音楽だより♪370   

不滅の恋 竹内幸一

今年は、お彼岸が過ぎても寒い日が続いています。いくらなんでも、4月になれば暖かくなることでしょう。夏は暑すぎるし、冬は寒すぎるという異常気象は困ったものですが、音楽を味わうことで、何とかしのいでいけたらいいですね。

さて今回は、ベートーヴェンのことを書こうと思います。330日の小さなコンサートで、ベートーヴェンの特集をしました。その関係で、少しでも曲作りに役立てばと思い、伝記を読み、映画を見ました。それでだいぶベートーヴェンの激動、波乱の人生模様を理解することができました。

映画は、「楽聖・ベートーヴェン」、「敬愛するベートーヴェン」、そして「不滅の恋」の3本を見ました。中でも「不滅の恋」は、3回繰り返して見ました。(見るたびに、ああ、そうだったのかと言う新しい発見があり、視聴の粗雑さに驚かされました。)

この「不滅の恋」という映画は、「財産全てを“不滅の恋人”に捧ぐ」という遺書が発見されるところから始まります。その不滅の恋人とは誰なのかを、ベートーヴェンの弟子のシンドラーが捜していく中で、ベートーヴェンの生涯が語られるという筋立ての映画です。

一人目の女性候補は、貴族の娘の「ジュリエッタ」でした。彼女は、16日間だけピアノのレッスンを受けた「テレーゼ(エリーゼ)」の従妹で、やはりピアノのレッスンを受ける生徒でした。貧乏で何の肩書きもないベートーヴェンとの結婚には、父親が猛反対をしますが、ジュリエッタは気持ちを貫こうとします。

父親から、あの男の演奏を聴いたことがあるのかと言われ、新しいピアノを購入した機会にベートーヴェンに練習を勧めます。誰もいないから好きなだけ練習していいというのを受けて、ベートーヴェンは、ピアノのふたに耳をつけながら、静かに「月光」の一楽章を弾いています。

物陰でジュリエッタ親子は、その音楽を聴き、感動のあまり涙を流します。その喜びを伝えようと、そっと近づいてベートーヴェンの肩にジュリエッタが手を触れると、集中していたベートーヴェンは驚愕し、「試したんだな」と大声をあげて激怒し、走り去って行きます。誤解を解こうとジュリエッタが叫ぶのですが、耳の聞こえないべートーヴェンには届きません。

ジュリエッタは、その後すぐ、貴族仲間の若者と結婚してしまいます。30歳と17歳という年齢の差もありましたが、その破綻はやはり貴族との身分の違いが、原因だったと言われています。

二人目の候補は、主人と別居中の伯爵夫人でした。ある演奏会で、ピアノコンチェルトを弾いているのですが、耳が聞こえないことからピアノとオーケストラが合いません。「もう一度初めから」と繰り返すのですが、どうにもうまくいきません。客席は爆笑して、ベートーヴェンは舞台に立ち尽くします。その様子を見ていた伯爵夫人が、舞台に助けに行き、ベートーヴェンを救い出します。それ以後ベートーヴェンと伯爵夫人の親密な時期が続きます。

そんな折、ナポレオン軍がウイーンを攻撃し、伯爵夫人の家も砲弾にやられ、小さな子供が犠牲になります。その悲劇の場面の音楽が「運命」でした。

余談になりますが、私にはこの「運命」のジャ・ジャ・ジャ・ジャーンが、「き・こ・えん・ぞー」と叫んでいるような気がしてなりません。曲の中で、何度、その悲痛な叫びが出てくるでしょうか?

映画の中では、会話するのに、小さな黒板やノートに字を書いてそれを読むことで意思の疎通をしていました。しかしながら詩人のリルケは、「内から湧き上がる音楽のほかは、何も聞こえないように神によって耳を塞がれた者」と書き残しています。

ベートーヴェンは、大声を出したり、乱暴だったりして、精神に異常があるとも噂されました。しかし、女中に卵を投げつける等のいろんな奇行は、耳が聞こえないことからくる苛立ちや、勘違いが背景にありました。ハイリゲンシュタットで、耳の悪化に絶望し遺書を書いたりもしています。私も耳には苦労していますので、ベートーヴェンのその気持ちが少なからず理解できた気がします。

それはともかく、有力と思われた伯爵夫人から「実はベートーヴェンには、心から愛していた女性がいた」ということが語られます。なんとその女性は、弟、カスパールの妻「ヨハンナ」でした。

ヨハンナは、遊び好きで金遣いの荒い女性でした。たくさんの男性とも関係があり、弟が結婚したいという願いには、「こんな汚れた女を妻になど絶対に許さない」と、口汚く罵るのでした。

ある時、楽譜が見つからないと、弟の家に乗り込みます。返したという弟を無視して、ベートーヴェンは家探しをするのですが、しまいに弟と取っ組み合いの大喧嘩になります。その喧嘩の最中に、ヨハンナや甥のカールの目の前でカスパールは吐血します。ヨハンナはベートーヴェンを激しく攻撃します。

しかし、しかしです。そこが男と女の表と裏のある不思議な感情なのでしょうか。人前では、散々ヨハンナをぼろくそに言いながら、実は、カスパールに隠れて、こっそり逢瀬を繰り返していたのです。そして「あなたの子供を身ごもった」とヨハンナはベートーヴェンに打ち明けます。つまり、あのカールは・・・

ある時、ホテルで会う約束をするのですが、ベートーヴェンの乗った馬車が、雨でぬかるんだ道に車輪がはまり、どうにも進めなくなります。思いのたけをこめた手紙だけがホテルに先に着くのですが、ヨハンナには届かないまま擦れ違いになります。その時、ヨハンナは、捨てられたと思いこんだのです。

息を引き取る少し前に、ヨハンナがベートーヴェンの面会に来ます。その時「喜劇は終わったんだな」と、ベートーヴェンが弱々しくぽつんとしゃべります。

♪ご希望の方には「不滅の恋」のDVDをお貸しします。おすすめです。

 

連載その7

「蛙が、ぴょん!」

(オカリナ科講師 渡辺明子)

 

 鉄輪の地獄地帯の観光絵ハガキを見ると、鶴見山と扇山を背景に沢山の湯煙が立ち昇り、地獄どころか極楽情緒満点です。「別府では、どこの家もお風呂は温泉ですか?」県外の方と知り合うと、いつも訊かれます。「いえいえ、うちはガス風呂です。うちの近くには泉脈が通っていないので、引き湯工事や権利などで100万円以上かかるんですよ。毎月の維持費もかかるし…、入りたい時にあの湯煙の下の温泉に入りに行くんですよ。」「わあ、そりゃまたいいですねえ。入りたい時にいつでも入れるなんて、うらやましい限りですよ。広い温泉で手足を伸ばしたら気持ちがいいでしょうね。」「はいそれはもう最高ですね。どうです、これからご一緒に。」「えっ!本当に入れるんですか?」「大丈夫ですよ、行きましょう。」「いやあ、すごい。別府の人は幸せですねえ…。」

 

 思えば、私の父も温泉が大好きでした。私がまだ4歳か5歳くらいの時、週に何回か鉄輪の「熱の湯」に通っていました。熱の湯は、自宅から現在のルミエールの下の道を真っ直ぐ北に行き、馬場や新別府を過ぎ、春木川を渡って、ひょうたん温泉のまだ先ですので、片道2Km以上はあったと思います。50年以上も前ですので車などはありません。徒歩です。バスはあったようですが日に数本程度で、いざという時には間に合いませんでした。道路も舗装されておらず、荷車が通っていました。人家もまばらで、夜道は真っ暗で静まり返っていました。記憶は断片的ですが、往く道は家族みんなで歌をうたっていました。途中春木川の橋の上で立ち止まって、蛍の幻想的な光を眺めたこともありました。橋を越えると、道の両側は田んぼでした。にぎやかな蛙の大合唱が面白くて「けーろ、けろけろ、ぐわ〜ぐわ〜ぐわ〜」と鳴き声を真似て、その声がまた面白くてみんなで笑いながら歩きました。

 ひょうたん温泉の辺りに着くと、あちこちから噴気がゴーゴーと音を立てて勢いよく上がり、硫黄の香りが漂っていました。雨上がりには噴気の音が一段と大きくなり、湯煙の量も増えるようです。「わあ、ゆで卵のにおいがする」「食べたァい」「あ、あそこの籠の中に卵が入ってる」「あれは旅館のお客さん用だよ。温泉卵を作っているんだね」「いいなあ、お客さん。私達もお客さんになろうよ」「大人になったらね」「いつ大人になれる?あした?」「ばかね、あっこちゃんは一番小さいんだから、大人になるのも一番最後よ」「え〜、それまであの卵、あるかなあ」

賑やかな5人家族のおしゃべりは帰り道も続いていました。広いお風呂に100まで数えて入ったから体はいつまでもぽかぽかでしたが、はしゃぎ過ぎて少しくたびれて来ました。蛙の声を聞きながら帰り道の半分ほど来た所で、父がゆっくりしゃがみました。それが合図でした。私は素早く駆け寄って父の背中に飛びつきました。父はまたゆっくりと立ち上がって、「おやあ?さっきまで田んぼにいた蛙が、ぴょん!と背中に乗って来たぞ」とおどけて言いました。「あ〜、ずるい!」「ほんとだ、いつもあっこちゃんだけおんぶされて〜」二人の姉が抗議すると、「ちゃァんと、二人が小さい時もそれぞれにおんぶされてたわよ。姉妹はみんな平等よ」と母がにこにこ笑って言いました。私は父の背中にほっぺたをくっつけて「あたし、一番小さくて良かったなあ」と安堵しました。

 

 湯煙の風景は今も昔と同様、変わりませんが、街は様変わりしました。宅地化され分譲されて、沢山の家が立ち並びました。春木川の水位も下がり、蛍の舞にはなかなかお目にかかれません。田んぼのあとにはコンビニが出来て、蛙の声も消えました。カブトムシもクワガタもデパートで買えるという時代の移り変わりに、天国の両親もきっと驚いていることでしょう。父はもうこの世にいないのだから、当然「蛙が、ぴょん!」も在り得ないのですが、鉄輪方面から春木川の橋を越えて、新別府の交差点の赤信号で待っている時に「あなたたち3人をみんな平等に愛したわよ。こっちに来るまで、みんなずっと仲良しでいなさいよ。」という母の明るい声が聞こえて来るような気がします。桜の季節、今度のお休みは春の陽気に誘われて、のんびりとおたまじゃくしでも探しに行って見ましょう。

 

 

 

 

のめり込む

        高橋 勇(ルベックムーン)

 

きっかけは、倉庫にあった古いギター。叔父さんいわくお客が置いて帰ったもの。

叔父の仕事は食堂。支払いに困り置いていったものだった。昭和40年代のころ。

私たちの時代の人はみなそのころNHKの「ギターを弾こう」のテレビ番組から覚えたものだった、もちろん曲は流行歌ばかり。そして時代も進みフォークギター・エレキギターと、流行に流されて落ち着いたところがガットギター。

私にもいろいろと変化があり、大分県立盲学校に入る。そこにある音楽部にギター部がありそこから、クラッシックの演奏に引き込まれていった。

好きになる優しい音色、流れるようなメロディーにすごく感動して私も演奏ができるようにと頑張った。先輩の教えはギターの構え方、指の使い方、爪の長さから、磨き方や角度やらギターの手入れまで教えてもらった。それまではギターなどは部屋の隅でごろごろしていたし、我流で覚えていたが、扱い方が変わっていった。そして、ギターで一曲ひけることで楽しくなる。それから、すこしずつクラッシックギターにのめりこむ。

一曲できるとうれしくなり曲目も増えてくる。しかし、練習もだんだん厳しくなりクラッシックの深さを知らされてくるとギターが重くなりいやになることさえあった。

合奏で弾く曲が多くて独奏曲が弾きたくてもなかなかチャンスがなくて、合奏の曲ができるとついさぼってしまう。そんな時個人レッスンを受けることにして一人の先生に習いはじめた。私の前で、魔笛を弾いてみせてくれた。一層のめりこむことになった。

さっそく楽器店に行き、やっとの思いで買ったギター、松岡ギター。あれこれと聴き比べ四万円。40年前のこと。いままでの音楽部のギターとは音もなにもかもちがう。ギターも部活動でなくて手元に置いていつでも弾ける。寝ても起きてもそばにギターがあるそのころの気持ちはうきうき。

しかし世の中は残酷ですよね。それから二年後、卒業して一年、私の視力が、ドクターの予言どおりに失明。それで、楽譜も、譜面台もギターも手放した。

それから10年、録音された別府市の市報に、「ギターを教えます」の記事。それを聞き、さっそく竹内先生を訪ねた。

そして、できあがる喜びを味わった。一曲、一曲、また、弾けるようになると、新しい楽器が、ほしくなる。昔の先輩が言っていた。楽器が自分を育ててくれる。

それを思い出して、ちょっとキザぽいけど、新しいギターを手に入れました。たしかに音も、はじく指の感じもなにかしらちがう。いつしかこのギターに似合う自分が出来上がる時まで弾き続けるように、健康でいられるように頑張りたいものです

よく人から聞かれること。どうして覚えているのかと聞かれます。それこそ先生が

一曲、一曲をテープに録音していただけるからだ。これは私の宝物です、今ではパソコンに取り入れて管理しています。しかしテープもすてることなく、もうかぞえきれないほどの曲が残してあります。

今にして思えば竹内先生に会わなければ、今はただの鍼灸院の院長で終わるところだったかも。これもなにかの縁かな。

まだまだご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします。

 

 音楽だより♪371  

追悼 稲垣稔先生 竹内幸一

いよいよ連休に入ります。音楽院にとりまして、毎年のことですが、連休は、「春の音楽祭」を終えて、やれやれと、ちょっと息抜きをする期間です。出演者の皆様、そして運営のお手伝いをしていただいた講師の皆様のおかげで、31回目の音楽祭がつつがなく開催できましたことに、心よりお礼を申し上げます。有難うございました。

さて今月は、昨年626日にお亡くなりになりましたギタリストの稲垣稔先生のことを書かせていただきたいと思います。不世出の天才ギタリストの実力が、日本中で認められ、脂ののった活躍がこれからという時でした。54才という年齢は、あまりにも早すぎることで、惜しまれてなりません。

ルベックの30周年の時に特別ゲストで演奏に来ていただきました。わずか5年ほど前のことです。その時の打ち上げで、携帯の待ち受け画面に一粒種の娘さんの写真を入れているのを見せていただきました。その娘さんや奥さんが、どれほど悲しくさびしい思いをしたことでしょうか?察するに余りあるものがあります。

稲垣先生とは、息子が小学生の時からお付き合いをさせていただきました。息子と二人で関西汽船に乗って、先生の御自宅へ月に12度通いました。行き帰り船中2泊の強行軍の旅でしたが、今となればかけがえのない思い出です。

明石駅で降りて、お堀端のそばを通り、明石球場の横を抜けて先生の自宅へ通った道筋の光景が、今でもくっきりと浮かんできます。玄関を開けると、真から優しそうなお母さんが、いつも「ようこそ、ようこそ」と温かく迎えてくれました。2階へ上がり、2時間みっちりとレッスンをしてくれました。そのあいだ、船の中で眠れなかった私は、居眠りばかりしていたものです。

先生のリサイタルが明石であった時、その演奏を聴いた後、「せっかく別府から来たんだからと」、そのあとまたご自宅へ行きレッスンをしてくれたこともありました。演奏会終了後の解放感とお疲れの中では、普通ならできることではありません。

息子がコンクールを受けるようになって、稲垣先生が大事に使用していた「フレタ」という楽器を譲ってもらいました。以後のコンクールの成果は、この楽器によって、もたらされたものでした。

別府には、3度来ていただきました。息子の結婚式、リサイタル、そして30周年の特別ゲストの3回でした。演奏会の後、ご一緒にアフリカンサファリや地獄めぐりの観光をしました。先生が、坊主地獄を不思議そうに見ていたのを想い出します。

およそ25年という長い間いろいろなことがありましたが、稲垣先生の態度はいつも変わることがありませんでした。謙虚で優しい対応をしてくれました。長いお付き合いをしていると、中には、「あれ、この方こういう面もあったのか」と、ちょっとびっくりして引いてしまうこともあります。しかし、稲垣先生の誠実な態度は、いつも変わることがありませんでした。私も、これからいろんな方とお付き合いを続けていく中で、お手本にしなければと心に誓っているところです。

その先生のお人柄が多くの方から惜しまれる由縁なのだろうと思いますが、このところ、いろいろな方がいろいろなところで、先生の追悼コンサートを企画してくれています。

大阪(終了)、長野、別府、福岡等々と追悼コンサートが開催されます。演奏会を開催するには、資金面や聴衆の動員など、たくさんのエネルギーがなければできることではありません。それを、稲垣先生のためにやろうとする方が多いということは、先生に対する思いの強さに他なりません。ギタリストが亡くなって、これほどたくさんの追悼コンサートが開かれた事例を、私は他に知りません。インターネットを見ると実にたくさんの方が、稲垣先生を惜しみ、また追悼コンサートを開いています。素晴らしいことです。

511日は、長野県松本市で追悼コンサートがあります。稲垣先生にゆかりのあったギタリスト達が集結します。そして、フランスからは先生の親友でギタリストのジャン・マリー・レイモンさんも駆けつけ盛大に行われます。会場のザ・ハーモニーホールは、小澤征爾やサイトウ記念オケなどで有名なホールです。

長野に行ったことがないので、この機会に行ってみることにしました。小倉、名古屋で乗り換えて、約7時間という長距離の旅ですが、初めてのことで楽しみにしているところです。旅疲れで、演奏会の時、眠らないといいけど…?(心配)

525日は、地元大分市の「サリーガーデン」というところで追悼コンサート「竹内竜次ギターリサイタル」を開きます。飲み物・ケーキ付ですのでお気軽にお越しください。(先着50名様限り)

67日(土)は、フォレストヒル様の主催で、福岡の「あいれふホール」で追悼コンサート「竹内竜次ギターリサイタル」が開かれます。車で行きますので、ご一緒して下さる方があれば、若干名ですが、送り迎えできます。ご連絡をお願いします。

稲垣先生には、「稲垣」と命名された星(小惑星)があります。池谷・関彗星 で著名な高知県在住のコメットハンターこと関勉さんが発見し、「稲垣」と命名されたものです。温厚な笑顔で、その星からギター界の発展を願って、地上を見つめてくれている事でしょう。

他で聴くことのできない稲垣先生の美しいギターの音色を思い浮かべながら、今、改めてその早逝を惜しんでいます。心よりお悔やみ申し上げます。 

連載その8

「メガネものがたり」

(オカリナ科講師 渡辺明子)

 私が初めて老眼鏡を掛けたのは、43歳の夏でした。それまではサングラスしかメガネにご縁はありませんでしたが、40歳を過ぎた頃からパソコンの画面や、小さな音符が見えづらくなって来たので、思い切って眼科を受診する事にしました。

 ひと通りの検眼が済み、初老のドクターの診察を受けると「あなたの目は、まだメガネは必要ないみたいですね。もう少し様子を見ることにしましょう」と、意外な診断結果が返ってきました。「先生、でも最近見えづらい気がするんですが…」「大丈夫ですよ。疲れたら休憩して、遠くや緑の木々を見るようにしてください。あなたの目はまだメガネは要らないと言っています」あんまりきっぱりと断言されたので、肩透かしをくわされた気がしてちょっと意地悪な質問をしてみました。「先生、本当に私の目がメガネは要らないっていったんですか?」「そうですよ。まだまだ自分の力で頑張れると言っています。目は口ほどにものを言うといいますからね」(なるほど、そうなんだ。少し引用の仕方が違うような気もするけど…。そういえば中学生の頃、学校の廊下に『目は心の窓です』という張り紙があって、その下に小さく『鼻は心の煙突です』と誰かのいたずら書きがあったなあ)などと思いながらその日の診察はそれで終わりました。その後、6ヶ月が過ぎましたが、やはりどうしても焦点が合わせづらいので再度受診を決心しました。他の眼科に行く選択肢もありましたが、あのドクターに私の目が何と言っているか訊いて欲しくて、同じ眼科に行きました。「はい、目の声が聞こえましたよ。ずっと頑張ったけど、ここらでちょっと手助けしてくださいと言っています。そろそろ度の軽いシニアグラスを作りましょうかね。老眼鏡と言うよりシニアグラスと言った方がお洒落な気持ちになれるでしょう?」穏やかな笑みを浮かべてドクターはおっしゃいました。最初の診察の時から、何でメガネを作ってくれないんだろうと、ずっと私の胸につかえていた疑問が、その瞬間にすっと消え去りました。確かにすぐにメガネを処方すれば簡単に事は解決しますが、それでは人間が神様から与えられた本来の治癒力は衰退してしまいます。それに気づかされた時、私は営利主義ではないドクターに心から信頼を寄せることができました。まさに『医は仁術なり。人を救うを以って志とすべし』だったのです。「65歳位までは遠視は進行しますから、最初からあまり高価な物は買わない方が良いですよ。メガネケースも丈夫な物を使うと安心ですね」気配りの行き届いた診断から17年。私のシニアグラスは段々と買い換えて現在4本目。完全に体の一部としての必需品になりました。

 

 さて、最近このメガネに思わぬ災難がありました。買い物に行く際に、上着のポケットに入れておいたはずのメガネが、帰宅後見当たりません。車の隅々も探しましたが出てきません。立ち寄った先に電話を掛けて調べてもらいましたが、どこも「うちには在りませんねえ」という返事ばかり。

うわあ〜、どうしよう!…そこでもう一度、今日出掛けたルートを自分で辿ってみる事にしました。先ずは郵便局。すると駐車場の端に見慣れたケースがありました。「あった!よかった!」急いで車から降りて手に取ると、タイヤで踏まれた形跡があり、ケースはグシャリと潰れていました。恐る恐る開けて見ると、幸運な事にレンズにはヒビ割れひとつありませんでした。つるの部分が少し曲っていたので、その足で直ぐにメガネ店に行って修正してもらい、また普段通りに使えるようになりました。多分、郵便局を出て車に乗る際に、上着のポケットからケースごと落ちたのに気づかず、発車してしまったのでしょう。もしかしたら自分の車の後輪がケースを潰したのかも知れません。その時にタイヤがケースをはじいたので、駐車場の端に飛ばされ、他の車に何度も踏まれなかったのかも知れません。全てがラッキーでした。そして17年前のドクターの「ケースは丈夫なものを使うと安心ですね」というアドバイスが活かされた事にも感謝でした。これから、あと2本位は買い換える事になるかも知れませんが、ケースは硬くて丈夫な物を選びたいと思っています。折りしもメガネ店では、石原裕次郎の曲がBGMで流れていました。帰り道、私も車の中で歌いました。「♪メガネ(夜霧)よ〜、今夜も、ありが〜と〜う〜」。

「続けられる幸せ」

     本田礼子(ルベックムーン)

 随筆リレーの番が来ました。ムーンでアミダくじをして3月に当たり、締切が25日だと云う。その日は私の誕生日だ…

 ギターを始めた時は40代でしたが、あれから30年、71才になりました。

 昭和60年7月よりサンシティーに通っています。初めて音楽院を知り電話をかけた事、ドアを開けた事、今でもはっきり覚えています。

 ギターが上手になれば良いなぁと、夢見た頃もありましたが、今では遠い昔の様です。

始めて4,5年の頃が練習も楽しく、忙しい時も時間を見つけて練習していました。今では20分もすれば、すぐ疲れる。根気がなく、ヨイショ、ドッコイショと云ってしまうのは、私だけでしょうか?

 それでも教室に行く日は楽しい。いつもきれいにといだ鉛筆や本をはさむクリップの用意をして先生が待っていてくれる。もう上手にならなくても良い。楽しい時や、やさしい時間が続きますように。ムーンの皆さんもう少し仲間に入れて下さい。曲の出来上がりを楽しみに練習に行きます。

 そして病気で休んでいるギターの大事なお友達、早く元気になってください。また、埼玉へ勉強に行く友、頑張ってください。

 

「新しいギター」

宇都宮福巳(ルベックムーン)

新しいギターを買った。

新しいと言っても、「セルヒオ、メデーィナ」、と言うスペインでもう10数年前に作られた中古品である。

現在私が使って居るギターは、友人から譲って貰った、「入江」と言う工房で作成された物で、このギターも私の腕や技量からすれば勿体ないくらいの物である。

私がギター練習を初め最初に使ったギターは、息子に大学生の頃買い与え、その後、家に置きっぱなしに成っていた傷だらけのギターだった。

今年の1月の有る朝、竹内先生から「一生物のギターを1本如何ですか?」と言うメールが届いた。

先生からの紹介なので良いものだろうとは思ったが、その時は特に何も考えては居なかった。

私には衝動買い、と言う余り良く無い癖が有る。貧しい家庭で育ったが子供のころから母親に「物を買うなら、辛抱しても良い物を買いなさい」と教えられた。其の教えが身に付き衝動買いの癖は直らないが、出来るだけ良い物を買い、永く使うように心がけて居る。

だがそろそろ断捨離を始めようか?と思い始めて居る年齢の今、パソコンに向かい消さずに置いてあったメールを何度か開いて見て居るうちに、何と無く気に成り初め遂に買ってしまった。

最近ボランティア応援の為、聴衆の前で弾く事も有るが、間違わずに最後まで弾き終わる事は殆ど無い下手くそな腕で有る。だが余り恥をかきたく無い一心で練習にも実が入って来た。  

此れも何かの巡り合わせだと考え、又私の次にこのギターを弾くで有ろう誰かの為にも大事に使いたいと思って居る。

1本だけだと音の違いも余り分からない私だがが、2本並べて弾けばやはり良いギターの音は綺麗だ。先日大先輩方と同席する機会が有ったが流石に上手な方ほど練習時間も長いようだ。

6度目の年男も過ぎた今、何処まで上達するかは別として、折角のギターを泣かさないように、私もしっかりと練習をしようと考えている昨今である。

 

372  エスプレシボ

あれがアルプスだ!
竹内幸一

 季節はすっかり夏模様です。初夏の過ごしやすいこの時期に、しっかり体力作りをして、酷暑に備えたいものです。

 さて今月は、稲垣先生のプレゼントで、初めて長野県の松本へ旅行ができましたので、そのことを書かせていただきたいと思います。

 出発の前日の天気予報で、「真夏日になるでしょう」という放送がありました。それで、これは大変と、急遽防寒対策?の厚手のオーバーなども持って行くようにしました。それが大正解でした。厚手のオーバーのお陰で、長時間になる冷房の効いた電車内で気持ちよく眠れました。

 実は、出発前の45日風邪をひいていました。医者で点滴をして、何とか中止せず旅行に行ける状態になったのですが、これで防寒対策をしていなかったら、風邪がぶり返して旅行どころではなかったことでしょう。出発前、公民館の講座やトキハの文化教室もお休みさせてもらっていたので、旅行後にまたレッスンが出来なければ、皆さんからブーイングを受けるところでした。帰ってから通常通り仕事ができたので、一安心しているところです。

 ま、それはともかく、朝6時半に出て、ソニック、新幹線と乗り継いで名古屋へ到着。乗り換えの頃が昼飯時でしたので、名古屋で「ひつまぶし」の弁当を買いました。なんだか兜みたいな大きな箱で、上に「香ばしく焼き上げたウナギがたっぷり」と書いてありました。ウナギ好きの私は、わくわくしながら、箱を開けました。大きな兜を外すと、中に小さなたらいが入っていました。その入れ物の小さいのにも、又、上にちょこんと乗せてあるウナギの小さいのにも…びっくり。

 余りこういうことを書くと、いじましいのですが、名古屋ではあれをたっぷりと言うんでしょうね(皮肉)・・・まあ旅行体験の少ない私たちに、駅弁とはこういうものだよと教えてくれたんでしょう(笑)。

 またまた、横道にそれましたが、名古屋から長野行の「特急しなの」に乗り込むと、だんだん気持ちが高まってきました。南木曽、木曽福島、塩尻・・・電車が進むにつれて、島崎藤村や、真田幸村などの、文学や歴史の香りがしてきました。そう思いつつ、木曽の山河を電車の窓から興味深く眺めていると、不意に、遠くに眩しい白の光が見えました。あれが、ひょつとして「アルプス?」と思いをはせると、息を呑む気持ちがしました。

 松本に着いて、タクシーで演奏会場へ向かいました。早速運転手さんに窓から見える銀嶺を指して、「あれがアルプスなんですね?」と問いかけました。すると、運転手さんがうれしそうに「あの左手に見えるのが、乗鞍・・・・、あれが**、あちらが**(もう忘れました)」と丁寧に説明してくれました。

 「乗鞍はまだ、雪が深くて、私らでも登れません」と言います。この人登山をするんだと思って話を聞いていると、どうも違うようです。乗鞍には、かなり上まで行ける道路があるようでした。そこが通れるのは、7月を過ぎてからですと、雪の深さの話をしていました。「へ〜、そんな高いところまで車で行けるんですね」と、びっくりしていると、「車が入れるようになって、汚くなりました。排気ガスで、雪は少し早く溶けますが、山はとても汚いですよ」と言います。それでも、足の不自由な私には、3千メートル級の山など、生涯行けないだろうと思っていたのですが、その体験も可能なんだということがわかり、少し嬉しくなりました。(たぶん実現しないでしょうが・・・)

 朝6時半に出発して、開演30分前の午後2時半に「ザ・ハーモニーホール」に着きました。入口にはすでに行列ができていました。当然と言えば当然ですが、誰も知った顔が見当たりませんでした。

 ギターの本で名前を知っていても、実際の演奏は聴いたことのない方ばかりのコンサートでした。聴いていて(見ていて)感じたのは、上手な方には、体の動きに音楽があるという事でした。音を出す前の体の揺れ、手の動き、息を吸い吐く様子・・・そこに、この人がどんな音楽を作ろうとしているのかが伝わってくる芸術の片鱗を感じました。歌心が伝わってきたのです。音楽は指先だけで作るものではありません。体全体で表現するものだということを、じっくり味あわせてくれるコンサートでした。

 コンサートの最後に、稲垣先生の親友であるレイモンさんがフランスから来て、たっぷり演奏してくれました。この方の演奏を聴いていて、小節の頭がくっきり聞こえ、楽譜の並びが目に見えるようでした。軽く弾いているようでしたが、音楽の作りが明確で,こうあらねばいけないんだなと改めて感じました。

 最後には出演者全員による合奏もあり、午後3時スタートで、全部終わったのが、午後6時半でした。別府を出発して、丁度12時間が過ぎていました。変化に富んだはじめての旅でしたが、やはりいささか、一部の筋肉が悲鳴を上げていました。

 タクシーでホテルにたどり着いて、ベッドの上に解放されたときは、「ごくらく・ごくらく!」でした。食事をしに行く元気もないので、妻がホテルの近くにあったモスバーガーから食料を仕入れてきてくれました。

 その時食べた、きんぴらライスバーガーやサバの味噌煮ライスバーガーの美味なこと。極上でした。まあこれも、名古屋の「ひつまぶし」の少なさのおかげでもありました。(まだ言ってる。しつこい・笑)

 しかしながら、あの輝く白を目にした時の感激は、今も鮮やかです。北アルプスの雪の山並みは、生涯の思い出になることでしょう。

  

 

連載その9

「ワンダフル・ネーム」

(オカリナ科講師 渡辺明子)

 

 某生命保険会社が2013年に行なった「名前ランキング調査」によると、男の子は1位が「悠真・ゆうま」2位は「陽翔・はると」3位は「蓮・れん」女の子は1位が「結菜・ゆいな」2位は「葵・あおい」3位は「結衣・ゆい」だそうです。皆さんの周りに同名のお子さんはいらっしゃいますか?どの名前もそれぞれに意味が深く、健やかな成長と幸せを願うご両親の気持ちが伝わって来ます。3位以降も色々な名前がありましたが、難しい漢字の名前が多く、ふりがな無しではなかなか読めませんでした。

 「○○子」や「○○男」といった昔からの名前はもう時代遅れなのでしょうか。当節流行の「オレオレ詐欺」はターゲットを見つける手段として、先ず電話帳で「子」や「男」の字が入っている名前をリストアップするそうです。古式ゆかしい(?)それらの名前の持ち主は、きっと年配者だろうと確信しての事らしいのですが、「異議あり!」と叫びたいですよね。

 ところで皆さんはご自分の名前の由来をご存知ですか?

私事で恐縮ですが、私の姉妹の名前は上の姉が「久子」下の姉は「長子」といいます。老子の道徳経の中の「天長地久(天は長く地は久しく)」に由来します。「明子」は文字通り「明るさ(太陽と月の明かりで日夜を問わず、常に照らし続ける)」を意味し、三姉妹が揃うと、天・地・日・月…と大宇宙が完成します。両親の人生観がそのまま、私達姉妹に「命名」という形で継がされていると感じています。名は体を表すと言いますから、両親の思いを知った以上、私達もその名に恥じないように生きなくてはと思いますが、果たして現実は煩悩のコントロールに必死です。せめてオレオレ詐欺にだけは遭わないようにしたいものです。

 ここで少しオカリナの事にふれてみたいと思います。オカリナは陶器で出来た閉管楽器です。1860年頃に、北イタリアのプードリアという町の、ドナーチさんというお菓子職人が、それまであった土笛を基に形成し、初めて西洋音階を導入しました。日本では1928年に明田川孝氏によって現在の形のオカリナが開発されました。12個のトーンホールで、下のラから上のファまでの1オクターブ半の音域です。誰でも吹けて簡単そうに見える楽器ですが、実は奥が深く、タンギング・息使いの強弱・フィンガリング・温度や湿度管理などの微妙な調整が難しい楽器です。

 オカリナの名前の由来は、その形にあります。イタリア語で「ガチョウの子ども」という意味で、オカリーナと発音します。大きなオカリナ(バス)から小さなオカリナ(ピッコロ)までを順番に並べてみると、まるでガチョウの親子が仲良く水面を渡っているように見えます。「ガァガァガァ〜」と、にぎやかな鳴き声が聞こえて来そうです。

 ふと、前述の「名は体を表す」を引用して考えました。もしも「オカリーナ」ではなく「カナリーヤ」という名前だったらどうでしょう?きっとカナリヤの声のように透明感があって、すてきな音色が出せるのではないかと…。あ、でも歌を忘れてしまう可能性もありますね(笑)それは大変!!

今年も、629日の講師演奏会に出演させていただきますが、良い音色が出せることを祈りつつ「ワンダフル・カナリーヤ」という気持ちで臨みたいと思います。どうぞよろしくお願いします。

 

 

 

  

 「或 る 一 日 」     

     清末昭子(ルベックひまわり)

  

 一週間程前からエレベーターの中と掲示板に「エレベーターのワイヤーを換えるので、〇月〇日(月)10:30分〜16時:30分の間は使用出来ません」との知らせ。月曜日は何もないし一日中家に居ようときめていた。すると先生から「火曜日の午前中は用事ができたのでギターのレッスンは月曜日に変更してくださいませんか」とのメールを頂きました。もちろん「承知致しました」と返信させていただく。そして月曜日。ギターは10時からなのでエレベーターで下りてレッスンをして頂き、10時40分のバスで自宅とは別の路線で駅裏に着く。4時半まで時間をつぶすのに、スーパーでそこそこ軽めの物を買いミスタードーナツで早い昼食をすませる。エレベーターの事が気になったが”階段で上ろう”と思いバスで帰ることにした。最寄りのバス停で下りる時、ニモカカードをかざすと受け付けない!「あれっ、、、」と私。すると「あんた乗るとき、タッチせんかったやろ」と不機嫌に運転手さん。「いえ、ちゃんと〜」と言い終らぬうちに「わかった、わかった私にだってそんなことあるんやけん」・・とどこかをあたりながら「ああ 機械が受け付けんこともありますから、、、」

 と改まった口調で言う。「では、いいですか」と言って下りた次第。家に着き、もしかして〜と見たらエレベーターはまだ作業中の札。気合を入れて5階まで上るともう息が止まりそう!小休止して気分を変え非常階段を上り、やっと着きそのまま玄関にへたり込んだ。気持ちはまだ若い(笑)つもりでも、体力は年齢に反比例することを又思い知る。この先、この落差のある自分と楽しく付き合って行こうと決めた一日でした。

   

 「不思議なご縁」 

     田村美帆(ルベックひまわり)

  

   学生時代に、「ギターを習いたかった。」と友達にぽそっと言ったことがありました。すると、意外なことに、「U君がクラシックギターを習っているから、先生を紹介してもらえば?」と言われました。これはラッキーと思ったのですが、どう考えても時間に余裕がなかったので、泣く泣く諦めました。(U君とは、お互い顔と名前は知っていたと思いますが、話した事がなかったので、お願いするのも気がひけたりもしましたし…。)

 それから5年経ったある日、同僚のOさんの爪が、右手だけ長いことにふと気が付きました。あまり他人の変化などに気が付かない私ですが、どういう訳か気になり、理由をき

 いてしまいました。すると、「クラシックギターを習っているから。」とのことでした。羨ましいと思わず言うと、「一緒に習う?」と誘ってくれました。が、色々な意味で余裕のない生活を送っていたので、今回も正直なところ無理だなと考えていました。ところが、行動力のあるOさんは「先生に話してきたよ。」とのことで、あれよあれよという間に話が進み、先生に習う運びとなりました。

 習い始めたのは良かったのですが、本当に何も分かっておらず、最初のころは、弟のア

 コースティックギターでレッスンを受けていました。しかも、仕事の休日がレッスン日だったのですが、死んだように眠っていて、午後からなのに遅刻することも度々でした。そんな、とんでもない私を先生はいつも温かく見守って下さり、今日に至っております。

    習い始めてから2年が経ったある日、同僚と外食に出た際、先生に偶然お会いし、挨拶 をしたので、クラシックギターを習っていることが職場で知られるところとなりました。

   すると、ある同僚から「田村さんは、竹内さんのところで習っているんかえ。うちの息子 も習っていたんやけど。」と声をかけられました。そこで、ハッとしました。その同僚とは U君のお父さんなので、U君に紹介してもらっていても、やはり、先生に習っていたのだと気付きました。ご縁があって、こちらにお世話になっているのだと、勝手に嬉しく思っております。

 

 音楽だより♪373  

紘文先生!竹内幸一

季節は梅雨。今日の日曜日も雨です。しかし、昨年の夏の暑さを思うと、雨でも涼しい方がいいなあと思ってしまいます。今年の夏も何とか乗り切りたいものです。

さて今月は、辛く寂しいお別れの文を書かねばなりません。こんなに早くこのようなことになろうとは、それこそ夢にも思いませんでした。

俳句を40歳の時に始めて、ちょうど25年になります。四半世紀を、倉田紘文先生の薫陶をいただきながら過ごしてきました。今その絆が無残に断ち切られ、呆然として途方にくれているところです。

たった4カ月前に、新聞社の12階で29日にお会いしたのが最後になりました。その時の写真が残っています。  

この日は、年間賞の表彰式があり出かけました。この会には、たぶんお休みだろうと思っていた先生が、俳句部門の選者として参加し、短い講演もしました。 「自分一人で運転してここまで来ました。」と、普通なら取り上げるはずもないことを、少し嬉しそうにお話していました。手術を4回したこと、指が冷たくて手袋が外せない事、そして文学の話と続きました。

会のあとで、違う分野の受賞だった私に「おめでとう」と言ってくださいました。握手をした時の手にも力がありました。このまま少しずつ回復に向かうのだろうと、嬉しい気持ちで先生とお別れしたのですが・・・。

先生の業績を書こうと思うときりがありません。中央俳壇の主要役員として、テレビ出演、俳句雑誌や新聞の選者等として大車輪の活躍をしてきました。主催する俳句雑誌「蕗」には、海外からも投句が多く、最盛期は4千部を発行していました。

先生のお人柄を慕って人の輪が全国津々浦々に広がり、いろんな会はいつも盛会でした。しかし、いつも穏やかな笑顔の先生が、殿様商売をしていて、強大な倉田俳句王国が一代で出来たわけではない事を、私は知っています。その陰には、きわめて人間的な情熱と努力がありました。

知り合いのすすめで、何気なく俳句を始め、新聞に投稿するようになってすぐでした。「倉田紘文です」と、直接電話をいただきました。何事かとびっくりしましたが、「若い方の力がほしいので、ぜひ蕗の会に入ってほしい」というお誘いでした。もちろんその時すぐにOKし、先生の門下になりました。たぶん他にもこのようなケースはたくさんあったことでしょう。

また、大きな会が近づいているとき、早朝に電話をいただくことがありました。「ちょっと少ないんだ。〇〇さんはどうかな。**さんにも声をかけてみてくれんかな」という様な依頼の電話でした。

生徒さんが増えない。演奏会の人が集まらない。・・・と嘆くこともありますが、そのための汗を真剣にかいているのか自問自答しています。生徒さんを獲得するための手立てを考え、熱意を持って取り組んでいるのか?演奏会のお誘いを、可能な限り全力でやっているか?殿様のように、のほほんと待っているだけではないのかと、先生のことを想い出しながら考えています。

こういう言い方が適当かどうかわかりませんが、先生の記憶力は抜群でした。頭がいい方だなと、良く思っていました。仕事をしながら、近くに3台のテレビを点けていて、それを興味のあるところへ目を飛ばして、見ていたというのです。他の方にはできない芸当でしょう。

そのテレビからの様々な硬軟の情報を、次の句会の時にいろんな形で吐き出し、ダジャレにし、いつもみんなを爆笑させていました。「昨日、私の好きな藤あや子が出てたやろ…見た?」と、みんなに問いかけます。そんな飾らないオープンな性格が、みんなに慕われるもとになっていた気がします。

先生の序文をいただき、句集「碧」を出したのは、もう7年も前のことになります。先生にもご出席をいただき、ホテルで出版記念の会を開いたのは、私の人生の柱になる大きな出来事でした。

また、たくさんの駄作の中から、3年に一度ぐらい賞と名の付くプレゼントを、絶妙のタイミングで与えて下さり、私の緩みそうな俳句生活を牽引していただきました。いわば先生の愛に包まれて、ここまで俳句を続けてこられた気がしています。もうその慈愛をいただけないかと思うと、これからこの俳句をどこに持って行けばいいのだろうと途方にくれます。

映画監督の息子さんが「蕗の最終号を出し終え、父は、74歳の人生を閉じました。蕗と共に生きた見事な人生でした」というようなことを葬儀で話していました。全くその通りだと思います。その508号の表紙を見ながら、この文を書いています。今、このエスプレシボが373号です。500号に届くまでにはまだ10年以上かかります。先生にあやかりたいものです。

紘文先生!お別れです。ただただ合掌するばかりです。ありがとうございました。合掌。

 

 

 

連載その10

「あっぱれ!日本の母」

(オカリナ科講師 渡辺明子)

 

早いもので今年も夏至を迎え、6月も終わりに近づきました。この時期のスーパーマーケットは新鮮な色とりどりの果物が並び、売り場も活気付きます。枇杷、オレンジ、スイカ、ハウスミカン、バナナ、いちご、マンゴー、すもも、さくらんぼ、桃、ぶどう(デラウェア)、リンゴ、メロン等々、枚挙にいとまがありません。「スイカやイチゴやメロンは野菜か果物か?」と疑問に思う事もあるのですが、最近は野菜売り場でも、果物売り場でもあまり区別なく陳列されているようです。

 

 私はメロンを見ると、ある母子の姿を思い出します。もう2年ほど前のこと…、スーパーの店内で3歳くらいの男の子とすれ違いました。「たべたい、たべたい、たべたい」と念仏のように唱えながら、大きなメロンのつるの部分を片手で持ち上げて、少し離れた場所にいたお母さんの買い物カートまで全神経を集中して慎重に慎重に運んでいました。ところが目的地まであと数メートルの所で、無情にもメロンのつるの付け根がスポッと抜けてしまいました。子どもの頭と同じくらいの大きさのメロンは、そのまま床に落ちて砕けてしまいました。突然の事で、何が起こったのか分からないまま、その子は呆然と立ち尽くしていました。お母さんが異変に気づき駆けよって来ました。ここからの母子の態度が実に印象的だったので、一部を再現してみます。

「○○ちゃん、だいじょうぶだった?怪我してない?」お母さんは優しく静かに語りかけました。「うん」砕けたメロンを見つめながら子どもはうなずきました。「いっぱい散らかったね。お店の人に謝ろうね」お母さんはその子と、そっと手をつなぎました。ちょうどやって来た店長さんに、お母さんが「すみません。子どもがメロンを落として割ってしまいました。」と言うと「ごめんなさい」とその子も自分から謝りました。「お代は弁償します。

先ずここをきれいに片付けたいので、箒を貸してください」「それはこちらでしますからご心配なく」「どうかこの子にも手伝わせてください。」「大丈夫ですよ。片付けはこちらでしますから…弁償ではなく、どうぞ新しいメロンを買ってください。坊やはメロンが好きなんやね」店長さんが尋ねるとその子は「メロンが大好き!みんなで食べたかったんや」と笑顔で答えました。そのことばに心配そうに見守っていた周囲の人々も、顔を見合わせ、ほっとしました。「ありがとうございました。新しいメロンを買わせて頂きます。」母親の年齢は20代後半から30代ぐらいだったでしょうか。「あんたは、なんしよんの!」と開口一番、ヒステリックに怒鳴りつけるパターンが多い昨今、このお母さんの静かに語りかける態度には敬服しました。子どもと真っ直ぐに向き合い、善悪や謝罪、責任の取り方などを、こんな小さな頃からきちんと教える育児法に清々しさを覚えました。

 やがて入園入学を迎え、中学・高校・大学と環境が変わって行き、様々な困難や難題に直面すると思いますが、家族で支えあって克服し、きっと「この母にしてこの子あり」と称えられることでしょう。

 

 今年のサッカーワールドカップブラジル大会では、ザックジャパンは惜しくも1次リーグ敗退で、決勝トーナメントに出る事は出来ませんでした。勝負は時の運と言いますが、選手や関係者の胸の内は察するに余りあります。でも今回は日本人サポーターのマナーが全世界から賞賛を受けました。どの試合会場でも応援のグッズとして持参した青いゴミ袋に、各自でゴミを入れて会場の美化に貢献したからです。他の国では、負け試合で感情的になり、ややもすれば会場の備品などに八つ当たりして、暴徒と化す場合もある中、日本人の秩序を守る品性が高く評価されました。

「三つ子の魂百まで…」あのメロンの子どもが大人になる頃、グローバルに日本を支えて行く秀逸な人材が、沢山育っている事を夢見ています。現在子育て中の皆さんに、励ましのエールを送らせて頂きます。何と言っても家庭教育、両親の愛が一番大切ですね。そして家族の絆の中に、共通の話題として音楽があれば、こんな幸せなことはありません。フレー、フレー、未来を担う子どもたち。フレー、フレー、日本のおかあさん!

三回忌

      阿部千鶴子(ルベックムーン)

 

身も心も緑一色に染まりそうな此の季節、主人の三回忌を迎えました。遠くからおいで下さった皆さんもそれなりのお年で、それぞれに病を抱えておられ、申し訳なく、またありがたいことでした。

昔は人生50年が今や80年。どうも80才が境となりそうで、新聞広告を見ても80才台の方が多い気がします。

10万人に一人と云われる病に冒されてから5年、特にこの2年間は入退院の繰り返しで、医大迄朝出て夜帰宅の一喜一憂の毎日でした。結婚して50年、金婚式は病院のベッドの上で、二人きりでジュースで乾杯。これからの第2の人生の始まりだと言っていたのですが、半月後に帰らぬ人となってしまいました。

モニターの曲線が突然ツーっと一直線になり、此の世を去って行きました。朝642分。気が抜けたような虚脱感の中で、山頂から顔を出した朝日がとてもまぶしく美しく、主人を迎えに来た様な気がしました。

余りおしゃべりする人ではなかったのですが、ippnwにも参加し、世の平和を切に願い続けていた主人。今、安部総理が推し進めている憲法の問題、日本は此の先どうなっていくのかさぞあの世で心配している事でしょう。

結婚生活は平凡で、熱愛と云う事はなかったのですが、静かな愛とでも云いますか、優しい人でした。私が演奏会後、楽器や譜面台を抱えて帰宅すると、「お帰り、今日の出来栄えはどうだったかな?」と言いながら、さりげなく奥の部屋迄楽器を運んでくれた主人。家庭的な仕事は何も出来ない人でしたが、返事も返って来なくなった今、何とも云えない寂しさと、張り合いの無さ…。今さらながらその存在の大きかったことを思い知らされています。

以前、新聞記事に誘われて始めたギター。年ごとに身体の不自由を奪われ若い時の三分の一も弾けなくなってしまいましたが、ボケて数々の思い出を失わないように、これから先、先生や皆さん方に迷惑をかけることになりそうですが、ギターの方からもう止めなさいと云われる時が来る迄、細く長く続けられたらなあ・・・と思っています。

522日は、主人の86歳の誕生日。あの世とのメールのやり取りが出来るなら?お誕生日おめでとう” と打つのですが・・・仏壇にケーキを置きましょうか…。

 

ギターを始めて20

       小島美江(ルベックムーン)

 

公民館のギター教室に通いはじめて、20年近くなります。歳月に不足はありません。

ギターの音色が大好きで習い始めたものの、音色を楽しむどころではありませんでした。10年もすれば人前で「禁じられた遊び」が弾けるぐらいになるかも…なんて虫のいいことを考えていたんですが、大きな大間違い。

続いていることと、上達するとは別物。当たり前のことでした。それどころか最近は、行きつ戻りつから、戻りつ、戻りつになっている自分に気付き、苦笑いするしかありません。

長い歳月、いろんなことがありましたが、いつも変わらず穏やかに指導して下さる竹内先生には頭が下がります。

ムーンの合奏練習では、間違ってばかりなのに、退場!のカードを出さない和やかなメンバーの皆さん。そんな中で、又、次のガンバローエキスをもらって帰っています。

ギターはそれなりですが、かけがえのないものをいっぱい運んでくれました。もうしばらくお付き合いください。よろしくお願いします。

204〜233

 

inserted by FC2 system