音楽だより♪366 

浜田さん、お別れです
 竹内幸一


 「逝っちゃいました。癌には勝てませんでした。」という、奥さんからの驚愕の電話をいただいて、5日過ぎました。いろいろな思い出が次々よみがえり、悲しさや淋しさを噛みしめています。
 浜田さんとお付き合いをさせていただいて、もう40年余りになります。その出会いのきっかけは、NHK学園という通信教育の高校でした。その時のNHKの担当者が浜田さんだったことからお付き合いが始まったのでした。確か、若々しい浜田さんの最初の勤務地が、大分だったと思います。
2年ほど入院した私は、高校を中途退学していました。それで21歳で退院した後、働きながら通信教育を受ける事にしたのです。普段はラジオを聞き、日曜日だけ上野丘高校の中にある学園に通いました。
私は、その時たまたま生徒会長になっていて、いろんな用事でNHK大分放送局に浜田さんを訪ねて行きました。何度も遊びに行って、ほかの職員の方とも親しくなりました。親しく話をしていた方が、自家用軽飛行機の事故で亡くなってびっくりしたのも思い出します。

その浜田さんに、当時私が入会していた別府文学サークルという会に誘ったところ、すぐに入会してくれました。文学サークルでの最初のレポーター役で、浜田さんは、「夜と霧」という本について話をしました。最近このエスプレシボでも取り上げましたが、当時は、こんな難しい本を読む人もいるんだとびっくりしたものです。また、その頃、車の免許を取りに行くということで、自動車学校まで何度か私の車で一緒に行ったこともありました。

免許を取り、車に乗れるようになってから、文学サークルの帰りに女性会員を送って行くことがありました。それがきっかけで、今の奥さんと結婚というところまで発展し、人生をご一緒に送っていたのでした。時折浜田さんにお目にかかると、「竹内君は、私たち夫婦の縁結びをしてくれた人だから」と、何度も言ってくれて、面映ゆい思いをしたものです。しかし、そう言ってもらえるのも、幸せな結婚生活の毎日だったからこそでしょう。

その後浜田さんは転勤生活になり、各地のNHKを転々と動いて行きました。その間は、この毎月のエスプレシボが絆でした。離れていても、このエスプレシボがあることで気持ちが通じていた気がします。今年の360号もそうですが、記念の号にはいつも、温かい励ましの原稿を送ってくれました。この小さな新聞を大切にしてくれている人が、ここにもいるんだと思うと、どれだけ嬉しかったかわかりません。その新聞の情報で、遠くからひょっこり、魅惑のギターステージにも何度かお二人で来ていただきました。

転勤が進み、副局長と言うことで、佐賀に来ました。当時、娘が佐賀大学にいて、音楽会開催のことでお世話になったこともありました。かなり後になりますが、この娘の結婚式にもお二人で参加していただきました。

最後の勤務地はやはり出身地にしてくれるのでしょうか。佐賀の次は大分で、局長になって帰ってきました。NHK学園の担当だった頃は、まだ局に入ったばかりの浜田さんでしたが、それから長い年月が過ぎ、また大分に戻ってきたのです。

丁度その頃、私は、亀の井ホテルでギターのソロコンサートを開きました。その時、会場の入り口を飾る、NHK大分放送局と書いた大きな盛り花が届きました。余り大きかったのでびっくりしましたが、後でお会いしたとき「ちょっと大き過ぎたかな」と笑っていました。後にも先にも、この時のような立派なお花を頂くことは、この生涯でもうないことでしょう。

浜田さんが駆け出しの頃のNHKは、現在のNHKの向かい側にありました。単独のビルでしたが、今は、オアシスというホールやホテルなどの巨大な文化施設の中にあります。その新装NHKに浜田さんを訪ね、夕食をごちそうになりました。また仮住まいという、マンションにも招待していただき遊びに行きました。

大分在住時代は、奥さんが、音楽院で開いている「ほのぼのコーラス」にも参加してくれました。もうかなり時間が過ぎ、浜田さんをご存知の方も少なくなりましたが・・・。

その後自宅のある福岡に戻り、NHK文化センターで働いているとのことでした。ところが、半年ほど前でした。突然、浜田さんが音楽院を訪ねてきてくれました。お母さんの法事の帰りということでした。

実は、玄関で浜田さんの姿を見たとき、余りの変わりように、自分の目を疑うほどでした。「ここにこんな瘤が出来ちゃってさあ」と、胸に出来た瘤を見せてくれました。「悪性リンパ腫」と、はっきり病名を話し、これから病気と対決する姿勢を感じました。

いろいろ試して、「最近よく効く抗がん剤が見つかった」とその時聞きました。また医学は進んでいますので、最新の治療成果に期待もしていました。しかし、あるとき、お見舞いに行きたいと話したところ、「雑菌を避けるために外からのお見舞いは全部お断りしている」とのことで断念しました。今、思えば、法事の帰りにお目にかかれたことが、ささやかな救いになりました。

いろいろ思い出すたびに、「そうそう、そんなこともあったよねえ」という、浜田さんの声が天国から聞こえる気がします。そして、もう2度とお目にかかれない、あの笑顔がよみがえります。

浜田さん、本当に長い間、私の暮らしを見守っていただきありがとうございました。どうぞ安らかにお眠りください。心の底から合掌しています。

連載その3

高千穂夜神楽

(オカリナ科講師 渡辺明子)

「高千穂に夜神楽(やかぐら)を見に行こう!」実りの秋の収穫が終わり、早霜の季節になりました。毎年この頃になると高千穂の夜神楽を思い出します。11年ほど前にオカリナのメンバーと訪れた時、町は紅葉に彩られた山々に抱かれ、木枯らしが吹いていました。「夜は冷え込むから風邪を引かんようにして下さいなあ」と言う旅館の主人のアドバイス通り、座布団代わりに腰に毛布を巻き付けてしっかりと防寒対策をして出かけました。

 毎年11月中旬になると収穫を終えた高千穂の集落では夜神楽が行なわれます。高千穂地方に伝承されている神楽とは、天照大神(あまてらす・おおみかみ)が天の岩戸に隠れた折に、岩戸の前で天宇受賣命(あめの・うずめのみこと)が調子を取って愉快に踊り、ついに岩戸が開かれた事に由来しています。

ここでは、一般の民家を「神楽宿」として毎年持ち回りで三十三番の舞が夜を徹して奉納されます。国の重要無形文化財にも指定され、神々の物語としての神楽舞を通して、人々が感謝と共に神により近づく夜でもあります。

当時勤めを持っていた私達に与えられた時間はわずかでした。神楽宿での夜通しの見学は諦め、高千穂神社で3〜4時間程奉納される舞を見せてもらうことにしました。神社の鳥居をくぐって神楽殿に向かって歩いて行くと、お囃子の音が聞こえて来ました。「トントコ、トントコ…」私達は逸る気持ちを抑えきれず、いつしか駆け足になっていました。開演までまだ1時間近くありましたが、私達と同様の観光客がすでに沢山集まっていました。やがて会場に笛の音が静かに響き渡り、いよいよ夜神楽の開幕です。

本来神楽は、神職に奉仕する者以外は奉楽を許されておらず、神聖で崇高なものでした。しかし高千穂の神楽は「里神」と称されて村人が舞を奉納します。日本神話に記されている天孫降臨。天照大神の命を受けて、孫の邇邇藝の命(ににぎのみこと)が日向平定のために降り立った高千穂の峰。五穀豊穣が約束された事への感謝を込めて、全身のエネルギーを集中して力強く舞い続けます。大自然に宿る神々に対する、人々の畏敬の念を垣間見る思いでした。

やがて夜も更けて夜神楽もいよいよ佳境へ。時間と空間を共有した観客と舞い手との間には、一種の連帯感のようなものが生まれていました。人々の思いは神楽の舞とお囃子の演奏に乗って、高千穂の夜空高く広がっていきました。

夜神楽が終わって、まだ感動と余韻が覚めやらぬ中、一軒のうどん屋さんの灯りを見つけました。「急に俗っぽくなるけど、入ろうか?」「うん、そうだね。お神楽で心は温まったけど、おなかは冷え冷えだもんね」…などともっともな理由をつけて暖簾をくぐりました。そこでお品書きの「にくみそうどん」という文字に目が留りました。「へえ〜珍しいね。頼んでみよう」「どんなのかなあ、楽しみだね」そして待つこと10分。「にくみそうどん」がほかほかの湯気を立てながらやって来ましたわくわくしながらお丼を覗き込み「エッ?!」互いに顔を見合わせました。私達は「肉・味噌うどん」と思っていました。つまりトッピングに大きな(?)お肉が乗っている味噌仕立てのうどんと思っていたのです。ところが目の前にあるうどんは、お出汁も普通。

トッピングもねぎと蒲鉾。でも良く見ると、中央に黒い塊がありました。「ああ〜、肉味噌〜」「これかあ〜」その黒い塊こそが、ひき肉炒めに自家製の味噌をからめた「にくみそ」だったのです。

「お客さん、どうかしましたか?」お店の人の言葉に「いえいえ、なんでもありません。いただきます。」寒い夜に、肉味噌を少しずつ溶かしながら食べるうどんの味は格別でした。それにしてもこんな勘違いで一喜一憂するなんて、神々の世界にはほど遠い。まだまだ精進が足りませんね。懐かしい夜神楽の思い出に、今夜は我が家も煮込みうどんで温まる事にしましょう。いざ、凡人に乾杯!

連載 その6(最終回) 

音楽の都で、

赤ちゃん連れコンサート

加世田 薫

随分前のことになるが、音楽の都ウィーンへ一度だけ旅行したことがある。公園にはモーツァルトの記念碑。街にはスタインウェイのピアノやさん!お店を窓から中を覗くと、グランドピアノがずらりと並んだ光景は圧巻だった。そして、小澤征爾さんが音楽監督を務めたウィーン国立歌劇場があった。当時、私達には娘が二人(4歳、1歳)がいて、さすがに赤ちゃん連れでコンサートに行くのは無理だと思った。知り合いが小さい頃ウィーンに住んでいて、安い値段でオペラなどを見ていたと言っていたなあ・・・。コンサートに行けないのは分かっているけど、何度も歌劇場の前を通ってみる。チケットやスケジュールもチェック。ああ、行きたいけど、さすがにだめだろう。でも、思い切って、赤ちゃん連れでも大丈夫か、聞くだけ聞いてみよう。どうせウィーンに来ることなどもうないのだから。ここでいつも優しい夫が、私の代わりに聞いてくれる。

 受付の人に聞くと、「いいよ。」とすんなりオーケーが!まさかの返事に思わず、「赤ちゃんが泣き始めたら、すぐ外にでますから。」と言い、天にも昇るような気持ちになった。一旦ホテルに戻り、まず1歳の娘を眠らせ、機嫌をよくしておくことにした。コンサート中にぐずったときのための子供用のジェリービーンズも買っておく。

 夜になり、国立歌劇場へ向かった。中へ入れただけでも、感動でいっぱいだった。席へ着くと、斜め前に座っていた老紳士が、私達を見て、’Oh,God…’と言った。

嫌味ではなく、「この人たち、赤ちゃん連れてまで聴きにきたの?」と微笑ましい感じだった。演目はカルテットだった。演奏が始まって、数分後・・・。1歳の娘が、「ふあぁー」と言った。退屈そうなため息に聞こえたかもしれない。静まり返った会場でとても響いた。

ああ、どうしよう。さっき、寝かせてきたのが裏目に出て、すごく元気になっている。赤ちゃんの小さな声なら大丈夫かな、と考えていた私が甘かった。そんな声も何度か出すと、会場が少しざわめき始める。・・まずい。さすがにこれ以上はいられず、ロビーに出ることにした。そこには、北欧出身のような男の人がいて、挨拶をして、娘を抱っこしながら、「コンサートに連れてくるにはちょっと早すぎたみたい。(笑)。」と言ってみた。長女と夫もロビーに出てきた。長女が私を追いかけて走ってきたらしい。「せっかくだから、もう一度一人で聴いてきたら?」という夫の提案で、私だけ会場に戻り、少しだけ演奏を楽しんだ。

 あの時は、いろんな方に迷惑をかけてしまったけれど、ウィーンでクラシックを聴ける機会に恵まれたことにはとても感謝している。「赤ちゃん連れでクラシックコンサート!?勇気あるね。」と友人からも言われ、この体験は自分の胸にひそかにしまっておこうと思っていたが、月日が経つと、なんだか笑えるエピソードに思えてきて、音楽を愛する皆様にもこの思い出を共有して頂けたらと思い、書いてみました。短い間でしたが、読んで頂きありがとうございました。

音楽だより♪367  

孤独の結晶 竹内幸一

穏やかな2014年の朝を迎えました。パソコンの部屋の窓から、新しい一年の始まりを喜ぶ日差しが差し込んでいます。皆様、昨年同様、今年も、このエスプレシボともどもお付き合いをよろしくお願いします。

さて、私の初仕事を始めましょう。今年のスタートは「奇蹟の画家(後藤正治著・講談社文庫)」という本を読んだ感想から、この1年を生きていく姿勢などが書けたらと思いパソコンに向かっています。

教室に絵を飾るようになって、ちょっとだけ絵に興味が出てきましたので、この本を読んだとき、絵の持つ力、影響力が少しだけわかりました。49歳で初個展の石井一男との出会いの感動について、様々な方の声がこの本にはたくさん登場します。しかし、そんなことはともかく、まずこの本を開いて口絵の10ページほどのカラー写真を見た時、何かわからない大きなものが私の心を鷲掴みにしたのです。包まれるというか、抱きとめられるというか・・・その絵の持つ許し、癒しの、大げさなようですが神の光にも似た磁力の中で、私は何度この絵を見返したことでしょう。

1枚だけ「女神」という作品を掲載させてもらいました。小さな絵ですのでわかりにくいと思いますが、私の想いの一端が伝わればと思います。いつか、石井一男の本物の絵が見たいという夢ができました。

石井一男という人は、名の売れた画家でもなく、日曜画家で有名になった人でもなく、それこそ彗星のように画壇に登場しました。それも、ギャラリー島田を経営する島田誠さんとの偶然の出会い(この出会いも奇蹟ですが)によって、無名の石井一男が世に出たのです。そのいきさつはこの本に詳しく書いてありますが、その出会いがあり、しかも、石井の作品にそなわった本物の実力が奇跡を生んだのです。

石井は極端な人見知りでした。とにかく人と話をすることが苦手なのです。運送店、交通量調査、アドバルーンあげ、新聞配達等、「黙って出来る」単純作業ばかりを選んで短期アルバイトをしながら暮らしてきました。

初の個展の時の紹介は次のようにパンフに書かれていました。≪孤独が生んだ純粋な結晶≫(49歳の今まで、ほとんど完璧ともいえる孤独の中に自己を閉じ込めてきた画家)。

2階の間借りに住む部屋は質素そのもの。絵のほかは数冊の宗教書が目につくくらいという暮らしの様子は、世に出る前も後も、少しも変わらないままだそうです。長年石井を取材してきた文化部の新聞記者が次のように書いています。「あれから10年余たちましたが、今でもいちばん大切な絵です。こころの鏡なのです。自分が思うよりも正確にこころが写ります。 奈良の中宮寺にある如意輪観音半跏思唯像を陶芸家が見ながら、この観音さまは自分のこころが写るんです。と言っていました。わかるような気がします。 」

寡黙は、絵が売れ出してからも少しも変わりません。何か尋ねられても「ええ、まあ・・・」、「うーん、どうだったんでしょう 」という返事しか返ってきません。その彼が珍しく饒舌になった時次のように語っています。「ほとんど我流でやって来たわけでして…設計図があって描く画家もおられるでしょうが、私の場合行き当たりばったりといいますか・・・下塗りの段階では人物になるのかそれ以外のものかということもわからないんです…塗っていくうちに何か天井のしみのようなものが現れて、それに引っ張られてといいますか、何か内側から呼んでくるものを待っているといいますか…この絵の場合でいえば、黒地の中から白っぽい顔のようなものが浮かんできて…それをなぞっていくうちに表情になってきて…」

内側から呼んでくれるものには、すぐ出会うときもあれば、3日経っても呼ばれない時があり、下塗りのまま終わるときもあるそうです。

周りにはたくさんやさしい方が居てくれ、いろいろ助けてくれます。しかし究極のところ、自分の人生は自分で切り開いていくしかない気がします。それはやはり孤独な行だと思います。

年末に2週間ほど風邪をひきました。それが耳に来て、もともと聞こえの悪かったのが、補聴器なしでは会話ができなくなりました。(これからたくさんご迷惑をおかけすることと思いますが、どうぞご容赦ください)。また昨年末には、母が老人ホームに入り、生家は無人になりました。それに、見えない蔭のところで、いつもいろいろと心配りをしてくれていた大切な方が、大変な病気と闘ったりもしています。

それやこれやを、人生の画板でぐるぐるとかき混ぜるのは、誰にも助けてもらえない孤独な作業です。何日も何日もかき混ぜているうちに、しみのような小さな灯りが見えれば、それを大切にして生きていくことができます。

その過程を踏んだ石井一男の絵を見ていると、なぜかわからないのですが、心が安らぐのです。なかなか思い通りにはなりませんが、心穏やかにいろいろな人生の喜怒哀楽を受け止められるような気がするのです。

今年も1年、また皆様どうぞ変わらないお付き合いさせてください。よろしくお願いします。

 

連載その4

しいの実の歌

(オカリナ科講師 渡辺明子)

 

♪ぼくらはしいの実 まあるいしいの実 

お池に落ちて 泳ごうよ 

お手々に落ちて 逃げようよ 

お窓に落ちて たたこうよ たたこうよ…

(西葉子作詞・斎藤一郎作曲 しいのみの歌より)

季節が晩秋から初冬へと移る頃、私達姉妹は、いつもこの歌を歌っていました。我が家にはまだテレビはなく、父のお気に入りの黒いラジオから流れる音楽や、早起き鳥、昼の憩、三つの歌、落語やとんち教室、一丁目一番地のラジオドラマなどを楽しみに聴いていました。「しいの実の歌」も当時ラジオで流れていました。

瀬戸内海式気候に属している別府市ですが、海と山に挟まれた地形の関係で、冬になると強い風(鶴見おろし)が吹きます。山に近い家々は防風林で護られていました。防風林の多くは椎の木でした。子どもの頃、私達はこの風を心待ちにしていました。

「なあちゃん(姉の名)もう寝た?」「ううん、まだ」「あしたの日曜日は早起きしようね」「もちろん。いっぱい落ちてるかなあ?」「○○病院の駐車場はきっといっぱい落ちてると思うよ」「袋持って行こうね」「うん1番に行こう」「あっこちゃん寝坊したら罰金よ」「はーい、おやすみなさ〜い」

 昭和30年代前半、甘いお菓子のおやつなどはめったにお目にかかれない生活でした。自然を相手に、兄弟や姉妹が異年齢の集団の中で、遊びを通して人間関係のルールを学んでいく事が当たり前でした。甘いお菓子はなかったけれど、蜜柑、枇杷、いちじく、すもも、つばな、ぐみ、むくの実、柿の実、ゆすら梅、そして椎の実など、四季折々の恵みが溢れていたように思います。

 「あ〜!もうみんな来てる」「ほんとだ、早く拾おう」私達が目指した駐車場には、私達よりももっと早起きをした友達が沢山集まって椎の実を拾っていました。樹齢何年くらいでしょうか?大人3人位で手をつないでやっと届くほどの、大きな幹の椎の木が4〜5本あったように記憶しています。

椎の実にも種類があって、まん丸で黒く艶々と光っているもの、少し長くて茶色っぽいものなど様々でした。皆それぞれに入れ物を満杯にして嬉しさと一緒に帰宅しました。

 

 最近、懐かしくなってその駐車場に行って見ました。枝打ちや切り倒しなどで、昔ほどの勇姿ではありませんが椎の木が1本残っていました。

小学生らしき子ども達が椎の実を拾っていました。

「まあ、懐かしいね。みんな拾った椎の実はどうするの?」思わず声をかけてみました。「食べるんや」「生でもいいし、フライパンで炒ってもおいしいよ、おばちゃん知らんの?」「ううん、おばちゃんもあなた達と同じ年の頃、いっぱい拾ったんよ」

「おばちゃん、いいこと教えようか」一人の利発そうな女の子が話しかけてくれました。「あんな、この椎の実はこのまま食べたらいけんのよ。帰ってから、最初に洗面器の水に入れるんや」「水につけるの?」「そう。そしてプカ〜って浮いてきたのは捨てるんや」「浮いてきたのは駄目なん?」

「そう。浮いてきたのは中に虫が入ってるんや。虫が食べたから中身が軽〜くなって浮いてくるんやわ。それをみんな捨てて、残ったのを洗面器から出して広げて乾かして、お母さんに炒ってもらって食べるんよ」

「すごい!よく知っているね」

「そう。おばあちゃんが教えてくれたんや」女の子は少し自慢気に胸を張りました。

「あなたのおばあちゃんは、物知り博士よね。色々教えてくれるの?」「そう。色々知ってるからお母さんもいつも教えてもらってるわぁ。じゃあおばちゃんさよなら〜」

 

 元気よく駆けて行く子ども達の後姿を見送りながら、50年以上経っても変わらずに、人々に恵みを与え続けている椎の木の存在に、胸が熱くなりました。しっかりと大地に根を張って、人間の都合で枝を落とされても文句も言わず、切り口から新芽を出し、また枝を張り、強風から家や人を護り、実をつけ、子ども達やその家族にも幸せを与えてくれる…。「忍」という文字がぴったりだなぁと感じました。

♪みんなはしいの実 元気なしいの実

お風にゆれて 歌おうよ

お庭で ころころ あそぼうよ

みんな仲良く あそぼうよ あそぼうよ

 

 今はふるさとを離れて、福岡に住んでいる姉に久しぶりに電話をしました。お互いの近況報告などをした後、「あっこちゃん、福岡は昨日とっても風が強かったけど、別府はどうだった?あの椎の実は今でも落ちてるのかしら?」と聞かれました。

「うん、こっちもすごい風だったわ。今も吹いてるよ。なあちゃん、明日は早起きしようか?」

「そうね、袋を持って行かなくちゃね。寝坊したら罰金よね」と言って大笑いしました。「拾った実は先ず水につけて、浮いてくるのは捨てなきゃね」

「そうそう、虫に気をつけなさいって、お母さんが教えてくれたよね」

話題はいつしか亡き母の事に。それは二人にとって共通の、幸せに満たされた時間でした。

2013年もあとわずか。来年もお互いに元気で過ごせますように…。

 

 ギターは奥が深い

後藤 一成(ルベックムーン)

早いもので、竹内先生にクラッシック・ギターを習い始めてから10年が過ぎました。この頃は、年のせい(3月で77歳)で、思う様には、指が動かず、あまりうまくなりません。

しかし、ギターの奥の深さに触れて、ギターへの愛着は少しも薄れません。と言うのは、私はもともと、マンドリンが主で、ギターは伴奏が出来ればいいかなと思い、ギターを習い始めたからです。マンドリンの方は、竹内先生にギター伴奏をしてもらい、人前で何回も弾かせて頂くうちに、マンドリンの方も、かなりうまくなりました。

今は別の「アンサンブルEGB」と言うバンドで、マンドリンを弾かせてもらっています。こちらも、演奏依頼がかなりあり、結構忙しいです。

ところで、ギターを通して、先生から、ギターの深い特徴を知ることが出来ました。まず(1)コードの種類です。どのコードでも、2つのタイプがあり、それをマスターして、便利な方を使えばいいのがわかりました。

次に(2)コードの位置です。同じ「c」のコードを弾くにしても、ギターの竿の (i)左の方の低音部 (ii)中ほどの中音部 (iii)右の方の高音部と3カ所あり、曲にあわせて都合の良い場所のコードを選んで、伴奏に使えば良いことが分かって来ました。

また(3)曲のキーを変えると、コードも変えなければなりません。その際の早見表も、先生から頂き、本当に重宝(チョウホウ)しています。

先日、宇都宮さんの関係で、後藤敬三さんと、私の3人で、安心院のある集落の公民館に呼んで頂き、ムーンが大観苑でする様な曲を演奏させてもらい、地域のお客さんと一緒になって、合唱と演奏を楽しみました。

独奏の部では、宇都宮さん、敬三さんも得意の曲を独奏しましたが、私の場合は @津軽海峡冬景色 A影を慕いて の2曲を、ギター独奏をさせてもらいました。

 また、お客さんとの合唱の際は、宇都宮さんが主旋律を弾き、敬三さんと私は、伴奏を受け持ち、お客さんと楽しい合同合唱が出来ました。

この様に、ギターは、ピアノの様な機能があり「独奏・伴奏」のどちらも可能で、本当に便利で、奥の深い楽器であります。それで、これからも益々、ギターに頑張りたいと思います。

今月の名画「夜のカフェテラス(ゴッホ)」

♪今年から2か月飾ることにしました。

204〜233

 

音楽だより♪368   

幸福の条件 竹内幸一

あれよ、あれよという間に、もう1月が終わりますね。今日は1月27日ですが、新年会出発までの空き時間に、パソコンに向かっています。

さて今月は、先日、「幸福の条件」という番組を見ましたので、そこで学んだ、3つの条件をご紹介したいと思います。少しでもその心がけが、普段の暮らしの中で幸せにつながってくれたらと願っています。

条件1【人との交わり】

私事で恐縮ですが、米寿になる母が、昨年末老人ホームに入所することができました。これまでは、日に2回訪問してくれるヘルパーさんとの会話以外の時は、いつも一人で黙って食事をし、黙ってテレビを見ていました。人と交わることが極端に少ない日々を過ごしていたのです。少しずつ体も弱っていくようで、心配していました。

ところが、ホームに入所して2週間ほどして面会に行ってみて驚きました。顔色もよくなり、話の受け答えも実にスムーズになっていました。手押し車を使って食堂に行ったり、習字を書いたりの暮らしの中で、たくさんの方と接し会話をしていることが、生命の細胞を甦らせてくれたのだろうと思います。

私は、26日、27日、29日と3回新年会があります。どのグループの方とも、長いお付き合い(長い方とは30年もなるほどです)の中で、この新年会という集まりに参加できます。いろんなタイプの方がいて、いろんな波風も起こる人間関係でしたが、逃げて引き込もらなかったからこそ、3回もの新年会に参加できるのだと思います。人との交わりの効能が、新年会という貴重な宝になって表れている気がします。

条件2【親切心】

なんだか、ごく当たり前のありふれた条件ですね。優しくするというと、介護や看護の基本に「同調する」ということがあるようです。相手の訴えを認め、それに寄り添うことが、一番の心の介助になるそうです。

「寒いですね」という問いかけに、「そうですね、早く暖かくなるといいですね」と認めてくれる受け答えがあると、安らかな気持ちになります。しかし「この時期、そんなシャツだけでは、寒いのは当たり前でしょう。ほらほら、上着のボタンはきっちり止めて」と言われたりすると「寒いですね」といった唇まで冷たくなってしまう気がします。

それぞれの方が、ご自分の生き方、主義主張を持っています。それがある中で周りの方に、「同調する」という「親切心」はなかなか実行できることではありません。しかし、それが少しでもできると、自分自身も、そして周りの方も幸せになることは間違いありません。同調してくれ、自分の思いを認めてもらえたら嬉しいですね。そのようなやりとりが少しでもできるように心がけたいものです。

自分は正しいという剣を振りかざして、周りの人を責めている人も時折おります。確かに正しいのでしょうが、周りの人はもちろん不幸ですし、責めている方の心も荒んでいる気がします。

新聞で、指さして攻撃している人の手のことを書いているのを読みました。「あんたが悪い」「おまえが間違っている」と指さしている手の1本は相手に向けられていますが、残りの3本は自分に向けられているというのです。人を責める3倍ものストレスや心身への黒い汚濁が自分に降りかかっているのです。

たいがいの方は、3本の指が自分に向けられていることに気が付かないことでしょう。それに気が付くことが、幸福の条件獲得への1里塚かもしれません。

指のことで付け加えるなら、指を全部開いている手には「同調」が溢れています。両手を広げれば、「さあ、私のところへいらっしゃい。抱きとめてあげましょう」となります。また開いた手で肩をそっと触れば「大変でしたね」となり、その手のひらからやさしさがあふれてきます。そんな手を持てたら、どんなに自分も、そして周りも幸せでしょうか。

条件3【ここにいること】

これは、仏教にもこういう教えがありましたが、未来や過去で悩むのは不幸だということです。まだ呆けてない時から、「呆けたらどうしよう」と心配している方がおります。また何年も前に起きた「あの時あの人にあんなことを言ってしまった」と悩んでいる方もおります。繊細な心が、今の自分の力ではどうしようもならないことに対し「取り越し苦労」をすることで不幸になっているのです。

今、私はパソコンの前に居ます。エスプレシボの2月号の原稿を書いています。「いまここ」にいる私は、その目の前の原稿作成に全力を挙げるしかないのです。B4の紙はあったかな?日向ぼっこをしたら気持ちのよさそうな日差しだなと窓を見たりしていると、集中できません。雑念を捨てて「いまここ」の自分に集中しなければ、いい文章は生まれません。

食卓に向かえば、出されたものをおいしく食べることに全力をあげます。階段を下りていれば、つまずいて転げ落ちたりしないように、ただひたすら階段を降りることに専念をします。

「今自分はここにいる」という、その一瞬一瞬の目の前にあるものに、きちんと自分の思いを集中した帯の流れが、かけがえのないそれぞれの方の人生になります。「いまここ」から目をそらしていることに気が付きましたら、この新聞のことを思い出していただけたら嬉しいです。

やさしそうで、やっぱりむつかしい3つの条件でしょうね。誰も幸せになりたいのは間違いないと思いますので、こういう輪が広がって、これからの時間のふれあいが過ごしやすくなるといいですね。

 

 

連載その5

「お・だ・い・じ・に〜」

(オカリナ科講師 渡辺明子)

 

 今年もインフルエンザが流行し始めました。

ウイルスの形状は年々進化し、今年はあの治療薬タミフルさえも、その効果が危ぶまれ、まさに人間とウイルスとの知恵比べのようです。

先日定期健診に行った病院の待合室でも、マスクをかけた大勢の患者が順番を待っていました。

公立の大きな病院は患者数も多く、曜日によっては待ち時間が1〜2時間という事も珍しくはないようです。

「なかなか呼ばれませんねえ」「ほんと、待ち長いですねえ」「おたくはどれくらい?」「私はかれこれ1時間半ですよ」「まあ〜!待つのは長いけど診察はたったの2〜3分ですよね(笑)」「ほんとうにね〜」私の後ろの席から半ば諦め気味の会話が聞こえてきました。

『患者さまの○○さま、○番診察室にお入りください』「あ〜、やっと呼ばれたわ」「良かったね、行ってらっしゃい」…。私も思わず、心の中で「行ってらっしゃい」と呟きました。

 さて、私自身も診察を終え、精算のため会計の前の椅子で待っていると、「患者さまの渡辺さま、会計窓口にお越しください」との声。

ここまで来て私は「はっ!」と気づきました。

「な〜んか、もやもやした違和感があるなあ」とずっと思っていたのですが、それはアナウンスされる「敬称」でした。患者さま・○○さま、この「さま」という言葉がしっくり来なかったのです。いつ頃から「さま」と言うようになったのでしょうか?

 

医療関係に勤めている友人の話によると、2004年4月に独立行政法人国立病院機構が設立され、それまでのいわゆる『親方日の丸』から、病院独自の経営手腕が問われる形式になり、そのためには優れた先端医療の導入や、有能な医師の配置、更にはサービス業としてのノウハウが必要不可欠になったという事でした。つまり病院にとって患者はお客様なのです。従来の事務的な物言いではお各様からクレームがつくかも知れない。待ち時間が長いと目安箱に投函されるかもしれない。これは大変!病院全職員の意識改革がなされたという訳ですね。人それぞれに感じ方の違いはあると思いますが、私個人としては「さま」ではなく「さん」の方が親しみがあって好きです。むしろ患者側が尊敬と信頼の気持ちを込めて「お医者様」と呼ぶ事の方が理にかなっている気がします。

 

 京都祇園のお座敷を務める舞妓さんや芸妓さんの修行はとても厳しいと聞きました。舞・三味線・唄はもちろんの事、数々の所作・立居振る舞い・客層に合わせて時事への精通・四季折々の風情・和歌・短歌・俳句・川柳などの文芸にも秀でるべく1516歳頃から伝統と格式の中でしつけられるそうです。修行の中で最も難しいのが「京ことば」で、地方から出てきた娘たちが「まいどおおきに」「またお越しやす」などの台詞を、場に応じて正しいイントネーションで使いこなせるようになるには、相当の時間と努力を要するそうです。確かに、あの綺麗な姿で、やんわりと「おおきに、またお越しやしておくれやす」と言われたら、客もまんざらではないでしょう。まさに「京ことば、サービスの真髄ここにあり」です。

 

 しかし、最近驚くべき音声ガイドを耳にしました。某病院の支払機で、案内の音声が流れるのですが、優しい女性の声で「診察券を入れてください」「画面の確認ボタンを押してください」「診療明細書が必要な方は、ボタンを押してください」「料金を入れてください」「お釣りと領収書をお取りください」等々、それぞれの指示通りに画面をタッチして行くと、実にスムーズに支払いへと誘導されます。そして極めつけが最後の「おだいじに」というひと言です。たった5文字のことばですが、この支払機から発せられる音声は、まるで京ことばの様でした。まず1拍の休符、そして、お(ソ)・だ(♯ソ)・い(♯ソ)・じ(♯ソ)・に(♯ソ)・・・。

と続きます。全ての音にテヌートがかかっていて、最後の「に(♯ソ)」は2倍の長さです。

生身の人間のような流暢で優しいアナウンスに、ただただ感心させられ、しばし聞き入ってしまいました。

「お・だ・い・じ・に〜」

「へえ、えらいおおきに。ありがとうさんどすなあ。ほならまた、寄らせてもらいますえ」

 

おっと!!いけない、いけない!ここは病院だった。「えらいすんまへん。もうこれきりにしとくれやす。けどあんさんのお声は、よろしゅうおすなあ。全然違和感もあらしまへんえ。お陰さんで、ぎょうさん癒されましたわ。ほな、おおきに。さいならあ」。

 

寒い日が続きます。みなさんもインフルエンザにかからないように、どうかくれぐれもお気をつけください。

 

 

ギターに取り組んで

    是永洋子(ルベックひまわり)

 

オスプレイの強引な上陸、遅々として進まない震災復興、猛暑だったこと、快挙なのはオリンピックの招致……目まぐるしいニュースの数々の中で、2013年も終わりを告げ、新しい年が静かに明けました。

 さて今年はどんな年になるのでしょう。せめて天災だけは起こりませんようにと願わずにはいられません。身を引き締めて新年のスタートラインに立ちたいものです。

 扇山をはじめ春夏秋冬それぞれに美しい別府の山並みを、フロントガラス越しに眺めながら、いつもスピードオーバー気味に別大国道を駆け抜けて、バタバタと先生の元へギターを習い始めて、11年の月日が流れました。

 凝り性の私は、何かやりだすと辞めることを知らない(?)性格です。その一つがギターです。

音楽の基礎も勉強したいなと思いつつも、何もしないまま今日に至っていますが、最近は先生からお借りするクラシックCDのとりこになっています。鍵盤をたたく力強いピアノの音色、優雅なバイオリンの音色、至福なひと時を過ごしながら、ピアノが弾けたら、バイオリンも弾けたらなんて夢見るのですが、いやいやもっとギターを頑張りなさいと別の私の声がします。

 一人で弾くのも楽しいけど、ひまわりの皆さんとの練習も楽しい。時には不協和音もありますが、永年のお付き合いでの和やかさがあります。魅惑のギターステージも回を重ねるごとに息の合った演奏ができるようになりました。集中力を益々(?)高めることがこれからの課題だと思います。

 永年続けているものに、水泳、洋裁、ミニバレーとありますが、水泳は老若男女いつでもできるスポーツで、体力、健康維持を心がける皆さんが各々のペースで泳いだり、ウォーキングを楽しんだりと、市営プールは今日も活気にあふれています。

昨年末、ギター製作家の松村雅亘氏のお話を聞く機会がありました。優しい語り口で,物作りへのこだわり、その情熱、一つの楽器への関わり方、音楽への関わり方にもいろいろあるのだと感動し、ギターへの想いをさらに強めました。

 今年も先生の御指導の下、先生やひまわりの皆さんからの刺激を受けながら、いい演奏ができることを期待して頑張りたいと思います。 

 

初心者として

     新田義孝(ルベックムーン)

ギターとの出会いは学生時代、友達が持っていたものを借りて「禁じられた遊び」の主題歌「愛のロマンス」のさわりだけ真似て弾かせてもらったことでした。いわゆる「禁じられた遊び」世代といっても良いかもしれません。

昭和41年社会人となり、「いつかはギターを」とずっと思っていたので楽器も揃え、さあ正式に教室に通おうかなと思っていたのですが、今度は仕事が忙しくなりとてもその時間がないことが分かってきました。その後、結婚、子供も生まれ、ギターは子供のおもちゃとなりそれでも十数回の引越しにゴミにもならず、大分の地まで付いてきてくれました。時々は弦を変え、簡単な曲を弾く程度で音楽といえばもっぱら聴くだけのものになりました。

再度ギターを弾いてみようかと思ったのは退職後のOB会で友達が「アルハンブラの思い出」を演奏したことがキッカケでした。学生時代からずっと続けていたようで、まさしく「継続は力なり」ということを思い知らされました。今の自分には時間だけは十分にあるという訳で早速、古いギターを取り出し、アマゾンやituneでギター曲を購入ダウンロードし、さらにその中で気に入った曲の楽譜も取り寄せ、無謀にも挑んだのですが基礎練習を積んでいない悲しさ、音楽にならないことが分かり、文化教室の門をたたいた次第です。

自己流で弾いてきたため、癖があって直すのに苦労しています。年齢も疾うに古稀は過ぎましたが初心者として練習に励んでいます。4ヶ月経った現在、先生のご指導よろしきを得て指が以前よりスムーズに動くようになったことは大きな成果と喜んでおります。

また、ルベックムーンに入れていただいたおかげで目標も出来て、学校の試験勉強にも似て練習にも励みが出てきました。それより何よりも嬉しいことはメンバーの皆さんが素晴らしい方々で、下手な新参者を温かく迎えていただいたことです。(今後ともご指導のほどよろしくお願いいたします。 )

 

 

 音楽だより♪369  

危機一髪 竹内幸一

今年の大寒波は、かなり応えましたね。雪の重さで駐車場の屋根が落ちたとかの、大雪に関することが仲間内でたくさん話題になりました。暖かい日差しが待たれます。

さて今月は、私の思い出話を3つ書きたいと思います。それも「危機一髪」という、ちょっと面白い題です?(今でこそ笑って話せますが・・・)本当は今思い出しても、足が震え、背筋が凍るような体験を書き残しておこうと思います。どうぞお付き合いください。

もう40年以上前のことになります。大分東自動車学校で車の運転免許を取り、月賦で中古の軽自動車を買いました。ダイハツフェローという白い車で、頻繁に故障しました。朝エンジンがかからない時、プラグを抜き出して布で拭くとかかったりしたものです。(最近の車は性能がよく、プラグに触ることはまったくなく、それがどこにあるかもわかりません。)

車を購入した当時は、車が動くのがうれしくて、あちこち乗り回すのが楽しみでした。当時は、3畳一間の「みどり荘」というアパートに住んでいました。上下10部屋あり、進学校に近いので、高校生がほとんどでした。ある時とても仲良くしていた2階に住んでいたI君(大分工業高校の学生で卒業後は松下電器で働いています)と一緒に、ドライブに行きました。目的地は臼杵でした。

夕暮れ近くでした。もう帰ろうという頃、どういうわけか方向転換をすることになりました。空き地のようなところがあったので、バックで車を入れました。それで、前進して左へ出ようとした時、車がスーっと後ろに下がりました。当時の車はクラッチを使うもので、ブレーキとの踏み替えに技術が要りました。

恐る恐るブレーキを離すと、車が下がります。少し坂になっていて、後ろを見ると川が見えました。このまま下がると、川に落ちると思うと、ぞっとしてきました。やるたびに少しずつ下がります。青くなっているのを見たのでしょうか、隣のI君が「誰か呼んでこようか」と言いました。万一のことがあれば、この前途有望な若者も道連れにするところでした。

やけくその様な感じで、思い切りアクセルを踏むと、車はすごいスピードで道に飛び出しました。たまたま偶然ですが、その時車が通っていなかったのも大きな幸運でした。

この踏み替えの苦労は、西別府病院下の信号、元流川丸食の横の上の駐車場へあがる坂道等で、怖い思いをしたことも思い出します。今の車はいいですね。

車の話をもう一つ書きましょう。印刷会社で働いていた時のことです。昼休みに工場の外に出て、日向ぼっこをしていました。のんびり近くの人と話をしていると、Kさんの車がするするっとゆっくり下がってきました。「下がりよるぞ」「前、前」「壁に当たるぞ」と、みんな笑いながら、運転席にいるKさんに呼びかけました。Kさんはパニックになっていたのか、ガチャガチャやるのですが、車は前へ行きません。

たまたま壁に凭れていた私の横に、車は下がってきました。私はとっさに手を出して車を止めようとしました。(今思えば、手の力でどうなるわけでもないのですが…)。あ、あ、と言う間に車が下がってきて、私は手を抜くのが遅れ、なんと親指だけ車と壁の間に挟まれたのです。「手が抜けん、手が抜けん」と叫んでから、周りの人たちが危機に気が付きました。

「あわてるな、あわてるな、前に行かんか」と、Kさんに口々に呼びかけます。それで、何とか前に車が動いて、事なきを得ました。

ほんのわずかな違いでしたが、親指は、抜けない程度に挟まれているだけで、無傷でした。指が抜けないけど、傷はつかないという絶妙の隙間でした。幸運と言うしかありません。挟まれてつぶれていたらと思うと、今でも震えるほどです。万一指が使えなかったら、それ以後の私のギター人生は、なかったのですから・・・

もう一つの話は、もうギターを始めてだいぶ経ってからの時でしたから、30歳ぐらいの時でしょうか?ギターの友人と福岡でのコンサートに行きました。その時、当時ギターを習っていたK先生の実家が福岡にあり、一泊させてもらうことになりました。

友達二人と2階に寝かせてもらうことになりました。ところが、ここの家の造りは後で建て増したのか、ちょっと変わっていました。階段を上がると、踊り場がなく、突き当りは壁になっていて、そこから右手の部屋に這うようにして入ります。

2階の部屋で友達といろいろ話していると、下から、「御飯よ」と呼ぶ声が聞こえました。それでちょっとぼんやりしながら、出口の襖を開けて下に降りようとしました。「ああっ」っとのけぞりました。そこは暗闇でした。階段の踊り場がないのをすっかり忘れていたのです。心臓がバクバクして、震えが止まりませんでした。ほんの少しの重心の違いで、転げ落ちるところでした。「もし落ちていたら」と思うと、今でもぞっとします。

その日の夕食は、カレーでした。落ちそうになったことは誰にも言いませんでしたが、その時食べたカレーは、まったく味がしない感じでした。あわあわと波立つ体の芯の震えでカレーを口に押し込むのが精一杯でした。

「たら」、「れば」の話はあまり意味がないかもしれません。しかし、川に落ちず、飛びだして事故にならず、親指がつぶれず、階段から転げ落ちずに、ここまで生きてこられたのは、本当に幸運だったとしか言えません。いろいろぜいたくを言わずに、与えられた命の時間を大切にしたいと改めて思っています。

 

 

 

連載その6

「記憶の糸」

(オカリナ科講師 渡辺明子)

 

 「あ〜、あの人の名前、何だったかなあ?」

最近、人の名前をすぐに思い出せない時があります。皆さんはいかがですか?

自分の生活に深く結びついている人は滅多に忘れることはありませんが、映画俳優やスポーツ選手などはついつい忘れてしまいます。

ましてや落語家や歌舞伎役者に至っては、次々に襲名して名前が変わるので、覚えるのは至難の業です。複雑に絡まった記憶の糸をほぐすために、「あいうえお」順に当てはめながら「あ・安藤・安部・東…」「い・井上・今村・石田…」「う・上野・上田・上本…」と念仏のように唱えます。「さ行」あたりでヒットすれば良いのですが、「わ」までいくとさすがに疲れます。50音全部唱えても思い出せず、また振り出しの「あ」に戻ることもしばしばです。(笑)

 

私達の脳内で記憶を司る「海馬」には、その時々の出来事を記憶して一時的に保存する役目があるそうです。やがて記憶は大脳皮質に長期保存されます。いつも不思議に思うのですが、記憶する事柄に優先順位があるのでしょうか?嫌なことは忘れるようにし、良かった事、楽しかった事など、プラスの要素だけを思い出すようにしているのでしょうか?もし人間が、物心がついてから今日までの全ての事を残らず記憶していたら…それはそれは大変な事で、あっという間にオーバーヒートをしてしまうでしょう。それこそ海馬がいくつあっても足りませんね。神経細胞の神秘のメカニズムには本当に驚かされます。やがてそれぞれの事柄の記憶は、時と場合に合わせて、五感の刺激によって呼び覚まされます。

 

「こらッ、カツオ!何をやっとるんだ。宿題はすんだのか!」「あ〜、とうさん。ごめんなさあい」

「まあまあ、お父さん、いいじゃあありませんか」

「うふふ、マスオさん、いってらっしゃい」

「じゃあ、サザエ。よろしくたのむよ」

「磯野く〜ん」「おおい、いその〜」「たらちゃんですゥ、タマも元気ですゥ」「ばぶ〜」

 ご存知、サザエさんの台詞ですが、それぞれの声に特徴があり、どこで聞いても誰の声だかすぐにわかります。声優の名前も思い出すことが出来ます。この他にも、「助さん格さん、こらしめておやりなさい」「ふ〜じ〜こちゃ〜ん」「私コロンボ、うちのかみさんがね」「ドラえも〜ん」「どこでもドア〜」「シュワッチ!(ウルトラマン)」等々…。

「声」を聞くだけで、姿かたちやドラマの場面、その頃自分が何をしていたか、家族や友人はどんなだったか…と次々に思い出すことが出来、「記憶」のデータと「音(聴覚)」のデータは深く影響し合っているのではないかとさえ感じられます。

 

 昨年の秋に高校時代の還暦記念クラス会がありました。卒業後40年以上が経って、おなか周りや、おでこの広さなどがずい分変わっていて誰だかわからないクラスメイトもいましたが、話をすると「あ〜○○ちゃん?わあ〜なつかしい、声は変わらんねえ」とすぐにあの頃にタイムスリップ。

「その声はやはり○○ちゃんや」と言って、声を頼りに記憶の糸を手繰り寄せつつ、皆で楽しい時間を過ごすことができました。

 

「記憶の糸」ならぬ「記憶の音」で、楽しく、心が豊かになれるならば、「あのオカリナの音色は渡辺の演奏だね」と言って頂けるように、「記憶に残る音色」を目指して、日々練習に励んで行きたいと思うこの頃です

ギターを弾くことのできる幸せ

長谷嘉臣(ルベックムーン)

 

飽きるほどギターをいじることができ、目が回るほど社交ダンスを楽しみ、テニスではちょっと過負荷であるがまだやれると自信を持つことができる。私は幸せです。

ギターで「惜別の歌」を弾いていたら、胸が詰まってきて、涙があふれてきた。周りに誰もいないから、取り繕う必要もない。繰り返しは1オクターブ上をひいてみるとこれもまたいい。宴会で上役の人がこの歌をよく歌っていたことを思い出した。

今は隣の部屋の住人に気兼ねする必要もなく、音を大きく響かせて、何時間でも、好きなときに好きなだけギターを弾くことができる。ギターも初心者用のものでなく、プロも使っているような立派な私にはもったいないギターである。こんな幸せなことがあろうか。

定年になってすぐ、ギターのレッスンを受け始めた。現職のころは時間的にも心の上でもギターを弾く余裕がない。だが忙しくなると無性にギターを弾きたくなる。そこで心を決めて、毎日時間をつくりギターの練習をしようと決めたこともあった。しかし23日しないうちに急用が飛び込んできて、期限までに書類を出せといわれる。そうなるとギターどころではない。

だから定年後は、移り住んだマンションの近くに公民館があり、そこでギターのレッスンをやっていることがわかったのですぐ申し込んだ。7,8人のグループだが、先生が一人ずつ見てくれる。先生はギターの先生はみなそうであるが、暖かい穏やかな人で、仲間もみな優しくしてくれた。

ただ困ったのは練習時間の取れないことと隣の人に気兼ねがいること。いずれ大分に帰ることにしていたから、都会にいる間にしっかり覚えようと一生懸命練習した。しかし勤めは朝7時に出て帰りは7時、それから食事の準備をするから、練習は8時からになる。マンションだから隣りの住人に気を使った。9時にはやめることにしていた。

ギターが好きになったのはいつだろうか。高校生のときにこんなことがあった。友達の家に行ったら、お兄さんのギターが壁にかかっていた。友達がそのギターで「湯の街エレジー」のひとふしを弾いてくれた。心地よく胸の奥まで響く音色だった。ギターの音を聞くのは初めて、見ることさえ初めてだった。受験勉強という大きな荷をしょっている身としては、彼の家にたびたびいくことはできなかった。

社会人になって、1、2年は仕事を覚えるのが忙しくあっという間に過ぎたが、そのうちに毎日、同じことの繰り返しをするようになって暇ができた。そのころ、入ってきた後輩がギターをもっているのをみて、ぼくもやりたいと思った。その日のうちに楽器屋に行き、ヤマハの4000円のギターを買ってきた。公務員の初任給が8000, 9000円のころである。週1回楽器屋でレッスンを受けたが、練習はレッスンのある日に申し訳程度にちょっとやるだけだった。2年くらいはレッスンに通ったが結婚を機にやめてしまった。

子供たちが成長して家を出ていってから、ギターを弾いてみたくなり、昔使った教本を引っ張り出して練習をした。しかしある曲のところで引っかかり、どうしてもそこを超えることができなくなった。また急用が飛び込んでくると、ギターどころではなくなる。

大分に帰って半年もたったころ新聞でギターの先生がおられることを知り、習い始めた。田舎でも大分、別府まで出ればギターのレッスンを受けることができる。幸せなことである。

ただ、去年からはギターを弾いているうちに目がかすんできて、楽譜がはっきり見えなくなった。根気も続かなくなったがこれはもっと前からである。3,40分もしたら、飽きてくるからコーヒーを飲みに行く。これからどんな試練が待ち受けていることか。でも好きなだけギターを弾けるのはありがたいことである。やれる間はやりたい。

 

 

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