音楽だより♪376  

 

荒木さんを惜しむ 竹内幸一

爽やかな秋風を感じることなく、肌寒い日々になりました。夏の長雨から一気に冬に近づく気配です。順調な四季のある暮らしを過ごしたいものですね。

なんだか最近、追悼文を書くことが多くなった気がします。紙面が寂しくなるので、避けたいところですが、今月も、どうしても書き残したい大切な方との別れがありました。済みませんが、お付き合いください。

荒木さんは、17年前に合奏団の仲間になりました。8年ほど一緒に活動してきたのですが、転勤で、熊本へ移住しました。しばらくは熊本から熱心に通ってくれたりもしましたが、次の勤務地はフランスということになり、ギターから離れざるを得なくなりました。

長いフランス勤務を終え、定年退職して、2年前に別府へ帰ってきました。さあこれからと、ギターの仲間に戻ってきてくれました。合奏団に参加し、退職記念のソロコンサートも開きました。新しいことにも取り組みたいと、オペラ鑑賞講座にも来てくれるようになりました。

貴重な人材の復帰をとても喜んでいたのですが、昨年の秋、公民館の文化祭の帰りに「お話が…」と呼び止められました。

「肺にちょっと悪いものが見つかりまして、しばらく治療するのでギターはお休みします」と言うのです。ちょっと淋しそうに笑いながら「体にだけは自信があったのですが・・・」と言った時の表情を忘れることが出来ません。マラソンを楽しみ、その仲間もたくさんいるようでした。そのころ200㎞マラソンを8時間かけて完走したということも聞き、鉄人と言うイメージを持っていたほどでした。

早期発見、早期治療でいずれまた戻ってきてくれるだろうと思っていたのですが、8カ月ほどで帰らぬ人となってしまいました。今でも、まさか、まさか…という思いを拭いきれません。

時折メールでお話をしました。「抗がん剤があまりにもきついんで、ちょっと中断してもらって、今、家に帰っているんですよ」と言うメールをもらったことがありました。実は合奏などで出会うたびに、だんだん弱って行く感じがしていました。偏見でしょうが、今回もまた抗がん剤や放射線への不信を持ってしまう経過でした。入院した時は、あれほど元気だった方が、治療が進むにつれて急激に弱って行くというケースをかなり体験しています。素人の思い過ごしかも知れませんが…

治療中も、いろんなコンサートによく来てくれていました。私のソロコンサートもいつも早く来て、前の方に陣取って熱心に聴いてくれました。

そのコンサートの席で合奏仲間が、「調子がいい時は、合奏に気晴らしに出てきたら?」と勧めたら、「迷惑をかけるかもしれないけど…」と言いながら春ごろから練習に出てきてくれるようになりました。それで、3カ月ほど一緒に合奏しました。しかし、記録を見ると5月17日が、最後の練習になっていました。

亡くなる1カ月ほど前だったでしょうか「これからは聴く側に回って、楽しみたいと思います」と言うメールをいただきました。お休みしているお詫びをよくくれていたので、「気分がいい時に、いつでも来てくれたらいいですよ。気長に治してください」と、返信していました。「聴く側に」という言葉は、合奏団への復帰をベッドの上で諦めての事だったのでしょう。その決断の辛さ、さびしさはいかばかりだったでしょうか?

高齢化して、自然退会のケースはありましたが、このグループで、合奏団の現役を失ったのは初めての事でした。それだけに、仲間への衝撃は尋常ではありませんでした。

合奏仲間は通夜、葬儀に出かけました。胸の上に、合奏団の制服をきちんと置き、制服を着ているように見えました。ルベックの制服が輝いて見えました。遺影は、昨年行われた35周年記念の定期演奏会の時の写真でした。会場には、ギターの曲が流れていました。ご本人はもちろん、ご家族の方もギターを大切に思ってくれていることが、ひしひしと伝わる会でした。

そういえば、荒木さんは、この新聞をとても大切にしてくれる方でした。転勤してからは、いつも私のHPを開いて読んでくれていました。ささやかなHPの、数少ない読者になってくれていて、「今回の話は、ぐっときて、考えさせられました」というような感想をいつもいただきました。そんな声が届いたからこそ、この新聞が何とか続いているのだと思います。

或る時、気まぐれにHPの表紙を赤にしたことがありました。その時、「会社のパソコンを開けると、目立って困ります」という苦情が届きました。毎日開いてくれているからこその、ご意見でした。すぐ地味な色に変更しました。

「七夕」という名前で、投稿も良くしてくれました。フランスの様子を伝える、写真や文もたくさん送ってもらいました。遠くにいても、いつも身近に存在する貴重な方でした。

荒木さんは、目立たないところで、そっと力仕事などの手を貸してくれる方でした。そのやさしいお人柄がみんなに愛されていたのだと思います。かけがえのない方でした。これから、10年は、ご一緒にギターが出来たはずでした。私のギター生活の晩年を共に生きてくださるはずの方でした。惜しまれてなりません。

荒木正文さん。享年62才。ご冥福を心よりお祈りします。合掌。

 

連載その1

生徒さん、

こんにちは

(ヴァイオリン科講師 徳田美和)

 

皆さん、こんにちは。今月から白石先生と1ヶ月おきに交代で書かせていただく、ヴァイオリン科講師の徳田です。つたない文章ではありますが、どうぞお付き合いください。

最初となる今月は何を書こうかなぁと思っていましたら、あっという間に締切の夜となってしまいました。竹内編集長が、パソコンの前でいまか、いまかと待って下さっているお姿が目に浮かびます。笑

先生、ぎりぎりになってごめんなさい!

さて、何を…。いやいや、決まってます。笑

今月はエピローグを…。

 

私がヴァイオリンを教える、という仕事をし始めて10年はたちました。

生徒さんは、年齢も、性別も、性格も、ヴァイオリンを習う目的も、11人違います。

ようやく会話ができるようになり始めたくらいの3歳の子、元気いっぱい小学生、兄妹や姉妹または親子で習いに来られる方、反抗期の男の子、部活代わりに習いに来た中学生、外国の方、大人になってから初めてされる方、幼い頃にやっていて大人になってまた始められる方、1番年上な方で92歳!その方はなんと80歳からヴァイオリンを始めました!いつまでもチャレンジャーな方でした。

 

そんな生徒さん達と関わっていく事で、私の生活は、1人では味わえない何倍もの楽しさを味わえているなぁとつくづく思うんです。

 

週に1度、または月に2度の交流かもしれませんが、その方の人生の一部の時間にヴァイオリンのレッスンを入れてくれて、その時間を充実したものにするお手伝いができるなんて、なんて素敵な仕事だろうって思うんです。

 

この10年、そんな生徒さん方と過ごして、沢山の事を学び、沢山の喜びを味わいました。そんな生徒さんとのエピソードを感謝の気持ちを込めながら少しずつ書いていけたら、と思います。

どうぞ2年間、よろしくお願いします〓

 

再来月は、34歳の小さな生徒さんのお話です☆

沢山ある素敵なエピソードをぎゅぎゅぎゅっとまとめておきますね☆

今度は締切ぎりぎりにならないと思います、編集長! 

 

 

『雑感…地球

温暖化…』    

宮原 誠(トキハ文化教室)

 

ギラギラと輝く真夏の太陽の灼熱が殆ど無く、日照時間が例年の僅か48%となった今夏、何と雨の多い日々だったことでしょう。

そして広島での大災害、幸いにして九州での被害は無かったものの、中心気圧920ヘクトパスカルと言う超大型台風の来襲、この所チョクチョク『何十年も住んでいるのにこんな異常気象は初めて』と言う言葉を耳にします。

地球温暖化になりこの星の悲鳴が少しづつ形になって現れだした証しではないでしょうか?

先日四日間にわたりNHKで『巨大災害』と言う特集番組を放映していましたのでご覧になった方も多いと思いますが、異常気象とは30年或いはそれ以上に一回生じる現象で、確かに今年はアメリカ西海岸は500年振りの大干魃東側は-30℃の寒波、イギリスでは200年振りの大洪水、日本でも2月の大雪・巨大な雹・短時間豪雨による土石流、インドでは気候難民と世界中で災害が多発しています。

この現象は何も今年に限った事ではなく、今後頻繁に生じる可能性が有りそうです。

これらの現象はインドネシア西の太平洋の熱帯の海水温がわずか0.51.0℃高くなっただけで偏西風の流れが固定化された為に生じた現象らしいですが、さらに怖いのは7002000m深海の温度がジワジワと上昇、時間の経過と共に海全体の温度も上昇し、近い将来台風も急速に強化され中心気圧800ヘクトパスカル代のスーパーハリケーンの襲来も予想されています。

我々の住むこの青く美しい星の未来は、人類を始め全ての動・生物が安心して繁栄を続けて行けるほど楽観的では無いようです。

世界の気象学者による『温暖化による異常気象の警告』は数十年前から発せられていたにも関わらず、先進国の為政者・企業経営者達が自国・自社の繁栄と利潤を追求した結果と我々世代がその方針を阻止出来なかった結果が今の地球だと思われます。

やっと気づいたアメリカ、未だに膨大な軍事予算を使いながらPm2.5Co2を撒き散らす自称経済大国、そして唯一Co2減少に最大の効果をもたらす原発を停止した日本とまだまだ温暖化はどんどん進みそうです。

923日アメリカで『国連気候サミット』が開催され、日本の2050923日の天気予報がシュミレートされ発表されていました。

それによれば気温3136℃、京都の美しい紅葉の見頃はクリスマスのころとか?

そんな状況は想像もしたくありませんが案外現実味を帯びている気がします。

今我々は次・次世代にどんな遺産を残そうとしているのでしょうか?と考える日々です。

画期的な技術により温暖化防止が図れる事を願い、何時までも災害の少ない美しい地球、住み良い地球であって欲しいと念じつつ一人言を綴ってみました。

未来の為にほんの少しでも温暖化防止の努力をして行きたいと思っています。

 

50歳を過ぎて

からのギター

    岡 恒信 (トキハ文化教室)

 

昨年の12月、偶然ルベックの定期演奏会を鑑賞する機会がありました。その時聞いたギターの音色に感激しました。

後日、高校生の頃なぜかギターを購入したことを思い出し、実家の母に、「あのギターまだあるの」と聞くと、「確かあるわよ」とのこと。取り急ぎ送ってもらいました。30年以上前の物ですし、どんな状態かよく分かりませんでしたが、見た目はきれいでした。眺めていると無性に弾いてみたくなりましたが、一度も習ったことがない私には、習うこと以外に、ギターを弾くことが出来ないと思い、教えていただける場所、先生を探しました。

たどり着いたのが合同新聞文化教室の竹内先生が指導していらっしゃるギター教室でした。見学をさせていただきその場でお願いしました。現在、半年が過ぎましたが基礎のド・レ・ミから教えていただき、楽しいギターとの時間を過ごしています。

目標は、クラッシックの曲をソロで弾けるようになるまで、楽しい時間を過ごしていくことです。

 

音楽だより♪377  

 

郷愁の旅路  竹内幸一

さわやかな秋は、文化祭のシーズンです。今日は、西部公民館の本番があり、午後は中部公民館のリハーサルがありました。毎年の恒例行事をこなしていけるのは健康な証拠なので、忙しいとか言わずに、感謝しなければなりませんね。

さて今月は、孫の事を少しだけ書かせてください。俳句の世界では、「孫俳句に名句なし」「孫俳句は作るな」と言われています。孫は誰だってかわいくて愛おしく思う。それで類想、類句の山となるのです。「うちの孫は…」と、みんなが同じような発想になってしまうことからの、孫俳句禁止なんだと思います。膨大な作品を残した紘文先生には、かわいいお孫さんがいるのに、孫俳句は一句もありません。

ということで・・・・極めてありふれた孫の話で恐縮なんですが、少しだけ話の導入のために書かせてください。

佐賀に嫁いだ娘が、時折里帰りで孫を連れてきてくれます。その時は、今日は何を食べさせよう、明日はどこに連れて行こうと、じじばばは張り切ってお世話します。多分その特別な日が、孫もうれしいのだと思うのですが、さて別府を離れるという時になると、小さな心にさびしい気持ちが溢れてくるようです。

「そらちゃん、クマさんとおはなしがある」「みんなお出かけしていいよ、一人でお留守番しているから」・・・など、いろいろ理由を並べて、車に乗ろうとしないのです。

 今はだいぶ大きくなったので、しぶしぶ車に乗ってからも、泣くまい、泣くまいと我慢しているのですが、目から涙が伝って次々落ちてきます。それを指で拭いているのを見ると、じじばばも母親もウルウルとなるのです。

誰もいなくなってがらんとした部屋で、「まあ、それだけ別府を大事に思っていてくれているんやから」と妻と慰めあって、孫騒動が終わるのです。

どこにでもある実にありふれた光景ですが、そういうことがあるたびに、私は、小さい頃、祖母や従姉妹の住む母の実家への訪問の事を思い出すのです。夏休みや冬休みに、バスに乗り、軽便鉄道に乗り、1時間半ほどかけて、祖母や従姉妹の住む母の実家に出かけたものです。しかし、浮き浮きとする楽しい時間はすぐに終わります。何泊かの後には、帰らざるを得なくなります。

みんなが駅まで見送りに来てくれて、軽便鉄道に乗り、一人で家路に着くときの、あの夕暮れの寂寥をまざまざと思いだします。夢の世界から、暗闇の中へ軽便鉄道が進んでいく気がしたものでした。電車の窓から見える崖の上の松の木の様子まで、もう半世紀以上も前の事なのにくっきりと思い浮かべることが出来ます。泣きたいような寂しさの中で、心を震わせながら、あの松の木の下を通り過ぎて行ったものです。

祖母の家では、楽しいことばかりでした。夏休みに行けば、自転車でチリンチリンと売りに来るアイスキャンデーが、暑い日の何よりの楽しみでした。また、ガラスの瓶に入った水あめがあり、それを割り箸にくるくるっと巻いて食べさせてもくれました。その他、お菓子や果物など、たぶん今の私たちが孫にするように、精一杯歓待してくれたのだろうと思います。

 それに何よりも、同じ年の従姉妹がいて、一緒に海へ行ったり、いろんなおしゃべりをしたり、また喧嘩をしたりするのが、大きな楽しみでした。

 それでふと思い出しましたが、その従姉妹が結核になり、多分半年ほど休学したことがありました。訪ねて行くと、浴衣を着て寝ていました。

 その時は、そこまで気が回らなかったのですが、今思うに、彼女が結核になったのは、時折我が家にも遊びに来ていて、私の父親と接触があったことが原因だろうと思うのです。そこから感染してしまったのでしょう。今頃申し訳ない気分になっています。もしかしたら、彼女の家庭で、我が家のことが非難され、「もう行ったらいけないよ」と止められるような、悶着が起きた可能性もあることでしょう。当時、我が家が責められたような記憶は全くありませんが、今頃、彼女の親の心を思っています。

 幸いなことに、彼女の結核は完治したようで、今でも元気にしています。いつも田舎の母親のお世話を何かといろいろお願いできる貴重な人材で、どれだけ助けられているかわかりません。

 そういえば、昔は子沢山でしたので、そう珍しくなかったと思いますが、この母の実家も、係累になる親戚がたくさんありました。従姉妹の父親、綱井のおいちゃん、大分、鶴川、八幡のおじさん、戦死の方、東京のおばちゃん、そして母と、数え漏れがあるかもしれませんが、多分8人ほどの子供がいました。

今、たった一人でも大変なのに、祖母は、その8人の子供をきちんと仕事につくまで、全部育て上げたのですから、実にたくましい生命力だと、今さらながら思います。しかし、寂しく悲しいことに、そのおじさんおばさんたちは、長女である私の母一人を残しただけで、今はみんな亡くなってしまいました。それぞれの方に、それぞれのドラマを残してみんな去って行きました。

当時孫だった私が、今は祖父(なんだか変だな?)です。時代が動いて、孫のある人もない人も、変わりなく時間が過ぎて行きます。

孫が、40年、50年して祖母になるときもいずれやってきます。やってくるはずです。異常気象や原発事故や地震などで、流れが途切れることなく、人間の営みが続いて行ってほしいと願わずにいられません。私達には全く見ることの出来ない新しい時代の暮らしの中で、孫たちは、たまには別府のじじばばのことを思い出してくれるでしょうか?

 

連載その1

近況報告

ピアノ&声楽科講師 白石まさ子)

 

2年間、ヴァイオリン講師の徳田美和先生と隔月で書かせていただきます、

ピアノと声楽講師の白石まさ子です。

下手な文書ですが、どうぞ2年間お付き合いください。

初めてエスプレシボに1年間書かせて頂いたのが2008年。6年前になります。

この6年の間に変わった事とは、まずオペラの団体大分二期会に正会員で入会し演奏の機会が増えたことと音楽のお友達や仲間が増えたこと。

そして別府のビーコンオペレッタ劇場に4年間地元ソリストで出演したことです。この経験はその後の演奏にとてもプラスとなりました。

このお話はまた詳しく書かせていただきます。

身近な生活では、2010年8月愛犬柴犬のけん太君が15歳と6か月で老衰で永眠。

その翌年2011年12月25日クリスマスの日に、ジャックラッセルテリアのちびすけ君が我が家に来たことです。

 

愛猫しろねこの美優ちゃんは?今年で11歳になりますが毎日日向ぼっこしながら、のほほ~んと暮らしております。

あとは、6歳私も年をとったことかな!

このワンニャン記も、後日じっくり書かせていただきます。

それでは、徳田美和先生と共に2年間よろしくお願いします。

2の人生に

ファイトファイト

   

      津守 實(トキハ文化教室)

 

 私は会社を定年退職して第2の人生に、何か特技を身に付けようとギターを習いはじめて35カ月になります。自宅から別府トキハ駐車場まで車で往復2時間の道のりを一日も休むことなく、音符とにらめっこしながら今日までやってきました。

 そして新しくピアノを購入して、今年の4月からピアノを習いはじめて6カ月になりました。大谷選手の二刀流ではありませんが、ギターとピアノの両立でファイトファイトと頑張っています。

 健康面では、朝はごみ出し、家周囲の草取り、月1回の墓掃除、それに、糖尿病であるため病院へ通い、2カ月に一度の検査をしています。

 そして大分市保健所健康課からもらった歩数計でウォーキングに取り組み歩数記録用紙に記録しています。

 竹内先生、伊東先生、会員の皆さん、今後共よろしくお願いします。

 

ハプニング

そしてハプニング

     

 田中幸子(ルベックひまわり)

 

あの時、私は、成田空港の空の上でした。

あの時とは、2011年311日『東日本大震災』の最大の揺れの時です。そしてその直後2時50分に成田空港に飛行機が降りたのです。その時私は左腕骨折の姿でした。

その10日前の32日から私と主人は、ボリビアの旅をしておりました。ボリビアという国は、南米の中央近くにあり、そこにウユニ塩湖があります。塩でできた湖では世界で一番広く、日本の四国全部が入る広さです。この2月3月の雨季の初めしか見られない風景があります。湖にうっすらと水がたまると

 

湖が鏡のようになり、青空が湖面に映り、天空の鏡といわれる景色となるのです。

ウユニ塩湖の3日間は、建物もベッドも全てが塩でできたホテルに泊まり、昼はジープや徒歩で渡り、どこまでも、どこまでも続く青い湖の上はまるで天国を歩いているのでは、と錯覚を覚えさせるようでした。

夜は満天の星が輝き、天の川と南十字星が空にも湖にもあり、その素晴らしさに感激しました。ボリビアの三千七百メートルの高地を移動しているにもかかわらず、私と主人は高山病にもかからず、旅を楽しんでいました。ただし、ボリビアの空港からウユニ塩湖までの12時間は途中にはホテルも建物も何もない草原ですので、トイレは青空トイレでした。皆様ご経験がありますか?夕闇の中に桃?がでした。

 ところがその素晴らしい旅の最中はハプニングそしてハプニングの連続でした。

盗難事件です。リオのカーニバルのような国を挙げてのお祭りを見て最中、人ごみの中で私達の仲間の四人もの人がカバンやポケットをカッターで切られたのでした。

主人は、携帯電話・隣のおじさんはパスポートを。女性はカバンのポケットからカードを紛失という結果でした。パスポートがなければ日本に帰れません。今回は幸いにも、旅行最後の町に大使館があって、帰る日の朝にパスポートの再発行が間に合ったのでした。       

私のハプニングは左腕の骨折です。日本に帰る3日前、観光の為、3600メートルの高地の道路を、走って渡ろうとして転倒。まるでダルマさんが転んだようだったと主人の一言。

ドーン・グギッ・いたい!激痛が走りました。それから四時間後に大使館のあるラパスという町に着きました。国中のカーニバルで病院も休み、医師も踊りに行き、不在とのこと。ようやく夜八時過ぎに通訳のボリビア人と大使館の人と主人と病院に行きました。

四人もの太った医師に骨折している腕を麻酔なしで、ひっぱられて、ギプス固定でした。『お産よりいたい!』と私。『大きな赤ちゃんが生まれました。』とボリビアの先生がスペイン語で笑って話していました。そして 次の日、日本に帰る飛行機に乗ることができたのでした。

南米から北米に⒑時間飛行機に乗って降りて、乗り継ぎ、北米から日本へと⒑時間飛行機に乗って降りての為、私の左腕は紫色にはれてゾウのようでした。

ようやく日本の成田空港に到着。2時45分に大きな地震の直後2時50分に地上におりました。後で聞くと私たちの飛行機のあとの全部の飛行機は、名古屋空港などの他の場所に行ってしまったそうです。私たちは、運がいいのか悪いのか?

入国手続きの最中に第二回目の大きな地震が来ました。すぐ空港内のすべての人が、建物の外の駐車場に避難。空港内のハンバーガーショップのお姉さんたちはミニスカートで半袖です。そばには赤ちゃんもいます。5000人以上の人がいたでしょう。

           <次号に続く>

 

 

 

音楽だより♪375  

 

マーガリン竹内幸一

8月は雨模様の暗い日が続きました。昨年の酷暑を思うと、過ごしやすくて良かったかなとも思います。しかし、いい加減カラっと晴れてほしいという、勝手で、わがままなことも思っている夏の終わりです。

 さて今月は、マーガリンという題です。ある日の夕食に出た味噌汁を見ていて、「そう言えば昔、この味噌汁にマーガリンをひとかけら入れていたなあ」と、ふと思い出しました。今月は、これを糸口にして、私にとって50年以上も前の出来事を少し振り返ってみようと思います。どうぞお付き合いください。

 私の父は結核を患い、自宅療養をしていました。その父と暮らしていたのは、私が物心ついてから13歳の中学入学の頃までのほんの7,8年のことでした。私が中学1年生の時、38歳であっけなく逝ってしまったその父の事を、マーガリンによって思い出します。

 療養は、薬(パス・ヒドラジット)を飲むのが主のようでした。治ることがなかったのですから、多分ほとんど効き目がなかったのでしょう。3年ほど入院した後の自宅療養でしたが、もう既に医療の手に負えなくなっていたのかもしれません。

 そんな暮らしの中で、少しでも希望をつなぐためには、体力をつけるために、栄養を取ることでした。自然のいい空気の田舎で暮らし、栄養を取れば何とかなると期待していたのでしょう。

 その栄養補給の一つが、「マーガリン」でした。多分バターは高価なので買えなかったのでしょう。熱い味噌汁に、マーガリンの塊を落とすと、縞模様の地図が味噌汁の上に広がりました。その味わいを今でも思い出します。

 このマーガリンを買ってくるのは、私の役目でした。そのころ私も病気がちで、1時間ほどかけてバスで町の医者に通っていました。その帰りに駅前の「岩田屋」という店で、量り売りのマーガリンを買ってくるのです。この「岩田屋」は、農村に住む私にとっては、大都会のキラキラ輝く商店街にありました。

 「岩田屋」のすぐ近くには、軽便鉄道の始発駅があり、それに隣接して、半島一帯に張り巡らせていたバス路線の本拠地がありました。その地域は、鉄道やバスを利用するおびただしい人の群れで、活気にあふれていました。

 商店街は、銀行や旅館、そして各種の店舗が並び、目を見張るような繁華街でした。駅を出て、すぐの角の一等地に、その繁栄を象徴するような「岩田屋」が君臨していて、人であふれていました。小さな私にとって、そこは、トキハデパートにも思える巨大なお店でした。

 新しい直線道路のバイパスができて以来、その商店街を通ることは、全くありません。いつだったか、何十年ぶりかでその商店街を通って、泣きたくなるような寂しさを覚えました。町はさびれ、くすんで輝きを失っていました。そして、あの「岩田屋」は倒産し、埃だらけの小さな空っぽの店がありました。「ええ~!これがあの岩田屋か?」と絶句したのを覚えています。幼いころ、デパートにも思えていた店は、悲しいほどの小さな、小さなスペースでした。

 もう少し、栄養補給の食べ物について書きましょう。何かの情報で、ニンニクがいいと聞いたのでしょうか、父は、醤油漬けのニンニクを毎日、2,3粒食べていました。父が、おいしそうに噛む音が、今も耳に残っています。醤油漬けの瓶が、台所の棚に2,3本並んでいましたが、あれはどうなったのでしょうか?記憶にありません。

 卵も貴重な栄養源でした。学校から帰り、鶏小屋の戸を開けて、ミカンの木の下に小麦をまいてやるのが、私の仕事でした。7,8羽の鶏は、外で遊び(餌を食べ)、夕暮れになると、ひとりでに小屋に入っていました。

 鶏小屋の隣に、アヒル小屋もありました。こちらの戸を開けると、アヒルがクワクワ言いながら、1列に並んで、私に付いてきました。前にある池まで来ると、アヒルは池に入り、楽しそうに泳いでいました。どんな合図をしたのか忘れましたが、帰るときも、みんな一列に並び、私に付いてきて、おとなしく小屋に入りました。今思えば、童話の絵のような光景ですね。

 牛乳は買えないので、山羊を飼っていました。ヤギの乳を飲むのも大きな栄養補給の一つでした。ある時、その山羊を死なしてしまったことがありました。草を食べさせようと山羊を連れ出し、日陰の木の下につないでいました。ところが、連れ出したときは日陰でしたが、時間がたつにつれて、カンカン照りの日差しが山羊を襲うことになりました。そこまで気が回らなかった私の罪で、山羊は死んでしまいました。

 こう書くとなんだかよくお手伝いをしていたような感じですが…たぶんほんの気まぐれで、ほとんどは父母がカバーしてくれていたんだと思います。しかし、良い思い出の数々です。

 マーガリン、二ンニク、鶏やアヒルの卵、山羊の乳…その効果があったのかなかったのかわかりませんが、それがあったからこそ、父の寿命も少しは延びたのではと思うことにしています。

 少なくとも、弱々しいながら、私がここまで何とか生きているのは、その父の栄養補給を一緒に食べさせて貰えたからだと思っています。感謝。

 

連載その12

「バトンタッチ」

(オカリナ科講師 渡辺明子)

 

 例年ならば、処暑を過ぎた頃には秋色の空が広がっているのですが、今年はすっきりしないお天気が続いています。皆さんお変わりございませんか?夏バテしないように、どうぞお気をつけ下さい。さて、今回は私の子どもの頃の「夏の思い出」に関連して書かせて頂きます。

 

 夏休みの楽しみの一つは、町内の公民館で行なわれる「野外映写会」でした。お盆が過ぎた頃の1回だけだったような気がしますが、その日はどこの家庭も早めに夕飯を済ませて、うちわや座布団を手に、公民館の広場に集まりました。広場は、すでに昼間のうちに「ござ」が敷き詰められていました。

「今日は何の映画かなあ」「チャンバラやろか?」「月光仮面やったらいいなあ」「はよ始まらんかなあ」大人も子どもも、期待に胸を躍らせながら映写機のスイッチが入るのを、今か今かと待っていました。スクリーンは公民館の庭にある、2本の大きな桜の幹にロープを渡して張り、そこにシーツを掛けた特製のものでした。辺りが薄暗くなった頃、映写機のスイッチが入ります。ジジジジ…と音がしてフィルムがまわり始め、先ず最初にスクリーンいっぱいに『日本ニュース』のタイトルが映し出されました。映像はすべてモノクロでした。国政ニュースや経済情報に始まり、各都道府県からの選りすぐりのトピックス等々、独特のナレーションも印象的でした。今日のように情報網が発達していなかった時代、「日本ニュース」は、とても興味深く、それ自体がまるで短編映画のようでした。上映時間も結構長かった気がします。

 小さい子どもたちは、最初は元気に観ていましたが、段々と睡魔におそわれ、本編を待たずに眠ってしまいました。私も本編がどんな内容だったかは忘れました。ただスクリーンが、時折吹く夜風に、パタパタと音を立てて揺れ、まるで拍手のように聞こえ、面白かった事を覚えています。

向こう3軒両隣の隣組が活発だった頃、

「あらあら、○○ちゃんは寝てしまったねえ」「奥さん重たいやろ?」「おんぶするやろ?荷物、私が持っちゃろか?」皆当たり前のように、お互いを思いやっていました。「あ~、今日の映画も面白かったなあ」「本当やなあ、また明日から元気に働けそうやなあ」「○○君、宿題終わった?」「まだ~」

夏の夜、満天の星を見上げながら、家族で歌ったりおしゃべりをしたりして、温かな豊かな気持ちで家に帰りました。

 

 時代は変わり、様々な事が驚くような速さで進化しました。わざわざ蚊に刺されるのを我慢して野外映写会に行かなくても、衛星放送やインターネットで世界中のニュースを、居ながらにしてすぐに入手できます。

当然、巷には教育上好ましくない物も溢れています。カタカナやアルファベットの3文字パターンが増え、若者の造語は難解です。大人が他人の子に注意しようものなら、即訴えられるという、信じられない世の中になってしまいました。

皆、何をそんなに急いだのでしょうか?以前「せまい日本、そんなに急いでどこへいく」という標語がありました。確かに的を射ています。がむしゃらに走っても、なかなか希望した目的地に着かず、気持ちは焦るばかり。そしてその焦りは弱者への攻撃へと替わって行きました。「家族の団欒」は遠い昔の夢物語なのでしょうか?都会では、「ご近所づきあい」という言葉も、今では死語になってしまったようです。

 

 この事で是否論を戦わせるつもりはありませんが、私達大人の責任は本当に重大だと痛感しています。時代の流れの中で、何が大切か、何が真実か、何を後世に伝え、残さなければならないか…。今、私達は試されているように思えてなりません。

 最近、昭和の頃の歌をよく耳にします。若い歌手がカバーしている曲もあります。改めて歌詞を読んでみると、「きれいなことばだなあ」と実感します。そこには日本人本来の「つつましさ」「奥ゆかしさ」「尊ぶ心」「感謝の心」などが満ち溢れています。そのような昭和の曲へのリクエストがあるという事は…。日本の将来はまだまだ大丈夫ですね。大いに期待しつつ、次代へのバトンタッチが成功するように、日々励みたいと思います。

 夏の終わりを惜しむかのように、日中は「つくつく法師」が賑やかにないていますが、夜は草むらから「リリリ…」とコウロギの声が聞こえます。生き物の世界も引継ぎが始まり、少しずつ季節が移ろいでいるようです。

 

 1年に渡り書かせていただいた、つたない私の寄稿も今回で終わりです。毎回ご愛読いただきありがとうございました。ご感想をお寄せいただいたり、励ましを頂いたりして、なんとか無事に最終回まで辿り着けました。沢山の感謝を込めて次の執筆者にバトンタッチします。ありがとうございました。ごきげんよう。

 

  

渡辺先生、1年間の連載有難うございました。毎月読ませていただいて、これまでの人生の中に、いろんな心温まる出来事がたくさんあったことがわかりました。時間を大切に生きてきた軌跡を読ませていただき、感謝の気持ちでいっぱいです。

お忙しい中で、毎回締め切り日までに、きちんと間に合わせていただき恐縮でした。ありがとうございました。

次号より、徳田美和先生(ヴァイオリン科講師)と白石まさ子先生(声楽&ピアノ科講師)のお二人による隔月連載で、2年間続きます。どうぞお楽しみに。(竹内)

  

花が咲く 2

       安部康二郎(ルベックムーン)

やっと今年の1月に2つのバルブから4輪の花が咲きました。やはり花を咲かせるのはギターと同じで、日々の努力が必要だと思います。ギターで悲しい酒やアルハンブラの思い出を弾きたいと思っても、基礎がわかってないまま弾いたら、本人は酔いしれますが、他の人が聞いたら哀れなものです。最近やっと解りました。

先月、私の誕生日に孫達からギターのレッスン用のバッグとコチョウランの花をプレゼントされました。

来年うまくコチョウランの花を咲かせることが出来るでしょうか?必ず花は咲く事を夢見て頑張ってみたいと思います。

今、ボタンが大きな花をつけ満開です。クンシランも咲いて綺麗です。ギターの方は、今年から隣りに座った長谷さんみたいになりたいと思います。今後ともよろしくお願いします。

 

ギタ-との出会い

      吉本冨佐子(ルベックムーン)

 

 ギターとの出会いは、「ギター教室中部公民館生徒募集」を見て音楽院まで行きお願いをしました。60才近い初心者でした。こんなに長く続いたことは自分でも不思議です。

 先生の優しいご指導とムーンをはじめ皆さんのお蔭と感謝して居ります。此の頃は年だからと甘えて気力がなくなってきたと思います。

 やる気の出ない時は気分の切り替えに音楽鑑賞などがよいと言われます。高尚なことを言っても立派なものを持っているわけではありません。旧式のラジカセで聴くのです。

色々のCD、テープがある中の、五弦会、ムーンの定演のギター曲を改めて聴くと、懐かしくて元気が出てきます。

老いた日々に、穏やかな心でギターや音楽を楽しめて、本当に有難いことです。

 

374  エスプレシボ

鈍感力 竹内幸一

梅雨が明け、学校が夏休みになった途端に、猛暑がやってきました。しばらくは、また熱中症のニュースが続くことでしょう。皆様どうぞご注意ください。

さて今月は、この暑さ対策やその克服法を、皆様に特別にこっそり伝授(笑)したいと思います。どうぞ最後まで読んでみてください。さて結果は??

最近、作家の渡辺淳一が亡くなりました。その追悼記事の中で、「鈍感力」と言う本を、当時の小泉首相も読んだというのにちょっと興味を持ちました。それで「鈍感力」取り寄せて読んでみました。

内容には、そう新鮮なところはありませんでした。しかし「鈍感力」という言葉には、魅力を感じました。

仙厓(せんがい)和尚の言葉に「気に入らぬ風もあろうに柳かな」と言う格言があります。この短い格言で、「鈍感力」の本1冊分以上の内容があることに、思いが至りました。それで、「鈍感力」を踏まえ、「気に入らぬ風もあろうに柳かな」について、考えてみようと思います。

柳には、様々な風が吹いてきます。西から吹く風、北東から吹く風…様々ですが、いつもそれに合わせて、柳は揺られているばかりです。

風は、私たちの人生に置き換えるとすれば、様々な苦しさ、悲しさ、寂しさ、そして喜びや楽しさの代名詞です。生きていると、次々に、これでもか、これでもかと頭を抱えることが出てきます。気に入らない風を受けなければならないことが続きます。

そんな時に、「鈍感」の力が必要なのです。鈍感であるということは、無視するとか、拒絶するということとは違います。気に入る風も、気に入らない風もすべてを受け止めるには、「力」が必要なのです。それは、いうなれば「折れない力」なのです。

もうだいぶ前の事ですが、胃潰瘍にならなければいいがと、自分自身で心配するような悩みがありました。その時、自棄になって、もうこんなものぶち壊してしまおうかとも思いました。そうした後の想定に様々な思いを巡らせながら、悶々とした夜を過ごしました。

気に入らない風を柔らかく受け入れる力がなかったのです。反発し、拒絶し、そんな風を力づくではねかえそうともがいたのです。折れる寸前でしたが、何とか持ち直し、今となれば、ぶち壊さなくてよかったとつくづく思います。

シャープで鋭敏であることが、大きな間違いを起こすもとになることがあります。かっとなって行動すれば、世の中犯罪だらけになることでしょう。切れてしまうのは、ほんの一部だけだからこそ、何とか普段の暮らしが成り立っているのです。

いろんな風に、いいように振り回されている柳を、ひょっとしたら、笑うとか軽蔑したりする気分を持つ方がおられるかもしれません。しかし、どんな風が来ても、それをすべて大きく受け止め、倒れないで立っていると言うのは、なかなかできることではありません。どんなに揺れても芯棒がしっかりしていなければ、吹き飛ばされてしまいます。

夫婦関係円満のコツは、「和して同ぜず」だそうです。いちいち鋭敏に突き当たるのではなく、「そういう言い分もわかる」と一応受け止めて、それから後のことは、そのうちゆっくり考えるのです。柳に風の懐が深いほど、揉め事や喧嘩が少なくなります。まず「和して」そして「同ぜず」がポイントです。

「鈍感力」の本の裏表紙に次のように書いています。「些細なことで揺るがない<鈍さ>こそ、生きていく上で、最も大切で、源になる才能だと説き明かす。恋愛関係、夫婦生活、子育て、職場、環境適応能力…。様々な局面で求められる「鈍感力とは何か。先行き不透明な現代を生き抜くヒントが満載」…とあります。

その鈍感力の具体的な、ちょっと我慢した成功例が、本で紹介されています。また次のような文もありました。

「長い人生の途中、苦しいことや辛いこと、さらに失敗することなどいろいろある。そういう気が落ち込むときにそのまま崩れず、また立ち上がって前へ向かって明るく進んでいく。そういうしたたかな力を鈍感力と言っているのである」

それは、まさに、風に折れない柳の柔らかな対応力の事です。

仏教の本に、「手を合わせて、悩みや苦しみを私の暮らしから無くしてくださいと、祈らないでください。人が生きている間は、悩みや苦しみが無くなることはないのです。浄土に行くまでは、常に悩み苦しみを抱えて生きていかねばならいのです。悩みや苦しみを消そう消そうとするのではなく、それらをきちんと受け止めて、自分の暮らしの中に存在させることが出来た時にこそ、本当の救いがあるのです」というようなことを書いていました。

これも、懐の深い、柳の風対策ですね。「気に入らぬ風もあろうに柳かな」。いいことも悪いことも、両手を広げて、受け入れましょう。

暑い日もあれば、寒い日もある。雨の日も、風の日も、台風の日もあります。どれほど嫌でも、それを拒否したり無視したりすることはできません。来るものは拒まず。さあ皆さん両手を広げて、この暑さを受け止めましょう。

はて、これが解決法でしょうか?(笑)

 

 

連載その11

「汝は盟友なり!」

(オカリナ科講師 渡辺明子)

 

梅雨明けと同時に夏休みがやって来ました。

海も山も大賑わいですね。この夏皆さんはどのように過ごされますか?ふるさとへ帰省される方は高速道路の渋滞や交通機関の混雑でお疲れの事でしょう。暑さ厳しき折どうぞお気をつけください。

 最近近くのバス停で、女子大生らしき人を見かけるようになりました。決まった曜日の決まった時間です。手には緑色の袋。夏休みを利用して運転免許取得のために、自動車学校の送迎バスを待っているようです。自動車学校も以前は市内に2つありましたが、今は統合されて一つになりました。少子高齢化の波は、免許取得人口減少にも押し寄せているのでしょうか?オートマのみの免許証取得も可能になり、世の中の移り変わりを感じます。

 30年以上も前、私がまだ南立石にあった自動車学校に通っていた時の笑い話を聞いてください。

本免の路上運転試験に合格し、大分市賀来の運転試験場に学科試験を受けに行った時のことです。受験者は皆一緒に、自動車学校が準備したマイクロバスに乗って会場入りすることになっていました。私の時は14~5人くらいでした。往きのバスの中では、皆緊張した面持ちで交通法規の参考書を見たり、問題集を解いたりしていました。すると突然後ろの席の人が、私に声をかけてきました。

「あなた、座布団おねえさんでしょう?」「え?座布団?」そのやり取りを皮切りに、今度は前の席の人が「そうやわあ、あんた座布団の人やなあ?」今度は右隣の人が「有名やったんよ~。あなたの座布団」と話しかけてきました。「え~!!座布団って一体…??」今まで参考書や問題集に見入っていた人たちも「座布団おねえさん」の話題に加わって、車内は不思議な連帯意識が生まれていました。読者の中にはもうお気づきの方がいらっしゃるかも知れませんが、背の低い私にとって「座布団」は教習車での必須アイテムでした。

当時教習車は大型のセダンで、ギアは全てミッションでした。運転席を前方にいっぱい引き寄せても、クラッチペダルに足が届かなかったのです。私は恥も外聞も捨てて(笑)初日から座布団持参で送迎バスに乗り込みました。しかもその座布団は、クッションではなく大きなしっかりとした『赤いお座敷用の座布団』でした。座布団の対角線の長さが、ほぼ座高に等しい大きさです。当然人目につきます。なんと、私には光栄なことに「座布団おねえさん(当時はまだおねえさんでした)」というあだ名がついていたのでした。しかしながら、お座敷座布団は本当に役立ってくれました。コース内の坂道発進・半クラッチ・踏み切り前一旦停止・S字・クランク・車庫入れ・仮免での路上教習・本免検定…全ての場面で私の上半身をしっかりと支えてくれたので、クラッチペダルにも足が届き、ギアの切り替えもスムーズに行えて、運転に集中する事が出来ました。

「私の座布団姿はそんなに有名だったんですか?」「もう、ばっちり!座布団おねえさんを知らない人はいないくらいよ」「じゃあ、もし私が学科試験に落ちたら大恥ですよねえ」「そりゃあそうよ!絶対合格しなくちゃ」皆の会話を聞いていた引率の先生も、車内の賑わいを諌めることなく、「このバスに乗り合わせたメンバーは、皆盟友だからね。頑張って全員合格しておいで~」と励ましてくれるほどでした。和気あいあいでリラックスして試験に臨み、結果は見事全員合格でした。

帰りの車内でも和やかな雰囲気は続いていました。

「ああ、もうこれで皆ともお別れやなあ」「なんか寂しいねえ」「もうお座敷座布団は見れんねえ」「楽しかったねえ」「皆元気で事故死せんようにしような」「ほんとやなあ、わっはっは!」

 私はそれからずっとミッション車に乗っていましたが、15年ほど前からオートマ車に替わりました。お座敷座布団は卒業しましたが、背当て用の小さな座布団を使っています。市内をチョロチョロする時も、片道8時間の長距離運転をする時も手放せない、この座布団こそが私にとっては盟友なのかも知れません。お陰様で取得以来、無事故無違反のゴールド免許です。

♪チャンチャカ・チャカチャカ・スッチャンチャン~ どこかで交通安全の神様がご覧になっていて、「この者の運転光景はなかなか面白いねえ~。おーい山田君。座布団3枚差し上げなさい」なんて事になったらどうしましょう?(笑)ともあれ盟友に感謝です。

 

ギターコードを楽しむ

後藤敬三(ルベックムーン)

今年も春の音楽祭が終わった。またも悔いの残る出来だったが仕方ない。実力が出ただけだから・・・・

 しかし収穫があった。どなたかわからないが、間違っても慌てずいい音(和音)を出していた。とても好感がもて全体として素晴らしい演奏であった。見習いたい。はや来年の楽しみができた。

 竹内先生に師事して7年になるが、最も嬉しかったのはコードを教えて頂いた事だ。

思えば昔、学生時代に同じ下宿の後輩がギターを弾いていたが、その伴奏が素晴らしく天才に見えたものです。

 いくつか習得し何曲か歌えるとうれしく、夢中に歌いまくり気が付くと深夜。大枚をはたいて買ったギターは爪で傷だらけ・・・。

 今でもカラオケ好きの友人が来るとアルコールの後30曲ぐらいは歌う。お金を入れずにカラオケが歌えるなんで!すばらしい!今は飲み会の後のカラオケの2次会には殆ど行きません。

 

花が咲く 1

       安部康二郎(ルベックムーン)

ギターのことは平成12年の353号と354号の2回に渡り掲載させていただきましたので、今回は花について書いてみたいと思います。

家内の実家の母が月下美人やシャコバサボテン等のたくさんの花を育てていました。特に月下美人が開花した時は、強烈な香りと美しさがありますが、夜中の2時ごろ咲くので、私には起きていることができないし、毎年見ることは無理です。

家内が実家からシャコバサボテンの鉢を持って帰ってきましたが、あまり気にすることがなかったのです。

13年ぐらい前に調査士会の役員を退き、ちょっと暇になり庭にあったシャコバサボテンを見たら、葉の先に真っ赤な花をつけ神秘的な感じがし、今後鉢花を育ててみようと思いました。

その後NHKの趣味の園芸の本を2年間毎月買い読みました。シャコバサボテンを初めクンシラン、シンビジュームと育て、最近はよく咲くようになり近所の人も感心しています。1週間前に今咲いているシンビジュームが10鉢と多くなったので近所の人へ分けてあげました。

3年ぐらい前にカトレアに挑戦してみようと思い、園芸店で売れ残りのカトレアを2鉢安く買って帰りました。カトレアは優雅な響きの花です。その魅力は、美しさ、甘い香り、一度は咲かせてみたい(くどいてみたい?)と願うあこがれの花です。

その年の夏に小さな花が咲いたのですが、すぐ枯れてしまいました。カトレアは冬の寒さをうまく越すのがポイントで、10度以下にしない事ですので、夜、電気ストーブを点け温かくして暖かくして冬を越します。

夏は遮光ネットで強い日差しを和らげ葉焼をさせない事ですが、毎日の水やり、少しの液体肥料を週に1回与えて涼しくすることで秋に花芽が付きます。

204~233

 

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