喜んでいます。こちらこそどうぞよろしくお願いします。】 

【今年の秋10月末か11月初めに福岡のギャラリーで、夫婦で作品展をする予定です。その時再度国東を訪問したいと思っています。国東でもいいですし竹内さんを訪ねて別府でもお時間を合わせられたらお目にかかりたいね!と二人で話しています。作品展の期間決まって来ましたらまたお知らせします!】

【来浦の家の件。私達も本当に竹内家との不思議な運命の出逢いを感じており、そしてうれしく思っています。竹内さんから教えてもらったブログを少しづつ読ませてもらって、なんだか勝手に親戚の家族の様に思ったりして。

それに私達との出逢いを記事にしていただけるなんて。。。。今のところ来年の4月末頃に移動を考えています。5月と思っていたのですがよくよく考えてみたら5月の始めゴールデンウイークの直後から例年梅雨入りなのです。梅雨に入ってしまうと引っ越し作業も大変になりそうなので、4月末ぐらいが丁度よい時期になりそうです。あれから日々いろいろ二人で国東での新たな暮らしを想像し計画しつつ、とても楽しみにしています。】

【昨日は来浦の家の片付けに行かれていたんですね? 暑い中お疲れさまでした。本当に近くだったら一緒にお手伝いできるのにねぇ?と話していました。

来月はお母さんの初盆でみなさん集まられるとの事

ご先祖様もお母さんも、そして家もきっとうれしいでしょうね。新聞記事に私の文章を採用!!もちろん喜んで。。。。。恐縮です!楽しみにしています。】

 伊藤さんご夫妻の国東への夢が大きく花開いて、幸せな日々を送っていただけたらどんなに嬉しいでしょう。楽しみにしています。わが故里が芸術の地になるように少しでも応援できたらと思っています。

 

連載その11

「鹿児島より~」

  元ヴァイオリン科講師 徳田美和

 

こんにちは。皆さん、お元気ですか?

日差しが強く、湿気の多い鹿児島の夏を味わっている徳田です。少し動くと、もう汗が!梅雨の雨もすごかったですが、お天気の時の日差しの強さ!梅干しがあっという間に完成しそうです。私も焼けました!大分の暑さはどうでしょうか?

さて私ですが、まだ手探りですが、鹿児島でぼちぼち活動をしております。

今回は鹿児島での音楽活動を少し紹介したいと思います。

 

ただいま、霧島国際音楽祭の真っ最中。約3週間に渡って行われるこの音楽祭。プログラムの内容も豊富で、ゲストも沢山。聴きごたえのある演奏会が続いています。私も初めて鹿児島交響楽団で参加しました。地元のオーケストラが参加できたり、受講生がレッスンを受けられるのも魅力的です。

この音楽祭を主催している霧島にある「みやまコンセール」は、全国で唯一、ホール専属の演奏家を持っています。オーディションに受かるとメンバーになれます。(私も採用されました)

このメンバーは、いろんな学校(地方や島など)に出向いて演奏をしたり、又は学校側がみやまコンセールに来て私達がホールで演奏をしたり、音楽教室をしたりします。又、霧島にあるため、霧島のホテルや旅館などでも、要望がありましたらメンバーが派遣されるという、有り難いシステムになっています。ホールと演奏家と地域が協力して、音楽の素敵な催し事を行える、良い仕組みだなぁと思いました。

それと、私のヴァイオリンの友人は、1年半前くらいから、ひまわりプロジェクトといって、4人で学校をまわってヴァイオリンの授業を行う、という活動もしています。110丁のヴァイオリンを購入して、4人で40丁、学校へ出向いて体験授業を行っています。まだまだヴァイオリンが身近ではない鹿児島のヴァイオリンの裾野を広げる、とても素敵な思い切った活動だなぁと思いました!この活動で、ヴァイオリンを一度でも触った事がある子供達が増えたら、また音楽に対しての興味も広がるのではないかな、と思います。なかなか実行できる事ではないので、友人達の情熱に刺激を受けました。

そして、私も大分に住んでいた頃から続けていた、弦楽アンサンブル、フォンティーヌ鹿児島。年に1度集まって演奏会を行っています。弦楽合奏のメインの曲と、必ず鹿児島にゆかりのあるゲストをお呼びして協奏曲もします。昨年はサックス、今年はソプラノの方をお呼びしてリヒャルトシュトラウスの4つの歌、を演奏します。

皆さんの馴染みのある曲もですが、知らないだろう曲を、私達が発掘して皆さんにお届け(紹介)する、という事も目的に入れて選曲をしています。この団体でもこれからいろんな事に挑戦していきたいと思っています。

そして今日は、愛の聖母園(理由があって親と暮らせない子達の園)の子供達と、教会のdayサービスに集まったお年寄りの方達の前で、一緒に演奏したり歌ったりしてきました。子供達もお年寄りもみんなが喜んで、音楽っていいなぁとあったかい気持ちになりました。

 

今年1年は、鹿児島の音楽を味わいながら、これからどんな風に活動していくかを考えながら、過ごしたいと思っています。

 

鹿児島に住んで、鹿児島の音楽活動も素敵だなぁと思いましたし、別府・大分の音楽活動も鹿児島に紹介したいと思っています。

スポーツニュースがあるように、TVのニュースの中で、ミュージックニュース🎵というのがあればいいのに!と思うこの頃です。

いいニュースも沢山流れて欲しいですね。

 

ではでは皆さん、熱中症にはくれぐれも気を付けてお過ごしください🍀

ジャカランダの花が咲く

スペインの旅 №2

   ルベックムーン 安部康二郎

 

昼食後、世界遺産の古都トレドへバスで1時間15分ほどかけて移動しました。トレドは三方をタホ川に囲まれた丘です。紀元前2世紀にローマに征服されて以降様々な民族に支配され、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教が混在する独自の文化が育まれた地です。また、宗教画家エル・グレコが半生過ごした場所であるとも、案内人が説明をしていました。

トレドに着いて最初に行ったのがサント・トメ教会で、エル・グレコが描いた「オルガス伯爵の埋葬」の絵を見学しました。

NHKBSテレビだったと思いますが、エル・グレコが描いた「オルガス伯爵の埋葬」や「征衣剥奪」の宗教画を放送していました。絵の中に描かれている人物等の解説があり、その時はあまり気にも留めていなかったのですが、実際に現地で改めて本物を見て、話を聞いたらよくわかりました。

トレドの町は、観光の関係と刃物、ダマスキナード(金銀を使った象嵌細工)等作ることが主な仕事です。土産物屋の陳列には、ナイフなどを飾っていました。

この日はお祭りがあり、多くの人で大変混雑していて、お店をゆっくり見ることが出来ませんでした。

この後歩いてカテドラルへ行きました。スペイン・カトリックの総本山であるカテドラルは、フェルナンド3世の命により1226年に建設がはじめられ、1493年に完成したフランス・ゴシック様式の大聖堂です。16世紀初頭のエンリケ・アルファによる総重量200㎏に及ぶ金、銀、宝石などで細工された高さ3mの聖体顕示台が置かれています。その一部にはコロンブスがアメリカから持ち帰った金が使われているそうです。

本堂に入ると、想像を絶する彫刻や様々なステンドグラスがあり、昔の人は是ほどのものをよく作ったと感心し、その凄さに驚きました。

また、窓から差し込む光で天使や聖母像はひときわ鮮やかに見え、さすがに大聖堂(カテドラル)は圧巻でした。

見学の後でマドリッドに帰りホテルで固いパンと貝やイカが入っているちょっと臭みのあるスープで夕食をとり、風呂に入った後、疲れ果てて早く寝ました。

明日はいよいよアルハンブラ宮殿のあるグラナダへ行きます。  (続く)

 

 

音楽だより401

 

ふたりの桃源郷 竹内幸一

 10月は行事が多く、もう月末かと慌てさせる月でした。ハッピーコンサートや私のメモリアルコンサート、皆様大変お世話になりました。ありがとうございました。それでは、急いで新聞を作ります。

 さて今月は、ある方のお薦めをいただき、久しぶりに映画へ行きましたので、その感想を書かせていただこうと思います。ミステリーなどの映画では、結末まで書くと見る楽しみがなくなりますので、映画の感想は難しいところがあります。しかしながらこの映画は、作り物のストーリーではありませんので、どこを切り取ってお知らせしても問題はないように思います。

 この映画は、ある夫婦の暮らしを25年にわたり撮影したドキュメンタリーです。夫婦が生まれてからの経過も含め亡くなるまでの晩年の記録です。

 普段の暮らしにカメラが入ると、なかなか平常心ではいられないことと思います。25年分を全部出せば25年かかるわけですが、それをカットにカットを重ねて90分ほどにまとめています。たぶんその中には、最初の何か月かは、カメラを気にする分があり、それはすべてカットされたのでしょう。

 お二人の老夫婦が、映画ではごく自然に普段の暮らしをしている姿が淡々と描き出されていきます。作り物ではない、真実の強さが胸に迫ってきます。取り立てて大きな事件があるわけでもなく、ありふれた日常が続くのですが、その中で何度涙が出てきたことでしょうか。特別な世界ではない、私たちと地続きの生きざまが見事に描きだされていたからだろうと思います。

 2人は3人の娘を育てるために、住み慣れた山を離れ高度成長期の大阪へ出ます。そこで懸命に働き、娘たちを育て上げ結婚させます。その後、二人は、若いころ開墾して作り上げていた山の暮らしへ戻ります。65歳の時でした。映画は、山へ戻ってからの生活の様子が主な内容になります。

 映画は、二人のわしわしと力強い歯磨きの様子から始まります。歯を磨く様子だけで、お二人の生命力の強さがわかります。

 畑で取れる野菜、湧き水で沸かした風呂、窯で炊くご飯・・・・そんなことを不便と思わない働き者の二人の暮らしは、ある種の爽快感があります。流す汗と共に、自然に溶け込んで、ささやかな山からの恵みの中でつつましく、そして心は裕福に暮らします。汗だくの作業の中で、自分たちで作った蒟蒻の美味しさを語り、一輪の花の美しさに二人で見とれます。

 山に入ったじいちゃんがなかなか帰ってこない時がありました。ばあちゃんは、良く響く大きな声でじいちゃんを呼びます。山へ向かって驚くべき声量でじいちゃんを呼ぶのです。何度か呼ぶうちに、やがて山からじいちゃんの声が聞こえ、ばあちゃんの嬉しそうな笑顔がこぼれます。

 元気者の二人にも、時間が経過すれば、老いが深まってきます。体の弱った二人は、山の下にある老人ホームへ入ります。しかし、「テレビばかり見ていると呆ける」と、90歳でも車に乗って、半日は山に戻って野菜などを見て回り手入れをします。

 老いが進んでいく頃、すし屋をしていた娘夫婦が、店をたたんで、山の暮らしへ入ります。畑などの作物を老夫婦、そして若夫婦が力を合わせて作るようになるのです。

 だんだんそれも叶わなくなり、93歳でじいちゃんが亡くなります。長い間二人で味わった喜びや悲しみの時間が、人の世の法則のままに途切れてしまいます。誰にも訪れる別れを映像は淡々と流して行きます。二人で過ごした濃い時間のぶんだけの、言い知れぬ寂寥があります。

 そんな折、幸か不幸かばあちゃんに少し痴呆が始まります。娘婿におんぶされて山へ戻ると、ばあちゃんはいつも言うのです。「じいちゃんがおらん、どうしたんかのう?」と何度もつぶやきます。そして娘さんの勧めで、また山に向かってじいちゃんを呼ぶのです。90歳とは思えない素晴らしい声量で、じいちゃんを呼びます。しかし何度呼んでも、返事はありません。「おかしい、なんも聞こえん」。ばあちゃんは、さびしそうに小さな声で言います。

 顔も声も若いころのばあちゃんに実によく似てきた娘さんに介護されつつ、ばあちゃんも亡くなります。

 時間が流れていきます。人の世のごく普通の幸せな生涯が終わります。そしてまた次の世代が続いて行きます。

あの山の暮らしは、確かに二人にとっての桃源郷だったのでしょう。と言っても、それは、誰もが選べる場所ではありません。桃源郷は桃の花の咲く山にだけあるのではないのだろうと思います。それぞれの方が暮らしている、普段の生活の場所こそ桃源郷になるのではないでしょうか。

我が家の場合、家のすぐ前は4車線の大通りです。ひっきりなしに車の騒音があります。排気ガスの匂いには窓を開けられないほどです。また家の中は、片付けや掃除の苦手な二人のせいで、物が溢れ足の踏み場もないようなゴミ屋敷(小屋)寸前の部屋です。癒しの?猫ちゃんのお蔭で、壁は傷だらけで、ここは幽霊廃墟かと言われかねないほどです(笑)。人様にはとても見せられない部屋の様子なのです。

美しい自然の桃の花とは縁もゆかりもないようなところに住んでいるのです。しかしながら、私たちにとっては、ここが多分桃源郷なのだろうと思います。なんだかんだと言いつつ、ここが生涯を終える場所になることでしょう。

レッスンを受けたいと言って下さる方が一人でもいる間は、階段を這って下りてでも、生涯ここで仕事を続けたいと思います。ここが私たちのかけがえのない桃源郷だからです。

一人暮らしでも、大家族暮らしでも、自分の今住んでいる場所が桃源郷と思えたらいいですね。

 

連載その12<最終回>

ローマ研修の旅

 声楽・ピアノ科講師 白石まさ子

 

今回で最終回になりました。2年間下手な文章にお付き合い頂きありがとうございました。今回はローマで受けたレッスンについて書きます。

ローマで通った大学は、みなさんがご存知のような塀と門があって校舎が立ち並ぶような建物ではなく、レンガ造りのビルの中のワンフロアーを、受付・先生の部屋とレッスン室を区切っている、日本では音楽教室みたいな感じを想像していただくとわかりやすいと思います。

宿泊しているマンションから徒歩約10分。4日間通いました。

以前にも書きましたが、イタリアの先生はその人の声質を大事にして、声にあった歌しか“Non!”と言って聞いてもくれませんしレッスンもしてくれません。

今回はそれを踏まえて選曲しレッスンを受けました。

一昨年レッスンを受けていたので、先生も私の声を覚えていて今年は呼吸法・姿勢や表情など一昨年よりも内容の濃いレッスンとなりました。そして今回一番よく指導されたのがソルフェージュです。中・高校生の時大学入試で嫌になるぐらいソルフェージュを勉強しましたが、大学卒業とともに疎遠になっていたソルフェージュ。

まずは楽譜のすべて音符を「ドレミ・・・」で歌い、息継ぎやfpなどの音楽記号正しく正確に歌う。オペラのアリアもイタリア歌曲もすべて同じように取り組む。そして次に正しい姿勢と体の使い方、顔の表情。中でも一番注意指導されたのが、欠点である体が硬く柔軟ではない事と、すぐ体に力が入る事。“日本に帰ったらヨガか何かして体を柔軟にしなさい!”とアドバイスを受けました。「声を出さなきゃ!」と思うあまりに体に力が入りすぎていたようです。
 帰国後、体を柔軟に力を抜くために運動を始め今は少しずつですが効果が出てきています。今回のローマの研修は欠点をたくさん指摘されましたがこれからの私の演奏活動に大きな課題と勉強の道筋がついた貴重な経験でした。

 

ジャカランダの花が咲く

スペインの旅 №5

  ルベックムーン 安部康二郎

 

 グラナダは、アンダルシア地方の中心地であり、スペイン最後のイスラム王朝ナスル王国が築かれた町です。「13世紀の初めから1492年にキリスト教徒がグラナダを奪回するまでの約250年間ナスル王朝の政治、経済、文化の町として繁栄を極めた」とガイドブックに書いていました。

 ホテルを出発し、アルハンブラ宮殿に着いてバスを降り宮殿の入り口まで歩く間、現地の案内人よりアルハンブラ宮殿の説明を受けました。

 1350年代には、アルハンブラの城内にはモーロ人貴族を中心に2000人以上の人が暮らし、市場、モスク、住宅街が整備されていました。貴族の宮殿は、全部で7つあったそうです。

 また18世紀の王位継承戦争やナポレオン戦争を経てアルハンブラ宮殿は荒れ果ててしまったが、19世紀に米国人作家のワシントン・マービングの「アルハンブラ物語」によって再び世界の注目を集めたそうです。話を聞いてアルハンブラ宮殿の歴史を垣間見ることが出来ました。

宮殿の入り口で城塞の説明があり、イスラム教徒が造った後でカトリック教徒が造った壁があり、見ると大小の石垣で異なっていました。

宮殿内に入ると、まず円形のカルロス5世の宮殿、そのあとに天井の鍾乳石飾りが見事な二姉妹の間、ナスル朝宮殿の中でコマレスの塔が水鏡に映し出されるアリャネスの中庭、ライオンの中庭に面した3つの部屋等を見学しました。 (つづく)

 

エスプレシボ400号到達記念特別寄稿

童話「鈴をつけた うり坊」2

                        永嶋 順子

 大きな山のふもとの里山は、若葉の季節です。里山に涼しい風が吹くと、秋がそこまで来ています。

お腹をすかせたうり坊たちは、夜になって母さんに連れられて山から降りてきました。 

「さあ みんなよそ見しないで ちゃんとついて来るのよ」

「はあい はあい はあい」

うり坊たちは元気いっぱい母さんといっしょに歩いていきます。

「えーと一、二、三、四、五、六みんないるわね」

迷子にならないように 母さんはお月さまで明るい道を歩きながら 何度もうり坊をかぞえます。

「さあ つきましたよ。 そこに光っているあおい葉っぱが見えるでしょ。 あれがさつまいも畑よ」

そこは おじいさんとおばあさんが二人で作っている小さな畑です。

「ほら 見ててごらん」

母さんは丈夫な鼻先で 真ん中のつるを引っ張ると、お芋がごろんと出てきました。

「わあ お芋だあ」

母さんは つぎつぎにお芋を掘りあげては うり坊たちにくれました。

うり坊たちは お芋をたくさん食べて おなかがぱんぱんになりました。

「ねえ かけっこしようよ」

と うり平がいいました。 うり平はからだは小さいけれどかけっこはとくいなのです。 

「よーい どん」

畑のまわりをかけまわったり、鬼ごっこしたりして遊びました。

「さあ かえりましょう」

人間がおきてきて、つかまってはたいへんです。朝になる前に、みんな山のおくに帰っていきました。

 

 朝になりました。

おばあさんがいいました。

「おじいさん 今夜はお月見ですよ」

「ああ そうだねえ 満月だね」

「さつまいもが大きくなっているかもしれませんね お月さまにおそなえしましょう」

二人は、くわと、かごをもってさつまいも畑にやってきました。

「きっと 甘くて おいしいお芋がはいっているよ」

でも なにかへん? です。

さつまいもの つるの真ん中に大きな穴が開いています。

「あれっ これはどうしたんだ?」

おじいさんは、えいっと くわで力いっぱい掘ってみました。

「あれ ないぞ。さつまいも ない こっちもない」

「だれかが先に掘ったんだ」   (つづく)

 

 

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