音楽だより389

 

母を見送る  竹内幸一

 どなたにも母があり、ご健在の方も、お亡くなりになられた方もおられることでしょう。私は、このたび1016日に母を見送るという生涯に一度の体験をさせていただきました。その節はみなさまに大変お世話になりました。心よりお礼を申し上げます。おかげで人生の節目の行事を何とか務めることが出来ました。

<多忙も重なりましたので、他に発表した文を転載します。文体が違いますがご容赦ください>

母が入院して1カ月ほどになる。週に一度ほど見舞いに行っている。一進一退なら嬉しいのだが、個室に入って顔を見るたびに、その変わりようにぎょっとしてしまう日々が続いている。素人目にも、これはちょっと厳しいという感じがしている。

 今日の見舞いは平日だったが、病状説明と、二つの新しい治療の承諾書を書くためのものだった。医師との話し合いの前に母の部屋に入ると、酸素吸入の装置が顔にセットされていて、また今回もぎょっとなってしまった。

 ようやく太ももの血管が確保できたとか、いろいろと医師の説明をお聞きした。打てる手はすべて施しているという若い医師は、信頼が出来好感がもてた。

その後、承諾書を書き、もう一度母に声かけをしに病室に入った。声をかけると、酸素吸入のマスクの中から、不明瞭な声が聞こえた。何と言っているかわからなかったが、こちらの言うことが伝わっているのは感じられた。母の何か言う息がマスクを曇らせているのがはっきり見えた。

病院を出て、病院の前にあるファミマで恒例の反省会?をするために百円アイスコーヒーを飲んだ。毎回、帰りには車の中でコーヒーを飲みながら、新しい事態にボーッとなっている頭を冷やす。妻といろんな状況を復習し、これからのことなど検討する。妻が支えてくれたおかげでどれだけ助けられたことか。

何回前からだろうか、この反省会の時に私は、「もう覚悟はできているけどな」と言う言葉を使ってしまうようになっていた。医学に少し詳しい妻に、いろいろと解説してもらい、現実がどう動いているのかも理解が出来ている。

そういう事態の時に、今日は別の意味の承諾書も書いた。治療がうまくいき、いずれ退院の時には、介護度を変更し、どこかに寝たきりでも対応できる介護施設をさがすらしい。そのことを、承諾するという書類に記名捺印した。

生きてこの病院を出られることがあるのだろうか?そういう日が来ればいいなとは思うが、実感は全くない。承諾書を書いた新しい治療が効いて、奇蹟的に回復してくれれば何といいことだろう。

電話が鳴って「市民病院の看護を担当している**ですが」と言う声がすると、息を呑んで次の言葉を待つ。手で顔をさわらないようにと手袋がいるとか、腹に巻くさらしがいるとか、バスタオルの追加がいるとかの用件がわかるとホッとする。

・・・と書いている時に、夜8時ごろ電話が病院からかかってきた。「今日帰られた後から、呼吸状態が悪くなりましたので、急変の恐れがあります。いつも携帯電話をそばに置いていてください。」と言う連絡だった。いよいよ来るべき時が近づいているようだ。

 (ここまでは、さそり座の歌1037より転載しました)

 電話は、夕方病院を離れ自宅に着いてすぐのことだったので、ちょっと気持ちが震えた。今日の承諾書のことなどを思うとまさかとは思うのだが、やはりとも思わざるを得なかった。

 状況を肉親に知らせた。まさかの時のために準備をしていたが、なかなか電話がかからなかった。持ち直してくれたのかなとちょっと力を抜きかけたころ、電話が鳴った。午後10時だった。それっと出発して、11時に到着。1016114分が臨終時間だった。手などを触ると温かだった。

 お寺(国見町岐部にある胎蔵寺)に電話、葬儀社に電話。日が変わって午前2時に葬儀社のお迎えの車が病院に到着した。深夜なのに担当医師や看護師まで外に出て見送りに来てくれた。

 午前3時、葬儀社到着。それからこれからの打ち合わせ。細々としたことがたくさん。喪服などの準備もあるので、午前4時過ぎいったん家に帰る。

 それから人の輪のありがたさをたくさん味あわせて頂いた。たくさんの方のお参り、ギター連盟や各合奏団、ハーモニアス、トータルブレインなどから御花をいただき、これまで生きてきた私の人生が認められたように思うと、涙があふれてならなかった。多謝深謝。

■下記は、延期のおわびの為、その111日に子供たち3人が代役で行いましたプログラムに掲載した文です。

♪ 竹内幸一ギターコンサート延期のお知らせ

(お詫びとお願い)

  本日はご多忙の中、演奏会へご来場いただきまして有難うございました。私は、母の葬儀前後から心労、多忙が続き、体調不良も重なりましたため、やむをえず本日の演奏会を延期という事にさせていただきました。心よりお詫び申し上げます。

それで改めて1213日(日)14からこの同じ場所の竹の里で再挑戦させていただくことに致しました。何度も恐縮ですが、また皆様の応援をいただけましたら大変ありがたく思います。尚、本日の入場券は、1213日の演奏会にそのまま使えますので、保存しておいてください。

 急な話に快く出演してくれた子供たちの今日の演奏会と、1213日の再チャレンジの演奏との2回を楽しんでいただけたらうれしいです。 竹内幸一                      

 

連載その7

「芸短定期演奏会」

 (ヴァイオリン科講師 徳田美和)

 

 皆さんこんにちは。

食欲の秋(1番最初に )、運動の秋、芸術の秋、といいますが、秋は楽しい行事が本当に沢山ですね!

さて、今回は、私の母校、大分県立芸術文化短期大学の定期演奏会を題材にしたいと思います。

今年で第51回になる定期演奏会が、この前、iichikoグランシアタで行われました。

私は大学に入学してから、卒業した後もずっと参加させていただいているので、かれこれ17年くらいは出演しています。あ、今何かを計算しましたか⁈

私も初めて数えてみましたが、こんなに年数を重ねていたとは…

どれだけ芸短が好きなのでしょう。笑

毎年参加して思うのですが、芸短のオーケストラは良いエネルギーを感じるのです。

学生さんは、ひとつの演奏会に向けて、こつこつと練習を積み重ねていきます。全体練習だけではなく、そこで課題にあがった事を、個人練習やパート練習で取り組み、そうする中で団結力も生まれ、気持ちもまとまっていくのではないでしょうか。たまにはぶつかり合う時も⁈ 芸短は特に先輩後輩の仲が濃いと思います。人数が少ないけれど、そこの団結力は力強いものだと思います。

先生方も、良い演奏会にしよう、学生からもっともっと良いものを引き出そう!と一生懸命にご指導されているので、卒業生もできるだけ力になりたい!と思います。

みんなが真摯に取り組むからこそ、そのエネルギーが本番の日に向けて高まり、本番当日の集中力、演奏で、良いものが溢れるのだと思います。

芸短の定期演奏会は、3年ごとに、声楽の年、ピアノの年、管弦打の年、と、メインが変わっていきます。

今年はピアノの年。ラヴェルのピアノ協奏曲と、モーツァルトの2台のピアノのための協奏曲でした。

どちらの曲も、学生さんの気迫と積み重ねたものを感じ、オーケストラも刺激をし合い、共演できたと思います。

終わった後に、ソリストの目に涙が光っている姿を見て、あぁ、ひと夏頑張ったんだろうなぁと、感動しました。

学生さんとの演奏は、フレッシュで、純粋で、胸が熱くなります。

これからあと何年参加し続けられるのか分かりませんが、出来る限り参加し続けて、私も頑張りたいと思います。

皆さん、来年の芸短の定期演奏会、是非いらして下さいね♪

 

おふくろは

勿体ないが騙しよい  

   野崎 明敏(ほのぼのコーラス)

 

元々は子供が小遣いをせびるときに使うのだが、何とかかんとか理屈を並べて母親から小遣いを召し上げる。母親は弱いもので今までふんだんに与えた事がないものだから、此の位は渡してやろうかなとつい思ってしまう。でも息子としては母親を騙しているのだから内心御免ねと思って当たり前と言ってもほかに無心する相手が居ないので母親には言うのですねえ!

うちの母親などよく親子の間で勿体ないが騙しよいですねと脅しを掛けられる、此方は知らばっくれていや本当ですよと身をかわす。

さて私は、中学、高校とバレーボール部に居た。我がチームは可なり強いチームでインターハイバレーや国体バレーでも本大会に何度も出場している。私もインターハイ松江大会に出場させて貰った事が有る。ところが親父が2年の夏休みで部活をやめろと言ったのです。学校の部長先生が松江大会で親父が試合出場に難色を示した時に今回限りと言ったのを盾にとって頑として聞かないのです。それでもチームメイトとは密約が出来ていて県内ならば行って応援するからな、だから練習は続けると言って毎日暗くなるまで練習していた。親父にしてみたらもう受験に力を入れないと落ちても知らんぞと言う事です。チームメイトは、はよ帰らんと怒らるんどと言って呉れます。そんな中で3年の春のインターハイの県予選が始まりました。5月のある日曜日、一人で日豊線日出駅まで行って日出高校へ急ぎます。会場に着くとどんどん試合は進行しています。

我がチームを探し当て合流すると、お前はよ着替えんかと矢の催促、直ぐメンバーチェンジして強烈サーブをお見舞いする、サーブは上手かったのだ。トントンと勝ち上がって準々決勝まで行ったところでその日は終了。来週また来いやの声を背にして家路を急ぐ。

帰るなり母が目敏く額の鉢巻の日焼跡を見るなり、今日は試合やったん?、いや、応援や応援でん鉢巻は要るんや、お袋は何も言わなかった。お袋御免な、全然騙せてない。

次の日曜日試合会場へ行く強豪校とぶつかった大分工業、何時も分が悪い、結局負けて私のバレーは終わった。その日もお袋は黙っていた。

 

<特別寄稿>

休符の見える音楽

      愛野由美子(ピアニスト)

 

「音楽関係者の間ではよく休みの見える」演奏とか音楽とかいうことを耳にすることがあります。素晴らしい演奏のほめ言葉の一つに使われる言葉です。
「お休みの見える演奏」ってどういう演奏でしょうか? それは休符がよく理解され、扱いがきちんとされていて、そのことで音楽が生きるという効果を持つ演奏のことです。
 例えば、バッハの曲には休符の後にテーマが始まる音楽が多いです。いや、むしろ本当は休符からテーマが始まっているととらえた方がよい場合もありそうです。「休符を背負って最初の音を出す。」こんな風に考えた方がいい場合ってたしかにあると思います。当たり前のことですが、休符も音符の一つです。うっかりするとつい忘れてしまいがちですが、音を出さないからといって、そこに音楽が無いということではないのです。始めから終わりまで、音楽はそこにあるのです。音を出さない休符のところでは、その分エネルギーがたまると思っています。その音を出したいというエネルギーに「待て」をかけている状態。その分、次に行きたい要求が増えて、開始音はそのエネルギーとともに始まる。こう考えると休符を大事にすることの意味がわかるはずです。そして休符の後の開始音の出し方が変わってくるはずです。
 もちろんこれはバッハに限った話ではありません。休符というのはどの曲にもあります。そして、その休符が拍の頭かそうでないかによっても違います。拍の頭に休符が来ている場合、先に述べた考え方が効果を発揮する場合が多いのですが、拍の最後に来た場合はどうか、その余韻に浸る時間を与えているととらえるべき場合もあるでしょう。そのような場合はエネルギーを貯めるのではなく、逆に放出して、だんだん落ち着いてきて、穏やかな空気が漂うようにもっていくのがよいかもしれません。休符を最後にとることによって、より一層音楽のふくらみや強さを強調できる場合さえあると思います。
 休符がフレーズの途中にある場合、それぞれの曲、フレーズによってその休符の性格も変わってきます。ニュアンスを変えたりおしゃれになったりする術も休符の力ですね。休符も音符なのですから、一つ一つの休符に他の音符と同じように意味と役割があるわけです。だから休符を大切に扱うのは当たり前。ついつい「休符=お休み」とだけ単純に決めつけてしまって、休符の扱いをおろそかにしてしまってはいけないと思います。休符のことをもっと大事に扱ってピアノを弾いてみると、意外な発見があったりして、ますます面白くなると思いますよ。

 

愛野由美子ブログ「ピアノの音色」より (http://blog.goo.ne.jp/piano-no-neiro

 音楽だより388

新シリーズ開始
竹内幸一

 シルバーウイークの連休中に、甥の結婚式があって名古屋まで行きました。その間はいい天気で助かりましたが、帰り着いてから、やれやれと家に落ち着くころ雨になりました。

 久し振りに結婚式に出ましたが、命のバトンを感慨深く味わいながら、甥の晴れ姿を見ていました。ここからまた、新しい家庭、新しい命が誕生していくのでしょう。もう手の届かない先まで、命の連鎖が続いています。

結婚式という大きな行事を終え一息つきましたが、これから、1011月は行事が多いので気合を入れなおさねばと思っているところです。

 それで、今月は、その行事の中でも一番真剣に取り組む The irthday Memorial  Concert  について書かせていただきたいと思います。

 私は、毎年3月の終わりに小さなソロコンサートをしていました。しかしながら、今年は娘の引っ越しの関係もあり、3月に親子リサイタルを開きました。それで予定していた私のコンサートが延び延びになり、どうしたものか、今年はやめようかなとも考えていたのです。

 そういう中でふとひらめいて、新シリーズとして、スタートする案が生まれました。その主旨をチラシに書いていますので、転載したいと思います。

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The irthday Memorial  Concert 

 どこまで行けるかわかりませんが、これから毎年、誕生日(1026日)近くの日曜日に ささやかなコンサートを開くことにしました。毎年、誕生日を目指して気持ちの張りを持つことが 新たな生命力にもつながればと思っています。人生の晩年、11年をしっかり踏みしめることにしました。

しかしながらいつの日か、「あれが最後の演奏になったね」という日も当然やって来ます。そういう意味では、音のエンディングノートでもあるわけです。

 長いおつきあいをいただいている皆様と、ゆっくりご一緒に過ごせる思い出の一日にできたらと思います。お忙しい中済みませんが、どうぞよろしくお願い致します。(竹内幸一)

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 自分の誕生日を周りの人まで巻き込んで祝ってもらおうというのですから、大変厚かましいことだと思っています。たいした演奏もできないのに、申し訳ない限りです。

 しかしながら、新聞で読みましたが、人生の晩年は、「教育と教養」なのだそうです。これはまた、余りにもくそまじめなスローガンで、面白くもなんともないですね。

ところが、ご存知の方も多いと思いますが、これを理解していただくには、翻訳が必要なのです。

 教育→今日行くところがある。

 教養→今日は用事がある。

 これは、無為な日々、退屈な時間を体験した後でなければ、分かりにくいかもしれません。仕事に追われ、忙(心を亡くす)状態の方には、何もない解放は、あるいはあこがれの時間かも知れません。

 仕事から解放され何か月かしてから、「今日はどこも行くところがない」、「今日は何もすることがない」という時期が来ます。生き方上手な方は、そこにいろいろと教養と教育を見つけて、有意義な時間を過ごせるかもしれません。しかしながら、ただぼんやり待っていたのでは、自動的に用事が増えるわけではありません。きつい、面倒と思えば、毎日の出事は減るばかりです。

 能動的に、自分の足で踏みださなければ、テレビのお守りの引きこもりになりかねません。

 手前味噌になって恐縮ですが…ギターを習いに行く、合奏団に参加する、オペラ講座を見に行く、カラヤンのオーケストラを聴きに行く…等々、自分で決めて、自分の足で踏みだした方には、燦然と輝く教養と教育が存在するのです。<済みません、音楽院の存在価値の宣伝になりました。笑>

また必然的に、そこには、足腰の強化、脳の活性化なども獲得できるチャンスを、自分でつかむことにもなります。人に出会い、新しい世界にふれることが、どれだけ人生を豊かにしてくれるかわかりません。

 今度の私の新シリーズも、1年間の長期的な取り組みを、自分の日々の中に獲得するものです。

見方によっては、重荷になる、きつい、身軽になりたいという気分にもなるかもしれません。確かに長い1年の間には、精神的に疲れることもあることでしょう。しかし、きちんとした目標設定があればこそ、振り子はまた元に戻ります。

毎日、目標を目指して「練習することがある」ということを、有難いことだと噛みしめることも多いと思います。「今日は用事がある」と言える自分の暮らしを大切にするためにも、これがあってよかったと言えると、私は信じています。だからこそ、新シリーズを始めることが出来たのです。

今年の誕生日で67歳。先のことは誰にも分りませんが、いったいどこまで行けるでしょうか。11年、誕生日にたどり着いた記念に、コンサートをします。

「ああ今年も、何とか誕生日のここまで来た。また来年を目指して、新しい取り組みをします」と、なるべく長く言えたらいいなと思っています。

皆さんと共にいい一年を過ごして、ご一緒にまた今年も出会えたねと笑いあえたら嬉しいですね。どうぞ気長にこれからもよろしくお願い致します。

 連載その6

歌うことって パートⅣ

 (声楽・ピアノ科講師 白石まさ子)

 

今回は選曲のお話です。

発表会や演奏会などの選曲って結構難しいですね。テーマが決まっていたり、演奏会の主旨があると選曲がしやすいですが。

特に声楽は声種があり、男声はカウンターテナー・テノール・バリトン・バス、女声はソプラノ・メゾソプラノ・アルト・コントラアルトと分かれています。その中でも女声のソプラノはその声質でコロラトゥーラ・レッジェーロ・リリコ・ドラマティックと細かく分かれています。私はレッジェーロで軽い声質です。

イタリア歌曲やドイツリード、フランス歌曲、日本歌曲などは、その声種で移調(調号を変える、音域の高さを変える)している楽譜があるため比較的選曲がしやすく歌える曲も多いですが、オペラのアリアはそうはいきません。同じソプラノも役によっては歌える曲と歌えない曲があります。

今まで私は、オペラのアリアで自分が好きな歌えそうな曲を選び練習し、本番に臨んできました。中には“私にはちょっと重いかな?声があってないかな?”という曲もありましたが何とか仕上げて歌ってきました。しかし一昨年、友人の誘いでイタリアにレッスンを受けに行ったとき、友人から“私の先生は、その人に合った曲しかレッスンしてくれないよ!”と言われ、自分に合った曲を5~6曲選び持っていきましたが、結局聞いていただけたのは2曲だけ、後の曲は“Non!”と聞いてもくれませんでした。

イタリアでは、喉を壊さないで長く歌えるようにその人に合った曲しか歌わせないそうです。歌いたいアリアがあっても歌えないのは悲しいことですが、将来長く歌っていくにはやはり自分にあった曲を選び無理をしないこと。つまり喉の負担をなくすことが一番。今後は自分の声に合った曲選びをし、喉の負担を無くしてあげようと思います。

私と親父  

   野崎 明敏(ほのぼのコーラス)

 

親父の印象と言えば小さな頃は怖いが先に立って余り楽しい思い出はない。

それが高等学校に上がった頃から何となく友達付き合いの部分が出てきたように思う。

中学校の頃が丁度私と親父が苦闘していた頃かも知れない。

そんな或る日、二階に居た私の所へ兄貴がやって来て、親父が来ても居らんと言うてくれと言って押し入れの中に隠れてしまった。追っかけ下の診察室から親父が上って来て「公敏(ただはる)」(兄貴の名前)は何所行ったと聞いてきた。

事情は分からないが先ほど承諾した手前、「知らんよ」と言って親父の顔を見ると本気で怒っている、親父は其処に有った2尺程の長さの物差しを取って私の背中を二・三度ビシビシ叩いて「これでも知らんか?」

これは知っちょっても言えん。親父は力一杯俺の尻を叩いて「まだ、知らんか?」「知らん!」「もういい!」何を言うのか俺のほうがもういいだわと思いながら押し入れを少し開けると兄貴が小さくなっている。「もう良かろうが」と言うと「まだ悪りい」と言うから「勝手にしよ」と言って下へ降りたが後はどうなったか知らん。

こんな事はよく有ったから兄貴は親父から逃げる手段として使っていたのだろう。

同じ頃、「明敏(はるとし)よい、お前漕げるか」と聞いてきた。「何かえ」「自転車じゃ、家のサイドカーじゃ」

昔、お祖父ちゃんが往診用に人力車を置いて居た車庫に自転車を横にくっ付けたサイドカー(恰好よく言うと輪タクか?)「漕げるけんど坂道は登りきらんで!」「坂ん方は行かんけん漕いぢ呉れんか」「なしかえ」「往診じゃ」。

それで分かった。兄貴は滅茶苦茶恥ずかしがり屋で道で同級生に逢おうものなら、降りて飛んで逃げるやろう。

親父と交渉は纏まった。それから一年程はご近所を親父を乗せてよく回った。親父も昼間は行かずに夕方からの方が多かった。  

ただ困ったのは患家で「車屋さん幾らでしょうか」と言われることで「いえ、いいです」と答えていたが、冬の寒い夜家人がまあ若いのに大変ですね、そこで親父にあの若い人は誰ですかと言う事になって、「あれは息子じゃ。」「この寒みいのにまあ」「どうぞ上がって下さい」「いや此処でいいです」と外に居たら、親父の裁定は、何か食う物でも有ったらやっちょいちょくれ、と言う事で林檎を一個頂いた。

それから饅頭とか何か頂く事も有ったが、やっぱり坂道は辛い。帰り道の一番良い道がその道で何時も別の道に回り道をしていたが、或る時親父が気づいて「なし、あの道通らんのか?」私は「途中溝が有っちそこの橋が急な坂なんじゃ」「そんなら言えよ、儂も降りて押すけん」

そんなこんなで其処では親父が降りて押す事になった。

まだ中学2年のころだった。その頃は小さかった。それから三年程で一遍に背が伸びた。親父を乗せて自転車を漕いだのが理由の一つだったろうか?

 



音楽だより386

原爆ドーム 竹内幸一

今年の梅雨はなかなか終わりませんね。又雨かと少しうんざりする7月の終わりの日々が続いています。この新聞が出るころは、すっきりと晴れ渡った真夏日の空が広がっているでしょうか?

4月より娘夫婦の転勤で広島に縁が出来ました。

広島は通り過ぎるばかりで、これまで一度も寄ったことがなかったので、6月の終わりに早速孫に会いに行きました。せっかくだからと娘が原爆ドームや原爆資料館のある平和公園へ連れて行ってくれました。

有名な原爆ドームを初めて見ましたので、興味を持って調べてみると、いろいろ知らない事ばかりでした。今回はその一部を皆様にも知っていただきたいと思って書くことにしました。お付き合いください。

 風化していく現実に一つのショックを与えようと、プロ野球の広島カープが、全員背番号に86を付けて試合をするそうです。負の遺産として、世界遺産にも登録されている原爆ドーム。それを、思い出してほしい、忘れないでほしいという平和への願いがそこには込められているのだと思います。

 194586日午前81517秒(日本時間)、アメリカ軍のB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」が、原爆ドームの西隣に位置する相生橋を投下目標として原子爆弾を投下しました。

投下43秒後、爆弾は建物の東150メートル・上空約600メートルの地点(現島外科内科付近)で炸裂しました。

原爆炸裂後、建物は0.2秒で通常の日光による照射エネルギーの数千倍という熱線に包まれ、地表温度は3,000℃に達したそうです。0.8秒後には全面に衝撃波を伴う秒速440メートル以上の爆風(参考として、気温30℃時の音速は秒速349メートルです)が襲い、350万パスカルという爆風圧(1平方メートルあたりの加重35トン)にさらされました。

現在接近中の台風12号のデータと比べてみました。台風の中心気圧は955hPa、(原爆は350万パスカル)、中心付近の最大風速は40m/s(原爆は440m)・・・あの手に負えない大型台風と比べてみると、どれだけ原爆が残酷非道なものであったかが分かってもらえるのではないかと思います。爆心地から半径3㎞の範囲の建物は、ほとんど瞬時に全壊し炎上したのです。

ドームは原爆炸裂後1秒以内に3階建ての本体部分がほぼ全壊しましたが、中央のドーム部分だけは全壊を免れ、枠組みと外壁を中心に残存しました。 ドーム部分が全壊しなかった理由として、衝撃波を受けた方向がほぼ真上からであったことなどいろいろな理由があげられています。

ドーム部分は全体が押し潰される程の衝撃を受けなかったため、爆心地付近では数少ない被爆建造物(被爆建物)として残りました。

原爆投下時に建物内で勤務していた内務省(建設省)職員ら約30名は、爆発に伴う大量放射線被曝や熱線・爆風により全員即死したと推定されています。

なお、前夜宿直に当たっていた県地方木材会社の4名のうち、1名は原爆投下直前の8時前後に自転車で帰宅し自宅前で被爆し負傷したものの、原爆投下当日に産業奨励館に勤務していた人物の中で唯一の生存者となりました。

その後しばらくはまだ窓枠などが炎上せずに残っていましたが、やがて可燃物に火がつき建物は全焼して、ついに煉瓦や鉄骨などを残すだけとなったのです。

原爆ドームは、第2次世界大戦末期に人類史上初めて使用された核兵器により、被爆した建物です。ほぼ被爆した当時の姿のまま立ち続ける原爆ドームは、核兵器の惨禍を伝えるものであり、時代を超えて核兵器の廃絶と世界の恒久平和の大切さを訴え続ける人類共通の平和記念碑です。

平成5年(1993年)6月、市民団体からなる「原爆ドームの世界遺産化をすすめる会」が結成され、原爆ドームの世界遺産化を求める国会請願のための全国的な署名運動が始まりました。集まった署名は国会に提出され、平成6年(1994年)1月参議院で、6月衆議院で原爆ドームを世界遺産リストに登録推薦する請願が採択されました。最終的には165万余りもの署名が集まりました。その後、国際記念物遺跡会議などの審査を経て、平成8年(1996年)12月、メキシコで開催された世界遺産委員会において、原爆ドームの世界遺産登録が決定しました。

この事をどう考えるかは難しい問題がありますが、外国人に人気の日本の観光スポットの第1位に原爆ドームが選ばれています。

戦争が終わって70年、これから日本はどういう方向に進もうとしているのでしょうか?悲惨な原爆ドームを世界中の方に見てもらっている唯一の被爆国日本は、戦争を放棄した憲法を持つ国として、反戦を訴えるのに最もふさわしい国だと思います。

 

 

連載その5

♪歌うことって パートⅢ

 

 (声楽・ピアノ科講師 白石まさ子)

 

Facebookで東京の音楽大学で声楽を指導しておられる先生の音大生に向けてのホームページ投稿があったので紹介したいと思います。

ステージでは“全身を使って演技する”わかっていながらなかなか出来ないものです。

私も毎年ステージに立っていますが、歌やセリフが気になり思い通りに動けないのが現実です。それでも何回も練習を重ね、歌とセリフが感情と共に動きと合体し、何とか演技することが出来るようになります。

私が常に心がけていることは“恥も外聞も捨てて何事も体当たり!オーバーリアクション!”です。背が低い私はステージでは不利な体格なので、とにかく大きく見えるように、他のソリストさんたちに負けないように頑張っています。

でも本番のDVDや写真を見ると“やっぱり背が低いな~小っちゃいなぁ~”とガックリしてしまいます。まぁこれだけはどうしようもないのですが・・・

次にコンクールについてです。コンクールでは演奏時間が決められています。その時間を超過するとベルが鳴り途中で演奏を辞めなくてはいけない場合があります。オペラのアリアは曲の最後に聞かせどころがあり、最後の音は高い音域で観衆を魅了するのがほとんどです。その部分がタイムオーバーで削除されたら・・・考えただけで怖いです。

この演奏時間は歌い出しからカウント、ステージに出た一歩からカウントで選曲にも大きく影響してきます。私は演奏時間がある場合もない場合も、ステージに出た一歩からカウントするようにしています。

袖から歩き始めてお辞儀して気持ちを整えて○秒、曲と曲の間で○秒、演奏に○分、退場に○秒、計○分○秒。この時間配分を把握していると自然に気持ちの余裕が出来、あたふたすることがなくなり演奏に集中できますし、ステージ感や空間を感じる訓練にもなるような気がします。

ぜひ皆さんも、自身の演奏時間計測を試してはいかがでしょうか?

 

私と子供(4)下  

   野崎 明敏(ほのぼのコーラス)

 

翌朝取り敢えず現状を「かみさん」に説明して会社へ直行。行くなり昨日の女性にどうしてこんな時に会社に来るのあなたの子供はどうするの、と言って来たから一応落ち着いているし「かみさん」に説明してあるから大丈夫だと思う。と言うと今日は早引けしなさいと強く言われた。流石人事部の人は凄い。

やはり彼女が心配する筈だ、病院に顔を出すと同室の隣のベッドのおばさんが、朝奥さんが点滴の調整をしていたら部屋の奥にいたおばあさんからあんた何で触るの!、それは旦那さん(私の事)と看護婦さんがよく相談して決めたんや!変えたらいかんと叱られたんよ。

おばあさんはと見るとよくやすんでいたようなので其の侭にしておいた。

 昨夜の部屋の事は部屋の人皆よく知っているのだなと解った。


さていろいろの事が有って最初の夜を乗り切って後は快方に向かい息子も今に至っている。

あのおばあさんの事だが、それから数日後に亡くなったと後で聞いた。

皆で必死に息子を護ってくれたのです。そしてあのおばあさんは息子と自分の命を引き替えにしたかのようにあの世に行かれました。

 

 

 音楽だより387

 

孫のいた夏  竹内幸一

今年の夏の前半は、連続して暑い日が続きました。お盆過ぎから、少しいいかなと思っていましたが、また後半から暑い日が続いています。そろそろ疲れも出てくる頃ですので、皆様、体調管理に十分お気を付け下さい。

さて今月はと考えるのですが、暑くていい考えが浮かびません。もう発行までの残り時間も少なくなりましたので、今月は、この夏長期間滞在した二人の孫娘のことを書かせていただこうと思います。極めて安易でありふれた内容で申し訳ありませんが、我慢してお付き合いくだされば嬉しいです。

振り返ってみますと、毎日作っている俳句の中に、「平凡で手前味噌になるからやめとけ」と禁止されている孫俳句がだいぶありました。私の俳句能力の限界があらわれて、いつしか作ってしまっていたのでしょう。ついつい身の回りのことに安易に目が行き、平凡な孫俳句を量産してしまいました。

日盛りや嬰児の肌に熱の花

広島から1歳と4歳の孫娘を連れて娘が帰省すると連絡があり、楽しみにしていたところ、1歳の孫の熱が出たから帰れないと連絡がありました。40℃も出ていたとかで、帰省は4,5日遅れました。

しばらくして、熱が下がって機嫌がよくなったからと帰ってきたのですが、到着した日から、体中に赤い発疹が広がりました。すべすべで柔らかい赤ちゃんの肌はとても気持ちのいい手触りなのに、この時はとてもかわいそうな状態でした。しかし、2日ほどで綺麗に元に戻りました。

手花火や孫囲む輪にご近所も

6月に広島へ行ったときに、スーパーで花火を見つけて、「別府に来たら花火をしような」と4歳の孫と約束していました。それをよく覚えていて、別府に来る前に花火のことを、何度も何度も母親に話していたそうです。

我々も久し振りでしたが、裏庭の駐車場で花火をしました。孫は始め手を添えてもらわないと怖がっていましたが、だんだん慣れて独りで出来るようになりました。通りがかった近所の方が、「うちにもどこかあったよ」と言いながらいったん家に帰って、「あった、あった」と花火のセットを持ってきてくれました。そんなこともあり、結局、裏庭で、この夏3回花火をしました。

炎天や足湯の後の足に風 (日田の道の駅)

寄せ返す嬰児のゆりかご夏の海

空き家になっている実家の掃除に行き、帰りに海で少し水遊びをしました。前は波が来ると怖がっていたのですが、今回は波の動きを楽しんでいるようでした。老人ホームの曾おばあちゃんの面会にも行きました。

別府に来ているあいだに、いろいろ体験させてやりたいとあちこち連れ出しました。結構嫌がらずについてきてくれたので、たくさんの方と出会う機会ができました。

夏休み孫も付録の慰問会

仕事の行事にも、邪魔にならない感じのところへは参加させました。合奏団の老人ホーム慰問コンサートでは、弁当を持って参加しました。

毎月教室で開いているEFCという発表会では、「きらきら星」「かえるの歌」の2曲を私のギターとのコラボでピアノを弾きました。

オペラ鑑賞会では、女性間の壮絶な嫉妬の物語でしたが、飽きたら2階に上がってもいいよと言っていたのに、意外なことに最後まで観てしまいました。菫の花にヒ素を忍ばせている物のプレゼントがあり、主人公が死んでしまうところを「女の人が、あくびをしながら倒れたよ」と後で言ったのには笑ってしまいましたが…。

またコーラスの会では知っている「うみ」とかが出ると一緒に歌っていました。孫のためにとコーラスの先生が「おもちゃのチャチャチャ」や「小さな古時計」等を特別に入れてくれたりもしました。

短夜やつかまり立ちの子に拍手

下の1歳の孫は、別府滞在中につかまり立ちをするようになりました。テーブルの上のいろんなものを引っ張り落とすので、たびたび悲鳴が上がるようになりました。

ご飯よと呼ぶ声のある夏の暮

孫の手の空蝉入るる紙コップ

夏惜しむお子様ランチの小さき旗

人生にはいろんな場面があります。この夏のことを、ああいう時期もあったなあと、懐かしく想い出すこともあるでしょう。この孫たちの新しい時代が、戦争のない平和な日々でありますように。

 

 

連載その6

コンクール

 (ヴァイオリン科講師 徳田美和)

皆さん、こんにちは。

早いもので夏も終わりに近づいてきました。

夜になると風も涼しく、虫の鳴く声も変わってきました。

今年の夏も、あっという間と感じるほど充実した日々でした。

夏はコンクールの季節でもあります。

今回は、コンクールについて書こうかと思います。

頑張る生徒達は、夏休みを利用して、自分の技術を磨くべく、コンクールで弾くために、大曲に挑戦します。

私は、先生となり、生徒とコンクールに向けて頑張る中で、コンクールに対してのとらえ方が変わりました。

自分自身は実はコンクールは3回しか出た事がありません。

1回目は小学生の時。私はヴァイオリンを始めるのが少し遅く、小学2年生の時でした。好きで楽しくて、自分から練習も進んでやる、そんな子だったようで、そんな私に先生がすすめて下さり、小3の時、初めてコンクールにでました。

その時の事はあまり覚えていないのですが、そのコンクールでいい順番がもらえなかったようで、その時は賞とかではなく、1位、2位という順番が表れるようなもので、それがショックでそれからコンクールが嫌いになってしまいました。頑張ったのに順位が悪かった事で、否定されたような気持ちになってしまったのでしょう。

ただ、ヴァイオリンは好きでしたので、それからはコンクールにはでないものの、教室の発表会などを目標に頑張っていました。

そして2回目は中学生の時。いいホールで勉強しよう!と、他県のコンクールに挑戦しました。

それはそれは頑張った思い出があります。本番では、緊張して、元々早い曲だったのがもっと早くなってしまった記憶があります。笑メンデルスゾーンのコンチェルトの3楽章でした。そのコンクールは、いつもと違うホールで弾けた事の嬉しさと、練習した充実感と、賞もいただき、又頑張ろうという次への自信にもつながり、今でも良い思い出です。

そして3回目は大学卒業した直後。憧れのチャイコフスキーの1楽章。これも良い勉強になりました。頑張って得たものがあったという思いだけで、結果は覚えていません。笑

そして今は先生として生徒とコンクールに向けて頑張るように…。

それで思うんです。コンクールって、目的ではないと。自分の技術を磨くために利用する手段だと。なので、そこに向かう過程が大事だと。練習も沢山しますし、練習の仕方を工夫したり、その曲の背景の勉強、表現の仕方の研究、1つの曲を仕上げるために、弾きこんで深めていくという作業を経験できる良い機会だなと思うんです。

私が生徒と頑張っているコンクールも、順位というよりは賞という形で審査員からのコメントもいただけて、自分の良かったところ、次に向けて何を課題にしたら良いかのヒントをいただくことができます。

そうして、いろんな思いをしながらも、たくましく育っていく生徒を見てみると、こちらも頑張ろう、と思えてきます。

今年の夏も生徒と沢山頑張りました。

何でもとらえ方一つで、心が、音楽が、豊かになるなぁと思います。

さぁ、今度は芸術の秋、演奏会が、沢山です🎵

 

私のお祖母ちゃん  

   野崎 明敏(ほのぼのコーラス)

私の母方のお祖母ちゃんは大分市の光吉の近くの小原と言う所で生まれた。今は既に開発が進んで昔の面影はない、縁者の顕彰碑が有るのと数軒の住宅が有る位である。

お祖母ちゃんの自慢は家が地区の大庄屋であったと言う事で気位は可なり高かった。喧嘩は強く男の子を相手にしても負けなかったとか。流石に体格はよく所謂大女の部類になるのだろう。

賑やかな事が好きで女中さんや家(いえ)(すみ)の看護婦さんにも何時も歌いなさい、鼻歌でもよいから仕事しながらでも歌いなさいと言うのが口癖だった。

我が家のすぐ裏には「まんどの木」と言う木が有って子供たちの遊び場になっていた。多分「モチノキ」で秋には赤い実を付けていたから、高さは10m程で枝を広げた様子は堂々としていて根元の空き地では近所の子供たちが缶けりをしたり、コマを回したり、いつも子供の声が絶えない遊び場だった。

幹回りは1m位で大きな子は登れるが私達小さな子(四、五歳)は腕が回らず登れない。幸い接して立っていた作業小屋の屋根まで登れれば枝を頼りに木の上の方まで行くことが出来る。それは小学校に上がる頃で此の木に登るのは一種の成人儀礼なのだ。

やっと木に登れるようになった或る日何人かで木に登り枝から枝へ渡って遊んでいた。その時ふっと足が滑って落ちた、と言っても枝は幾らでも有るので、すぐ次の枝を掴んだから、本人は上手くやったと思っていたがこれを見ていた人が居た。

我が家の二階から「まんどの木」は丸見えで、叔父(お祖母ちゃんの息子)が私の落ちようとする姿を見てしまった。

後で家に帰って叔父が私に「危なかったのう」と言った時、私は「いや大丈夫やったよ」と答えた。叔父は怒って「祖母ちゃんに言うちゃる。ハルトシはこげん事言うんで」。

一部始終を聞いたお祖母ちゃんは「子供には子供の世界が有る。落ちて死ぬるかどうかは神様が決めるこっちゃ、口を出しんさんな」後は何にも言わなかった。何故か私はほっとした。

 

<特別寄稿>

バッハの流れる朝

      愛野由美子(ピアニスト)

お盆に入ったと思ったら、急に秋めいた香り。昨日は風が乾いていてほんの少し夏の終わりの気配を感じました。まだまだ日中は暑いのですが、こうして確実に季節は巡っているんだなあということを感じます。

そんな朝、窓を開けて朝の冷たい空気を家の中に入れて、バッハのCDを流す。これは、心地良い朝です。自分で弾くバッハとはまた違って、純粋にBGMとして聴くことを楽しみます。子どもの頃、私はバッハの譜読みがとても面倒臭くて、それが苦になっていました。それでもなんとか譜読みをクリアすると、今度はそれを何回弾いてもちっとも飽きない。大好きになります。シンフォニアを初めて弾き始めた頃、一つ仕上げて先生に合格の丸をもらうと、それが嬉しくて曲も大好きになって、何度でもそれを弾いていたいのですけど、すぐに次の曲の譜読みとなって、嬉しい反面またあの苦痛に取り組まなければいけないのかと複雑な心境になったものです。

 子どもの頃の私は、例えばショパンやベートヴェンの曲などでは、どんなに時間がかかっても、譜読み自体はそんなに苦にはなりませんでした。曲が出来上がっていくのを自分自身ワクワクしながら譜読みに取り組んだものです。だけど、そうやってその曲をパラパラ弾けるようになると、逆に今度は少しずつ飽きて来てしまう、という傾向があったような気がします。

でもバッハは違うんです。譜読みはほんとに苦痛! だけど、弾けば弾くほど、もっともっと弾きたくなって、飽きるということがありません。私にとってバッハの曲というのはありとあらゆる可能性と表情を秘めた曲ばかりで、「どんな風に弾こうか」という問いに無限の答えが引き出せるような、そんな気がしています。

バッハのピアノの音、シンプルでクリアに、コロコロと粒立ちの良い音で弾きたいです。しかも今朝のそよ風のように優しく頬を撫でてくれるような・・・。たくさんのペダルを使わず、一つ一つの音を大事にして、大音量ではなく、上品に弾きたいですね。

 秋はすぐそこまで。皆さまも夏の疲れが出ませんように。

愛野由美子ブログ「ピアノの音色」より

 

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