♪350 
エスプレシボ  
8月号
メール  
竹内 幸一                今年の梅雨は、大分県などの北西部九州を狙い打ちでした。激甚災害に指定というような、起きてはならないことが起きてしまいました。お知り合いに、日田や竹田、中津などのかたがおられて、心を痛めている方も多いかもしれません。心よりお見舞い申し上げます。
 さて今月は、毎日お世話になっている「メール」を取り上げることにしました。メール大好きな私は、パソコンを開くのを日課、いや朝・昼・晩と覗かねば気のすまない暮らしをしています。中毒でちょっと縛られている(笑)感じもするのですが、まあ、それほどメールと癒着している暮らしの一端をご紹介しましょう。
 メールには、情報を受け取ることと、発信することの2面があります。まず受け取ることが、なぜ好きかということを書きましょう。
 ご存知の方も多いと思いますが、私は耳(特に左の耳)がよく聴こえません。最近、難聴度がまたひどくなっているようで、周りの方にご迷惑や、不快な思いをしてもらっていることが多々あると思います。この場を借りまして、深くお詫び致します。どうぞご容赦ください。
 そういうハンディーの点から見て、メールは非常にありがたい伝達手段なのです。相手の言っていることが、間違いなく、きちんと私に理解できるのです。聞き間違いで、後でトラブルになることを思うと、このメールの正確な情報ほど、私にとってありがたいことはないのです。(大事なことはメールでお知らせください。笑)
 次に発信のほうについてですが、私は、気が弱い、人見知りなどのせいでしょうか、どうも人前でしゃべるのが苦手です。大きな声でしゃべっている話の輪の中では、自分の意見を言えないのです。瞬間湯沸し器的に、頭の中でしゃべることをまとめることが出来ないのかもしれません。
 次々に面白い話題を提供して、楽しい会話を繰り広げている方を見ていると、とてもうらやましくなります。聞き役になりながら、話術にも才能があるものだと感心しています。
 ワンテンポ遅れる私は、蛍光灯的なんだろうと思います。一度頭の中で、ぐるぐるっと回転させてから、ようやく言葉が出てくるようです。それには、このメール発信というのが、私にぴったりなのです。
 人前で思いのたけしゃべれて、スカッとしていたら、こうして回りくどく文を紡ぐことをすることもなかったかもしれません。ありがたい伝達手段に出会えて幸いでした。
 しかしながら、メールにもいろいろ問題点があります。それは、相手の顔が見えないことから、発信した情報が伝わっているかどうかが分からないことから来ます。
 例えば、ハーモニアス別府の事務局をしている関係から、演奏会を開くときなど、演奏者とのメールのやり取りが1年ほど前から何度もあります。プログラムの原稿や当日の打ち合わせ相談など様々な決定事項がメールでやり取りされます。どんな小さなことも事前に決めておかないと、行き違いが生じるからです。
 ところが、こちらの問い合わせになかなか返信がこないことがあるのです。そんな時、返信がないとよく嘆くのですが、家人に言わせると、私はとてもせっかちなのだそうです。普通、一日に1回はメールを開くだろうと言うのが、私の感覚なのですが、どうもそれは、私の間違いのようです。
 4日、5日と返信がないとだんだん心配が膨らんできます。大物演奏家になればなるほど、何か失礼があったのではないか、機嫌をそこねることを言ってしまったのではないか、もし、もう出ないとかの混乱になったらどうしよう…などと不安に怯えながら、「返信がありますように」と祈るようにして、メールを開くのです。まあ、幸いそんなトラブルにはまだ出会っていませんが、この苦しみはこれからも続くことでしょう。
最初のメールで、すぐに返信があると、これは幸先がいいぞと嬉しくなります。まめな方と、あまりせかせかしない方との見分けが、最初にだいたいつく気がします。まあ、何にしろ、打ってすぐこだまのような返信を求める私のほうに、問題があるのでしょう・・・のんびり、焦らないで安らかな日々を送りたいものです。
 それから、先月、合奏団の仲間の女性が、ご主人を病気で亡くすという悲しいことがおきました。しかも、2日違いで二人が続いてしまったのです。(お悔やみ申し上げます)
 15名ほどの合奏団の仲間にお参りの連絡をするのにメールを使いました。一斉送信で、すぐにみんなに伝わり便利なようですが、問題が残りました。喪主の方からいただいたメール「今夜○時お通夜、明日○時葬儀」等の情報を、間違いがないように、ほとんどそのまま仲間へ転送しました。ところが、そのときは気がつかなかったのですが、それはずいぶんまぬけなことをしていたのです。
 まず、「メールを見ていなかったので知らなかった」という方が出ました。そして、次の日に見た方が、「問い合わせたら、今日そういう方の葬儀はない」と言われたと、困惑した様子で話していました。すべて、今日中に仲間がメールを読むはずと決め込んでいた私の迂闊なミスでした。
 その反省から、次のときは、日時をしっかり書き込んで「このお知らせを読んだ方は返信をお願いします。返信がない方には電話をします」と言う工夫をしました。
 メールやファックスには便利なことも多いのですが、電話で直接話すことでしか確認できないこともあります。その弱点を理解した上で、これからもメールを愛用していきたいと思います。
この文の感想など、皆様からのメールをいただけるととても嬉しいです。  

連載その12
性 格
   高橋由紀子(声楽&ピアノ科)
 
連載もとうとう12回目。最終回に際しても相変わらずネタなしで、どうしようどうしようと思っているうちに締め切り日も過ぎ、さらに焦る・・・。この一年、生みの苦しみの日々でした。ササッと書けたのは、2〜3回。後は、悩みに悩んで、どうしようもない文章を書き連ねただけでした。
 今回の連載に限らず、仕事でホームページを作成する時も同じように生みの苦しみがあります。構成・デザイン・カラーなど、出てこない時は何も出てきませんし悩みに悩みます。そして、時間だけはどんどん過ぎていき、また焦る・・・。最近では、長雨のジメジメ不快感と、屋外の暑さと屋内のエアコン効き過ぎの寒さの温度差で、体調もすぐれず、イラつく、ムカつく、ネガティブになる・・・。
こうなると悪循環極まりありません。思い切って休んで何も考えないようにするのが一番なのですが、これがまた難しい。そのうち最高に疲れ果てて休むというのが最近のパターンです(笑)。
 とはいっても明けない夜はないので、必ず何かが出てきます。出てくると、次から次に出てくるもので、この時は、全てがうまく進んでいきます。長い人生、そうやってみると、いい時もあったし悪い時もあったなと思います。また、身体的にも、ホルモンバランスで思春期などすべてにムカつく時期もありますし、女性は月の何日間は落ち込んだりイラついたりする時もあります。
 このように、自分の状態がベストでなくなった時、自分の性格がよく見えてきます。
 最近、職場の若い子が「苦手な人に会うと萎縮してしまい変なミスをしてしまう」と言っていました。何とも可愛らしく思ったのですが、「私の場合、苦手な人に合うとヤマアラシのように針を立て、防御&攻撃態勢に入るわぁ」と言ったら大笑いしていました。苦手な人に限らず、嫌な事があったり、生みの苦しみを味わったりしている時、自分はどうなるのか。若い時に比べてかなり丸くなったと思うのですが、どちらかというと攻撃的で悪知恵が働き、かなり意地悪な性格になると思います。いろいろな職場で働くうちに、自分を守る術として身に付いてきたのかもしれません。やられたらやり返すが鉄則となり、こいつは手を出すと面倒だと思わせる強さもにじみ出てきているかもしれません。どんどん強くなってきている自分を振り返ると、可愛らしさは微塵もなく、弱い性格を全面に出してフンフン言っている人を守ってあげようという優しさもありません。
 このようにとんでもない性格ですが、これを表に出すと世の中渡っていきませんので、面倒くさい事や人間は、上手にスルーし、心の内でちょこちょこ毒を吐きながらすっきりする術も身に付いてきました。多分、目には見えませんが、こっちに寄るなオーラをガンガン発しているような感じです。そのせいか、回りは本当に性格のいい人が多く、ほとんど面倒くさいことに巻き込まれることはありません。
 良くも悪くもこれが自分なので、この性格をよく知った上で、自分の今の状態を常に確認しながら、自分の調子で回りに被害を与えないように心掛けています。それでも巻き込みそうな時は、一人になり、シャッターを下ろして閉じこもります。閉じこもると言っても、何も考えずにひたすら眠ったり、美味しいものを食べたり、音楽を聞いたり、映画を見たり、今はオリンピックで感動するのもよしですね、自分の好きなことを好きなようにやるということです。
 一年間、超未熟な人間のどうしようもない文章をまかり間違ってご覧になってしまった方には大変申し訳なかったのですが、やっと終了です!私としては、今月で、一つ生みの苦しみからも解放されます(笑)。これからも山あり谷ありなことが多々あると思いますが、自分の性格をよく検証しつつ、なるべく穏やかに過ごせるように日々努力していきたいと思います。
 
 
高橋先生、お忙しい仕事をこなしながらの連載、大変お疲れ様でした。
いろいろと新鮮な話題を提供していただき、毎月読ませていただくのが楽しみでした。なるほど、そうか…と、新しい発想を学ばせていただくことが多々ありました。
ありがとうございました。これで、毎月25日の締め切りから解放されますね。本当に、1年間と言う長い間、ご苦労様でした。ありがとうございました。
尚、9月号からは、サキソフォン科講師の中原あおい先生の連載が始まります。大変でしょうが、どうぞよろしくお願いします。
さてどんな世界を広げていただけるでしょうか。皆様どうぞお楽しみに。(竹)
 
 
 
笠木哲也さんに続いての
退職譚
      宗岡俊二(中部公民館)
 
 前号bR49で笠木さんの退職を知りました。(記念コンサートあったんですね。聞きたかったなあ)。
これからはいよいよギター三昧ですね。その甘いギターの音色を多くの笠木ファンに届けてください。
 かく言うわたしもこの春3.31無事、円満、定年退職しました。省みましたら通算12年の単身赴任、いないことが当たり前の夫婦の生活に突如「毎日いる!」。女房のストレスは生半可なものではなかったようです。「体重7kg減」を方々で吹聴されて弱りました。「@夫婦で別々の趣味を持つ。Aなるべくすれ違う生活をする」を心がけて二人の精神の均衡を保っています。
 ところであの小椋桂の第一勧銀役員早期退職の理由知っていました?「酒席の多さ」だそうです。さもあろう、この私のごときでさえおおいたの職場では週3週4の酒席に(俺の肝臓は退職まで持つだろうか)と心配したものです。
毎晩「酔神」。居眠りで別府駅乗り過ごしは当たり前、杵築で目が覚めてとんぼ返りでまた眠り、大分駅に戻ってしまうこともしばしば。万歳!晴れてそんな生活から脱出できました。
 さてギターにようやくゆっくり向き合えます。私の河野ギター、ほしくて無理して手に入れた日をギターケースに記しています。「92.2.21」、あれから20年。思えばいったい何年このギターを弾いてやったことだろうか、そのほとんどがケースに入れたままで単身赴任先を連れまわしたのだったなあ、と私のギターには申し訳なさが先にたちます。
 ようやくゆっくり向き合えてしっかり抱いて毎日弾いてやろうと決意新たです。
 
 
音楽だより♪351 
エスプレシボ  
9月号
耳を澄ます竹内 幸一
雨の日曜日です。沖縄のほうにとても大きな台風が来ているようで、心配になります。このところ自然災害がなんだかとても荒々しくなりましたね。「これまでに例のない雨量」とか新聞で見て怖くなりますので、どうぞ穏やかにと天の神様にお願いしたくもなります。
さて今月は、オーストリアのウイーンに生まれた心理学者「ビクトール・フランクル」について書いてみようと思います。世界的なベストセラー「夜と霧」の著者ですので、ご存知の方も多いことと思います。
フランクルはユダヤ人であることから、ナチス・ドイツによって強制収容所に入れられ、約3年間極限状態の生き地獄を体験します。この間、妻、父、母、兄はそれぞれフランクルの知らない間に、収容所で亡くなっています。それだけでもユダヤ人への大弾圧の怖さがどれほどのものかが分かります。
「夜と霧」は、アウシュヴィッツに、毎日数千人のユダヤ人が貨車に乗せられて到着するところから始まります。疲れ果てた行列を、ドイツ人の将校が迎えます。右の肘を左手で支えながら、右手の人差し指をほんの少し右か左に動かします。後で分かることですが、右に振られた95パーセントの人たちは、ガス室行きの集団になったのでした。
フランクルは5パーセントの、過酷な肉体労働が可能なグループに入れられたのです。将校の右の人差し指のわずかな振れ具合で、フランクルの命は助かったのでした。しかし、それからは極寒の中で鉄道建設などの過酷な肉体労働の地獄の日々でもありました。2時間前まで話をしていた仲間が死に、その死体を見ながらスープを飲むというような、「無感動・無感覚・無関心」という心の防備をしなければ生きられない日々でした。
そんな絶望の中での体験を、「強制収容所におけるある心理学者の体験」として発表されたのが「夜と霧」です。強制収用所の極限状態の中で、人間の精神は何に絶望し、何に希望を見出したのかをリアルに描きました。
人間以下の牛馬のような扱いを受ける中で、明日の命の保証もない捕虜の中に、自分も飢えているのに、もっと飢えた人に自分のパンを与える人がいたのです。過酷な状況の中で、夕日の美しさに感動する場面もありました。人間の中に、一種の崇高な精神がありました。「人間精神への絶対的な信頼のまなざし」が、フランクルの思想全般に貫かれているのです。
その極限状況の中で、人々の「生」と「死」を分けたものは、「未来に対して希望を持ちえているか否か」だったそうです。3月30日に解放されるという夢を見たという話。クリスマスに解放されるという噂にすがった話。その期待が裏切られたときに、多くの死者が出ました。理由は、過酷な労働でも飢餓でも、伝染病でもありませんでした。素朴な思い込みに裏切られたとき、人々は力尽きたのです。
それに引き換え、「自分はこの状況を何としても論文にまとめて、発表する」「子供が一人いる。その子を絶対に孤児には出来ない。」というような、見失うことのない未来への希望を持つ人がいました。その希望を失わなかったひとのみが生き延びたのでした。
フランクルは、そんな極限状態の人々に「そんな人生にも意味がある」ことを話しました。収容所を出てからも、一般の人には勿論、多くの死刑囚を訪れて、今生きている意味を説き続けて生涯を終えました。
どんな時も、人生には意味がある。なすべきことが与えられている。あなたを必要とする「誰か」がいる。あなたを必要とする「何か」がある。「何か」があなたを待っている。「誰か」があなたを待っている。・・・と、フランクルは説き続けました。
私たちには、どうなりたい、何が欲しいという欲求や願望があります。しかし、なかなか思い通りにはなりません。慢性的な欲求不満の状態に追い込まれることもあります。自分ではどうすることも出来ない苦難や災難を抱えて、こんな人生は最低だ。こんな自分が生きている意味がどこにあるのか?と絶望することもあります。それが自殺へつながってしまうケースも多くあります。
そんな私たちへ「人間は、人生から問いかけられている」というフランクルの中核をなす考え方があります。人が自らの主観で人生に意味があるかないかを決め得るとするという思いは、傲慢であり、それが絶望の種になるのです。
「人生から問われている者」という原点へ、180度のコペルニクス的転換をしてほしいというのです。日々直面する人生の状況から発せられてくる問いかけを発見し、それに精一杯応えればいいというのです。やらねばいけないことは、すでにあなたの元に送り届けられているのです。耳を澄ませば、それが聴こえます。見えます。ただひたすらそれに全力で取り組めばよいのです。
 最後に、生きる意味を見つける三つの手がかりについて簡単に書きましょう。「創造価値」(どんなことでも、自分が作り出していることへの価値です。フランクルは収容所で、論文の原稿にするメモを書き続けました)。「体験価値」(自然とのふれあいや人とのつながりの中で生まれた価値。フランクルは、収容所で妻を思い浮かべ、妻と対話することで一つの救いを得ていました)。「態度価値」(収容所では悪魔にも天使にもなる人がいました。同じ体験の中でも、その人がとる「態度」は違うのです。)
 まだまだ書きたいことがたくさんありますが、スペースの限界が来ました。うまく伝えられませんでしたが「人間は、あなただけの人生から問いかけられている」ということが、少しでも分かっていただけたら、大変嬉しいです。耳を澄ましてみてください。                                                                               
連載その1
最近のできごと 
    中原あおい(サクソフォン科)
 
皆様こんにちは。でもどちらかといえば、ほとんどの方には初めましてと言ったほうが正しいかもしれませんね。サクソフォン教室を担当しています、中原と申します。これから1年よろしくお願いいたします。
 6月の下旬に竹内先生からお話を頂いて「まだ先だから・・・」なんて思っていたら、あっと言う間に梅雨が開け、暑い夏を過ごし、9月を目前に迎えてしまいました。
 何を書こうか、頭の中であれこれ考えてみたのですが、今一番私の身近な出来事をお伝えしようと思います。 私は最近健康のためにウォーキングを始めました。ウォーキングと言っても、そんなに大きな声で偉そうに言えたものではありません。とりあえず目標は週に3回、用事または見たいテレビなどがあれば罪悪感を持たずにそちらを優先しながら続けて(?)います。「今日は歩けなかった・・・」と思うとストレスが溜まってきます。ですから、そんなの全く気にせずに一週間歩かない時もあります。とりあえず一日おきには歩くように・・・とだけ心がけているのですが・・・。
 ところがその日の夜はどういうわけか、歩いた次の日も丁度うまい具合に時間があいたのです。「今日は歩く日じゃないし・・・やめようかな?」と思ったのですが、なんとなく出掛けてしまいました。 ところが、そこで見てしまったのです!! 小さな小さな子猫ちゃんを・・・!!!どんなに小さな子猫でもノラ猫なら火を吹いて逃げます。とりあえず、立ったままちょっと声をかけてみました。・・・反応なし。しゃがんで声をかけてみました。・・・やっぱりうずくまったまま動きません。そっと手を出してみました。驚いて20cmくらい離れました。場所は車道のすぐ近くです。歩道と言っても段差もなく、白線が引かれてあるだけです。子猫の顔は目ヤニでほとんど目が開かない状態で、鼻水で鼻も詰まり放題です。前にフラフラと出て行けば間違いなく車に轢かれてしまうだろうし、そのまま放っておいても炎天下の中では1、2日の内には死んでしまうだろうと思いました。
 こういう場合は・・・?連れて帰る以外ないですよね・・・。「あーぁ・・・今日は歩くべきではなかった」と心のどこかで思いながら、急いで家に帰り動物用のミルクとカゴを買いに別府まで車を走らせました。(私の家は田舎なので遅くまで店が開いてないのです。)
 ミルクとスポイトを買って、急いで車の中で飲ませました。お腹が空いていたのかミルクはしっかり飲んでくれました。少し元気が出たようでカゴの中から出ようと動き始めました。私もちょっと落ち着き、「明日は病院に連れていこう」と思っていましたが、その後は・・・?回復するまでどうしよう?毎日のミルクや餌やりは・・・???里親も探さなきゃ!! いろんなことが頭をめぐり始めました。
 家に帰って母に猫を拾ったことを伝えると大激怒!!仕方のないことです。目も潰れ、顔も目ヤニと鼻水でドロドロに汚れ、蚤が体中這いまわっている猫など病気のかたまりとしか思えません。 うちには家族に溺愛されている犬(名前:まる)がいます。まるに病気や蚤がうつったら・・・。 まるはその心配をよそに小さな生き物の出現に大興奮で匂いを嗅ぎまわっています。でもやはり蚤の心配があるので、夜はカゴに入れたまま車庫に寝かせました。
 最初は丸くうずくまっていましたが、そのうちゴロンと横に手足を伸ばして寝ている姿を見ていると、やっぱり連れて帰って良かったと思いました。
 次の日の朝、病院に行き蚤の駆除と栄養状態など調べてもらい、仕事が終わる夕方まで預かってもらうことにしました。 問題は次の日からです。抗生物質は朝夕でよいのですが、餌をこまめにやらないと低血糖を起こすらしいので母が家に居る日はお願いできるのですが、居ない日は会社に連れて行きました。幸い会社には猫好きな友人がいて、心配して協力してもらえました。目ヤニも目薬で日に日によくなってきました。
 そこでまた壁にぶつかったのが餌や猫のトイレの「猫砂」の問題でした。うちの犬はアレルギーがあるのですが、ステロイドは内臓を蝕んで命を縮めます。そういう薬を飲ませたくなかったので、本を読んだりパソコンで情報を探し、シャンプーや保湿剤で痒みを抑える病院にめぐり会い現在に至りますが、血液検査で食べてはいけない物ハウスダストやカビ、草の種類までわかります。人間とほとんど変わらないくらいまで調べられます。そんな感じで犬に対しては一生懸命だったわけですが、猫と接していろいろ調べてみると、やはり何気ない日常に怖いことがたくさんありました。
 うちに居る子猫は、まだまだ見るものすべてが珍しく何にでも玉を取ります。猫のトイレに使う丸い形の猫砂は良くころがって猫の遊び道具になります。もちろん口でかんだりしています。私はトイレの処理をする時に舞い上がる砂埃が気になっていたのですが、他の方のブログを見ると猫にとって危険なことがわかりました。命にかかわることもあるようです。
 長くなりそうなのでこの話題は来月へ持ち越させてください。
 
定年退職の話 第3弾 その1
                            荒木正文(ルベックスペシャル)
 
ルベックスペシャルに入れていただいている荒木と申します。
7月31日、60歳の誕生日をもって37年4ヶ月勤めた会社を定年退職しました。エスプレッシボに定年退職第3弾としてこれまでの事、これからの事などを書いてくれないかと言うご依頼がありましたが、私にとりましても人生の区切りとしてよい機会なので書かせていただくことにしました。
私が就職したのはオートバイや自動車の会社で1975年の事でした。当時この会社には販売している自動車が1車種しかなく、まだオートバイが強い会社でしたが独特の社風があり、大きくなることを予感させる会社でした。
最初の勤務地は埼玉の朝霞市で、当時の感覚ではずっと埼玉に居るのだろうと思っていましたが、その後栃木、別府、熊本、フランス(オルレアン)と転勤し、最後は熊本に戻って定年を迎えました。
実習1年の後、埼玉、栃木では基礎研究や製品開発の設計を約17年やりました。今考えると、新人の頃は試作の設計でいろいろな失敗をさせてもらえたと思います。失敗して覚える事を許すような良い上司に恵まれました。製品開発では、アメリカのリゾート地での市場調査や現地テスト、北海道旭川での寒冷地テスト、部品を作ってくれるメーカーを探すために3ヶ月にわたってアメリカの各地を訪問した旅などが良い思い出となっています。
栃木から別府への転勤は自分で希望したもので、本社の人事部に手紙を出したりして希望がかなうまで約半年かかりました。別府では本社の特例子会社で生産技術、品質管理、工場運営などを10年やりました。
この職場では現皇太子ご夫妻、秋篠宮様ご夫妻をはじめ皇族方、海外の大臣などのご視察などが数多くあり、その対応など普通の技術屋では体験できない様な事も経験しました。思いがけずモンゴルへの出張もありました。
        (次号に続きます。)


音楽だより♪352 
エスプレシボ  
10歳の夏 竹内 幸一

手のひらを返したように、ちょっと肌寒いほどの秋がやってきました。厳しい残暑がようやく終わりましたが、みなさん夏バテしていませんか?これから過ごしやすくなりますので、美味しいものも食べて体調回復に努めてください。
皆さんはこの夏にいろんな思い出が出来たことでしょう。私も今年の夏は、転倒して少し腕を痛めたり、義父が亡くなったりと、いろんな事がありました。そんな夏のことを思い出していたら、ふと、私の10歳の頃の夏を思い出しましたので、今回はそれを書いてみたいと思います。お付き合いください。
10歳というと、私が小学校の4年生の頃です。今から50数年前の遥か昔のことです。今思えば、10歳の夏は、私にとって、ほんの一夏の閃光のような日々でしたので、愛おしく思い出したのです。
9歳(小学校3年生)の夏休みに、2度手術をして、それまで松葉杖で歩いていた苦労から解放されました。それから自分の足だけで歩いて学校に行けるようになったのです。もちろん、体育などには参加できませんでしたが、松葉杖なしで歩けるというのは、大きな変化でした。
4年生の夏、学校の近くの川で水泳をしていました。当時はプールなどなく、運動場の横を流れている川が水泳場所でした。たぶん水もきれいだったんでしょう。
毎日通って、少しだけ泳げるようになった私は、川に入るのが、面白くてたまりませんでした。監視人に渡す名前を書いたかまぼこ板を持って、せっせと川に通いました。水泳(水浴び程度ですが)にはまっていたのです。運動にはまって気持ちが燃えたのは、そのときが最初で、・・・そして最後でした。
泳ぐのは、足の立つような浅いところばかりでしたが、それでも腰までも水があるところでは、危険なこともありました。何かの拍子に体が沈み、大慌てで手足をばたつかせて、起き上がったことがありました。水をげぼげぼと大量に飲み、青ざめたものです。それでも水泳への魅力は増すばかりでした。
しかし、もともと虚弱体質だったからでしょうか、その水泳が、生涯付き合わねばならないような腎臓病に結びついてしまいました。熱く焼けた石の上を歩くとそうなるとかあとで聞きましたが、他の友達はみんな元気で、私だけが、発病してしまいました。
実は夏休みの後半、小便をするとき少し痛みがありました。しかし、そんなことを隠してしまうほどの大切な、大切な泳ぎの時間でした。もう後悔しても追いつきません・・・。
それはともかく、その泳ぎの帰りに、遊び仲間と、たった1回だけ野球をしたことがありました。普段は声もかけられないのですが、なぜかそのときは呼ばれました。たぶんメンバーが足りなかったのでしょう。
当時は、神様仏様、鉄腕「稲尾」様の時代でした。私は家の壁にボールをぶつけて、その跳ね返りを捕って遊んでいました。心は稲尾で、壁に書いた四角に入ればストライク、外れればボールと、名選手になりきっていました。
その程度の一人遊びの私でしたが、珍しく少年野球チーム(遊び仲間のささやかなあつまり)のメンバーに呼ばれたのです。なんだかわくわくしました。上級生が監督にいて、木蔭でサインの話をしました。自分のベルトをさわって、「これはバントじゃけんの」と言ったのを今でも覚えています。実にわかりやすいサインだったからでしょう。(笑)
1回の表、私の守備位置は、セカンドでした。一番バッターが打って、いきなり私の横をボールが通って行きました。あっと思ったときは、ボールが外野に行っていました。全く動けないままでした。
そのとき、「捕らんか、ボケ」、「何しよんのか、へたくそ」と容赦のない野次が飛んできました。たぶん、そういうのは普通のことで、そんな各種のきつい声援の中で、みんなはゲームを楽しんでいたのだろうと思います。
しかし私は何しろ初めてのことで、抵抗力がありませんでした。それに、体の事もあり、家や周りの人々から甘やかされていたのだろうと思います。体も心もひ弱だったのでしょう。ひ弱なくせに、我がままで意地っ張りでした。
その野次にムカッときて、「やめた!」と、グローブを叩きつけて、すたこら帰ってしまったのです。そのあとのゲームがどうなったのか、またそのグローブが戻ってきたのかどうかも分からないままでした。
私にとっては、たった1回だけの本格的な野球体験でしたが、ほんの数分の参加で終わってしまいました。以後、そんな仲間に呼ばれることは一度もないままでした。
私の10歳の夏は、そんな夏でした。今思えば、特殊というか、貴重な夏でした。初めて、体を使う喜びに目覚め、そして、そしてそれが最後になってしまった短い夏でした。
11歳(小学校5年生)ごろから、本格的?に腎臓病と闘わざるを得なくなりました。学校も休むことが多くなりました。入院、手術で、留年したりもしました。高校も満足に行けませんでした。その闘いは、今も続いています。
しかしながら、留年中に暇つぶしに手に取ったギターが、私の人生を変えました。あのひと夏、元気に泳いで、野球もして、それから学校にも行けたら、私はどうなっていたでしょう。
10歳の夏は、私の人生の分岐点でした。
                                                                          今 <行事予定>
連載その2
最近のできごとPart.2
中原あおい(サクソフォン科)
朝夕はずいぶん肌寒くなってきましたが、みなさん体調を壊していませんか?
 先月は子猫を拾った話から猫砂が危ないというところで終わってしまいました。以前にも友人から猫を預かったことがありますが、猫のトイレを換えるたびに砂埃のような物が舞い上がっていました。そのたびに息を止めて、目を細めて換えていたのですが、インターネットで調べていると、その猫砂を間違って食べてしまい食道や胃で固まってしまい、最悪の場合は死んでしまった猫もいると書かれていました。確かに猫砂は排泄物の分だけ固めて、そこだけ取り除けるように便利にできています。でも人間でも息を止める程の埃が舞うのですから、猫がトイレに行くたびに足で砂をかける行為をするとどれだけの粉が吸い込まれているかと思うとちょっと怖くなります。もちろん体に入った異物は排除される機能もありますから、すべての埃が体の中で固まるということはないと思いますが、私自身がイヤ〜な気分になるような物を何も言えない子猫に与えるのもおかしな話です。でもやはりそういった商品ばかりではなく、探せば埃の全く出ない、自然の物だけで作られている物もありました。そちらのほうは処理にほんの少し手間がかかりますが、今までのように埃でまわりがいつもザラザラした不快感もなくなりました。猫砂ひとつ取っても人間の使い勝手だけが優先され動物の健康を無視したものが重宝されています。 猫の缶詰も調理法によっては水銀が多く含まれた物が平然と出回っています。ドッグフードにしても、袋に成分の内訳などが書かれていますが、たんぱく質といえば私達は常識の中で牛、豚、鶏等の肉を思い浮かべますが、鶏の羽やくちばしもたんぱく質に含まれます。そして実際に粗悪なフードにはそういった物が含まれています。海外で作られたフードの中には、その国で流通される袋にはBHTやBHA、エトクシキン等の文字が印刷されています。BHTやBHAはガソリン等に使われる酸化防止剤ですが発ガン性の危険が非常に高いため日本ではほとんど使われていません。エトクシキンは防虫剤、防腐剤として使われていますが、枯葉剤として使われ、ベトちゃんドクちゃんのような症状の子供達が生まれたと言えば理解できると思います。このような表示が日本の袋に詰替えられると消えてしまうのはどうしてでしょう?
私はフードを味見します。何が入っているかわからないから怖い??・・・そんなフードは家族同然のペットに食べさせられません。フードによってはものすごく塩辛い物もあります。触っただけで手に油が付くフードもあります。また蚤を駆除する薬ですが、「ペットには安全」と書かれていますが、「子供の手に届かない所へ」とか「これを使用しているペットに触れた後は石鹸で手を洗ってください」「一緒に寝てはいけません」等の注意書きがあります。ペットには優しくても人間には害があるのでしょうか?矛盾だらけのことがたくさんあります。肝心の獣医さんに聞いても安全ですよとしか言ってくれません。そしてまた予防接種も・・・。この頃は獣医さんによってだいぶん変化が出てきましたが、それでも年に一回ワクチン注射を受けましょうというハガキがご丁寧に送られてきたりします。
 私も昔は混合ワクチンの接種は犬を守るための飼い主の義務だと思い、疑問も持たずに毎年かかさず受けていました。(獣医さんにとって優秀な飼い主でした。)しかしよく調べてみるとワクチン接種は3年に1回で十分だということです。しかも5種、7種、9種と中身を増やすにつれてアレルギーや副反応の危険性も高まるだけでなく不必要なワクチンまでも接種することになります。これは今までに飼っていた2頭の犬が癌にかかって死んでしまった原因が知りたくていろんな本を読んでみると、警告されている本がたくさん出ていました。 つい最近までは日本では「ワクチン接種は3年に1度でいいよ」という獣医さんがいると、獣医師会からつまはじきにされると聞きました。そして今でも、一年以内にワクチンを接種していなければドッグラン、ペットホテル、トリミング等制限のある所もたくさんあります。そんなにすべての犬や猫が病原菌をいつも撒き散らしているのでしょうか?私達が毎年インフルエンザの予防接種をしたと提示させられたり、ホテルに泊まるときに健康診断書を提出させられたりしたことが今まであったでしょうか?そして結局そのせいで、てんかんやアレルギー、癌、ショック死等になっても全く表には出てきません。これが人間の子供だったら大騒ぎになりますが、犬や猫になると闇に葬られてしまいます。避妊や去勢についても同じです。3ヶ月くらいから簡単に手術をしていますが、なるべく体ができてしまうぎりぎりまで待ってからでないと、それが原因で疾患時の手術が困難になることもあります。いろんなことをざっと書いてしまいましたが、自分の家族となる小動物は飼い主である自分自身にすべてがゆだねられています。私が判断したことが直接小さな相手を左右します。餌であれ、生活環境であれ私を信じるしかない家族を不幸にしたくはありません。ペットショップにいる犬や猫達はどれもかわいくて、すぐに連れて帰りたくなります。10年後のことなど考えずに連れ帰った結果、悲しい運命になることもあります。ペットショップではかわいい動物だけでなく、飼育放棄された動物達がどんなことになるのかもきちんとわかるようにして販売してもらいたいと思っています。
 2ヶ月に渡って、動物がにがてな方もいたと思いますが時間をさいてお読み頂いてありがとうございました。次回はまた話題探しにがんばります。


定年退職の話 第3弾 その2                              

荒木正文(ルベックスペシャル)
熊本、フランスでは品質管理をメインに計9年勤めました。品質の仕事では不具合の原因究明と対策案の決定、出荷前製品であれば工場に引き戻したり、倉庫での改修。市場に出てしまったものはリコールの実施など、技術屋らしい仕事をしました。フランスの駐在は想定外でしたが、その前にインド駐在の話があったらしく突然2週間のインド出張を2回命じられました。インドに居た前任者の帰国が決まる前にフランスの工場に緊急で出張に行きましたが、帰国後すぐにフランスへの駐在が決まってしまったと言う経緯がありました。
 長い会社生活ではうまく行かない事や人間関係などでの悩みなども沢山ありましたが、振り返ってみると色々面白い経験を積むことができ、感謝の気持ちだけで職場を後にすることができました。
ギターを習い始めたのは別府に来て4、5年の時でした。
関東に居る頃は残業が多くて習い事をする心の余裕が無かったのですが、別府に来てから時間に余裕が出来てきたので何か習いたいと思っていた所、近くの公民館でギター教室があると言うことが分かり、思い切って扉をたたいたのでした。その後ルベックに誘っていただき、ギターの合奏も楽しませていただきました。ギターに接するようになったお陰でそれまで苦手だったクラシック音楽も好きになりました。
 さて、定年退職してひと月近くが経ちました。このひと月は熊本からの引越し、諸々の住所変更手続き、雇用保険の手続き、年金申請の方法調査など雑用が多く、ばたばたと過ごしました。
この間、会社から開放された気楽さは感じるものの、早くも心に隙間風のようなものが・・・。これからどのように生活していくのか本気で考えなくてはいけないと感じています。ちなみに会社での退職挨拶メールには次のように書きました。
『健康マラソン、ウォークイベント、サイクリング、山歩き、オートバイツーリング、ギター、国内外旅行などで遊び、新聞を隅から隅まで目を通し、小説を読み、ツタヤでDVDを借りて古い映画を見て、料理をし、
もしかしたら車椅子の人がレンタカーを運転するときなどに便利な携帯式手動運転装置の製造販売をするようなことを考えています。』
 

 音楽だより♪353 

沈黙の音楽 竹内幸一
秋はコンサートの季節です。今日は公民館の文化祭で、午前中に演奏がありました。これから、11月の終りの「魅惑のギターステージ」まで、いろいろと行事がありますので、何もない日曜日の午後にこの新聞に取り組んでいます。
ところで、私は、いつも寝る前にCDをかけて聴きます。音楽の道に進んだ子供たちが、その勉強時代に聴いていたCDがたくさん残っていますので、その中から適当に選んで聴いているのです。わけのわからない退屈なのもありますが、知らない世界がたくさんあり、金鉱の発掘調査をしている感じでもあります。
枕もとのコンポはJBLで、我が家にある音響機器の中では一番いい音がしていて、私は、とても気に入っています。そこで、たまに私にも分かるいいCDに出会えたときは、寝室に行くのが楽しみにもなります。
今回は、そのCD発掘の中で、特別に気に入ったものがあり、もうだいぶ長く聴いていますので、それを皆様に紹介させてください。なじみがないかもしれませんが、モンポウというスペインの作曲家の作品で、作曲家のモンポウ自身が1974年82歳のときに録音した4枚組みのCDです。
フェデリコ・モンポウは1893年、バルセロナに生まれました。リセウ音楽院でピアノを学び、15歳で初リサイタルを開くほどの天才でした。「内なる印象」や「郊外」などの作品で“ピアノの詩人”と国際的な評価を受けました。90歳ごろまで作曲を続け、1987年に94歳で亡くなっています。スペインのドビュッシーとも評されています。
彼はピアニストになりたかったそうですが、内気で極端な上がり症であったためにそれを断念し、作曲家としての道を歩みました。今回紹介するCDは、その内気な彼の思いが良く伝わってくる作品ばかりのような気がします。
たくさんの曲を残しているのですが、私は、それらをいろいろ全部聴いたわけではありませんので、ごく一部の感想になります。今、私が聴いているのは、「ささやかな音楽」、または「沈黙の音楽」として纏められている曲集です。
音楽を文で伝えることはとても出来ませんが・・いずれCDを一応聴いていただく前の予備知識として読んでいただければと思います。
この曲集のモンポウの曲は、とにかく短くて音が少なくて、とてもシンプルです。1分にならない曲もたくさんあります。3分を越える曲を見つけるのが難しいほどです。音も、1個のことが多く、重厚な和音などめったに出てきません。しかし、その音の並びが、魂に直接届くのです。得も言われぬ境地にさせてもらえます。
長大な曲を大音量で迫る、ベートーベンやワーグナーなどの世界からは、かけ離れた作品ばかりといえるでしょう。それぞれの魅力を対比させることで、よりいっそうモンポウの音楽も輝いてきます。
トルストイとかドストエフスキーなどの重厚な文学作品と、芭蕉や一茶などの「俳句」と言う対比が、適当な気がします。俳句は、たった17文字の内面の宇宙が、まっすぐに心の中に沁みてきます。それと同じなのです。
モンポウは60歳のときに、最愛の母親を亡くします。それに引き続き、大切な友人も喪ってしまいます。その後、これで以上に内面的な音楽を作曲するようになったそうです。《ひそやかな音楽》も、その時期に作曲された作品です。
旋律は、天使の歌声のように清らかに、静かに歌われます。非常に単純なリズムが繰り返され、和声が微妙に変化していき、その中に悲しみや苦しみがつまっているようです。安らぎを求めて彷徨う心の声のようにもきこえてきます。
モンポウは、土着民謡や東洋音楽に影響を受け、簡素な形式と近代的な和声とを巧みに組み合わせて,極めてナイーブで内省的な独自の語法を確立したと言われています。形式面ではエリック・サティ,和声法や旋法の面ではクロード・ドビュッシーの影響下に位置するそうです。
メロディーラインは、はかなさや優しさにあふれていて、外にひけらかさないで内向きです。そんなことでおよその雰囲気をつかんでいただけたでしょうか?どんな音楽だろう、聴いてみたいなあと思ってくださる方がいてくれたら嬉しいです。
内面の思いが、涙になり、吐息になります。切れ切れに響くいい音は、磨きぬかれた、潤いのあるギターの美音でもあるような気がします。静かに優しく、そっと語りかけるモンポウの世界に浸っていると、天国の花園に戯れているような気持ちになります。心を洗い清めてくれる、宗教音楽でもあるのかもしれません。  
是非あなたも一度、モンポウの世界に浸ってみてください。CDを貸し出しケースの中に、出しておきます。
<お知らせ>
サンシティー音楽院30周年記念
春の大音楽祭
2013年4月29日(月・祭日)
別府市中央公民館大ホール 
この日を目指して、どうぞご準備をお願いします。みんなで、盛大な記念の会を開きましょう。                                                                     

連載その3
携帯電話
中原あおい(サクソフォン科)

 早いもので今年もあと2ヶ月を切りました。この前まで暑い、暑いと言っていたのが嘘のようです。
子供の頃は1日があっという間に過ぎていきますが、1年はなかなかやって来ない…。反対に年を取る程に1日はなかなか過ぎませんが、気がつけば1年が過ぎていたと感じるそうです。みなさんはまだまだ、1日がすぐに過ぎていくお年頃ですか?
 秋の夜長はやはり音楽を聴いたり、自分で演奏したりしてゆっくり過すには良い時季かもしれません。ということで、今回は9月、10月に行ったコンサートや舞台について書く予定だったのですが、新聞に載っていたことが気になったので、そちらのほうを書きたいと思います。
 大分合同新聞10月19日の夕刊に携帯電話の弊害について書かれていました。みなさんもご覧になった方は多いと思います。
日本ではありませんが、仕事で携帯電話を長時間使っていた男性が頭部左側に良性の腫瘍ができ、手術をしたそうです。男性は2002年までの12年間に仕事で1日5〜6時間携帯電話やコードレス電話を使っていたそうです。
 判決は長年にわたる携帯電話の使用と脳腫瘍発症の因果関係を示した研究結果に基づいて「信頼性が高い」携帯電話の使用は腫瘍の「少なくとも原因のひとつ」としてイタリアの最高裁は携帯電話の長時間の使用が脳腫瘍の発症につながったと認めたそうです。
 これは、常に仕事として使っていた特殊なケースだと思いますので、私達が普段使う程度での心配はほとんどないと思います。それでも携帯電話が普及しはじめた頃、電磁波の心配がよく言われていました。中継局や電波塔を建てるとなると、その付近に住む人たちは大反対をしていた記憶があります。それが今ではほとんど聞くこともなくなりました。
そういう話題がなくなると、いつの間にか携帯電話やスマホは技術の進歩で安全になったのではないかと錯覚してしまいます。
しかし携帯電話の説明書には、「携帯を持ち運ぶときや、身体に密着して使う場合は1.5cm以上離す」と記載されているそうです。どんどん便利な機能が追加され、それにつれてかなり膨大になっている説明書を隅から隅まで目を通す人もいないと思います。でもそういうところから思わぬ落とし穴にはまってしまうのですね。
 また、ヨーロッパのほうでは各国共通して抵抗力の弱い16歳未満の子供には使用を禁止すべきとしているそうです。
 それから、みなさん夜に寝るときは携帯電話やスマホをどこに置いていますか?夜中でも仕事の電話が突然あったりという方がいらっしゃると思います。でも電磁波は頭部に吸収されやすいそうなのでなるべく離しているほうがよさそうです。
 電磁波の影響は距離の2乗に反比例して減っていくそうですので、過剰に反応することもないと思いますが、なるべく健康のためにも可能な範囲で離していたほうが良いようです。
 また、意外なことですが、携帯電話やスマホの液晶モニターからは極微量の紫外線が出ているそうです。あまりの長電話はシミの原因になるかも知れません。(ちょっと大げさでしょうか?)
せっかくエステに通っても思わぬところで、気がつかないうちに紫外線を浴びていることになります。肌のためにも長時間の会話は避けたほうがよさそうですね。女性の方はお化粧に日焼け止めが入っていたりするので、少しは安心かもしれませんが・・・。
 携帯電話やスマホの依存症という方も多くいると聞きますので、あまり便利な物に頼り過ぎず、健康的な日々を過したいと思います。

ギターと私 その1     
     
安部康二郎(ルベックムーン)

私がギターを手にしたのは、中学3年生の時だと思います。何処で手に入れたのか記憶にありませんが、隣の家に住む同級生に「荒城の月」を弾いて聞かせたことを思い出します。
 高校までギターを持っていましたが、昭和39年に高校を卒業し、関西、関東方面の建設現場で働いており、ギターを弾ける環境ではありませんでした。
 昭和42年8月に建設会社を退職して小平の測量専門学校へ入学し、そのときギターを買いました。その年に、10月から翌年の3月まで6ヶ月間NHKの教育テレビで、毎週土曜日午後7:30〜8:00までギター教室という番組があり、講師が京本輔矩先生でした。
 オープニングにその先生が弾く曲に魅力を感じ、上手になりたい一心で最初は頑張ってやっておりましたが、復習する一週間が早く、中々追いつくことが出来ず諦めました。
 昭和45年、46年の10月に二度チャレンジするも、アルペジオはある程度できたのですが挫折しました。
 昭和48年に大分に帰り、土地家屋調査士事務所を開業し、仕事がなく暇でしたので、麻雀をしてメンバーの中で負けた人が清算できず肩代わりに「ギターで勘弁して下さい」と言われ、やむなく了承してそのギターを弾いておりました。
 その後、事務所の仕事もバブルのブームに乗り、社員も5名になり大変忙しく、また、調査士会の役員を引き受け、ギターどころではありませんでした。
 還暦を迎えた頃、社員も減り仕事も一段落しましたので、ギターを弾いてみようと思い、麻雀で取り上げた30年前のギターを取り出してみたら、弦巻(ペグ)の箇所が壊れており、修理に持って行きました。
 修理する人が行政書士の若い先生で、「このギターを修理するのですか?」と言い、買った方が良いのでは…という顔をしていましたが、修理はしてくれました。先生は独学でギターを勉強し、ある程度教えることができると言われたので、習うことにしました。
 10ヶ月ぐらい通ったら「私が教えることはもうありません。安部さんだったらすぐアルハンブラの思い出を弾けますよ」と言われ、ギターの教本と先生が使っていたギターにケースを付けて私にくれました。多分、私のギターを見て見るに見かねたのでしょう。
 しかし、「アルハンブラの思い出」をそう簡単に弾けるほど甘くはなく、この状態ではだめだと思って楽器店でギターを買い、プロのギター教師を紹介してもらいました。
 11月からF先生の授業を受け、楽譜の読み方から音符と休符の長さ、キーボードによる六度のレッスンを3ヶ月ぐらいしました。
 しかし中々曲を弾かせてもらえず、先生との折り合いが悪かったのか、5ヶ月で辞めました。今考えると、私が音符と休符の長さが出来なかったので、できるまでやる心算りだったのでしょう。
 その後しばらく弾いていたのですが、巧くならず、ギター教室を電話帳で調べてみたらH先生があり、電話をかけました。
 まず見学してくださいとの返事で、1月の下旬に行き、ギターの練習方法を話され、もし良かったら2月から来てくださいと言われ、行くことにしました。 (次号に続く)


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