音楽だより♪361 
青谷徳彦さんを悼む  
竹内幸一
今年の梅雨は雨が少ないそうです。降り過ぎても困りますが、稲作がうまく行くように適量の雨がほしいですね。
さて今月は、風薫る5月の終りに旅立ちました、青谷徳彦さんとの長いお付き合いのことを書かせて頂きたいと思います。お別れは辛くて残念でなりません。しかし、ご一緒に過ごした10年ほどの間のことは、心温まる思い出として、私の中に永遠に残ります。印象に残る、丸顔からこぼれる青谷さんの笑顔を、今、鮮明に思い出しています。
資料を調べてみますと、ギター連盟の第25回定演から、青谷さんは中部地区公民館ギターサークルの一員として出演してくれています。と言っても、ギターではなくハーモニカでの参加でした。
ギターをしている奥さんの応援、介助で、公民館におしどり夫婦としていつも来てくれていました。奥さんの指が痛いとか、もうきついから家から出たくないとか言うのを、やさしく励まし、後押ししてくれていました。「家にこもってテレビばかり見ていると、呆けるよ」と、ご自分がギターを担いで、奥さんの手を引くようにして公民館へ来てくれました。レッスンが終わるまで、隣りの図書館などで待機し、ご一緒にまた帰って行きました。
そうこうしている内に、青谷さんが老人クラブや学校でハーモニカを吹いていることが分かりました。それなら、一緒にやりましょうと言うことになり、公民館のギター合奏団に参加してくれるようになったのでした。
毎年、ギター連盟の定演、そして公民館の文化祭には常連メンバーとしてハーモニカを吹いてくれました。体育館で行なわれる文化祭では、ギターの音が小さいのをカバーしてメロディーを奏でてくれ、大変助けられました。
合奏練習の時は、恒例にしているお茶会がありました。その時いつも、お二人が家庭での暮らしのことなどを面白おかしく話してくれていました。リューマチのような病気で指が痛くて困る奥さんのために、茶碗を洗ったり、掃除をしたりする青谷さんの様子が笑いの中で分かりました。きっとそれは、奥さんから青谷さんへの感謝の気持ちのあらわれだったのでしょう。
毎年春に新曲が決まると、いつも新しいテープを持ってきて、録音を頼まれました。家で、それを何度も、何度も聴いているという事でした。ハーモニカのことを知らない私は、シャープやフラットがついている、ハーモニカではやりにくい曲を選んでいることがありました。その一つの半音を出すのが、どのくらい難儀かが時々分かり、申し訳ない思いをしたものです。しかし、熱心に練習してくれ、毎年、ハーモニカのある中部公民館として、特色のある存在になっていました。青谷さんのおかげです。
奥さんの体の具合があまりよくない頃は、自宅への出張レッスンに呼んでもらいました。ギターのレッスンが終わると、間髪をいれずに青谷さんが隣の部屋から登場しました。お茶やお菓子の準備を万全に整えて、待機してくれているのでした。
それから、ギターのレッスンの何倍もの時間、楽しいおしゃべりをしました。お二人の若い頃の写真、大切にしている偉い方からもらった重要書類など、いろいろ説明をしてもらいながら見せていただきました。
5,60年前の新婚旅行の写真を見せてもらいながら、お二人の長い、長い暮らしの歴史を思っていました。はつらつとした若いお二人の姿が、眩しいほどでした。そんな時代があって、子育てを済ませ、今、二人の暮らしの中にギターがあり、私とのご縁が生まれているのでした。思えば不思議なことでもあります。
もうだいぶ前になりますが、公民館の講座のある日のことでした。館に入っていくと、お二人が並んで、1階のロビーで待っていてくれていました。青谷さんは入院していると聞いていたので、ビックリしながら、「どうしたんですか」問うたものです。きちんとネクタイを締めて、正装していました。「しばらくお休みしますので・・・」と言うご挨拶のためだけに、お二人は並んで待ってくれていたのでした。
体調の具合で奥さんが休むことも良くありましたので、「わざわざ申し訳ないですね。電話でも良かったのに・・・」と恐縮して応じました。しかし、青谷さんを公民館に迎えたのは、それが最後になりました。個人病院から、しばらくして近くの国立病院に移ったと言う話が伝わってきました。お見舞いに行ってみると、元気そうな前と変わらない声で、応対してくれました。
いずれ退院するだろうという楽観的な気持ちで日を過ごしていたある日、新聞のお悔やみ欄で青谷さんのお名前を発見し、愕然としました。おうちに電話してみると、長女になる方がいて、もう通夜も葬儀も終わったことなど話してくれました。連絡してもらえば、ギターの仲間がたくさん駆けつけたのにと思いましたが、もうどうにもならないことでした。
あれだけ、かいがいしく奥さんのことを思い、介助してきた青谷さんですので、心残りは奥さんのことではなかったかと思います。今、奥さんは、独りだけになった家で暮らさなくていいようにと、知り合いの病院の計らいもあり入院しています。近くに住む娘さんが良くお世話してくれ、病院の方もいろいろ気遣って声をかけてくれています。青谷さん、どうぞ安心して、ゆっくりお眠りください。
青谷徳彦さん。 享年84歳。心よりご冥福をお祈りします。長い間、有難うございました。合掌。                                     
 連載その10
父の日
     中原あおい(サクソフォン科講師)

 6月の第3日曜日、16日は父の日でしたね。台湾では88がパパ(??)と同じ発音ということで8月8日が父の日なんだそうです。
また、母の日 のカーネーションは赤い花でお母さんが亡くなっている場合は白・・・というように、アメリカでは父の日は赤いバラをプレゼントするそうですが、お 父さんが亡くなっている場合は白いバラをお供えするそうです。
日本では黄色のバラのイメージが強い気がしますが国によって違いがありますね。
 そして私の場合、母の日には割と簡単に決まるプレゼントですが、父の日はいつもギリギリまで何も用意してなくて「何しよう?何しよう?」と迷ってばかりいます。以前は洋服やネクタイなどを買ったりと物をプレゼントしていたのですが、あまり物に執着のない父はスーツはタンスの中に入れっぱなしで虫に喰われたり、夏物のTシャツはタンスの奥深くに眠ったまま着られることもなく冬 を迎えてしまい、そのうち忘れたころに他のTシャツと一 緒に出てきたりします。
 ですから、いつのまにかプレゼントを贈ることもなくなり父の日もうやむやになっていました。
 でも最近父も歳を取ったせいか、なんとなく父の日を楽しみにしているように感じます。父は甘い物が大好きでおまんじゅうなど一箱くらいペロリと 食べてしまうくらいの甘党です。食べることが大好きなのでこのところは行ったことのないところへ食事に行ったり、珍しいお菓子を取り寄せたりして いました。
 今年はどうしようかな・・・?と考えて、私の同級生が焼肉屋さんをやっているので、そこに行く予定にしていたのですが、いつもは出かけることが 大好きな父がめずらしく家でゆっくりしようということになり、メインの豊後牛を買って、炭をおこし、庭に机などを持ち出してまわりに蚊取り線香を並べて準備をし楽しい時間を過ごしました。
たまには外で食事をするのもいいですね。気分が良すぎて食べ過ぎになってしまうかもしれませんが・・・
 そういえば子供のころ、夏休みに屋上にテントを張り、庭で飯ごうでごはんを炊いてにわかキャンプをしたことを思い出しました。
 今年の夏は焼肉は外で!!が定番になりそうです。
  
連載その1
---語学と音楽                               加世田 薫
別府に来る前、6年間英国に住んでいたと言うと、「じゃあ英語はペラペラ?」とよく聞かれる。残念ながら、そんなことはない。日本語でさえ、話し上手とは言えない。
ただ、物心ついた時から母から英語を教わり、大学でも英語を専攻、社会人になってからも学校に通ったり、国際交流のクラブに所属したりするなど、もうかれこれ30年は英語を勉強している。ずーっとただひたすら、下手なりに勉強しているのである。
語学というのは一旦身につけたら何もしなくても保てるというものではない。常にやっていないとすぐ忘れてしまうものだ。よく、1週間に一度やるよりも毎日10分やるほうが効果的とも言われるが本当にそうだ。これは楽器に関しても同じことだろう。
いくつかある夢の一つに、「ホームパーティでピアノを弾くこと」がある。ピアノは小さい頃6年間ほど習っていた。きちんと練習していなかったので、かろうじて基礎はあるというレベルだが、人が集まる場で「さらっ」と弾けたらどんなに素敵だろうか・・・。
ただ、このパーティというのは、いつやるか決めていない。もしこれを実現するとしたら、毎日毎日、いつ開くか分からないパーティのために練習しないといけないことになる・・・。楽器の練習って本当に地道だ、とため息が出る。
 「人前で」弾く。「人に」書いたものを読んでもらう。この「人前で」やることが、私にとっては大事だと思っている。見てもらいフィードバックをもらえれば、自分の作品がより良いものになるし、自分が偏見を持っていたことに気づくこともあるからだ。
独りよがりや自己満足で終わりたくはない。以前に一生懸命練習したピアノを録音して聴いてみたら、左手が全くぎこちなく、とてもショックだった。自分の頭の中で聴こえている音と、実際の音は随分と違っていたのである。
「テンポが速くなったり遅くなったりしているよ。」と言われてもピンとこなくて、メトロノームを使ってみたが、それでもよく分からない。
自分の練習している曲をYouTubeで検索して、他の人はどういう風に弾いているのか調べたこともある。これはけっこう面白かった。自分の曲は客観的に聴けなくても、他人のものは素直に聴けるからだ。そして、悪いところを真似しないようにする(笑)。なるほど、この人の曲は、先生が言ったように、左手の音が大きすぎる。こういう風にしないようにしようと。
 ピアノを人前で弾くのはまだまだ先になりそうだが、文章の発表の場はこの「エスプレシボ」に少しの間、お借りできることになった。本当に有難いことだ。稚拙な文章を形に残すのは気恥ずかしい気持ちもあるが・・・。 動画サイトなど視聴覚メディア全盛の時代だが、私は常に「言葉で」自分の考えを伝えることを練習していきたいと思う。
そして、わざわざ書きたいと思うのは、自分のことを表現したい、そして人にも理解して欲しいという思いがあるのかもしれない。しばらくの間、どうぞよろしくお願いします。
 
 
♪362 
エスプレシボ  
8月号
アシスト 竹内幸一
 連続で猛暑日が続いています。しかし、東北のほうでは、豪雨で困っているようです。やりくり上手の天の神様が、均等に日差しや雨を振り分けて、各地に配ってほしいものです。どうもままなりませんね。何はともあれ、皆様、どうぞお元気でこの夏を乗り越えてください。頑張りましょう。
 さて今月は、「アシスト」と言う言葉から連想できることを書いてみたいと思います。ご存知の方も多いと思いますが、「アシスト」とは、サッカー用語で、ゴールをする一つ前のパスのことをいいます。
まず、この 「アシスト」と言う言葉・・・なんだか語感がとても好きなのです。やわらかくて、やさしく大きく包み込むようなこころよい調べを感じます。
私はサッカーのことはあまりよく知らないのですが、点が入らないときは、時間ばかり過ぎてジリジリ苛立つばかりです。そんな時、見事にゴールを決めれば、すごい興奮の絶叫の場になります。ゴールした選手は、一躍スーパーヒーローとして猛烈な喝采を浴びます。
それはそれで当然のことですが、サッカーは、その一歩手前の絶妙なパスを「アシスト」として評価するのです。私はそこに、なんだか奥深い魅力を感じるのです。見えない影の力を、きちんと評価する仕組みがあることは、素晴らしいことだと思います。
今の世の中、ともすれば、華やかなゴールばかりを求めている傾向があります。自分が主役でスポットライトを浴びることだけを、是としている気がするのです。それ以外の人間はくずと言うような風潮になっているのではないでしょうか?
しかしながら、どの世界でも華やかなゴールが出来る人は限られています。いや、ごく稀なことでしょう。そういう暮らしのいろんな場面に、「アシスト」という役割を評価する雰囲気が、とても大切な気がするのです。「アシスト」精神を、人も、そして自分も素直に喜べたらどんなにいいでしょう。周りの人が喜んでくれたら、自分も嬉しい・・・それは宗教の世界だけのことでしょうか?
さて、いささか我田引水になる、私の仕事のことを書きましょう。極端な言い方かもしれませんが、私のこれまでやってきた日々の仕事は、「アシスト人生」ではなかったかと思っています。
ギターと言う楽器を選んで、人生のゴール(ギターがあって良かったという日々)を目指す方たちに、毎日、毎日「アシスト」を繰り返しているのです。
絶妙なパスばかり送れるわけではありません。とびつく意欲をなくしたり、飽きたり、疲れたりして、「アシスト」出来ないケースもたくさんあります。しかしながら、私の思いはいつも、この方が「ゴール!」と言う歓喜の日々に到達してほしいと願いながら、仕事をしているつもりです。時折、「ギターをやっていて良かった」と、10年も20年も続けている方から言ってもらえることがあるのは、「アシスト人生」の最大のご褒美になります。
とはいえ、1対1のアシストでは、期間が長くなればなるほど自分の限界を感じます。教える内容の未熟さ、そして、個人の人間的な容量の狭さなどから、いつしかマンネリに陥り、ギターへの魅力を伝えることが出来なくなっていることがあるのです。
そんな時に助けられるのは、合奏団の存在です。1対1の殻を抜け出して合奏団に参加してくれた方は、皆さん長くギターを楽しんでくれています。
そこには、限界のある私個人の何倍もの「アシスト」が存在するからです。15人の合奏団では、14人の「アシスト」が存在します。その助け合いと団結があればこそ、人生の中で、長期間にわたってギターを大切にしてもらえているのです。合奏団の存在のありがたさを、いつも実感しています。
 仕事でも、家族や友人関係でも、「アシスト」を発揮する場面はたくさんあります。語感のとてもいい「アシスト」と言う言葉を、この夏の暑中お見舞いに、皆さんにお届けしました。どうぞ暑さしのぎに?ご利用ください。
 
天才ギタリスト
稲垣 稔 先生ご逝去
長い間、竹内竜次がご指導を受け、別府のギターの精神的な支えとなってくれていました稲垣稔先生が、54才と言う若さでお亡くなりになりました。ルベックの30周年記念コンサートの特別ゲストとして、素晴らしい演奏もしていただきました。わずか5年前のことです。
余りにも早いご逝去が、悔やまれてなりません。心よりお悔やみを申し上げます。
「新聞の全国版訃報記事を転載します」
稲垣 稔(いながき・みのる=ギタリスト)
6月26日午後3時2分、胸腺がんのため兵庫県明石市の自宅で死去、54歳。兵庫県出身、葬儀・告別式は28日の正午から神戸市西区森友1の152の1、和坂大和会館で、喪主は妻絵里(えり)さん。
 80年にスペインのセゴビア国際ギターコンクールで優勝するなど、日本を代表するクラシックギタリストとして活躍。93年には文化庁芸術祭賞を受賞した。
 
 
連載その11
スロージョギング
     中原あおい(サクソフォン科講師)

 毎日暑い日が続いていますが、みなさんお変わりありませんか?この連載が始まった最初の頃に、私はウォーキングをやっていると書きましたが、最近はスロージョギングにはまっています。スロージョギングは「ためしてガッテン」や「世界一受けたい授業」等で放送されていたので知っている方もたくさんいると思います。大分市では教室もあるくらいです。
 私は体を動かすことが大のニガテでウォーキングも、そんな生活から少しは脱却しなければいけないと思い始めましたが、一人で黙々と歩くだけの運動はイヤイヤ続けていました。「あの服が着たい!」とか「ダイエットしよう!」とか目標があれば、もう少しまじめに取り組んでいたと思いますが、ただ漠然と健康のために・・・と始めたので、本当に気が向いた時にしか行きませんでした。それに○km歩く!と決めても、行きはよいよい帰りは・・・で家までの距離を考えると、またこの長さを歩いてもどるのか・・・とため息交じりに歩いていました。ですからスロージョギングも最初からすんなり始めた訳ではありません。
 そのときたまたま一緒に友達と歩いていて、やってみようか・・・と始めてみたら、歩くより楽しい♪ テンポが自分に合っていて時間がすぐに経ってしまいます。ただ私の住んでいる地域はまだスロージョギングをしている人を見かけたことがありません。海の側を遊歩道が通っているので散歩やジョギングには最適の環境ですが、ウォーキングをしている人でさえ、競歩並みにスタスタとものすごい速度で歩いていきます。スロージョギングは歩く速度で歩幅は足の大きさの半分程度、おしゃべりしながらきつくならない程度とのことですから、ジョギングしている人にはすぐに大きな差をつけられてしまいます。
 そしてはや足のウォーキングをしている人にも簡単に抜かれていってしまいます。自分は自分とペースを崩さずに走ればいいのでしょうが、なんだかまわりから見られているような気がして、「あの人走ってる恰好のわりにちっとも進んでいない」とか「走るより歩いたほうが早いんじゃないの?」って思われているようで(笑)それが心の葛藤となっています。
 友達にマラソンをしている人がいるのですが、スロージョギングをしていたら、うしろからジョギングをしている人に抜かれてくやしくなって抜き返したという話を聞きました(笑)人は人、自分は自分でマイペースを保てるといいんですけどね・・・。ですから私はなるべく暗くなってから走っています。できればスロージョギングがもっとメジャーになってくれればいいんですけどね。
 で、私は週3〜4回のペースで2ヶ月ほど経ちますが、体重は3kg減って維持しています。食事制限は全くしていませんし、お菓子もつまみます。でもたしかにお腹のブヨンブヨンのぜい肉が少なくなってきたかな?と思うのと、いつも腰が痛くて夜は眠れないこともあったのですがそれがなくなりました。もうすぐ健康診断もあるので数字的に変化が出ているかちょっと楽しみです。まだ2ヶ月しか続けていないのであまり期待はできませんが、がんばって続けていこうと思っています。
 
連載その2
---好きなように弾いて
いいんだよ 加世田 薫   去年の今頃、スカートを2枚縫った。その頃妊娠していて、マタニティ期間のためだけに服を買うのももったいないからだ。初心者向けのゴムのスカートだが、ちゃんとタックも入れてきれいな形に仕上がった。今までは難しいものばかりに挑戦して、最後まで完成させたことがなかったので、喜びもひとしおだった。そう、自分の作りたいもので、なおかつ自分のレベルに合っているものを選ぶことが大切なんだなあとしみじみ思った。
そして、私が弾いたピアノ曲を思い出した。
イギリス滞在中に、どうしても弾きたい曲に出会った。よくラジオで流れていた、’Le Onde (波)’ −アイナウディというイタリアの作曲家の曲である。ヴァージニア・ウルフの「波」という小説をモチーフに作ったらしい。ウルフの「ダロウェイ夫人」をヒントに作られた映画「めぐりあう時間たち」は大好きだったので、縁があるようで何だか嬉しかった。CDを買い、何度も聴くうちに、「もしかしたら私にも弾けるかもしれない。」と思い、楽譜を買い練習を始めた。ある日訪ねてきたピアノの先生をしている友人に、「この曲を練習しているんだ。」と言って聴いてもらった。「この曲はね。ペダルを使って弾かなきゃだめだよ。あなたに必要なのは、いいピアノ!」とアドバイスされ、早速電子ピアノをレンタルすることにした。(それまで使っていたのは、安いキーボードだった。)
後日、彼女がピアノレッスンをしてくれた。驚いたのは、「この曲、最初mpって書いてあるけど、左手mp、右手mfぐらいで弾くといいと思うの。」と、楽譜の指示をまるっきり無視・・・。「速さは・・・歩くぐらいの早さぐらいかな。」私はCDを聴いて同じような速さで弾くのを目標に練習していたので、だいぶ早めだった。確かに彼女の言うとおり、もっとゆっくり、右手を大きめに弾くとメロディラインが引き立って美しい。右手と左手を違う大きさで弾くというのはけっこう難しかった。その他、弾くときの姿勢、弾き終わりはペダルの足と手を同時に離すこと、電子ピアノで普段練習する時は必ずボリュームを大きくして(必要ならヘッドフォンをして)弾かないと、鍵盤をたたくようなへんなくせがつくから注意することなど基本的なことも教えてくれた。昔、ハノンをやったと言うと、「いい先生に教わったねぇー!」と感心された。でも、日本ではハノンをやるのはけっこう一般的では・・・?きっと日本では、技術を正確に教えるというシステムがきちんと確立されているのだろう。「日本ではバイエルを習うよ。」と言うと、発音が悪かったせいか通じなかった。彼女自身は、「バッハが好きなの!」と言っていた。ちなみにアイナウディはあまり好きではなかったらしい。「CDを貸そうか?」と言ったけど、「いいよ。」と言っていた。。。(笑)
 結局、この曲は、長女のお誕生会の際に公民館のようなホールでちゃっかり披露した。今考えれば、ピアノがある場所を借りればよかったのだが、自宅アパート3階から、そのホールまで電子ピアノを運んだ。あの時手伝ってくれた友人達には本当に感謝している。レッスンしてくれた友人とは連弾を2曲演奏して楽しいひと時だった。
 「好きなように弾いていいんだよ。」これが、彼女から教わった一番大切なレッスンだ。
あの曲だけは、今でも暗譜で弾ける。いつの日か、その時々の自分の心境に合わせた演奏ができれば良いなと思っている。
 
 
音楽だより♪363 
トイレの神様 竹内幸一
 今年の夏は、今までに体験したことのないような酷暑の日が続きました。9月が、これほど待ち遠しいことはありませんでしたが、ようやくやってきましたね。大きな山を越した感じがしますが、皆様、大丈夫でしょうか。暑さとの闘い、お疲れ様でした。
 さて今月は、3年ほど前に流行りました「トイレの神様」と言う曲に関して、少し書いてみたいと思います。植村花菜という若い歌手が、おばあちゃんとの暮らしを歌った曲です。「トイレには、きれいな女神様がいるんやで」「トイレを掃除すると、べっぴんさんになれるんやで」・・・と言う親しみやすい曲で大ヒットし、紅白にも出ました。
 どういう訳かこの歌に触発されて、掃除嫌いの私が、何を思ったかその時からトイレ掃除を始めました。それが、不思議なことに約3年になりますが、いまだに続いています。申し訳ないのですが、今回はその自慢話をちょっぴり?書かせてください。
 私の住んでいる家は3階建てで、それぞれの階にトイレがあります。これまでその掃除係は家人に決まっていました。それが何を血迷ったか、その歌の気分に乗せられて、3階のトイレを磨こうと思い立ったのです。
 自慢にもなりませんが、私はトイレに行く回数だけは誰にも負けません。腎臓、膀胱、尿道とやられましたので、尿を体の中にほとんど溜めることが出来なくなっているのです。入院中には、朝の検温の時に、大と小の回数を聞かれます。はじめは真面目に数えて、「正」の字を表に書き込んで、26回とか37回とか報告していました。しかし、だんだん面倒になって、口から出任せの適当な回数を言うようになったのを覚えています。それ以来トイレとは実に親密です。
 3階にはもともとトイレはなかったのですが、階段の上の狭いスペースに無理やりトイレを作りました。3階が寝室なのですが、夜中にも3,4回はトイレに行きますので、3階にないときは、階段を降りていかねばならず難儀なことでした。行くのが面倒だとつい我慢をしてしまいますが、それは体調を崩す元になります。3階に出来たおかげで、どれだけ助けられているか分かりません。ひょっとしたら、何とか今まで生きながらえているのは、3歩で行けるトイレがあるおかげかもしれないとも思うほどなのです。
 まあそういう背景があったからでしょうか、不意に掃除をしようと思い立ったのです。掃除を始めた当時は、あちこちの汚れが気持ちよく落ちて(それまでがいかに汚かったかと言うことですが)達成感のあるいい気分になりました。黒ずんだ汚れなどが、こすればこするほど綺麗になって行くのです。
 しかしながら、たぶん半年ほど経ったころでしょうか、どうしてもそれより先に行かないという限界が来ました。水の溜まっている境目の縁についた水垢のあとは、いつまでも消えません。何度こすってもびくともしないのです。長々と無力感を感じながらも、それでも何とかあきらめずに続けていました。
 だいたい不精で、掃除などは嫌いな私が、どうしてここまで続いているかというと、トイレ掃除を朝のリズムの中に組み込んだからだと思います。
 新聞を読みながらの朝食が済むと、朝のパソコンメールチェックがあります。まずパソコンのスイッチを入れます。その後に、部屋においている小さな植物に霧吹きで水をやります。(たぶん、ほんの10秒ほどでしょうか?)
 それからパソコンの前に戻り、パスワードを打ち込み、エンターを押します。これからパソコンが本格的に開くまで約、1,2分ほどかかります。この時間がトイレ掃除の時間なのです。
 歩いて3歩のところにあるトイレに行き、ブラシで便壷をこすります。右手で30回、左手で反対側を30回と決めています。手洗いのところもざっとブラシをかけて水を流します。これで、何分でしょうか?たぶん3分もかかっていないのではないかと思います。
 それからパソコンの前に戻り、メールのチェックをして、私の一日が本格的にスタートとなるのです。このリズムに乗ったおかげで、いつの間にかここまで続いてきたのだと思います。このことは、いろんな事に応用できそうですが、残念ながら、それ以外にぴったりはまると言うことには出会えません。
 幸いと言うか、いつか知らず、水の境界線のところの筋が消えていました。目に見えないような少しづつの積み重ねが、いつしか実を結んでいたのです。不思議ですね。そういえばあの筋が見えなくなったなあと、ある日突然喜びを味わいました。
 今は、どこか他の家のトイレに行っても、便壷だけに関しては「勝った!(笑)」と思うことが良くあります。しかしながら、総合力では、はるかに及ばないのです。面倒くさいことは嫌いなので、雑巾を持ってきての拭き掃除や掃除機などを出しての奮闘は、ぜんぜんする気がないのです。ですから、鏡のそばの台や、床や、いろんなボタンを押すところ等、ブラシで掃除できないところは、汚れたままなのです。よそのトイレは、他のところにも手が良く行き届いていて、私のトイレとは勝負にならないほど総合的に綺麗なのです。これをどう改善するかが、これからの課題ですが・・・。他にも掃除をするところは身の回りに沢山あるし?
 病気持ちの私にとっては、もう少し何とか命をいただくためにも、トイレの神様とのお付き合いが大切なような気がします。半端な掃除で申し訳ないのですが、何度も、何度も使わせていただくのですから、少しはお礼をしなければなりません。トイレの神様・・・これからもなにとぞよろしくお願いします。
連載その12(最終回)
葡萄の収穫
     中原あおい(サクソフォン科講師)
 
先月、ワインを作るため安心院へ葡萄の収穫に行ってきました。大分合同新聞に載っていましたので読んだ方も多いかと思いますが、葡萄農家で81歳のおばあちゃんが有機農法と無農薬で作っている葡萄園があるのですが、高齢でもあり、農協に出荷しても化学肥料と農薬を使った葡萄と何も価格が変わらないた め、農業をやめようとされていたそうです。しかし味もよく安心して食べられる葡萄をなくしてしまうのはもったいないと、地元の町おこしの方が収穫してくれる人たちを募って初めての収穫祭がありました。
 その日も大変暑い日で、水を浴びたくらいに汗をかきながら葡萄を取っていきました。主催者側は30人くらい来てくれたらいいなぁ・・・と思っていたそうですが、なんと72名の方が参加されたそうです。ほとんどは大分の方と思いますが、福岡ナンバーの車もありました。参加者が多かったことも あり、意外に早く終わりましたがちょっと休もうと木陰にはいると次に炎天下に出るには相当の勇気がいります(笑)。
私たちはその日1日だけの作業でしたが、農家の方たちは広い畑の中で毎日いろんなお世話をしないといけないんだと思うと、やっぱりなかなかできることではないなぁと思いまし た。
消費者である私たちはお金を出すだけですから、なるべく安い物をさがして調理をするにしても食材を粗末に扱ったりしていることがよくありま す。でもこういう作業をすると生産者の気持ちになって、すべて大切に消費してしまいおいしく食べなければいけないなぁと思ってしまいます。
作業が 終わったあとは地元の方が手作りのお昼を用意してくれていました。今回は白ワインを作るためのデラウェアを収穫しまし
た。ワインも発酵のための酸 化防止剤や砂糖(糖分)を入れずに、自然の力だけで発酵させて作るそうです。
 そして今月は赤ワインをつくるための葡萄の収穫があります。少しは気温が涼しくなっていることを祈ります。赤ワインと白ワインの完成は12月の始めということで少し遅れてのボジョレーヌーボーになりますが、今年はなんだか楽しみな12月になりそうです。
 今月で連載が終了となりました。毎月悩みながらではありましたが、あっという間の1年間でした。下手な文書にお付き合いいただきまして、本当に ありがとうございました。そしてこれまで何気なく過ごしてきた時間に物を書くという作業で考える機会を与えてくださった竹内先生、どうもありがとうございました。
 
中原あおい先生
1年間有難うございました。
 連載のお願いをする時は、ちょっと不安な気持ちで声をかけます。「いえ…私は文章なんかとても…」と、断られるような気もするからです。
 しかしながら中原先生は、何のてらいもなく、すぐに書いてくれるようになりました。それもそのはず、その文章の流れの気持ちのいい事。水の流れるように、文が続きます。そして、いろんな趣味や、人生に取り組む姿勢など、素敵なことをたくさん教えていただきました。
 もうこの音楽院にきていただいて、相当の年数が過ぎたのですが、ゆっくりお話しする機会もないままでした。それが一年間の連載を読んで、こんな素敵な方だったんだなと、改めてよくわかりました。連載のお陰です。
 仕事が忙しい中、毎月、毎月お疲れ様でした。有難うございました。
 次号からは、オカリナ科の渡辺明子先生が、快く連載を引き受けてくださいました。また、新鮮な話題を読ませていただけることと思います。どうぞお楽しみに。(竹内)

連載その3
---電動ドリルで
ハッピーバースデー!
 加世田 薫         
 のこぎりはおろか、組み立て家具さえも作ったことがない専業主婦の私が、何とDIYを始めた。最初は、カラーボックスに棚を足してみたかっただけだった。
それが終わると、スペースを有効に使うために、棚を作ってみたくなった。市販品だと少し幅が合わない。まず練習がてら、洗濯機の横や台所の戸棚の中の目立たない場所で使う棚を、作ってみた。
便利なことに、ネットでサイズを指定すればカットした状態で木材を送ってくれるお店がある。(やってみて分かったが、のこぎりで木をまっすぐ切るのは本当に骨が折れた。カットまで済ませてもらえば、かなり手間が省ける。)
一口に木を選ぶといっても、最初は何を選べばいいのか分からなかった。どの種類?厚さは?サイズは?とりあえず初心者なので、安い合板で作ってみた。ヤスリがけして、柿渋で塗装後、仕上げのヤスリがけ。仕上げまでの工程はけっこう長いけど、まあそれなりに出来上がった。
今度は、杉で作ってみようかな。軽くて安価なので、初心者向けらしい。最終的には、子供用のベンチや机、ロッカーなどを作れればいいなあと、家具の本を見ながら、夢が広がる。
それにしても木工の組み立て方は、様々な技術があるんですね。ビスで打って留める方法しか知らなかったけど、ダボ接ぎという方法が一般的らしい。組み手という木を掘ってパズルのように組む方法を使うと、ビスなど全く使わなくても組み立てられる。そういう目で家の中を見渡してみると、この接合のしかた、本に載ってたかも・・と、今までまるで気に留めてなかったところを、まじまじと観察してみたりするのも楽しい。
好きなサイズで家具を作れるというのは、スペースが無駄にならないし、少し木工技術があれば、箱にカートをつけたり、板壁を作ってその上に棚を作ったり、いろいろなことができる。
子供用に作った机を、解体して別のものに作り変えたり。最初は小さい作品から始めて、家具、リフォームなど大きなものへ挑戦していくのだろうか。
そういえば、少し前に、大工さんと話す機会があった。自分で家を建てようとしている人を手伝っているという。「自分で家」!そんなことを考える人がいるなんて思いもよらなかった。「うまく計画しないと、すごい時間かかっちゃったりするんですよ。」と言っていた。・・・建て始めたら、途中でやめられないだろうし、何と言うか、本当に、すごい・・・。そんな人でも、初めは小さな一歩だったのだろうか・・・。
自分の誕生日プレゼントとして、インパクトドライバを買った。早く木材を買って、この威力を試してみたい!・・・。使うのがとても楽しみだ。

音楽だより♪365 

 

七島イ 竹内幸一

 今日は久しぶりに朝から秋の日差しがあふれています。ゆっくりした台風が来ていましたので、しばらく暗い日が続いていましたが、今日は、やわらかな日差しの射す嬉しい朝です。素晴らしい快晴ですので、近くで行なわれている農業祭には、たくさんの方が訪れることでしょう。

 さて今月は、「七島イ」について書いてみたいと思います。最近新聞にだいぶ出ましたので、私の体の中のノスタルジアの虫が目を覚ましました。たぶん知らない方が多いと思いますが、どうぞ最後までお付き合いください。

 「七島イ」とは、和室の畳表に使っている元になる植物の名前です。私の子どもの頃は「しっと」と呼ばれていました。「しっと植え」「しっとじの(刈り取り)」などと使われていました。もう50年ほど前のことですので、記憶がおぼろで間違いもあるかもしれませんが、その「しっと」が畳表になるまでの様子を思い出しながら書いてみたいと思います。

 私の子どもの頃は、たいがいの農家で「しっと」を栽培していました。今それが、10軒ほどしか栽培しなくなり、絶滅寸前ということで話題になったようです。ふるさとは、「しっと」に限らず、限界集落になり、村自体の存続が危ぶまれている様な現状です。「しっと」で収益が上がり、農業を続ける方が増えてくれればいいなと願っています。

 ちょっと話が横道に逸れましたが、「しっと」栽培のスタートは、田植えのような感じで、泥田に苗を差し込んでいくところから始まったと思います。その苗が大きくなり、人の背丈を越えるほどになる頃、刈り取りの作業が始まります。その茎の太さは5,6ミリから1センチほどでしょうか?(よく思い出せません)

 その茎を人が持てるほどの束にして縄で結び、家に持ち帰ります。それからその一本、一本を半分に分ける作業が始まります。「しっとをわく」と言っていました。針金を張った簡単な農機具?があり、それに「しっと」の根元から半分に裂くのです。上手な大人は、最初3本〜5本ぐらいを手に握れるほど少しだけ差し込んでいて、後でまとめて茎の先までを半分に割きます。

 その針金を通る「しっと」のギュ〜ンという音が今もよみがえります。ピッ、ピッ、ピ、ギューンという、実に手際のいい連続音のする作業を、庭に電気をつけて夜なべ仕事でやっていました。私も少しは手伝った記憶もありますが、膨大な本数ですので長続きはしなかったのでしょう。家の中の蚊帳の中で、「まだ夏休みの宿題が済んでいないなあ。どうしよう」とか思いながら、その音を聞いていたものです。

 次の日は、その白と緑に割かれた「しっと」の束を天日に干す作業です。道路の端や、運動場に延々と「しっと」が並びます。海の近い親戚では、海岸の砂浜に果てが見えないほど「しっと」が干されていました。

 しかし、いい天気が続くときはいいのですが、夕立があったりすると大変です。それこそ血相を変えて濡れないように集めて持ち帰らねばならないのです。濡れてしまうと「色悪」と言って、それまでの苦労が水の泡になるほど、販売するときの値段が安くなるのです。

 この天日干しは、1日で済んだのか、2,3日干したのかよく思い出せません。とにかくその1本、1本から完全に水分が抜けてから完成でした。それを蔵に仕舞って置いて、冬になると「むしろうち」が始まります。この時期になると、「しっと」から「むしろ」と名前が変わるのです。「むしろばた」と言う、畳表の織り機がありました。「より(縦糸)」の間を長い横棒が行き来します。その先に、干してからからになった「しっと」をひっかけると右のほうに、よりの間を引っ張られていきます。それから(その名前を知りませんが)、上から下ろして締める装置があり、ダンダンと締め付けます。しゅー、ダンダン、しゅうー、ダンダンと、むしろうちの音は、夜遅くまで続いていました。この仕事は、母の仕事でした。確か、両手、両足を使う作業ではなかったかと思います。

 このむしろの縦糸になる「より」は、「いちび」という植物を水に晒して作ったものでした。(それにも栽培の経過があると思いますが、よく覚えません)

 小さなくるくる回る装置で「よりをよる」のは母の実家の祖母がきて手伝ってくれていました。からからと音のする糸車のそばで、おばあちゃんは手を休めないまま、私の話し相手をしてくれました。

 その「より」と「しっと」が組み合わさって、一枚のむしろが出来上がります。たぶん、一晩に、1枚か2枚ぐらいしか出来なかったのではないかと思います。

 10枚のむしろができると、むしろの仲買人のおじさんが自転車でやってきます。おじさんは、むしろを広げて、色など確かめながら値段を決めます。確か、10枚で、2千円ぐらいではなかったかと思います。一晩しゅー、ダンダンとやって、200円ほどだったのでしょう。それでも、収入の少ない農業では、貴重な現金収入だと聞いたことがあります。 そのピッ、ピッ、ピ、ギューンや、しゅー、ダンダンの音に育てられた私たち団塊の世代の人間は、 ほとんどふるさとを捨てました。どこかの町の片隅で、新しいふるさとを大切にしながら生きています。生きて暮らしていくためには、それしか道はなかった気もしますが・・・ 貴重な「しっと」を作っている唯一の地区「国東」。膨大な手間隙をかけて、わずかの収入にしかならない「しっと」は、貧乏草とも呼ばれていたそうです。

 

連載その2

ミラツツキ

(オカリナ科講師 渡辺明子)

 北からの紅葉の便りと共に渡り鳥の飛来が始まり、我が家にも今日「ミラツツキ」がやって来ました。翼に特徴的な白い斑点があり体長はスズメより少し大きい程度。橙色の体で、すっと伸びた尾羽を上下にタクトの様に振りながら「チッチッチッ」と、規則正しいリズムでさえずります…。ここまで読んで「あれれ?おかしいなあ。」「ミラツツキ?それはジョウビタキではないですか?」と思われた方、大正解です! もう20年以上も前から、毎年ジョウビタキが飛んできて、庭の木や電線やテレビのアンテナの先にとまってさえずるようになりました。冬鳥として全国に渡来する鳥ですが、群れをなすことはせず、一羽で自分のテリトリーを守る鳥のようです。そのため警戒心が強く、ちょっとした周囲の物音や気配ですぐ飛び立ってしまいます。 ある朝、主人の車のドアミラーに一羽のジョウビタキがとまっていました。私がわずか3メートル程の距離にいるのにも気づかない様子で、じっとミラーにとまったままでした。「何をしてるのかしら…?」興味津々で見ていると、やがてジョウビタキは、ミラーの上側から体をさかさまにして覗き込んだり、真横から首をかしげる様に見たりして鏡の中の来訪者に、何度も何度もアプローチをかけだしました。まるでイソップ物語のようでした。肉をくわえた犬が、橋の上から川を覗き込み、水面に写っている犬の肉の方が、大きく見えて「ワン!」と吠えてしまい、大切な肉を川に落としてしまった…というお話にそっくりな光景が目の前で展開されていました。鏡ですから、当然来訪者も同じ動きをしています。懸命なアプローチに何も答えない来訪者に、ついにくちばし攻撃が始まりました。勢いよく鏡を突きます。しかし来訪者は逃げません。ついに諦めたジョウビタキは、車体に真赤な糞をかけて飛び去りました。その日の夕方も、翌日も、またその翌日もジョウビキの「ミラー詣で」は続きました。不思議な事に、駐車場には他に黒やグレーの車もあったのですが、なぜか白色の主人の車のミラーだけがターゲットになっていました。我が家では、あまりにもけなげな「ミラー詣で」に敬意を込めて、ミラーを突く鳥「ミラツツキと呼ぶことにしました。 今年は異常気象が続いたので、山に鳥達の餌になる木の実がなっているか心配です。 春先に梅の花の蜜を求めていつも来るはずのメジロもあまり来ませんでした。メジロのために、みかんを半分に切って枝に刺しておきましたがヒヨドリが来て、あっという間にたいらげて行きました。大自然の中での生存競争の厳しさを物語っているようでした。ミラツツキの赤い糞の中には、赤い実の種が混ざっていました。梅もどきや南天の実を食べたのでしょうか。 森の木々は種(しゅ)の存続のために、鳥たちに餌として実を提供し、鳥の糞と共に遠く離れた場所で新たな若葉を芽吹かせます。そして森が茂り、地下水が浄化され、川や海の魚達が元気に泳ぐ…、そして人間がその魚を命の糧とする。太古からの大自然の大きな営みと恵みを思うとき、人間の身勝手やわがままで、生態系を壊すことのないように努力しなければと感じました。ミラツツキさん、来春までここでゆっくりと羽を休めてくださいね。でも車を替えたのでもう白ではなくなったのよ……ごめんなさい。

 連載 その5

いつかは豪華な運動会     加世田 薫

  

 次女の幼稚園の運動会が終わって、ほっとしている。運動会といえば、お弁当の準備。3年前に帰国後初めての長女の幼稚園の運動会のこと。イギリスで、子供に持たせるお弁当といえば、ジャムやチーズをはさんだサンドイッチ、りんご、ポテトチップスという簡素なものだった。

 すっかりそれに慣れてしまい、その日のお昼に、私はサンドイッチとお菓子を準備した。お昼の時間。周りを見ると、煮物やお寿司、空揚げなど豪華なお弁当ばかり。まずい・・これは、見られないように食べなければ・・・。「もう半分食べ終わった顔しながら、食べてね!」そう言いながら、こっそり食べた。

 あの時ばかりは、ああ、ここがイギリスだったらよかったのに・・と思った。それから1年後。私達に、素敵なお誘いが。娘の友人家族が、「よかったら運動会のお昼をご一緒に。」と誘ってくれたのである。

 娘の友人の祖母、Iさんは、とっても料理上手。レタス巻きや空揚げ、煮物など、これ1人で全部?と尋ねたくなるぐらいの品数の料理がずらりと並ぶ。毎年、申し訳ないと思いながらも、すっかりご好意に甘えている。  普段、私はいつも人に作る側。料理上手ではないので大したものは作っていないが、一応専業主婦だし、出来合いのものを買うのは気がひける。野菜多めの食事となると、和食中心に。4人の娘はそれぞれ好き嫌いがあり、食材も限られる。でもたまに行く外食といえば、ジョイフルばかり・・・。

 そんな中、Iさんの手料理を食べると、幸せな気持ちになる。心のこもった料理を頂くことほど贅沢なことはない。愛情が感じられて、ほっとする。卵焼きなど定番のおかずも、ごま油の風味があり、切り口も斜めになっていて、とても美しい。「料理は盗むもの」とどこかで読んだが、上手なものとそうでないものとの違いって、意外と細かなことだったりする。ほんのひと手間がかかっているかいないか。

 料理で人をもてなせる人がうらやましい。今はどんなに小さな手間でもなるべく省いて作っている・・。ゆっくり料理ができるのはいつの日になることやら。作るのも食べるのもやっと、とにかく時間があるときに。子供に食べさせながら、自分も食べられる時に。立ちながらだったり、お皿によそわず食べたりという始末・・・。

 でも、以前ラジオで聞いたのだが、大分は、土が良くて野菜もおいしいし、魚も、築地では手が出せないような値段で売られているものが二束三文で売られているそうだ。そんな恵まれた場所にいるので、落ち着いたらぜひ、いろいろ挑戦してみたい。いつかはIさんのように・・・。

 

 

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