エスプレシボ360号(30周年記念号)
2013年 6月1日 発行
表情豊かに30年
竹内幸一
いつか360号を出せる日が来たらいいなと思いつつ日を過ごしていました。2013年6月1日、ついにその日がやってきました。感慨と言うより、よくここまで来ることができたものだなと、不思議な気持ちでいます。いろんな病気を抱えて、体の弱いのには定評(笑)のある身でしたから、30年も倒れることなくよく続いたものだと、何だか信じられないような気分なのです。
天のかなたの神様から、30年と言う時間をいただけたことに感謝するばかりです。この新聞を、毎月作れる体に恵まれたことが、すべての基本でした。このことに対して、どうお礼を言っていいかわかりません。深いご配慮があって、か細い心身の持ち主の私に、この仕事をやらせていただくことになったのだろうと思います。そのことに、心より感謝を捧げます。合掌。
私は、鶴の恩返しの「つう」が、部屋にこもって反物を織るように、毎月一度、カタカタ、カタカタとパソコンのキーを叩き文章の反物を織って来ました。
「つう」は、だんだん織物にする羽根が少なくなって限界に近づいていました。しかし、「これでおしまいよ」という願いを「よひょう」は聞いてくれませんでした。
私も、自分の羽根をむしるように、毎月、毎月、いろんな思いを吐き出してきました。そのたびに自分の頭の中はからっぽになりました。来月は、何か書くことがあるのだろうかという不安を抱えつつ10日、20日と日を過ごしました。月末が近づいても書きたい内容が思い浮かばないときは、焦りの日々になることもありました。
それでも、何とか月末には、次のテーマを見つけて、無理やりひねり出してきました。今こうして振り返ってみますと、自分ながらよくやったものだと、素直に自分を誉めてやりたい気分になります。
「エスプレシボ」とは音楽の発想記号で、「表情豊かに」と言う指示のために使われます。面白くもなさそうに、出てくる音符を並べるだけの演奏に、息を吹き込む記号です。音楽をうたわせる、音楽の内容を心で味わって、それを伝える音を出す・・・表情豊かに・・・エスプレシボ・・・それは音楽入門の入り口でもあり、大げさに言えば、人生の過ごし方にも通じるのではないかと思います。
このエスプレシボが、表情豊かだったかどうかは分かりません。しかしながら、表情豊かになりたいという、私自身の心の鍛錬にはなりました。毎月のゴールへ向けて、自分発見の30年の旅が出来たのも、エスプレシボが存在したからに他なりません。私の半生を支える大きな柱だったと思います。
今回、特別号と言うことで、たくさんの方より原稿をいただきました。それを読ませていただきながら、感極まって涙ぐむこともありました。長いお付き合いの歴史を振り返りますと、これまで歩んできた人生の再確認が出来ました。
あの時、このとき、いろんな方に支えられ、助けられてきたことを思い出します。長い方になると、もう40年以上も前からのお付き合いの方もいます。はるかな道のりを一緒に歩いてくださる方がいてこそ、今の自分があります。
原稿を届けてくださった方の中に、10年ぶりぐらいにお会いした方もいます。確か、娘の結婚式以来でしたので、お会いできたのはとても嬉しかったのですが、ショックなことに、その方はガンと闘っていました。そういう状態の中で気にかけていただき、わざわざ会いに来てくださったことに、感激して胸が熱くなりました。
県外に住む方ですので、普通なら年賀状だけのご縁になっていたかもしれません。しかし、エスプレシボがあるおかげで、深いところで心の交流が出来ていた気がするのです。それだけに病気のことが衝撃でした。進んでいる最新の医療を駆使して、だんだん回復に向かっていくことを祈らずにいられません。
話は変わりますが、音楽院の隣りの寿司屋さんからは、朝になるといつも寿司飯のいい香りがしてきます。この方も30年、表情豊かに寿司を握り続けてきました。握り方や客扱いなど表情豊かに出来たからこそ、ここまでご一緒に店舗を並べて仕事が続けられたのだと思います。同じように、これを読んでくださっている皆さんすべてが、表情豊かな暮らしをしてきたのだと思います。数字とか、文書に残らなくても、それぞれの方の人生の歩みそのものが、表情豊かであったからこそ、ここまで生きてこれたのだと思うのです。
終りになりましたが、これまでこのエスプレシボを絆にして、長いお付き合いをいただいた皆様、大変有難うございました。そのお一人お一人の顔を思い浮かべることが出来ればこそ、ここまで続けることが出来ました。心よりお礼を申し上げます。
「つう」が空へ飛び立つように、いつかエスプレシボも終わるときが来ます。どうかそれまで、これまで同様ご一緒に、日々を過ごさせてください。お願いします。
祝辞
(株)フォレストヒル
代表取締役 森岡
晃
エスプレシボ創刊30年360号発行、おめでとうございます。一口に30年と言ってもその永きに渡って継続することがいかに大変な事でしょうか!改めて心からお祝い申し上げます。弊社にも「フォレストヒル
ニュース」という情報紙を出しておりますが、創刊16年にしてまだ97号というありさまです。
「エスプレシボ」の原点は音楽の文化の情報発信拠点として地域の「音楽文化」のために大きな貢献をしてこられたサンシティー音楽院の存在の大きさです。その証しがエスプレシボ創刊30年という歴史に凝縮されているのだと思います。
弊社は今年で創業27年を迎えることができました。竹内幸一先生には1986年の弊社創業以来お付き合いをしていただき本当に感謝いたしております。弊社創業時にはまだ10歳の少年だったご子息、竜次先生も今では弊社フォレストヒルミュージックアカデミーの講師としてご活躍いただいております。
弊社も竹内先生を始め、関係各方面の方々に支えていただき創業27年を経過することができましたが、日々音楽という文化の持つ力の大きさを感じています。
かつて弊社ギター教室に一人の若い看護師さんがいらっしゃいました。彼女は重病を患っている患者さんの病棟勤務だったのですが、毎日のように担当している患者さんがお亡くなりになるそうなのです。 若い彼女はその現実に直面して身も心も大きなダメージを受ける日々だったのですが、「ギター教室に来て音楽に向き合う時間を持つことによってまた心をリセットして仕事場に向かう勇気をもらうことが出来る、だから夜勤明けのどんなに疲れた身体でもレッスンには来るんです。」とおっしゃっていました。
その時、私はその言葉をお聞きして音楽の力の大きさと、そし
て私たち音楽に従事する者の存在価値を今更ながら再認識した出来事だったと思います。
このように病気、自分自身の老い、長期不況、家庭崩壊、東日本大震災のような自然災害や人災など私たちの悩みはつきません。しかし音楽にはいつの時も「人を勇気づける力」を持っているのだと思います。「音楽文化」が人々の痛みや不安を癒してくれたり、さまざまな悩みを一緒に考えたりしてくれるのではないかと思っています。
事実近年のこの時代背景を反映して、音楽などの文化的な趣味の時間を持つ人が増える傾向にありますし、この流れは今後続いていくのではないでしょうか。このように、ますます音楽家や音楽産業に携わる者たちの必要性が増してくる中、供給する側である私としては襟を正してより良い「音楽文化」を提供する努力をしていきたいと考えています。
最後になりましたが、「エスプレシボ」並びに「サンシティー音楽院」のますますのご発展をお祈りいたします。
“続ける”ということについて
佐賀ギター音楽院院長
関谷
静司
第360号おめでとうございます。360…、私にとって気の遠くなる数字です。しかも30年間一月も欠かさずに継続されるとは。ただただ脱帽です。
私が続けているものといえば、皆様のご支援のお陰で34年間やってこれた佐賀ギター音楽院をベースに、「サロンコンサート」と題したささやかな不定期のコンサートがこの4月でやっと133回、ラ・エスペランサを足かけ35年で今秋33回目の定演、日韓交流が足かけ15年で12回の交流演奏会、と、せいぜいこれぐらいのものです。機関紙「ラ・ギターラ」も40号にも届かないうちに中断中というありさま。
何かを継続するには当然のことながら強い意志と忍耐、そして莫大な労力が要るものです。竹内先生はその他にも病院でのコンサートやいろいろな例会などを長く続けていらっしゃいますし、根気のない私には到底考えられません。
でも……その他に私にも何か一つぐらいは……?『そうだ。私という人間を65年も続けているではないか!』
もし生まれ変われるものなら『小学生の頃いじめたあの子に謝りたい』『いたずらして街灯を割ったことを謝りたい』『あの娘に告白したい』『受験校を決め、卒業時には畑違いのギターの道を選び、そして結婚のことなど、何一つ両親に相談することなくすべて事後承諾だったことを詫び、もっと両親と語り合いたい』など、修正したいことだらけ、欠陥だらけの人生ではあったが、“自分”をもう一度やりたい。やり直すのではなく今までやってきたことを一つ一つ再確認し、自分の道を一歩ずつ更に踏みしめながら歩むという意味で。
昨年母が101歳で、その数年前に父が98歳で他界。そして二人の兄とも存命であるので関谷家は幸い長寿の家系らしい。ということは、両親の年齢まで生きることができるとすれば、なんと、あと30年以上も残されている。
私たちの仕事は一生涯勉強であり、演奏依頼が来ないと練習しなくなったら終わりだと思っている。
思えば両親ともこつこつと努力する人だった。薬科大だか薬学部だったかの出身であった父は90歳頃までNHKラジオドイツ語講座をずっと聴き続け、また若い頃宮田東峰(この名前を知る人は今や少なくなった)のハーモニカ学校にも通っていたということもあって、暇があるとハーモニカを吹いていた。
私が小学生のころ書道の通信教育を受け始め、級が上がる度に喜んでいた母。それがいつの間にか二つ講座で師範の免許まで取得し、それでも教えることはせず、ただ自分の楽しみのためだけに書き続け、遺されたいくつかの書はかけがえのない私の宝となっている。私の教材用CDのサブタイトル“夜想曲”も、当時92歳のしぶる母に頼んで書いてもらったものである。また、趣味で始めた短歌も長く続け、本などに投稿して掲載されるのを楽しんでいたのを思い出す。
そんな両親の血をひいているので“本当は勉強が好きなはず”と自分に言い聞かせながら数年前からいろいろとチャレンジしてはいるが、いつまで続くことやら。
そういえば肝心なことを忘れていた。来年でギターを始めて50年、職業に決めてからというもの、正直言って毎日の飲食と同様、続けているとか続いたという意識はあまり無い。しかし私たちの仕事には“定年”というものが無いだけに、いつまで弾けるのかと考えることを忘れがちである。私たちを頼って、あるいは信じて習いに来てくださる方がいらっしゃる間はなんとしてでも頑張っていかないと、と思っている。
今日という日は残された人生の第1日目。毎日この気持ちを忘れずに一歩ずつ歩んでいこう。
継続は惰性ではない
池田 京二
竹内幸一さんから、エスプレシボ360号(30周年記念号)への原稿を依頼された。数ヶ月前から30周年記念号の接近は知っていたので、機会があれば何か書いてみたいとは思っていた。
竹内幸一さんとの関わりは、彼がまだ高校生の年代に病床から届いた一通の手紙が切っ掛けなので、40数年の長い年月になる。当時、私は別府文学サークルの事務局の仕事を引き受けていて、文学に関心を持っていた竹内幸一さんとの、言わば必然的な出会いになったわけである。
私たちの別府文学サークルは、「美しいものが美しく、本物が本物に見えるような そんな心を育てよう」をモットーとして、当初は月3回の例会を開いていた。当時は大学生や店員など、読書や創作に関心のある人が集まっていた。しかし近年はテレビなどの映像文化に押されてか、純文学を読み、意見を交換するような気風が少なくなっている気がする。
その様な長い年月の移ろいの中で、別府文学サークルは、平成24年の年末に、最後まで名前をとどめていた数人の総意で、長い歴史に終止符を打った。勿論、また機が満ちれば、文芸誌『文礫』には息を吹き込むつもりである。
高校を卒業した竹内幸一さんとは、それ以降、就職や転居などを含めて家族的な付き合いが始まった。今はお母さんが一人で住まわれている国東の来浦にも何回もお邪魔している。八重子夫人との仲人も私たち夫婦である。勿論、新築されたビルへの「サンシテイ―音楽院」の進出にも、引っ越し作業などを含めて、陰で関わってきた。
今の竹内幸一さんの生きざまを見る時、やはり一番先に思う事は、継続する事の素晴らしさであり、大切さであると思う。例えば、鶴見病院での[さわやかコンサート]を初めとして、まさに「継続は力」である。
惰性に流されることなく、慢心することなく、常に己を律しながら命を燃やしてほしい。
祝 360号 30才
浜田 宏司・知子
主人が佐賀勤務の時だから15年になりますね。宏子ちゃんが佐賀にいらして、その時 竹内先生がエスプレシボを持って来て下さいました。そこから毎月の宅配となりました。
竹内先生と初めてお会いした時から42年となります。別府を離れ遠くに居てもエスプレシボを読んでいるとなんとなく近くにいらっしゃる様な気がして・・・。大分勤務になった時、初めてお会いした奥様、竜次さん、宏子ちゃんでしたが何だか昔から知ってた様な不思議な気がしたものです。エスプレシボのおかげかな?
その大分時代の三年間は、ほのぼのサークルに入れていただき、童謡、唱歌の大好きな私にとって、とても楽しかった!!これを知ったのもエスプレシボでした。色々な分野の事を熱く語り、毎号遅れる事なく発行できて、とても大変な事と、敬服致しております。
またこれからも無理しないでよろしくお願いします。
おめでとうございます!」
牛嶋 廣
いつも「音楽便り♪」を有難うございます。360号の発行おめでとうございます。楽しく読ませて戴いています。
その内容は多岐にわたり、音楽の楽しさ、多くの方との出会いと別れ。時には政治の世界へ、時にはご自身の人生観や、生き抜くための覚悟の言葉。読ませて戴きながら、私の胸にグサリとこたえるような文章も沢山ありました。
最近の記事では、356号の「老人漂流社会」の記事を読んで、改めて番組を思い出しました。同じ画面を見ながら鋭い洞察力で文章に表現され、多くの読者の皆さんの心に響いたと思います。私自身も、終の棲家を失わないように、日々の暮らしを大切にしなければと肝に銘じました。
いつも、素晴らしい記事に出会えて幸せです。「音楽便り♪」は私の人生の羅針盤です。これからも、愛読させてください。ますますのご発展をお祈りします。ご自愛ください。
ギターと私
岡本ミナト
このタイトルを読むと自由自在にギターを奏でる私のようです。ところが、私は全くギターを弾けません。でも、実は二十代前半の頃の私は一曲だけ弾けていたのです。
その頃、仲良しの友達がよくギターを弾いていました。職場の寮で同室だったその友達は音楽通で、ギターやウクレレを弾き、クラシック音楽を聴き、何を歌っても上手でした。時々ギターを触らせてもらっていたのですが、そのうちその友達がよく弾いていた「禁じられた遊び」を弾いてみたくなりました。少しずつ教えてもらい、どれくらい経ってからか「禁じられた遊び」を一人で弾けるようになりました。そうなると嬉しくて、暇さえあれば弾いていました。得意げに弾いているところをカメラ好きの友達が、何枚も撮ってくれたりしたものです。 その後、ギターの持ち主が結婚してギターとともに部屋を出て行くまでの二年間、「禁じられた遊び」ばかりをよく弾きました。バカの一つ覚えでしたが二年も経てば少しは上手になり、まるでギタリストになったつもりで弾いていました。でも、手元にギターがなくなって以来、全くギターを手にすることなく現在に至りました。
たった一曲「禁じられた遊び」を得意げに弾いていたこの頃に、私は竹内先生に出会いました。まだ高校生の瞳の澄んだ美少年、いえ美青年でした。だから、今もつい「竹内君」と呼んでしまい失礼しています。
私はギターを弾くことはできませんがギター音楽を聴くことは大好きです。ギターの音色が大好きです。幸いにも竹内先生と知り合いということでギター音楽を聴くチャンスに恵まれ有難いです。これからも沢山沢山ギターの音色を聴かせてもらうことにします。
つれづれなるままに
ギター科
宮原 誠
『つれづれなるままに、ひぐらし…』は吉田兼好の『徒然草』、『春は曙…』は清少納言の『枕草子』と古い記憶を引っ張り出してみながら、そう言えば最近はスッカリ読書から遠ざかっているのに気づき『これも多趣味の弊害か?』と自分を慰めつつペンを取ってみました。
この『エスプレシボ』は今号で創刊から丸30年、記念すべき360号との事、誠におめでとうございます。
30年もの長期間一度も欠かすこと無く続けて来られた竹内先生の強靭な精神力と気力、そしてとてつもない努力には、ただただ敬意と驚きしか有りませんが、果たして自分には仕事以外に30年以上続けて来た事が有るだろうか?と振り返って見て、2つほど有る事に気付きました。
一つは40年目の『金柑の木』、いま一つが34年目の『月下美人』、共に枯らす事なく、なんとか守り続けて来た植物です。
特に『月下美人』は私にとって筆舌に尽くし難い程思い出の深い花です。今回は、その思い出は兎も角として、鉢植えのこの花について書いてみました(いささか手前勝手で恐縮ですが)。
『月下美人』はご存知の方も多いかと思いますが、この花は@サボテン科クジャクサボテンの1種 A月下香、即ちチュベローズの別称で、花は夜8時頃から咲き始め、夜中の0〜1時頃純白大輪の花が満開、咲き始めからどんな香水にも劣らない程の良い香りを漂わせます。
そして、朝には全精力を開花と芳香に注ぎ込んだ結果でしょうか、見るも哀れな姿となってしまいます……が、驚くことに、咲き終わった花を『天ぷら』にして、旨い美味いと食べる方もおられます(私にはとても食べる勇気は有りませんが)。この花は『月下』の名の通り、必ず月夜に咲き、然も年に4回(6月〜9月まで毎月1回)は確実に楽しめます。
また、その年の気象条件に拠っては10月下旬に5回目の開花を見る事も有ります。流石に10月末ともなれば、気温の変化に順応しずらいのでしょうか、開花の時間が遅くなり、翌朝8時頃まで咲いている事も有ります(写真は5回目の開花で朝8時の状態です)
でも、やっぱりサボテン科です。
夏の暑さには滅法強いのに、冬の寒さ、特に雪・霜には非常に弱い為ちょっと気を使いますが、比較的手間のかからない植物です。
この花は繁殖力も旺盛で『挿し葉』で,簡単に発芽する為、今までに数多く嫁入りさせて、多くの方に喜んで頂きました。これも又楽しみの一つです。香りの好き嫌いには個人差があっても、花を見て怒る人は居ませんよね。この花の美しさ、その芳香をご存知で無い方は、是非一度現物に会って見て下さい。必ず感動されると思います。
この花に限らず、どんな花でも心を癒やしてくれますよね。我が家には70〜80種の草花・木花があり、ほぼ1年中何かが咲いていますが、時には野鳥が思わぬ種を運んで来てくれ、名前の知らない可憐な花が咲くことも有ります。
『月下美人』も間もなく蕾を着けます。さて、今年は何回咲いてくれるのでしょうか?今後も枯らすこと無く大切に育てて行きたいと思っています。
1枚のCDから
増田慎思郎
思い付くままに、スペインの音楽について少し書いてみます。六年位前に入手したスペインの曲を集めた1枚のCD盤が有ります。単純なきっかけでしたが、演奏者の名前「アナスタシア」に興味を持ち、購入しました。
恐らくこのCDを六年の間、数百回位聴いたのではないかと思います。クラシック音楽にあまり知識のない私には、ほど良い親しみやすい曲を集めたものです。
タイトルは「アンダルーサ・サパッション」情熱のアンダルシアと訳すのでしょうか。主にスペイン南部のアンダルシア地方のクラシック・民族音楽を集めたCDで、「アナスタシア・チェボタリョーワ」というロシアのかなり有名そうな女性ヴァイオリニストとギター・ピアノ伴奏による演奏です。
「アルハンブラ宮殿の思い出」「アランフェス協奏曲」等有名な曲を初めとして、18曲ばかりですが、その中で「ムーア人の衣装」という曲を初めて知り、何度か聴くうちに、イスラム風の澄み渡るヴァイオリンの繊細な旋律に、思わず引き込まれていくような気がしました。振り返ると、今ではこの曲を最も多く聴いています。恐らく、異国風で静かな、そして透明感のある曲で、私の個人的な音楽の趣味に最もマッチしたからでしょう。
アルハンブラ宮殿はスペインにおけるイスラム建築の象徴ですが、ギターとヴァイオリンの演奏によるこの曲は、アルハンブラの離宮であるヘネラリーフェを初めとする幾つかの「水の庭園」を想像させるものがあります。
アランフェスには、宮殿の奥に庭園というよりも、鬱蒼とした広大な森が広がり、そこにタホ川が流れています。アランフェス協奏曲はタホ川のせせらぎと庭園の静寂に想いを馳せながら、ホアキン・ロドリーゴが作曲したものと言われています。
四十数年前から、仕事の関係でスペインには何度か行きましたが、他のヨーロッパの国とは少し違った雰囲気が有り、その当時「ピレネー山脈を越えるとそこはヨーロッパではない。」と言われました。八百年の間、キリスト教とイスラム勢力との抗争が続き、多くの民族興亡の歴史が有り、大航海時代を経てスペインの乾燥した高原台地に「光と影」の文化、そして憂愁に満ちたスペインの音楽が生み出されて来たのでしょうか。豊富な想像力と僅かな音楽の知識で、スペインの曲をこの様に思いながら、CDを聴いています。
このCDは、おそらく私の特別な好みではないかと思いますが、皆様も機会が有りましたら、こんな風にスペインの音楽に興味を持ち、耳を傾けては如何でしょうか。
老健と私
ギター科 後藤敬三
今、私は月に2回程度老健でギターを弾いています。5ケ所に2ケ月に1回のペース。もう4.5年になります。知り合いが老健の経営を始めて、お年寄りに弾いてくれないかと話がきたので、試しに行ってみたのです。
驚いたことに、認知のあるお年寄りが手分けして画用紙に色をぬって 『ごとうさんギター演奏会』と舞台に飾ってくれて待っていたのです。感激です!
あんまりうまくもない私のギターに合わせて思いゞ(笑)に唄ってくれます。 コードもいい加減では悪いとできるだけ練習しました。
約1時間があっという間に過ぎます。時々ですが又きてね〜と声をかけられます。このとき自分はいい事をしているのかなと思うのです。
ある時 施設長に時々歌を変えたほうがいいでしょうね?と聞くと、すぐ忘れるのであまり変えなくていいですよとのこと。 気楽になりました。
時々面白いこともあります。 あるおじぃちゃんが気分よく唄いだし1番が終わって間奏を入れて2番に入ったところ、なんか合わないのでおかしいなと思っていると、どうやら違う歌をうたっていたのでした。(笑)(古賀メロディは似ている)
又、しっかり唄うのでこの人は認知はないなと思って、後で職員さんに確認したら、トイレにいくと帰りは迷子になりますとのこと。古い歌の記憶はすごいと感心したものです。
面白いものでウチのバーチャンが行ってる所にも来てと広がっていきました。多いときは月4回にもなります。厚かましくボランティアの営業にも行きました。
又、義父がカラオケが趣味で 以前はカラオケ会に入っており大会で賞をとったのが自慢です。何回も聞かされ女房は自慢し過ぎと嫌うのですが・・・
いまでは生きがいにもなっているようです。デイサービスのカラオケタイムでは必ずトリを務めますが、1曲だけで消化不良のようです。この義父を老健に連れて行くと生き生きとして何日も前から練習し、大変活性化するのです。ギターに合わず少し煩わしいときもありますが、ボケられるよりいいし何とかステージをこなしています。老健入居者と同時に義父のボケ防止と兼ねているのです。
いまではデイと重なって私が一人で行くと『ジィチャンは?』とがっかりされるのです。夕食の時この話をすると彼はすこぶる機嫌がいい。やっぱりワシが行かないと・・・・
このようなことで私自身の舞台度胸付けも含めてやめられないのです。今後も断られるまで行こうかなと思っています。
心に太陽を、くちびるに歌を
ギター科 平林
洋子
私が
サンシティー音楽院を同じ職場に働いていたNさんに伴われて訪ねたのは、2006年の年末、年の瀬も押し詰まっていた午後のことでした。
「年が明けたらはじめましょう。」と竹内先生とレッスン開始の日を相談して、2007年1月からギター教室の生徒に加わりました。
当時、自分を見失うほど無様な格好で毎日を暮らしていました。夫の死から9ヶ月経過しているにもかかわらず、突然の状況の変化に戸惑い苦しみもだえていたように思います。
弦の数も知らず、音の出し方もわからなかったのですが、一からとにかくすがるような気持で初めて抱えたギターでした。
自分の手に負えるようなものではないと思いましたが、毎日しばしの時間を没頭することのできるよすがとして、助けられていることを実感しました。ギターにうつぶせて流した涙も今は過ぎた日の思い出となりました。
サンシティー音楽院について思うとき、なぜか、「心に太陽を、くちびるに歌を」というフレーズが浮かんできます。原典をたどってみると『路傍の石』などの作品を書いている山本有三が編著者である『心に太陽を持て』の中にありました。
心に太陽を持て。
心に太陽を持て。/あらしが ふこうと、/ふぶきが こようと、/天には黒くも、/地には争いが 絶えなかろうと、/いつも、
心に太陽を持て。くちびるに歌を持て、/軽く、ほがらかに。/自分のつとめ、/自分のくらしに、/よしや苦労が絶えなかろうと、/いつも、
くちびるに歌を持て。苦しんでいる人、/なやんでいる人には、/こう、はげましてやろう。/「勇気を失うな。/くちびるに歌を持て。/心に太陽 を持て」フライシュレンによる
先日息子夫婦が生まれたばかりの孫を連れて東京から大分に来てくれました。私の狭いアパートで赤ちゃんを私のベッドに寝かせて、息子はベッドに腰掛けて、お嫁さんはテーブルで、おもてなしのために特別一生懸命に練習したレッスン曲を聴いてくれました。何度も引っかかりながら弾きました。コードで歌いながら弾いたときは、3人で合唱していました。赤ん坊が泣き出したので一番だけで終わりました。
「なじかは知らねど 心わびて・・・」
三人はホテルに引き上げて行きましたが、今もそのときの有様が心に焼き付いています。
そして今度の春の音楽祭でお願いしてそのときの「ローレライ」を3人グループひよっこで発表することになりました。
希望を持って、夢を追い続けるこれからの日々に私のギターは大きな役割を担ってくれそうです。ともにただ歩き続ける。それだけで。
酔っ払いの練習時間
ギター科 竹川敏彦
別府に引っ越してきて、10年になる。ギターを再開して8年。別府の環境が、ギターにあっているのか、いまだに続いている。
朝起きて、出勤までの間に、30分練習。昼休みに、30分練習。
会社から帰ってくると、まず1番にビール(発泡酒)を1缶あける。
それからギターを取り出して、30分ほど練習。そのうち晩御飯ができるので、食べながら、焼酎を飲むと完全な酔っ払いが出来上がる。
風呂から上がって、さあ練習するかと思うが、酔っているので、そのまま寝てしまうことが多い。
今やっている練習曲集が、難しくなっているのに、練習時間が短いせいで、ちっとも進まない。
休日は、朝起きて一番に1時間ほど練習する。時間は沢山あっても1時間が限界。指が痛くなるし、集中力も続かない。
午後、ルベックの練習・EFC・レッスンがある時は、、集中して1〜2時間は練習する。この練習が一番身につくかも。
午後から予定がない時は、お酒を飲みながら練習をする。グビリと飲んでは、8小節。ギョクギョク飲んでは、16小節。
1年単位くらいで、振り返ってみると1年前よりうまくなっている気がするので、まだまだギターの練習は続きそうです。
新聞中毒
加世田 薫
サンシティー音楽院の開院30周年おめでとうございます。
はじめまして。長女がピアノ科白石まさ子先生にお世話になっております。今回記念号の原稿募集ということで、投稿させていただきます。 *毎月この「エスプレシボ」を楽しみにしている。何をかくそう私は「新聞中毒」である。どうしてこんなことになったのか?
2004年に夫がイギリスの癌の研究所に勤めることに伴い渡英した。約6年間の海外生活。イギリスでは新聞配達のシステムがなかったため、新聞を読んでいなかったのである。
2010年に別府に帰国して以来、新聞がとても新鮮で、一字一句楽しみながら読んでいる。多忙を理由に読まない人が多いらしいが、私の場合は忙しいからこそ頼れる味方。テレビやインターネットでニュースを読むより、空いた時間に少しずつ読めて効率的だし、保存したい記事は躊躇せず切り抜きができる。(本を切り抜くのはさすがに勇気がいるが。)こんなに情報が載っていたなんて!もっと前からきちんと読んでいれば、本など必要なかったかもしれない、と思うほどだ。
送られてくる小包に緩衝材として丸めてある新聞を、広げずにはいられない。鳥取にいる友人から送られてきた時は「日本海新聞」。砂丘のイメージがあったが、実際は雪国なんだなぁ・・・。北海道からのハロウィーン用のかぼちゃを包んでいた「北海道新聞」、以前旅行で訪れた際の、北海道が中心の天気予報は新鮮だった・・・。
長女が華道クラブでお花を持ち帰るときに包む「日経」・・・。子供の頃、日経しかとっていない時期があり、つまらなかったあ、あれは・・・。目の前にある紙に、「もしかしたらそこに何か面白いことが書いてあるかも」と思うとつい読んでしまい、いろいろなことを考え、時間が経ってしまう。
ある日、母校の高校から同窓生向けの新聞が送られてきた。私はその時、日本の教育に危機感を感じ、どうしても訴えたいことがあったので、私も記事を書かせてもらえないだろうかと電話をしたところ、予算の都合で次いつ発行できるか未定とのことだった。どこか他に書けるところはないか?読売新聞には「論点」という欄がある。そこには毎回、第一線で働く著名人が問題提起・提案をしている。この欄は、誰でも投稿できるのだろうか・・・?
今振り返ると、よくもまあ単なる主婦である私がそんな大それたことを聞けたのだろうと不思議に思うが、あの時はあの時で真剣に考えて、「なるべく多くの人が目にするところ=新聞」以外に思いあたらなった。思い切って読売新聞にメールで問い合わせたところ、思いがけずすぐに電話があった。
「ああーよく読まれていらっしゃるようで・・・あの欄はですねー。こちらから頼んで書いてもらっているんです。」「ああ、そうなんですね・・・。」
あまりにものめりこんで読んでいたため、私には当事者が問題提起のため投稿してきているように見えた。
「あの、読者の声の欄だと、400字しかないので。もう少し長く書ける欄はないのでしょうか?」
「・・・ああー。あのですね。長いから読んでもらえるってわけじゃないんですよ。」
そうか・・・。そうだった。誰もが皆しっかり読んでいるわけではないのだ。忙しいビジネスマンなら見出しだけをざっとチェックする、といった読み方をする人も多いだろう。自分が書き手になってみようと思ったとき、読み手を意識して文章の長さも大事だということを教えてくれたあの読者相談室のおじさんに感謝している。
気を取り直し、時々、大分合同新聞に投稿している。意見を400字にまとめる作業を通して、自分が本当に言いたいことが見えてくる。新聞を読むうちに多少は文章力もついたようだ。
初めて新聞に印刷された自分の記事を見たときの感動は忘れられない。(「載ったんだよ!」と伝えた時の周りの反応も様々でおもしろかった。)
書くことも読むこともとても楽しい。書き始めて気づいたことだが、トピックというのは無限に出てくるものなのだなあ、本当に。このエスプレシボでもエッセイを読むと、いろいろと考えさせられる。普段の会話だけではそこまで深い話を聞いたりする機会もないので、人の話を聞くように興味深く読んでいる。ぜひ末永く発行して頂ければと思っている。
海外旅行でのギターの音色に感動
ギター科 武藤 憲司
10年前スペインに海外旅行したとき、あの有名なアルハンブラ宮殿を見学して外苑を散策していると宮殿近くの木陰で、アルハンブラ宮殿を背景にタレガの名曲「アルハンブラの思い出」を弾いている人がいました。
クラシックギターを弾く人は、一度は弾いてみたくなるこの名曲を宮殿バックに立ち止まって聴いていると素晴らしい景色とともに、ギターの音色に感動を覚えました。
アルハンブラ宮殿を訪れた人はご存知と思いますが、世界遺産に登録されている歴史ある荘厳な宮殿で、中庭にある30m位の小プールのような池の周りに何ヶ所もの噴水がたえることなく出ており、タレガはこれをイメージしてトレモロ奏法をいれて作曲したものと思います。
私もこの情景を連想しながら「アルハンブラ宮殿の思い出」の曲を10数年チャレンジしているものの、いまだにトレモロや表現など上手く弾けないところがありますがクラシックギターに魅せられています。
また、スペインではあの情熱的なフラメンコも有名です。旅行のときに演奏会場においてフラメンコギター奏者2人とフラメンコ踊り子2人の息のあったフラメンコの曲がこれまた素晴らしく感動しました。私も若い頃、松岡良治氏のフラメンコギターを購入して(現在も所有)少し練習したことを思い出しました。
海外旅行をしていると、よく街角でギターを弾いている人を見かけます。20年以上前に音楽の都ウイーンの街角で、そして今年の2月オーストラリアのブリスベンの街角でギターの音色に足が止まり、なんと素晴らしいギター音楽かと感動しました。その曲が帰ってきてからも頭から離れず弾いてみたいと思いました。人々を癒し、ときには勇気をもらう音楽の素晴らしさやその国の風景、生活、人々なども観賞できて本当に感激しました。
今日海外旅行をされる人が多い中、これらの地を訪れてギター音楽などを観賞できる機会があったら新たな発見があるのではないかと思います。
余談になりますが、私がクラシックギターを始めるきっかけになったのは、高校2年の秋、国立別府亀川病院に入院しているとき同じ病棟にいた人が外でギターを弾いていたのを聴いたのが最初だったと思います。初めは全音のギター(現在は知人に譲っている)で、その後カルカッシギター教則本の編者であったギタリスト溝渕浩五郎氏の東京の自宅を訪ね、野辺正二氏のギターを選んでいただいた思い出があります。この野辺ギターには、サウンドホールの中に溝渕浩五郎氏のサインが次のように記載されています。
“本器は武藤氏の為に選べし野辺正二氏の優れたるギター也 1965年9月吉日溝渕浩五郎?”と記されています。このギターは9年位前にフレットの打ちかえ、糸巻きの取り換え、ネックのそりなど調整をして現在もギター合奏、マンドリン合奏用に愛奏しています。もう1台の一柳ギターは10年程前から独奏用に使用しています。
私の青春時代は、クラシックギターブームだったと思います。社会人になってから仕事が忙しく、転勤などで長い期間ギターを弾いていませんでしたが、二人の竹内先生に出会えてから再びクラシックギターの魅力に嵌まっています。若いときと違って時々左指にしびれがきたりすることもありますが、これからも健康である限り弾き続けることができればと思っています。
<詩>
三月三十一日
塚田正美
ガラス格子のこちらでは
ギターがやさしく時を超える
かつて見た
滑らかに動くいきものの絵が閃く
ララルー
ララルー
同郷の音がする
向こうでは風が車を連れている
砂塵も
日の翳りも
おおぜいの花びらをも
演奏会のあと道に出ると
世界は思っていた以上にやわらかかった
風はゆっくりとし
人や動物の声は笑っていた
桜の木の下に寄ると
日はさらにやわらいだ
毎年のように
今年は
より念入りに絵筆がおかれたとき
にわかに
時がまたたいた
演奏家の選んだ時がここにあり
桜の花がそれによりそう
correspondance
ありとあるものの
花はみち
過去もまたあふれ
時空におさまるを知らない
しずかに
またしずかに
光は毎年のように微笑む
♪三月三十一日、鉄輪で開かれた竹内さんのコンサートを妻と二人で聴きに行きました。その帰りの情景を詩にしてみました。桜が満開でした。「いいね、きれいだね、竹内先生が今日開いてくれたから、きれいな桜が見れたね」妻は自分で身体を動かすことができないので、外出することは滅多になく、「桜の木の下は何年ぶりかな」。例年だと満開には早い日付ですが、今年はぴったりでした。それが不思議な感じがしました。その時、correspondance(コレスポンダンス)、という言葉が浮かんできました。「万物照応」とも訳されています。さまざまな物、人、時の呼応、その中で生きているという感覚が二人のうちにひろがってきました。至福の一日でした。ありがとうございました
「クラス会」のこと
ギター科 富松睦子
新緑の増す季節となり、あちらこちらで鯉のぼりが躍り老いも若きも関係なく、心うきうきで外にとび出したくなりますよね。でも今年は気がかりな事が一つあります。それは、毎年秋に行われる「クラス会」の幹事を任されたことです。そろそろ準備を始めなければと思い何だか落ち着きません。
今回は一人と云うことでなおさら心配です。最初の頃は「日帰りのクラス会」で、それも、五年〜三年おきにと云うものでしたが、年波で先が短くなるからと毎年のように一泊の「クラス会」になりました。
その間、関東、関西方面に在住の人達のお世話で三度程、二泊三日の観光を兼ねた「クラス会」は本当にいい思い出になりました。
高校を卒業して半世紀以上になりますが、やはりクラス仲間は会えば楽しい。男女共学、普通科高校で一学年六クラスあり、家庭科(女子のみ)、商業科、あと四クラスは、進学コースで、その中の一クラスは教養科で女子のみで、それが私達のクラスでした。女子だけですので協力心が強く、意見もすぐにまとまり、とにかく、スバラシイ クラスでした。卒業後はいろいろな事情で住所が解らなくなった人、一度も会に出席していない人、途中若くして亡くなられた人達、54名だったクラスメートもだんだん少なくなり、淋しくなってきましたが、毎年楽しみにしている仲間のために、まあどれだけの事が出来るかわかりませんが、幹事を引き受けたからにはやるしかないでしょう。老人会の集まりのようなものですが、集まれば、心だけは青春の日にもどるから、なんと不思議です。頑張りましょう。
魔法のしずく
オカリナ科講師 渡辺明子
今年は立夏を迎えても寒暖の差が激しく、不安定な気候が続いています。
庭の花たちもこの時期の朝の冷気に、思わず首をすくめているみたいです。
そんな中、空に向かって元気に純白の花を咲かせているのが「平成の月」という名前のミヤマキリシマです。
1991年6月3日の普賢岳噴火の火砕流で焼き尽くされた山肌から、数年後新たに芽吹いたもので、「希望の象徴」として株分けされ島原市内の「みずなし本陣・ミヤマランド」で売られていました。
この花を見るたびにミヤマランドの初老のご主人を思い出します。
「盆栽は初めてなのですが育てるのは難しいですか?」
「皆さん、そげん言わるっとばってん、大丈夫ですよ」
「水やりとか、肥料とか、特に気をつける事などありますか?」
「心配されんでも良かですばい。育て方の説明書があるけん、入れときましょ」
「ありがとうございます。助かります」
「お客さんは花ば好きなごとあるけん、花の好きな人は花の方がよう知っとりますけんね。この説明書に載っとらんことが一つあるばってん、知りたかね?」
「はい、ぜひ教えてください」
「花に水ばやるときは、上からバーッと掛けたらいかんですよ。根元に一滴ずつ話しかけながらゆっくりゆっくりあげると良かですよ。」
「話しかけながらですか?」「そう、話しかけながら…おはようでも寒いねでもきれいに咲いてでも、なんでも良かけん声を聞かせてあげるとです。
人間も植物も皆同じ。そうやって声を聞きながら魔法にかけられて、この人のためにきれいに咲こうと思うとですよ」
「ああ、だからここのお花は皆きれいに咲いているのですね」
あれから5年。「平成の月」は我が家の玄関先でりりしく咲いています。教えてもらった「魔法のしずく」で花も株もだいぶ大きくなりました。
奇しくもこの5年は私がサンシティー音楽院にお世話になった歳月と重なります。熱心な生徒さん達との出会い…、先輩講師の皆さんからの温かいご支援…、目標に向けて演奏曲を完成に近づけていく時の充実感…、たくさんの事が私にとってかけがえのない「魔法のしずく」だったのだと感謝の気持ちでいっぱいです。
オカリナにそっと話しかけてみました。
「お願い、心が穏やかになれるような、優しい癒しの音色を奏でてね。」
もちろんこれも私自身への「魔法のしずく」なのですが…。
「雲仙ミヤマキリシマ・平成の月」
<連載その9>
私のサンシティー音楽院
サクソフォン科講師
中原あおい
サンシティー音楽院エスプレシボ創刊30周年おめでとうございます。ちょうどこのような機会に連載を担当できて、うれしいですがやっぱり荷が重い気もします。
この記念すべき号に私の変な文章がずっと残ってしまうんですね(笑)。私の場合は12回書けば終わりとなりますが竹内先生は、ずーっと毎月毎月いろんなことを書かれてこられたんですね。毎回ネタ探しに苦労する私とはやっぱり全然違います。たくさんの引き出しを持たれている竹内先生の頭の中が本当にうらやましいです。
私がサンシティー音楽院に最初にお世話になったのは、もう20ン年も前のことになります。ピアノ科の阿部晋二先生のご紹介で音楽院を知りました。竹内先生をはじめ、竹内先生の奥様も今と変わらず柔らかな物腰が印象的でした。いつも穏やかな笑顔で、教室に入るとギターの練習されている音が流れていることがよくありました。
サックスという楽器は当時めずらしく、ほとんど習う人もありませんから、幽霊部員ならぬ幽霊講師的存在でした(笑)
それでも習っている生徒さん一人、一人は長く続けてくださいました。由布院から毎週通って来られた方もいらっしゃいました。その方とは今でもたまにお会いしたり、連絡を取り合ったりしていますし、転勤
で遠くに行かれてしまった生徒さんも年賀状は毎年やりとりしています。
サックスの生徒さんは楽器の性質上、私より年上の方も多かったですが真面目に私の話を聞いてくださり、真剣に練習されていました。
ご自分が好きなことに打ち込んでいるので、飲み込みもびっくりするくらい早く音符がわからない・・・と言いながらもすぐに読めるようになりました。やはり興味があることは、年に関係なくいつからでも始められるんですね。
そして今度は私がレッスンのことだけでなく、日常のことや仕事のこと等、生徒さんに学ぶことも多くありました。
また、今は講師演奏会もシャンテドールと決まっていますが、昔は今は無き横断道路沿いにあった「異人館」や亀川バイパスの倉庫のような喫茶店(?)、ビーコンのリハーサル室(うしろが鏡張りのところでした)のときもありました。竹内先生が毎年いろんなところを探されて決められていたんだと思います。
自分の演奏が終わるとコーヒーを飲みながら他の先生の生徒さんとも話したりと講師、生徒の隔たりがなく和気あいあいとしていました。
サンシティー音楽院を通じて、いろいろな方とご縁ができて本当によかったと思っています。
【編集後記】
今日は5月の13日です。普段より半月早くエスプレシボに取り組み、どうやら形になりました。これから印刷や製本(というほどのこともないですが)にはいり、月末までには仕上げたいと思います。
今回は、皆様からいただいた多彩な原稿、そしておまけ?の詩集まで組み込んで、読み応えのあるボリュームになりました。こういうのは、毎月はとても作れませんが、30年に一度ですからできたことだと思います。
それも、お忙しい中で原稿をお寄せいただいた皆様のおかげです。寄せいていただいたお気持ちをこれから長く大切に致します。有難うございました。
なおこのこのエスプレシボは、毎月印刷前の校正を、清末昭子さん、千村宣子さんのお二人に見ていただいております。今回もこの長い記念号を読んでいただき、貴重なご指摘をしていただきました。いつもうっかりミスなどを、毎月たくさん発見していただき、とても助けられています。 この場を借りまして、普段のご協力のお礼を申し上げたいと思います。有難うございました。目が疲れるでしょうが、これからもよろしくお願いします。
7月からはまた気持ちを新たにして、361号に取り組みます。これからもよろしくお願いします。