音楽だより397

夜霧に消えた白 竹内幸一

 

梅雨は梅雨らしく、雨の日が多いのは歓迎すべきことです。稲などの生育のためにも、自然の恵みを与えてくれる順調な天候が続いてほしいですね。

さて今月は久しぶりに猫のことを書きたいと思います。昔、「困った時の猫頼み」(記憶されている方は相当古くからのありがたい読者の皆さんです)というタイトルで、何度か猫のことを書きましたが、このたび久しぶりに、また猫を登場させます。たわいないお話で申し訳ないですが、どうぞ最後までおつきあいください。

62日のことでした。ある方のお誘いで山香まで「星を見る会」という会に参加させてもらいました。焼肉をしたり、望遠鏡で火星、木星、土星を見たり、近くの川べりでホタルも鑑賞したりと、とても楽しい時間を過ごしました。

それが終わり、かなり遅くなって家に帰り着いて、やれやれとくつろごうとしている時に、妻が「白ちゃんがいない」と、悲愴な声で言うのです。「まさか、どこかに隠れているんやろ」と、全く心配していなかったのですが、時間がたつにつれて、それが冗談ではないことが分かってきました。

以前も見当たらないと言っている時に、ひょっこり思わぬ隙間からのそっと出てきたりしたこともありましたので、そのうち出てくる、出てくると言いながら、夜遅くなって、これはあきらめざるを得ないと覚悟を決めました。それでもいずれ帰ってくるだろうと、1週間ほどは夜中も入口を空けて、階段にエサを置いていましたが、全く姿を見ることはできませんでした。

この猫は、13年ほど前の丁度私の誕生日に、家族になりました。家の裏庭のマンホール(温泉熱で温かい)の上で暖を取っているのを妻が見つけて、気に入ってしまったのが、幸か不幸かこの猫の将来を変えることになりました。

しばらく見ないと思っていたら、この猫がやせ衰え、毛が抜けてみすぼらしい姿で久し振りに現れました。しかも仔猫を1匹つれていました。子供を産んで余りにやつれているのを不憫に思った妻と娘が「家猫」にしようと捕獲作戦を始めました。

ドアの内側にエサを置いているのですが、中々用心深くて、入ろうとしません。餌を食べたら、さっさと逃げていきます。あるとき、新鮮な太刀魚が手に入ったと妻が買ってきました。それを焼いて階段のかなり上の方に置き、入り口近くの脇に娘が隠れていて、待機しました。

いい匂いにつられたのか、親子は恐る恐るあちこちを見回しながら、階段を上がってきました。そうしているうちに入ってきたドアが閉まってしまい、とうとう野良猫から家猫に転身することになったのです。

我が家の初代の猫が「豆」でしたので、それに連動して、母親の方は白いので「白豆(しろ)」と名付け、仔猫は小さいので「小豆(あず)」と呼ぶようになりました。

閉じ込められた当時は、3階の箪笥に上がって「拉致監禁されたよ~、誰か助けて~」と外に呼び続けていました。丁度そのころ、隙間を見つけて、白が3階から逃げ出しました。「あ~あ、あずが可愛そうだな、もう戻らないだろう」と思っていました。ところが次の日ドアの外で「私はここにいますよ~入れて~」と鳴く声が聞こえたのです。逃げようと思えば逃げられたのに、また帰ってきたのです。(ですから今回もまた帰ってくると信じていました)

白もあずも前の猫に比べて実に活発でした。カーテンをかけ上り、箪笥の上、カーテンボックスの上を通って天井付近をぐるぐる高速で回っていました。

それに極度の怖がりで、私たちが少しでも近づくと体をぶるぶるっと振るわせて、手でも出そうものなら、爪を出した手で傷をつけられたこともたびたびでした。

しかし、次第に、「今日、白ちゃんにちょっと触れたよ」という事が重なって行き、ぶるぶるの震えも次第に消えていきました。

それからよく思い出話で話題にするのですが、白は信じられないほどの甘えん坊になったのです。あの怖がりで凶暴だった白がと思うほど、暇があれば妻の膝や、私の膝にやってきました。じっと顔を見上げて、「膝に行っていい?」と目で訴えます。許可の顔つきをすると、さっと膝に上ってきます。面倒くさそうに無視していると、その雰囲気から、これは無理だなと離れて行きます。相手をしないでいると「ねえ、ねえ、遊んでよ」と肉球で膝や背中などをトントン叩いて催促したものです。

後で妻の言うには、いなくなる前の日、足がよたよたしていて、おかしいなと思ったそうです。大好きな膝に上がろうとして、難儀そうにしていて上がれなかったのだそうです。後になってみれば、そう言えば・・・と思い当たることがあったようです。

これだけ慣れている白でしたから、帰って来ないはずはないのですが、ここまで帰らないという事は、白ちゃんの最後のやさしさだったのでしょう。誰にも迷惑をかけないように、白は、ひっそりと夜霧に消えて行きました。

 

 

連載その10

「イタリアsローマ研修の旅」

  声楽・ピアノ科講 白石まさ子

 

私がレッスンを受けた大学はローマのバチカン市国の近くにあり、滞在したアパートはバチカン市国の近所で、前の通りはレストラン、パニーニ店、土産店が並び夜遅くまで賑わっていました。

バチカン市国は皆さんもご存知の通り、ローマ市にありながら独立国として世界最小の都市国家でカトリックの総本山です。

まずはサン・ピエトロ広場のサン・ピエトロ大聖堂の入り口でセキュリティチェックを受け大聖堂の中に入リます。

入ってすぐ右手にはミケランジェロ作イエスの亡骸を胸に抱いた有名なマリア像「ピエタ像」があり多くの人だかりができています。このマリア像はいつも柵がしてあり間近に見ることはできない日が多いのですが、私が訪れた日は聖年の扉が開いていたため、柵は開けられ間近でじっくり見ることができました。とてもラッキーでした。

 

大聖堂の中は壮厳・壮大という言葉しか表現できないぐらいの素晴らしさで、360°床、壁、柱、天井全てが芸術作品、そして大聖堂の奥にあるベルリーニ作の大天蓋と「聖ペテロの司教座」、その真上のミケランジェロ作のクーポラは威厳があり圧倒される美しさです。

何時間でもその場にいたい!そんな気持ちになります。そのクーポラ(ドーム)は頂上まで登ることができ、大聖堂の中や頂上からはローマの街を一望することができます。

2年前私はこのクーポラに登りましたが床が少し斜めに傾いていて怖くて素晴らしいローマの街をゆっくり鑑賞することが出来ませんでした。

途中までエレベーターがあるので高所恐怖症でない方は是非登ってみて下さい。

そしてサン・ピエトロ寺院を出て進むとカラフルな制服を着たイケメンのスイス衛兵が立っ

ています。ここではやはり記念撮影は女性が多かったかな?もちろん私も記念撮影しましたよ!!

 

 

ジャカランダの花が咲く

スペインの旅 №1

   ルベックムーン 安部康二郎

昨年の忘年会で「来年の抱負は?」と聞か

れ、春の音楽祭で『アルハンブラの想い出』

を弾いてスペインに行きたいと述べました。

2月に旅行会社へ電話してみると、「今年の5月から福岡発ヘルシンキ経由でマドリッドへ行くコースがあり、525日出発、61

日帰国が決定しております。」との話でしたので申し込みをしました。    

出発の当日は、朝330分に起床し大分発445分のソニック2号で博多へ行き、地下鉄で福岡空港まで行きました。

国際線の3階出発ロビーに旅行社の表示がありました。そこにポッチャリとした添乗員がおり挨拶をすると、旅行先へ行く荷物預かりと搭乗口の説明がありました。

旅行するメンバーは、ほとんどが60才代で、福岡、熊本、鹿児島、雲仙、大分と各地から来ており(大分は私達だけ)、夫婦で行くのが私達を含めて6組、4人の女友達、姉妹、一人旅の女性、添乗員を含む総勢20名でした。

9時30分出発のフィンランド航空で、空路ヘルシンキ行きに搭乗しました。ヘルシンキまでの所要時間は10時間半ぐらいかかるそうで、その間2度の機内食がありました。フィンランド上空に近づくと、空から見える景色はほとんどが湖ばかりで陸地があまりありませんでした。

ヘルシンキに着き入国手続き後、乗り継ぎでマドリッド行きへ乗り、4時間30分の時間を要しました。ホテルに着いたのは現地時間の夜の10時30分で(日本時間の朝5時30分。時差7時間)待ち時間を含む26時間の長旅でした。

2日目の午前中はマドリッドのスペイン広場等市内観光と、世界3大美術館の一つプラド美術館(他は、パリのルーブル美術館・ロンドンのナショナルギャラリー)、そしてソフィア王妃芸術センターを見学しました。

市内観光をした後プラド美術館へ行きました。美術館では、朝の10時開館の時に平日でありながらすでに行列が出来ておりました。最後尾に並びましたが、そのそばでギターを弾いている人が(写真)おり、よく聞いた曲だと思ったらラグリマ(F.Tarega)の曲でした。美術館見学の後、アストゥリアス・アルハンブラ宮殿の想い出をひいてもらい、CDを10ユーロで買いました。

館内ではスペインの3大画家ベラスケス、ゴヤ、エル・グレコの名作の他、中世から18世紀にかけてのヨーロッパの絵画が展示されていました。その絵の大きさにびっくりし、本に掲載されている写真を見るのと違い、大変感動しました。

その後ショッピングをし、ソフィア王妃芸術センターでピカソなどの絵を鑑賞しました。

マドリッドにはホセ・ラミレスや他のギターを作る工房があり見学でき販売していると本に書いていたので、現地の案内人にホテルから行けるかと尋ねましたら「お店の開いている時間に限りがあるので、別行動すれば行ける」とのことでしたので、残念ながら断念しました。

案内人の話の中で300万円のギターを買って、タクシーのトランクの中に入れて忘れてしまい二度と帰って来なかったことや、ギターを弾く夫婦がツアーをキャンセルし別行動でギター工房巡りをしたことなど

音楽だより396

 

空き家バンク登録 竹内幸一

地震騒動、皆様大変お疲れ様でした。最近、何だか地面が揺れるというトラウマで、悩んでいる方もおられるようです。大地はしっかりしてもらわないと困りますね。

熊本の友人の様子を知って胸が詰まる思いがしています。避難場所をあちこち何カ所か移って、現在は中津の県営住宅で少し落ち着いているようです。そこに来るまでは、テレビや新聞では少しもわからない、筆舌に尽くしがたい大変なご苦労があったことが分かりました。何もできませんが、心からお見舞いするばかりです。

さて前置きが長くなりましたが、今月のテーマ「空き家バンク登録」に入りましょう。それに至ったいきさつは、さそり座の歌1047を読んでいただければと思いましたので、掲載させていただきました。

現在の状況です。「大分県国東市 空き家バンクhttp://www.akiya.u-kunisaki.com/」登録物件№225(国東町来浦)」で掲載されています。写真なども数枚載っていますので、興味を持たれた方はどうぞご覧ください。

私はこの家で20歳ごろまで過ごしました。また母が3年前までそこで暮らしていました。愛着やさびしさも勿論ありますが、いつかどうかしなければと思いつつ暮らしていました。私の子供たち、弟の子供たちとも、そこで農業しようという人材はいません。それでこのまま朽ちていくのを座視するより、どなたかに活用していただければどんなにいいだろうと思い、意を決して手放すことにしました。

田舎暮らしを楽しみたい。苺やトマトなどの農業を本格的にやってみたいという方がおられましたら、新しい出発を応援できたらうれしいです。県外からの移住促進のために、市からの補助や特典もかなりあります。詳しいことはお問い合わせください。

<さそり座の歌 1047>

田舎の家や土地に対する税金のお知らせが届いた。その同じ封書に、「空き家バンクに登録を」というチラシが入っていた。それを読んでいるうちに、気持ちが動いた。

 1カ月か2カ月に1回、田舎の家の窓を開け、室内の掃除に帰る。しばらく行かないとネズミの糞などのごみが散っているので妻が掃いたり、拭いたりして綺麗にする。しかしながら、これをいつまで繰り返せばいいのかと思うと、何も展望が湧いてこない日々だ。

「空き家バンク」の話は、その徒労感に一筋の光を与えた。近所に店もない、学校もない、医者もいないというような所に、住む人が表れるかどうかわからないが、何もしないでいたのでは現実は全く変わらない。

 市役所の担当窓口へ電話をしてみると「是非登録をお願いします」と、歓迎してくれた。嫌なことをお願いするのではなく、市の方も定住促進に熱心という事が分かり、気持ちよく話を進めることが出来た。

 二日後、平日の午後を空けて田舎に出かけた。市役所で担当の方にお会いし、書類を書いた。その後田舎の家で待っているとすぐに、担当の方が二人家を訪ねてきて、あちこちの部屋や外観を写真に撮ってくれた。これを市のHPに掲載して、全国各地の田舎暮らしを求める人の目に付くようにするとのことだった。

 それからいろいろ条件の話になった。貸す場合は、家賃が3万円以下でないとなかなか難しいというご意見だったので、2万円と提示したところ「それならいいでしょう」と決まった。今は買い取る場合も、市から150万円の補助があるので、それも進めやすいという事だったが、にわかに売却の値段を決めるのは私には難しく、しばらく保留という事で今検討している。

 家の骨組みは相当古く、はっきりしたことはわからないが、築後100年は過ぎていると思う。それをあちこち改修して、現在まで来ている家なので、住むとなれば、相当補修が必要になるかもしれない。

 しかしながら、必要なものだけ運び出してくれれば、後の片付けや補修は市の補助でやれるという事もわかり、それならと尚更話が進めやすくなった。

誰かが見学に来る場合を想定して、止めていた電気も使えるようにし、故障していた水道のポンプも修理した。

国東町での長い竹内家の歴史を、私の代で完全に終わらせてしまうことになる。さびしくもあるが、後に残される者のために、私が元気なうちに何とかめどをつけたいものだ。

 

連載その10

「鹿児島と大分の再発見」

 

(元ヴァイオリン科講師 

          徳田美和)

 

こんにちは。雨が降ると、じめっと湿気の多い鹿児島です。そしてこの前は、久しぶりに灰を浴びました。

歩いていると、何か降っている⁈

手の平を広げると、黒いものがテン、テン、テン…!この日は、つぶのしっかりとした灰で、目は痛いし、風が吹くと舞い上がるし、傘を持っていなかったため、歩くのが大変でした。車のところにたどり着いた時には、黒のヴァイオリンのケースは灰で白っぽくなっていました。灰ってこうだった!と久しぶりに実感した日でした。家に着いて、すぐにお風呂に入って、サッパリ!やっぱり灰が降ると大変です。

さて、そんな鹿児島から、レッスンのため又大分、別府へ。風が吹いても爽やかで、なんて歩きやすいのでしょう!緑がキラキラして見えました。

もう車を持たないため、大分では電車と徒歩での移動です。今まではすぐに車に乗っていたので、レッスンの時も、大分の自宅からサンシティー音楽院まで直行でした。なので今回、電車と徒歩で、別府の街ってこんなところが素敵!という初めての発見がありました。

まず東別府駅。電車で大分から別府へ行ったので、東別府駅も初めて通りました。木造で昔ながらの駅。なんて素朴で可愛い駅なのだろう。なんかお話が始まりそうな、そんな駅をひと目で好きになりました。

別府駅に着くと歩いてサンシティーへ。道のアスファルトには、しいきアルゲリッチホールはこちらですよ、と、ところどころに案内の石が組み込まれていて、まるで赤い鳥と青い鳥に出てくる光る石みたいでした。

それをたどってしばらく歩いていると、木々が沢山!そう、別府公園です。

実は私、別府公園へ入るのは、今回が初めてでした。17年も大分に住んでいたのに、別府公園はいつも車で通り過ぎていただけ。今回は、サンシティーへ行くのに、ゆっくりと別府公園の中を歩いて行く事にしました。

入ってみると、広い!広い!

木が沢山あって、道も沢山あって、あちらこちらにベンチもあって、まるでドイツの公園みたい!( 注行った事はありません。テレビで見ただけです。)

犬と散歩している人、ジョギングをしている人、ベンチでのんびり座っている人、皆さんおもいおもいに過ごしていて、それが又いいなぁと、この公園も好きになりました。45月とサンシティーへ伺いましたが、この公園を通るのは毎回楽しみでした。気持ちが良くて、ここでお昼を食べた事もありました。

いつもと少し違うスタイルで大分・別府に伺うと、住んでいた頃とは違った風景を感じる事ができて、楽しい鹿児島からのレッスン通いでした!

少しずつ、大分へ伺う回数がこれからは減ってきてしまいますが、これからも行く度に、大分・別府の新しい発見をしていきたいです。

最後に、鹿児島の素敵な場所もひとつ紹介しますね。

今回帰って来てから初めて訪れた場所。湧水町の丸池公園。

水の透明度にびっくり!空と夕日がそのままうつっていて、まるで鏡のようでした。そして蛍の光の綺麗なこと!!ほわ〜んと柔らかい光が付いたり消えたり。自然って美しいものが沢山ですね。皆さん、是非鹿児島にも遊びに来て下さいね。そして、灰も味わってみて下さい()

5月で完全にサンシティー音楽院の講師を退職しました。皆さん、長い間、本当にありがとうございました!エスプレシボは今年いっぱい続けますので、どうぞお付き合い下さいね

 

💛徳田先生、長い間ありがとうございました。家族ぐるみのお付き合いも出来て、鹿児島に親戚が出来ました。多謝深謝。(竹内)

はじめまして

   甲斐田柳子(ヴァイオリン科講師)

 

私は6月から、サンシティー音楽院のヴァイオリン科講師をつとめさせていただきます。甲斐田柳子(かいだりゅうこ)と申します。どうぞよろしくお願いいたします。

自己紹介を兼ねて私のお話になりますが、私が初めてヴァイオリンにふれたのは、5歳の時でした。当時は何も分からず、母に連れられて月2 , 3回のレッスンに通っていました。続けていったのはヴァイオリンはまぁ好きだけど練習は本当に嫌い、だったのでなんとなくです。明確な目標や意思というものをその時の私はそんなに持っている方ではありませんでした。

でも大人になって次第に、習い事をさせてもらった有り難みを感じるようになりました。それは音を楽しむという感性を誰もが持っていて、好きな音楽を聴いたり演奏したり、その感性を使っている時は心が満たされることに気がついたからです。

ヴァイオリンを習っていたおかげで自ら演奏する事ができ、それは私自身にとってカタルシスのようなものだと思うようになりました。

習い事は、音楽に限らず知らなくても生きてはいけますし、お金儲けが出来るわけではありません。ただ、人生を豊かにする為の最高の材料になると思います。

音楽やスポーツ、人それぞれですが例えば音楽だと、音楽のジャンルの中で何か1つ知っているものや演奏できる楽器があれば、ジャンルをとわず音楽全体への理解や感じ方の度合いが深いものへと絶対に変わります。それは音楽を聴く時や、コンサートに行く時の楽しさも増すでしょうし、心をより豊かにしてくれる事だと思います。

たとえ習い事を辞めてもそれはなくなることはありません。このような事はきっとスポーツなど他の分野でも共通している事のように思います。

私は高校生からヴァイオリンを数年間辞めていた時期があったのですが、その時に音楽の世界を少しでも知っていたからこそ視える世界がある事を実感しました。そしてそれはヴァイオリンを弾いていた時間が私にとってはとても充実した時間だったのだと気がつくきっかけでもありました。

それからまたヴァイオリンを再開し今に至ります。

大学に入ったのが23歳になるころだったので、これまでの道のりは他の人よりも遠回りしてちょっぴり長い道のりだったかもしれません。だけど今こうやって自分に合う楽器に出会えたことに感謝し、これから出会う方に音楽やヴァイオリンの良さを感じてもらえる瞬間があるよう、一生懸命に、そして楽しく演奏やレッスンをしていきたいと思っています。

音楽の指導は、まだまだ未熟ですが、サンシティー音楽院を通じてご縁を頂く皆様に、習っていて良かったと思っていただけるよう努力して参ります。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

音楽だより395

延期!春の音楽祭 竹内幸一

 皆様長い地震とのお付き合い大変お疲れ様です。被害を受けられた方、精神的にくたびれた方、心よりお見舞い申し上げます。一日も早い完全終息を、ご一緒に祈りたいと思います。

今日は429日、昭和の日です。毎年この日は朝早くから出かけて、年に一度の「春の音楽祭」と取り組んできました。それを30年近く続けてきましたので、こうして今ここにいると何だか拍子抜けしてしまう4月29日の朝です。

地震が起きた時は4月の半ばでしたので、まさかそれが月末の「春の音楽祭」に影響しようとは夢にも思いませんでした。しかし、大揺れの後余震が長々と続き、音楽祭を予定通りやるか、延期または中止とするかという大きな命題を乗り越えねばならなくなりました。未曽有の体験でしたので、今月は、そのいきさつを少し書かせていただきたいと思います。

楽観していたのですが、音楽祭にだんだん近づくにつれて、「さてどうしたものか?」と思う日が多くなりました。いろいろ準備万端整えているので、何とか予定通り開催出来ればという希望を持ちながら過ごしていました。少し地震が少なくなり、「おつ、今日はまだ揺れがない。そろそろ終息かな」と淡い希望を持つと、それをあざ笑うように、どんと揺れが来ます。希望をふくらませた後で、見事に何度裏切られことでしょうか?

だんだん両にらみで行くしかないなという事になり、延期も想定に入れて準備をすることになりました。それにしても、音楽祭に使用するお土産の花鉢やお菓子、弁当、それに写真などをキャンセルが出来る期限がありますので、決断はそう先延ばしにはできません。

とりあえず、講師の皆様に、延期、中止、実行に対するご意見を伺いました。そして、延期する場合のことも考えて、56月あたりの日曜日の日程を書いてもらいました。

ご意見はおおむね「予定通りにできたらいいですね」と」いう感じでした。しかし、その最後に皆さん、「協力しますので、大変でしょうが、判断は院長先生にお任せします」となっていました。

「難しい選択でしょうが、生徒には自己責任の自由参加という事で、何があっても、先生を裁判に訴えるようなことはしませんから(笑)、安心してください」という声もありました。

また、生徒さんもご父兄も、当然429日にあると思って準備をしていて、地震に対するご意見は一件もありませんという声。そしてその日のために休みを取っているとか、舞台衣装を用意している方もいるという声もありました。もう地震に慣れましたよ。震度3ぐらいあっても、「あ、また揺れた」ぐらいで、何も影響はないですよ…と、とても楽観的で、ちょっと豪快なご意見もありました。

その一方、人命尊重を訴える声もありました。「万一何かあった場合、その責任は代表である院長先生にかかってきますよ」という忠告がありました。

そういう中で、何とか開催できるようにならないかと思いつつ、延期も想定して、準備をしました。8名の講師の皆様、そしてピアノ伴奏の方の日程を擦り合わせてみると、626日なら何とか足並みがそろうという事が分かりました。

それで、会場の空き具合を確認するために、この音楽祭が出来そうなすべてのところに電話をしてみました。なかなか空きがないので、狭くても何とか我慢してやろうと、連絡先を広げたのですが、何と、すべてどこも空いてないのです。

「う~ん、どうしたものか」と、途方にくれました。この日にできないと、7月、8月まで延期という事になります。710日には講師演奏会が決まっていますので、それにあまりに近いのも良くありません。

それに、小さい子どもさんたちを、延期で余り長く引っ張るのは難しいという声もありました。また、長い間練習し、1年に一度の音楽祭を楽しみにしている子供さんたちのためにも、中止という事は考えにくい状況でした。

しかしながら、延期先が見つからなければ、何とも手の打ちようがありません。

そうこうしているうちに、各種のキャンセル期限が迫ってきます。また、音楽祭のための伴奏合わせなども、どちらかに決めないと予定がたてられません。進退窮まるとはこのことで、進んでも、やめても様々な問題にぶつかります。

そんな中、一番たくさん生徒さんを音楽祭に出してくれている先生が、「529日の午前中だけなら何とか時間が取れます」と言ってくれました。午前の部で子供が終わり、午後の大人の部はその先生がいなくても何とかなりますので、それならと会場をあたったところ、いつもと同じ場所が、幸運にも空いていました。

それから一気に、断るものは断る、新規に頼むのは頼むと529日に向けて雪崩のように音楽祭延期が決まって行きました。

ご出演の皆様に、延期のお知らせとお詫びを至急行いました。やはり残念なことに、延期先では出演が難しいという方が、7名出ました。申し訳ない限りですが、以上のような流れがありましたので、ご理解をいただければ幸いです。昨日は、会場の入り口に、延期のお知らせを書いたポスターを貼らせてもらいに行きました。知らずに音楽祭の応援に来られた方には申し訳ないですが、このお知らせで何とかご了解をいただけたらと願っています。

連載その9

「イタリアローマ

研修の旅 Ⅱ」

 (声楽・ピアノ科講師 白石まさ子)

今回のローマ研修で唯一列車で出かけたのは、歴史と文化の町フィレンツェでした。

朝6時にローマのテルミ二駅を出発、フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ駅まで、高速列車に乗って約1時間30分の旅。フィレンツェは朝から小雨交じりのあいにくの天気でした。

私たちがフィレンツェに行った1月6日はEpifania(エピファニア)、日本語で”広現祭”と呼ばれる、キリストの誕生を知った東方の三賢人がお祝いを持ってキリストの元を訪れた日でイタリアの祝日です。

この日メイン広場にあるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の前では賑やかなお祭りが催されていました。

私達がフィレンツェに着き最初に行ったのはイタリアルネサンス絵画で有名なウフィツィ美術館。この美術館は予約をしないと入館するまで長い時間並ばなければいけませんが、私たちは朝早く行ったのですぐ入ることが出来ました。

このウフィツィ美術館のメディチ家歴代の美術コレクションは古代ギリシャ、ローマの彫刻や、イタリアの巨匠、ボッティチェッリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロやラファエッロの絵画などが多数展示されています。その中でも一番人気はボッティチェッリの“ヴィーナスの誕生”と“プリマヴェーラ()〝この絵画の前は多くの方が鑑賞されていました。

特に“ヴィーナスの誕生”は大変大きな作品で離れたところから見ても存在感のたっぷり見ごたえのある絵画です。

他にも沢山の絵画や彫刻がありすべて見終わるまで約2時間以上はかかります。

写真も動画も撮影OKなのでゆっくり鑑賞、記念写真も、となると所要時間は3時間かな?美術館の中はカフェやショップもあるので、一息ついてお土産も見るとなると所要時間は・・・もし今後ウフィツィ美術館に行かれる方はたっぷり時間を取っていくことをお勧めします。

ウフィツィ美術館を出た後、ヴェッキオ橋を渡り向かったのはルネサンス様式のピッティ宮殿パラティーナ美術館。

この美術館はピッティ家の邸宅でラファエッロの傑作が多く展示されています。その絵画もさることながら、宮殿をそのまま美術館にしているので絵画を見ながら宮殿にいるような、ルネサンス時代にタイムスリップした気分を味わえます。

フィレンツェの一日は本当に贅沢な時間を過ごすことが出来ました。

と・き・め・き

         永嶋順子(ギター教室)

この頃周りの皆さんがとても優しくしてくださいます。大きな袋など持っていると、すっと傍に来て持って下さる。まあすみません。有難うございます。とお礼を言いながら

「えっ、これって私が年寄りだからいたわって下さってるのね?」とやっと気が付く鈍感な私です。

勿論、今の体調、頭の働き、のろまな動き、どこから見ても充分な高齢者です。ではありますが、昔の思い出に浸って過ごすのではなく、今を生きている私ですから毎日何かにときめいて暮らして行きたいのです。その方が生活華やぐと思われませんか。

あ、珍しい小鳥が飛んできた。あれ、何て鳥? 今年は3年間も実がならなかった『八朔みかん』の花が沢山咲いています。いっぱい実がなって欲しいな。楽しみです。

今日新刊の本を2冊買ってきました。どっちから読もうかしら。ワクワクします。

羽生君のスケート、錦織君のテニス、ラグビー! ときめきはいっぱいあります。 

昨年の夏、ときめくものだけに囲まれて暮らす。ときめかないものは捨てる」という片付けのプロ、近藤麻理恵さん「通称こんまりさん」が話題になりました。皆様もご存じですよね。アメリカの情報誌『タイム』で世界に最も影響を与えた100人に選ばれ『人生がときめく片付けの魔法』という著書は大ベストセラーになりました。

「これだ!」と私はひらめきました。未だに身の回りの片付けが出来ていない私は、早速2階へ。要らない整理箪笥、大きな綿布団がいっぱいですが、とりあえず衣類の整理から始めることにしました。30年前の重たいミンクのコート、20年前のスーツ、ワンピースがひしめき合って満員電車状態です。

さて、と座り込み、一つずつ手に取って、この手に取ってが大事とこんまりさんは言います。

「ときめく?」「ときめかない」「ときめく?ときめかない」・・・・

「ときめく?」「ぜ~んぜん」どんどん捨てるものが増えて行きます。

何しろ私の体重は30年前から10キロ増し、ウエストに至っては20センチ増し、いくら未練はあっても処分するよりありません。そうやって仕分けするうちに気が付いたら普段着のTシャツなど一枚も残っていません。で、やり直しです。

まだときめきが残っているものは ①のグループ、ときめかないけどないと困る普段着は ②のグループ、ほとんどがこれです。全く着られない役に立たない。ときめきゼロは③ のグループです。

でもお別れする③のグループをもう一度見れば「これクッションにしたら素敵じゃない?これエコバック作ったら個性的・・」結局再利用の可能性があるものは又別の袋に入りました。それはつまるところ、「もったいない」

の気持ちなのです。

新しいものをどんどん買えば日本経済の活性化に協力することになるでしょう。

皆様はワンガリ・マータイさんという女性をご存知でしょうか。植林活動を行い、地球環境保護の功績でノーベル平和賞を受賞したアフリカ ケニアの女性です。そのマータイさんが、もったいないという日本語にとても感銘を受け、もったいないキャンペーンを立ち上げ、もっと地球の資源を大切に効率よく利用しましょうと行動を起こされました。私はその話に大賛成です。

「もったいない?」「もったいない」「もったいない?もったいない」「これももったいないの?」「これはもったいなくない」の分け方の方が私の気分に合います。

物が少ない時代を超えて来た私の世代では思い切りよくものを捨てる勇気がないのです。それに捨てるという行為には何か後ろめたい、罰当たりな気がするのです。

私たちの親の世代では、古くなった着物はかけ布団の表や、座布団に作り替え、それも痛んだら細かく裂いてはたきとして最後まで使ったのです。

現在は親の家の片付けが大きな重荷になっていると知りました。

分かります。本当にそうだと思います。でもお母さん達、捨てられないのです。

かくして、二階の一間は一握りの処分したものを除いて、殆ど減ることもなく、言い訳しながら又新しいものも増え、質量不変の法則通り、元の場所に所狭しと居座っています。

ときめきたいと願いながら、ときめき片付け法に挫折してがっかりしている私を見て夫が云いました。「夫婦もお互い年を取ってときめかなくなったら、捨てなさい。という事かな」「もう!」とその無神経さに腹を立てながら、瞬間「それもありかな?」と自由になった私をイメージして、ちょっぴり胸がときめきました。

皆様は今何かにときめいていらっしゃいますか?

音楽だより394

さわやかコンサート
竹内幸一

3月の終わりの日曜日の朝です。外は春の日差しが溢れていて暖かそうですが、まだ室内は少し寒く、電気ストーブの400ワットを点けながらパソコンに向かっています。

今回は先日行われました鶴見病院での300回目の「さわやかコンサート」を取り上げさせてもらいたいと思います。何だか自慢話になりそうで恐縮ですが、25年に一度のことですので(笑)、どうぞご容赦ください。

コンサートの後の打ち上げで、長く病院に勤務している看護部長さんが、竹内竜次君が中学の学生服姿で出ていたこと、またそのころ赤ちゃんだった自分の息子さんが20歳になったことなどから、25年という長さの実感を話してくれました。

そう言えばもうかなりの時間(事務長さんが四半世紀と言ってました)が過ぎているのですが、私の実感としては、なんだかいつの間にかここまで来た感じです。一本の紐をたどるように、月に一度の目先の会をただ追っているだけで、ここまで来てしまいました。

なぜ続いたのか?と大分聞かれましたが、それはやはり病院の受け入れ態勢に他ならないと思います。今回も、院長挨拶や出演者への花束贈呈などしてくれましたが、毎回毎回病院の支援体制があればこそ私たちは安心して、演奏に集中できたのだと思います。重い椅子を動かしての舞台設営、司会、プログラムの作成、アンケートの集計などの仕事を毎回してくれました。目いっぱいの激務の一日の仕事を済ませた後で、スタッフの方が遅くまで残業してコンサートの支援をしてくれたのです。そのご協力なしには、成り立たない25年でした。そのスタッフの方々と共に、300回到達の喜びを分かち合いたいと思います。

25年前に病院コンサートを始めたころは、そういうことをする病院はどこにもありませんでした。鶴見病院自体でも、「苦しんでいる病人がいるところでそんなことをしていいのか」という反対意見もあったそうです。しかし、院長の決断でスタートしました。

当時はとても珍しいことだったので、スタート時はかなり新聞、テレビが取り上げてくれました。NHKテレビが来ていて、病院に入って行くところを撮影したいというので、息子と二人で空のギターケースを下げて、玄関前から歩いて入ったりしたのを思い出します。

それ以後病院でコンサートをするのは、珍しいことではなくなりました。あちこちの大きな病院でコンサートの開催が始まりましたが、この「さわやかコンサート」は、その先駆けとなる、いわば元祖だという自負のようなものもあります。

長い間には、いろんな想い出もあります。スペースの関係でその中の一つだけ取り上げたいと思います。もうかなり前のことになりますが、ある暴力団の組長がこの病院で重体の夜がありました。丁度それとコンサートの日が重なりました。

開始前に待機していると、たぶん危篤の知らせが伝わったのでしょうか、いかにもそれとわかる組員が列を作って病院に入ってきました。

しばらくして、リハーサルで音を出しているところに、怖そうなお兄さんたちが45人やってきました。「人が死にそうという時に、音楽をやるんか!」というのです。その威嚇に、ピアノ担当の女性が泣き出してしまいました。私も震え上がってどうしていいかわかりませんでした。

結局コンサートは普段通りできましたが、後で聞くところによると、組長の弟分になる人が、「やらしてやれ」と言う一言で、話がおさまったのだそうです。まあ、組長を思う子分の気持ちも分からなくはないことですので、難しい場面でした。

それにしても、やはりここまで続いたのは、他の演奏家の方々のご協力をいただけたからだという事を書かないわけにはいきません。引退寸前の私と違って、他の5名の方は、現役として脂ののった第一線の演奏家ばかりです。このコンサートに時間を空けるために、直前まで仕事をしたり、また終わってからも大分まで大特急で帰って仕事をする人もいます。これだけのお忙しい人材を毎月ボランティアで揃えるというのは、実は奇蹟的ともいえる事なのです。只々、そのご協力に毎回感謝するばかりでした。

さて、ちょっと話題が変わりますが、終わりに、先月取り上げたアドラー心理学にふれたいと思います。

「自分に価値があると思える時だけ、対人関係の中に入って行く勇気を持てる」とアドラーは言っています。自己受容の重要性についてから述べられたものです。

対人関係は悩みの源泉にもなりますが、生きる喜びや幸せは、他者との関係の中でしか得ることはできません。人間は一人では幸せになれないのです。

私は気持ちのひ弱な人間だと思います。ちょっとしたことに振り回されて、実は気持ちの中で右往左往しながら毎日暮らしています。それでも引きこもらずに、何とか対人関係の中に乗り込んでいけるのは、やはり自己受容(自分はこれでいいのだ。これ以下でもなく、以上でもないこのままの自分を認めること)することが少なからず出来ているからだと思います。

大変おこがましいことですが、とても貴重なご縁でこの「さわやかコンサート」に出会い、ここまで続けてこられたことが、私の自己受容を支える大きな材料にもなっている気がします。ありがたい限りです。

私は体が丈夫な方ではありませんが、振り返ってみれば、この25年一度も休まずにコンサートに参加できました。一カ月に一度の緊張感が良かったのでしょうか。それとも、風邪をひいたりして寝込んだこともありましたので、たまたま偶然第4金曜日がいい状態だったのかは、よくわかりません。神様のご配慮に感謝するばかりです。

 

連載その9

「またね、大分」

 

 (ヴァイオリン科講師 徳田美和)

 

皆さん、こんにちは。

卒業式があちらこちらで行われ、日中は春の日差しを感じるようになってきました。これを皆さんが読まれる頃は、入学式シーズンですね。

 

さて、知っている方もいらっしゃると思いますが、この度3月をもって大分を離れ、4月から鹿児島生活をスタートさせる事となりました。

でもサンシティー音楽院の春の祭典までは参加しますので、また大分に伺います!今は高速道路も整い、JRを使えば3時間半くらいで鹿児島とも行き来できます。

 

それにしても、振り返ってみると、大学入学のため大分に来てかれこれ17年。大分はしっかり私のふるさとです。

 

大分の年間スケジュールをざっとお話しますと、4月はサンシティー音楽院春の祭典、5月はアルゲリッチ音楽祭。この音楽祭は、地元の方の演奏、公開レッスン、オーケストラに室内楽と、いろんな企画があり、本当に面白いと思います。

6月は大分交響楽団や別府市民オーケストラの演奏会、7月はサンシティー音楽院講師演奏会。8月からは各コンクールが行われ始めます。秋は芸短の定期演奏会やハッピーコンサート、その他沢山の演奏会が目白押し。そして冬もクリスマス演奏会や第九の練習。そして毎月第4金曜日には鶴見病院での演奏。

こうして音楽のスケジュールをたどっていくと、あっという間に1年間が過ぎてしまいます。そうやっていつの間にか17年たってしまったのでしょうか。

音楽がぎゅっとつまった17年でした。

大分、別府は、音楽や文化面が充実しているなぁと感じます。

楽器をされない方でも、演奏会に行ったりして、音楽が好きな方が多い気がします。そんな環境の中で、沢山の素敵な方々に恵まれ活動してこられた事は、本当に幸せだったなぁと思います。

鹿児島ではどんな音楽活動が待っているのかそれもまた楽しみです。大分で学んだものを鹿児島でも活かせたら、と思います。そして鹿児島で感じたものを大分でまた活動する時には活かしたいと思います。全ては繋がっていますね。

なので、さよなら大分ではなくて、またね、大分。またね、サンシティー音楽院!

 

p.s エスプレシボもあと1年間は続けさせていただきます。鹿児島で感じたものをお伝えできればと思います。いつもつたない文章を読んで下さり、ありがとうございます?

 

 

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