音楽だより392

東京だよおっ母さん
竹内幸一

今日は124日。今冬初めての雪景色が広がっています。今年は気味の悪いほどの暖冬の日が続いていましたので、これで季節が平常に戻ったようで、気持ちが安らぎます。季節に沿った平穏な日々が続いてほしいですね。

さて今月は、もう亡くなりました島倉千代子の代表曲「東京だよおっ母さん」にちょっと刺激を受けましたので、それに関連して母のことなどを書かせていただこうと思います。どうぞお付き合いください。

マンドリン、ハーモニアカ、それにギターの3人組でグループ「若葉風」を作って、老人ホームなどへボランティア演奏に出かけています。その1月の会のために、たまたま選んだ曲がこの曲でした。

練習していると、♪久しぶりに手を引いて、親子で歩ける嬉しさに♪という歌詞が目に入り、島倉千代子の声がよみがえってきました。

その時、突然、ぐっと込み上げてくるものがありました。久しぶりも何も、もう永遠に母と一緒に歩くことはないんだな…という思いが、ほんの一瞬ですが、鋭く体の中を巡ったのです。

思えば、母の臨終から通夜、葬儀にかけて、私は涙を流すことがありませんでした。覚悟していたとか、葬儀をきちんとやる連絡や手はずで気持ちがいっぱいだったとかの背景があるのかもしれませんが、少し不思議でした。自分は情が薄いのかとも思うほどでした。

流れの中で、一度だけ例外がありました。朝、連絡して、その夜が通夜というあわただしい中で、広島から娘たち家族が通夜の1時間前に駆けつけてくれた時のことです。葬儀社の控室に、目を赤く泣きはらした娘が入ってきました。それを見た途端、思わず私も涙があふれてきました。なぜか不意に、もらい泣きしてしまったのです。

娘は、嫁いだ後も佐賀や広島から別府へ帰省するたびに、時間を作って母を訪ねてくれていました。孫を連れて、一人暮らしの田舎の家や、老人ホームへ行き、孫たちを対面させてくれていました。「タッチ、タッチ」と言いながら、孫の小さな手と、皺だらけの母の手が合わさっていたのを思い出します。その娘には、母への特別な思いがあったようです。

そう言えば、思い出すことがあります。小学生の頃だったと思いますが、母の実家の祖父か祖母(記憶が定かでない)が亡くなり、その葬儀の時のことでした。当時は自宅で葬儀をしていました。座敷の真ん中に棺を置いて、周りにみんなが立っていました。

最後のお別れをした後、棺の蓋を釘で止めていきます。(今はそういうことは無くなりました)。その時、石を持って釘を叩いていた伯父さんが、泣きながら釘を打っていました。それを見ながら、子供心に何だか衝撃を受け、「あの伯父さんが泣いてる、大人でも泣くんだ」と思ったことがありました。遠い、遠い、もう50年以上も前のことです。

母は89才で亡くなりました。年齢に不足はないですねという声も聞き、私もそれで満足をしていました。そうやってあきらめることで、涙を回避していたのかもしれません。

しかし、年齢についてのことで、昔ちょっと、たしなめられたことがありました。

ある会で、施設の長をしている方と話をしたことがありました。丁度その方のお母さんが亡くなりその話題にふれている時のことでした。

「お幾つでしたか」・・・「そうですか、それなら、年齢に不足はないですね」と、私は不用意に言ってしまいました。たぶんその言葉には、その方のお母さんを悼む気持ちは全くなかったような気がします。

その時、そのご婦人から少し気色ばんだように「竹内さん、そんなものではありませんよ」という思いがけない反論を受けました。普段とても温厚、篤実な方が「幾つになっていても・・・・」と訴えるのです。私は、はっとして、取り返しのつかない自分の発言を悔やみました。

80才だろうと、100才だろうと、どの方にも、たった一人しかいないかけがえのない母親です。その喪失感は、みんなそれぞれ深いものがあることでしょう。そのことをこれからも忘れないようにしなければと思っています。

おっ母さん、お母ちゃん、お母さん、おっかあ、ママ、かあさん・・・それぞれの呼び名で、どの方にも母親がいます。私は「母ちゃん」と呼んでいました。

私の28歳の時の結婚式のときでした。いろいろ混雑している中で、少し離れている母を呼ばなければならないことがありました。そのとき「ちょっと、母ちゃん、母ちゃん」と、つい呼んでしまいました。そしたら近くにいた人が笑いだして、「あんなこと言ってる」というので、あちゃ〜と恥ずかしくなったのを覚えています。28歳の青年が言う言葉ではなかったのでしょう。しかしながら、あの場合、どういう呼び方をしたらよかったのだろうと、今でも何だか悪あがきをしています。

高卒後に家を離れて、母とはめったに会えない状況でした。ですから、理屈でわかっていても、何だか、まだその状況が続いたままのような気もしています。

ある時、電話もせずに不意に帰った事がありました。庭に入る車の音に気付いた母が、「誰だろう?」と厨の戸をあけてそっと出てきました。私に気付いた母は、「あらあ」と胸の前で、手をポンと叩きました。

田舎の墓の下に、父の壺に並べて母の壺を納めました。今頃、父に、孫やひ孫のことをいろいろと話してくれている事でしょう。 

 

 

音楽便り393

アドラー心理学  
竹内幸一

今日は2月26日、税金の申告が終わりました。毎年この時期、電卓をたたくのに苦労しています。メトロノームに合わせるのが苦手な方が、このメトロノーム狂っているという事があります。同じように、電卓をたたいて、何度しても答えが違う時、この電卓は狂っているのか?と思うほどです。何でも慣れないことは難しいですね。 

まあそれはともかく、申告が終わってやれやれという事で、この新聞に取り掛かりました。また今月もよろしくお願いします。

毎週見ているテレビ番組の一つに「100分で名著」という番組があります。古今の名著を、25分の4回続きで解き明かします。2月は、「人生の意味の心理学(A・アドラー著)」を学びました。アドラーは、フロイト、ユングと並ぶ、心理学の三大巨頭の一人で、オーストリアの学者です。

アドラーの心理学理論には様々な教えがあるのですが、とても全部はご紹介できませんので、今回は「優越性の追求」にだけ的を絞って書いてみたいと思います。

人は、今より優れたいという普遍的な欲求を持っているそうです。身近な例を音楽に絞っていえば、毎日練習して、少しでも上手になりたいという気持ちのあることです。それがあればこそ取り組みは続いて行くという事でしょう。それはとても健全な自分自身に対する「優越性の追求」だと思います。

しかし、その境目が分かりにくいのですが、「優越コンプレックス」、「劣等コンプレックス」に陥っている事がよくあり、それで悩んでいる方が多くいます。

「優越コンプレックス」というのは、自分を実際よりも優れているように見せようとすることです。背伸びをして、自分を実際より大きく見せようとします。学歴や肩書を誇示したり、高価なブランド品で身を飾ろうとしたり、過去の輝いていた時の話ばかりしたりします。「他者よりも優れているように見えること」が重要で、そのため絶えず他者の評価を気にかけ、他者からの期待に応えようとするのです。

実際には、自分が思っているほど、誰も自分に期待も注目もしていないのです。それなのに人の目を意識して、自分で自分についての理想を高くしてしまいます。

健全な優越性があるように、上昇しようとする健全な劣等感もあります。他者と比較して自分が劣っているという事で感じるのではなく、理想の自分との比較の中で生まれるものです。科学の進歩は、人が無知であること、将来のために備える事を意識している時に生まれます。人間の文化のすべては、劣等感に基づいているとアドラーは言っています。

しかし残念ながら、他者から期待されているイメージと、現実の自分がかけ離れてしまうところから、「劣等コンプレックス」が生まれて人を悩ませます。引きこもりや精神疾患は、ほとんど重症の劣等コンプレックスから来ているものです。

その劣等コンプレックスから、本来自分が持っている健全な優越性の追求(現実的に優れようと努力すること)自体を断念することにもなってしまいます。

「劣等コンプレックス」の特徴は「AであるからBができない」、あるいは「AでないからBが出来ない」という論理を多用することです。お腹が痛いから学校に行けない。赤面症だから男性と付き合えない・・・と、出来ない理由を見つけて、引きこもろう、引きこもろうとするのです。自分が理想とする状況に到達していないと思った時、それをしない事、できない事の言い訳ばかりをさがし、現実の課題から目を背けようとするのです。しかし、それを解決するには、もっと勉強しよう、もっと努力しようという建設的な取り組み(健全な優越性)の方向に行くしかないのです。

ちょっと話が理屈っぽくなりましたので、身近な例として「春の音楽祭」の参加取り組みについて書いてみましょう。

毎年のことですが「出てみませんか?」と声をかけてみますと「健全な優越性」を持っている方は、この機会を利用して自分を磨きたいというような気持で、前向きになってくれます。しかし、「へたくそですから…まだまだ」と逃げ腰になる方も多くいます。下手だから恥ずかしいという気持ちもわからないではありません。しかしそこには、すべてではないでしょうが、他者によく思われたいというような、自分を背伸びさせる「優越コンプレックス」を感じることがあります。他者の評価や思惑を気にして、自分をつぶしてしまっているのです。

アドラーは、「競争する相手は他者ではなく自分である」と言っています。健全な優越性は、自分を励まし前進させることです。どんな状況でも、そのありのままの自分の実力を認めて、そこから少しでも前に進めたら嬉しいと、自分自身だけの問題として取り組んでもらえればと思います。

楽器から離れてしまう理由に「劣等コンプレックス」の例が時折あります。「この曲が弾けないからもうやめます」、「もう年だからできません」・・・等々、そこには、その方には合わない高すぎる理想や目標から挫折につながっている事例が多くみられます。

自分のありのままの腕で、どれくらいのことが出来ているか確認し、その位置から少しずつ一歩一歩進んでいければいいのです。そういう健全な優越性の追求を人生の柱にしてもらえればどんなにか無駄な悩みを抱え込まなくて済むでしょうか。自分のありのままの現実をきちんと見ることは、辛い時もありますが、すべてはそこからのスタートです。

 

連載その8

イタリアローマ研修の旅 T

 

 (声楽・ピアノ科講師 白石まさ子)

 

今回から、1月に行ったイタリアローマの研修旅行の事を書かせていただきます。

まずは、2年前に行ったイタリア旅行と大きく違ったのは、昨年起きたフランスのテロの影響で、あらゆるところでセキュリティーが厳しかったことです。

福岡国際空港を出発、オランダのスキポール空港で乗り換え、2年前はパスポートチェック後は直接次のターミナルに移動が出来ましたが、今回は一度外に出て改めて手荷物チェックとボディーチェックを受けました。

ボディーチェックはブーツ、コートを脱ぎ、筒のような機械に入り全身のスキャンを受け、次は恐ーい顔をした女性警備員の触診ボディーチェックを受けて次のターミナルに進むことが出来ました。

この時は日本とヨーロッパの今の世界事情の温度差を感じました。

ローマの中では、駅や地下鉄の構内、バチカン市国やコロッセオなどの観光施設に警官や機関銃を持った兵士が大勢立ち、日本で体験しない張りつめた空気の緊張感を味わいました。日本では中々体験出来ないことですね。特に今年は25年に一度の「ポルタ・サンタ(聖なる扉)」の年で、バチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂など4か所の教会の聖なる扉が、この聖年に信者が特別の赦しを与えられるとして開門され、ローマにはたくさんの信者の方たちが来ていました。このことはまた改めて書かせていただきます。

そしてもう一つ2年前と違ったことは、日本人の観光客が少なかったこと。2年前は観光名所や美術館に必ず日本のツアー客と遭遇しましたが、今年はバチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂で新婚旅行のツアー一組しか遭遇しませんでした。ちょっと寂しかったな・・・

このイタリアローマ・研修旅行でまず書きたかったことは、日本を出て初めて日本がとても安全で平和な国だと感じたことです。そしてこの平和がいつまでも続いてほしいと思いました。

 

<特別寄稿>

ニューイヤーコンサート

      愛野由美子(ピアニスト)

 

20151127日>

このたび本多昌子さんとご一緒にハーモニアス別府主催の「ニューイヤーコンサート」に出演させていただくことになりました。私たち二人が二台のピアノでデュオ演奏をお届けいたします。この二人の組み合わせでステージに立つのは初めてなので、さて、一体どんな演奏会になるか、私自身わくわくドキドキ、今からとても楽しみにしています。一人でも多くの方々に聴いていただきたいと思っています。皆さまお誘いあわせの上、是非、お越しになってください。
 東京芸術大学のご出身でコンサート活動や後進の指導に大変ご活躍なさっているピアニストの本多昌子さん。私にとって、実は不思議なご縁を感じずにはいられない存在です。数年前、ある知人からコンサートのお誘いを受けました。そのときいただいたチラシを見てびっくり、「この方、私、知ってる!」と思い当たったのです。「これは長澤さんだ、長澤昌子さんに違いない」。チラシをくれた知人に確認すると、「そうですよ。旧姓は長澤さんです。長澤さんは昔大分に住んでて、私たち同級生なんです」ということでした。十数年前に大分に引っ越してきた私は、本多さんが大分出身だということをそれまでよく知らなかったのです。
 私が長澤さんを初めて知ったのは、今からウン十年前のこと。当時高校生だった私は福岡の杉山千賀子先生の教室でピアノの指導を受けていました。その同じ門下に長澤さんという小学生で、抜群に上手で有名な女の子がいたのです。

ある日、たまたまレッスンが私と同じ日になったことがあって、彼女の後が私の番でしたから、彼女が弾いている様子を少しだけみたことがあります。「うわ〜、すごい、すごすぎる!」と思ったものでした。それからしばらくして、彼女が全日本学生音楽コンクールで全国一位になったことを知りました。

あの上品だけど厳格な杉山先生が、心から嬉しそうな笑顔で「ほら、あなたもご存じでしょ、あの長澤さんが、全国で一位を頂いたのよ!」と教えてくれたのです。

そう、本多昌子さんはまさしく☆杉山門下のキラ星ピアニスト☆、あの長澤昌子さんでした。私にとっても憧れの存在だったのです。それにしてもあのときの杉山先生、本当に嬉しそうだったなあ。。。
 こうして大分での予期せぬ再会以来、親しくお付き合いさせていただくようになりました。ご縁というのは有難いものだなあとつくづく思います。

私たちの恩師、杉山先生はもう長いこと体調を崩されていて、お目にかかることもかないませんが、長澤さんと私がデュオの演奏会をやると知ったら、なんておっしゃるかしら? びっくりなさるのは間違いないなあ。喜んでくださるかしら? うん、きっと喜んで下さるとは思う。だけどそのあとできっと、「まあ!愛野さん、あなた、しっかりお練習なさいませ!」と言われるに決まってます。 というわけで今回のコンサート、本多(長澤)先生と共演できること、とても光栄に思っています。自分のソロ演奏会の時とはまた違うプレッシャーを感じつつ、思い切り楽しいコンサートにしたいと思っていますので、皆さま、どうぞご期待ください http://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/ee_2.gif

 

201628日>

昨日、本多昌子先生との2台ピアノコンサート無事終了いたしました。お寒い中、たくさんのお客様においでいただき本当にありがとうございました。昌子先生と力を合わせて、無事終了できて、本当にほっとしております。  主催者のハーモニアス別府の皆さんには大変お世話になりました。多田さん竹内さんはじめ、スタッフの皆様一人ひとりから本当に至れり尽くせりの温かい心配りをしていただき、心から感謝申し上げます。


 今回ここまで来るのに私はいろんな方々の応援やお力添えをいただきました。

中でも北九州の永野栄子先生に練習のお相手を引き受けていただいて心から感謝しています。私と昌子先生が東京と九州で離れているので、昌子先生との合わせ練習は2回しかできませんでした。これではいけない。一人練習をいくら頑張っても限界がある、と感じて永野先生に相談したところ、快くお相手してくださったのです。永野先生、ありがとうございました!

【演奏曲目】
J.S.
バッハ:主よ、人の望みの喜びよ
ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲
ビゼー=アンダーソン:カルメン幻想曲
チャイコフスキー:組曲「くるみ割り人形」より  他

 

愛野由美子ブログ「ピアノの音色」より (http://blog.goo.ne.jp/piano-no-neiro

 

 

音楽だより391

ふと   竹内幸一

201611825分、パソコンの前に座りました。715分起床。きりっと引き締まった若水をマグカップ1杯飲む(今朝の寒の水は特別冷えていました)。パン、バナナ、ミカン、ヨーグルトの朝食(他の家族はまだ寝ています。おめでとうの雑煮はお昼になります)。トイレの掃除。私の毎朝の日常が始まりました。そして、恒例にしている、新年の初仕事(エスプレシボ作成)に取り掛かったところです。

皆様、明けましておめでとうございます。今年も、この新聞と共に、1年間のお付き合いをどうぞよろしくお願い致します。昨年は、いろんなことがありました。そのための心身の疲労からでしょうか、しばらくダウンして、予定していたコンサートを延期するという事態にもなりました。それを乗り越えて以後、朝起きると、「ああ、今日も大丈夫そうだ」と、確認する癖がついてしまいました。朝起きて、当然のように日常が始まるという事が、有難く思えるのは、ダウンのお蔭ともいえます。永遠というわけにはいきませんが、少なくとも今年は、無事に過ごしたいものです。

さて、前置きが長くなりましたが、今年のエスプレシボの初テーマ「ふと」に取り掛かりましょう。ある意味とてもありふれた事ですが、新年の計は元旦にありにふさわしいのではと思って取り上げることにしました。

村上春樹の本を読んでいましたら「人生のほとんどは<ふと>から始まる」という一文を見つけ、なるほどなあと感心しましたので、皆様にもご紹介したいと思います。

長い暮らしの継続を振り返ってみますと、その中での新しいスタートはいつも「ふと」から始まっているのを実感します。

身近な一例として、年末の温泉巡りのことを取り上げてみましょう。冬休みで孫たちが遊びに来ていました。広島に住む5歳の孫が「温泉が好き」という話が出て、「ふと」、じゃあどこか温泉に行こうかという芽が出ました。それから、どこにするかとか話しているうちに、別府八湯というけど、どこにも行ったことがないなあと、芽がだんだん伸びてきました。

それで、1228日から大晦日まで毎日、何と4カ所もせっせと年末の忙しい時期に温泉へ行きました。柴石、海門寺、浜脇、堀田と行きました。別府に40年ほども住んでいながら、ちょっと恥ずかしいような気もしますが、どこも初めてでした。正月休みに残りの4カ所を回り、別府八湯とはどういうところか、一応誰彼に説明が出来るようになりたいという気持ちにさえなっています。

それもこれも「ふと」から始まったのです。一応蛇口をひねれば、我が家も温泉が出てきて、小さな湯船の温泉に毎日入っています。それで満足して何十年も過ごしていた中に「ふと」から芽が出て、世界に誇る?別府温泉を味わうという人生史に残る(おおげさ)ことへと結びついたのです。この「ふと」がなければ、坂道を上っての柴石温泉や、かなり遠い浜脇温泉へ行くことは、生涯なかったことでしょう。

昨年の12月号に、I さんのことを書きました。これも「ふと」、ここにハガキを出してみようという、ほんのささやかな小さな芽からのスタートでした。ハガキを出してみようと「ふと」思わなければ、I さんに出会うこともなく、私の人生は大きく変わっていたことでしょう。今こうしてパソコンに向かう自分は存在せず、早々に死んでいたかもしれません。

また、ここに教室を出そうと思ったのは、新聞折り込みの一枚のチラシからでした。毎日入るたくさんのチラシの中に、この物件を紹介する1枚があったのです。それを何気なく見ていて、「ふと」思ったところから、私の人生は大きな転換をすることになりました。大事にしてくれていた楽器店を退職し、家を売って何千万円ものローンを組みました。そして、30数年過ぎ、今の私があります。一枚のチラシを見て「ふと」、ここで教室を開いてみようかなと思ったことが、すべての始まりだったのです。

よく何か悪事を働いて逮捕された人が「ふとした出来心で」と、言い訳をしていることがあります。始めはほんの小さな悪い芽が出ただけだったのに、だんだんそれが膨張し、抜き差しならない事件へとなってきます。おしまいは、何十年も刑務所に入ったり、ひどい時には死刑になったりもします。もう後の祭りですが、その人が「ふと」あの時芽生えたことをやめていればと、思うこともあるかもしれません。

そういう事を思うと、「ふと」の偉大さ、面白さ、怖さが分かるのではないでしょうか?

出来る事なら、自分の人生のプラスになる「ふと」に出会いたいものですね。

やはり「ふと」の芽が出るのは、その下地があってからこそでしょう。本や新聞を読んだり、いろんな方と出会ったりすることで、「ふと」の出る根に栄養が行き渡ります。それに何よりも、何かを求めてアンテナを張り巡らし、よりよい自分を求めているところにこそ「ふと」が誕生する気がします。求めていればこそ、神様が価値ある「ふと」を与えてくれるのではないでしょうか?

この新聞を読んで下さっている方や、楽器を始めた方との出会いも、その大本をたどれば「ふと」のご縁が多いことでしょう。「私もやってみようかしら」と、ふと思ったからこそ、長い音楽の楽しみに出会え、生涯出会うはずもない方とお話しすることになっています。さあ、新しい年にどんな素敵な「ふと」に出会えるでしょうか。楽しみにこの1年をご一緒しましょう。

   

 

連載その8

「今年は申年」

 (ヴァイオリン科講師 徳田美和)

 

皆さん、新年、明けましておめでとうございます。

 

と、これを書いている今日はもう1222日。今からクリスマス、年末と、あっという間に日が過ぎていきそうです。

1年というのは早いなぁといつもこの時期に感じます。

この1年もいろんな事がありました。残りの月日を感謝の気持ちを持って過ごしたいです。

 

今回のエスプレシボは2016年に向けて!

新しい1年は「申年」、私は年女になります!

干支は中国から伝わったもの、調べてみると、とても長い文章が…笑 12の動物に分けられていますが、それにもひとつひとつ意味があるのですね。

猿を調べてみますと、「山の賢者で山神の使いと信じられていました。信仰の対象としても馴染み深い動物です。申年の方は器用で臨機応変」と書かれていました。私、そうかなぁ?笑

 

いろんな解釈が書かれていますが、こうやって年女だ!と思うと、自分の生きてきた年数を確認し、振り返る事ができるので、干支っておもしろくて良いものですね。干支(十二支)121つの周期とするもので、これが5回で60歳、そこで一回りとなるから60歳になると還暦とお祝いするのですね。今更ですが…笑

 

日本はこのように節目、節目を大切に生活しますが、ヨーロッパなど他の国では節目の年とかあるのか興味ありますね!

 

さて、◯回目となる年女ですが、大分に住んでから約人生の半分を過ごす年月ともなっています。

大分は、市内を始め、別府、湯布院、九重、演奏などで訪れて素敵だなと思う場所が沢山で、それぞれに思い出もあり、大好きな街です。ここでの経験を大切に、この1年は「気持ちを新たに」頑張りたいと思います。

今までやってきた事をもう一度見つめ直して取り組む、そして新しい事にもチャレンジしていく。具体的には書きませんが、そう思いながら、その時その時の流れにのって、変化する事を楽しみながら過ごせたらと思います。

変化する事ってドキドキしますが、毎日こつこつ続けるものという土台があれば、それも楽しめるのかなと思います。

この1年、どんな事が待っているのでしょう。

皆さんが、生き生きと活動できるよう、お互いを想い合える平和な世界でありますように☆

 

転校 

   野崎 明敏(ほのぼのコーラス)

 

小学生にとって転校というのは人生の一大事だと本当に思う。

私は幼稚園で一回、小学校で四回を経験している。

幼稚園の場合はまだ先生の羽で育まれている時期なので何か問題が有っても、べそをかいて先生の腕の中に飛び込めば大概の事は解決するし、先生があっ!と気が付いて大きな羽に抱きかかえてくれればまず収まります。

ところが小学生ともなると夫々の地域で小さいながら文化圏を持っていますからややこしい。

私が遭遇したのは一年生の二学期に大分から鹿児島の学校に転校した時の事です、図画の時間に前日ラジオで聞いた、或るお母さんが戦死した息子に会いに靖国神社に行くと言う筋書きを思い出しながら絵を描いていると隣の席の子が私の絵を見るなり「女を描いた、女を描いた、」と囃し始めたのです。私も応戦してお母さんの子供さんが戦死したので靖国神社まで会いに行ったんじゃとやりましたが、その子は執拗に女を描いたと言います。私も女と分かるような絵にはしていません。質素な着物のお母さんが頭の後ろに小さく丸く髪を結っています。

それをぎゃあぎゃあ言われて私も腹を立て大きな声でやり返したものですから周りに、一人二人と集まってきて皆で「女じゃ女じゃ」と囃したてるのです。

さて、鹿児島の小学生はどんな文化を持っていたのか、?

簡単に言うと剛健かつ尚武の心で女と同席しないなのですが、朝早く起きて立木打ち。これは夫々の家に一本は直径7〜8cmの樫の木を埋め込んで立てている。それに向かって木剣で百回位は左右の八双の構えから打ち込みをする。何日か経って樫の木が擦り減って折れるまで打ち込むこれは示現流の基本形です。

女の子と話してはいけない。詩吟を習って唄う。私でも乃木希介作「203」はまだうろ覚えだが唄える。とまだまだ続くのですがそんな処へ関西弁を喋る小っちゃな子供が混じったのですから堪らない。私がトイレに行こうものなら後ろに付いて大勢で「女を描いた」の大合唱。私が振り向いて追っかけようとすると他所の教室に隠れて「女を描いた」です。さすがに悔しさと情けなさで自席に座って涙ぽろぽろとやってました。

 授業が始まって名前を呼ばれましたが返事も出来ませんでした。先生が野崎どうしたんか?の声に何人かが事情を説明。こんな時でも何人かは正義派が居るものです。

 先生は野崎一人でか?頷くと鞭を貸してくれて相手の仲間を一人ずつこれで指せと言ってくれたので二十人ばかりを指したが、先生は一人一人を立たせお前たちは卑怯者や野崎一人に皆で掛かって追いかけると逃げるとは何事か!。野崎それで全員やな、ではこれで終わりにする。と終結宣言をして終わりにした。

 この間、約十分、先生一人で仕切ったのでした。今どきの先生はこれ程明快に解決出来るだろうか?

 

 

エスプレシボ 390

さんを悼む 竹内幸一

 

この秋は、母に続き、長い事私の人生を支えて頂いていた さんも喪うことになりました。いつまでも忘れられない秋になることでしょう。

 連載している「さそり座の歌」が出来ると、一番にメールで さんに届けていました。するとすぐに、いつもいろんな感想を送ってくれて、貴重なご意見をいただいていました。ところが、2回ほど、送った原稿に対してなにも返信がなくて「あれ?」と少し思ったのですが、パソコンの具合でも悪いのだろうと軽く思っていました。

 そんな時奥さんから「医大に検査入院したんよ」という話がありました。びっくりしてお見舞いに行くと、元気に面会室まで出てきて、上機嫌で1時間ほどもいろいろ話をしました。空き家になった故郷の家のこと、ホームに入っている母のことなど心配してくれていました。

手が上がらないという事でしたが、まあそう心配することもなさそうだと安心して帰ったのですが・・・。

 それが夏のことでしたが、秋の終わりに何と「危篤」という知らせを受けました。丁度風邪で寝ていたので妻がお見舞いに行きました。帰って話を聞いているうちに、これは何としても行かねばと、だるまのように衣類を着込んでお見舞いに行きました。しかし、ほんの2カ月ぐらいの間にすっかり変わり果てていて、会話も全くできませんでした。

<以下はさそり座の歌1038です。>

約50年前、高校生の半ばの頃に私は亀川の国立病院に2年間入院していた。18歳から20歳の頃までだった。その時、隣のベッドの方の新聞を借りて読んでいると、「別府文学サークル」の小さな記事が目に留まった。

 私は、文学に少し興味があることを書いて、そのサークルにハガキを出した。しばらくしてIさんが病院のベッドまで訪ねてきてくれた。それから病院宛に毎週の例会の資料を送ってもらい、ごくたまには病院を抜け出して、例会に参加することで、お付き合いが深まって行った。おじさんおばさんたちのグループの中で、坊主頭の高校生崩れは異色だったことだろう。

サークルの出している同人誌【文礫】に初めて「さくら」という詩が掲載されたのを嬉しく思い出す。あれが私のささやかな文学の森へのスタートだった。あれからどれだけ読んで、書いてきたことか。導いてくれたIさんのお蔭だ。

そもそもその新聞記事のちいさな偶然がIさんとの出会いのきっかけになり、私の人生の夜明けにもつながった。それは大きな分岐点だった。入院の2年間は、学校にも行けず、体も不安で、いわば暗鬱の日々だったはずだが、神様はそこに一粒の光の種を授けてくれていたのだ。

 退院して社会に出た私は、何のつてもなかった。只々、Iさんの手に引かれて社会へ乗り出したのだ。Iさんの慈愛に満ちたまなざしにつつまれながら、ここまで来ることが出来た。通夜や葬儀での遺影を眺めながら、様々な場面を思い起こして胸が熱くなった。

 週に一度(日曜日夜)のサークル例会を、愚直に五十年ほども続けてきたIさん。その背中を見て私は日々を暮らしてきた。私に、持続するという事を教えてくれていた生きたお手本だった。私はIさんに見てもらいたくていろんなことを続けていたのかもしれない。

そのサークル例会のために、毎週原稿を集めてガリ版刷り(懐かしい)をし、例会機関誌を作る仕事をIさんから与えてもらった。それは私の生きがいにもなり、日々のプライドを支える私の支えにもなった。

その作業を手伝ってくれたのが、後に妻になる女性だった。話は進み、Iさん夫妻の仲人で、私は家庭を持つことが出来た。この事ひとつだけでも、私の人生がどれだけIさんのお蔭で出来上がっているのかがよくわかると思う。

以後、家を売って今の教室を開くことや、妻が病院をやめるかどうかなど、どれだけ話を聞いて頂いた事だろう。人生の大きな曲がり角ではいつも話を聴いて頂いていた。並べて行くときりがない。

家を売ってこの音楽院に引っ越す時、気の弱い私は、賭けに似たその大事業の重苦しい重圧に耐えられず、胃潰瘍で吐血し入院してしまった。その時、妻を支えてIさんが取り仕切り引っ越しの作業をやり遂げてくれた。私はベッドの上で「済んだ」という報告を受けるだけだった。

あれから30年余り、この地に教室を構えて暮らすことが出来ている。Iさんに応援していただいたおかげで、今こうして、この音楽院での様々な私の人生を振り返ることが出来る。

そういえばこの「さそり座の歌」も、今はサークルが無くなり宙ぶらりんだが、かっては、毎週の別府文学サークル例会機関紙に連載していたものだった。機関誌を作るのに原稿不足の穴埋めの役もあり、20代後半のころから書き始めて約40年余り、いつのまにか1038回まで来ている。

私の心の中の小さな財産ともいえるこの「さそり座の歌」は、Iさんの手のひらの上で暮らしているうちに生まれたものだった。

葬儀から帰って一番にこの「さそり座の歌」を書いている。もう少し「さそり座の歌」の続きをIさんに読んでもらいたかった。 

11月1日 合掌

10月31日通夜

秋さぶや人生の父送る夜  幸一

                

 

連載その7

「歌うことって パートX」

 (声楽・ピアノ科講師 白石まさ子)

 

声楽を習い始めて先ず習うことは、発声練習、コーリューブンゲンやコンコーネなどの本を使った基礎練習、そしてイタリア歌曲。

ここで初めて英語以外の外国語に出合い、その後はドイツ語やフランス語を習います。

初めてのイタリア語は未知の世界でしたが、先生の発音をカタカナで書きひたすら訳の分からない発音で歌っていました。このころの楽譜を見るといろんなことをいっぱい書いてあり、一所懸命勉強していたんだな!、rの巻き舌が出来ず毎日毎日練習していたなぁ〜と懐かしく思い出されます。

皆さんイタリア語と聞いて一歩引かれると思いますが、イタリア語は英語と違いほとんどがローマ字読みです。母音の発音はA−あ、I―い、U―う、E―え、O―お

特殊な発音では、二重母音ae―アエ等、子音が重なって詰まった発音tto―ッ?等です。

このイタリア語、声楽をしている人たちだけ関係があると思っていませんか?

いえいえイタリア語は音楽をする皆さん日常的に使われている言葉です。

それは速度用語や音楽用語はすべてイタリア語だからです。

皆さんがよくご存じの“スタッカート staccato”、レッスンでは“短く切る”で指導しますがイタリア語の意味は“分離する、離れる”の意味。反対に“レガート legato”はレッスンでは“なめらかに、音を切らずに・・・”ですが本当は“つなぐ 結ぶ”の意味だそうです。

皆さん、こんな身近にイタリア語があるなんて!!と思われたんじゃないでしょうか。

そこで是非お勧めの本があります。

この2冊の本はある日本のピアニストが書かれた本で、速度・表現・奏法・音量などの音楽用語をイタリアの日常会話から解説している本です。

私もこの2冊の本を読んだとき、“ん~ん、そんな意味だったんだ・・・”と目からウロコでした。

なんとなく音楽用語が苦手と思われている方や疑問に思われる方、この本を読むとイタリア語が楽しくなるかもしれません。

 

関 孝弘/ラーゴ/マリアンジェラ 著  全音音楽出版社

イタリアの日常会話から学ぶ これで納得! よくわかる音楽用語の話

イタリア語から学ぶ 一目で納得!音楽用語辞典

 

戦争の影 

   野崎 明敏(ほのぼのコーラス)

戦争が終わって、半年もした6年生の春休み野津原の叔父(親父の長兄)が今度勤務が別府になったけん遊びに来んか?と我が家に来たとき私を捕まえて言った。

叔父さんとはお宮のお祭りなどで知っている位だったが、親父に言ったら「おう、行って来い」とのことだったので早速行く事になった。

富士見通りを真直ぐに登るとゲートが有るけん「学校に行きます」と言えば黙って通してくるんけん後は何も言わんで来れるで。

なるほど大きな米兵は、何も言わずに立っているだけ。官舎は丁度今のビーコンプラザの向かい松林の中の校舎の近くに有った。見れば女学校のようだった。後の緑ヶ丘高校とは知る由もない。その日はすぐに帰った。

次は、夏休みにまた叔父から声がかかって勤務が日出に変わったけん泊りがけで遊びに来いや。で、またまた行く事になった。

今度は日出駅から豊岡の方へ歩いて田圃の中を海岸迄降りて行く途中の一軒家、大自然の真っ直中と言った感じ。

次の日から朝は地引網、昼までは海水浴後は昼寝と遊びまくっていたが、叔父が航空母艦を見に行ってみるかと言ったので、ああ、あれかえ!と気が付いた。

日出の街の沖に大きな船がどっかり座って半分沈んでいる。聞けば、終戦直前に敵機の攻撃を受けて沈んだのだとか。近所の男の子に頼んで櫓を漕いで船の近くまで行ってもらった。飛行甲板が水面すれすれの所に有ったので其処から甲板上に上がってみたが広いのなんのって怖くなって小舟に戻って大きな船の周りを一周して帰った。後で思ったのだが軍艦は鉄板で囲ってあるのではなくて鉄の塊なのだ。

最近調べてみたが戦前に建造された移民船で「アルゼンチナ」丸と言うそうだ。戦争になって貨客船から航空母艦に改装したもので「海鷹」(かいよう)と言うとある。

此処で先に出した叔父の姉が高瀬高城に嫁して、子が一人いて七高に通っていた。私の従兄弟になるのだが私たち家族が親父について鹿児島に転居した時我が家によく遊びに来ていた。

彼に連れられて鹿児島の磯庭園に行ったりしていたが、何年も経たぬうちに学徒動員で出征、行方不明となった。叔母さんは終戦後まで伝手を頼って消息を訪ね回っていたが、フィリッピンへ向かったらしい所で消息の糸は切れてしまった。磯庭園に行った時に奢って貰った「りゃんぼ」は私にとっては戦争の味なのだ。

「りゃんぼ」は「じゃんぼ」とも言うようだ。一寸平たい団子を2〜3個串刺しにして甘い蜜のようなものを絡めてあった記憶が有る。今で言えばみたらし団子か?

 

<特別寄稿>

丁寧に弾く

      愛野由美子(ピアニスト)

「丁寧に弾きましょう」というのは、皆さん何度も言われている言葉だと思いますが、意外とこれが浸透しないものです。丁寧に弾くためには、まずは、譜読みの段階で丁寧に読むこと。音の間違いはないか、指番号の確認、スラーはどの音からどの音までか、休符はきっちりと等々。こうしたことを一つひとつ丁寧に確認しながら譜読みすることが大切です。この譜読みの段階で丁寧に読んでいるかどうかで、仕上がりのスピードや精度が違ってきます。ここをいい加減にしていると「丁寧に弾く」ことなどとてもおぼつきません。
 そして、タッチ。キーに指が触れてから底に落ちるまでの速さや重さなどを、コントロールする。このとき一音一音をよく聴いて一つ一つ丁寧にタッチをコントロールしてほしいのです。「バシバシ叩かない」、「ふにゃふにゃ触るだけにしない」 しっかりと丁寧に音をとらえる指さばき、これを身につけてほしいと思います。大切なのは耳とタッチ。この音がほしいときはこのタッチ。こういうタッチをすればこういう音が出る。この組み合わせのセットを自分なりにできるだけたくさん身につけてほしいですね。
 丁寧に弾くというのはなにも技術的なことだけを意味しているわけではありません。どんな曲でもその楽曲の成り立ちや背景をきちんと理解した上で演奏することが大切です。その上で曲の全体的な構成を把握して、フレージングにメリハリをつける。作曲家が指示した様々な楽語の意味を一つ一つ丁寧に深く読み込む。そのようにして読み込んだことを音楽として表現する。これが丁寧に弾くということ。こうして書いてみるとやることが多すぎてなんだか気が遠くなる様な気もするけど、それをコツコツ積み上げていくことによって、そのたびに自分の演奏が素敵に変身していくことを感じとることができます。こういう実感が得られるとほんとに嬉しくて、楽しくなります。それまでの大変さなんて忘れ てしまうほどです!
 でも実際のところ、丁寧に弾くということは、実は簡単なことなんです。音楽を愛する心。これさえあれば、人は誰でも音楽に対して自然に丁寧に接するようになります。だから私の仕事の一番大切な根っこのところは生徒たちの、音楽を愛する心を大きく育てていくこと。あんまり小難しいことばかり言って、音楽が嫌いになってしまうようでは本末転倒というものです。さあ、今日も生徒と一緒に音楽やっていきます。

 



 

inserted by FC2 system