エスプレシボ8月号 338

さようなら?テレビ
                竹内幸一
 今日(7月24日)は、テレビのアナログ放送終了の日です。実は、これをネタに、この日曜日の午後を使って、今度の8月号の記事を埋めようとしていましたので、本日の12時をある意味で楽しみに待っていました。

 あと5日、あと3日と、邪魔くさい大きな文字が出てカウントダウンして、ようやく今日が来ました。正午ちょっと前に、長い間アナログ放送をご利用いただきましてと、挨拶がありました。

 そこまでは気分的に予定通りでした。しかし、よ〜し、いよいよ砂嵐かと見ていると、何のことはない、いつもと同じようにお昼のニュースが始まりました。あれ??と思って見ていると、夜中の12時に砂嵐になるようです。それならそうと、最初からそういえばいいのに・・・。

 なんだか騙されたようで、拍子抜けしてしまったのですが、気持ちを切り替えて、パソコンに向かっています。

 実はこれを機会に、「脱テレビ」をしようと、いつの頃からか気持ちが固まっていました。テレビのない暮らしが、どのようなものになるか、これから体験してみないと分かりません。やっぱりテレビがないと不便だと、麻薬が切れたように電器店に買いに行くかもしれません。しかし、もしかすると、意外に、やがて順応して新鮮な時間の過ごし方ができるかもしれません。それは、これからの時間の過ごし方の実験の結果を見なければ、何とも言えないところです。

 しかしながら、テレビとは、長い、長いお付き合いをしてきました。50年ほど前の中学生の頃、学校から帰るとき、家の屋根にテレビのアンテナが立っているのを、とても嬉しい気持ちで眺めたのを覚えています。それまでは、金持ちの医者の家に行き、ガキ連中が並んで相撲放送とかを見せてもらっていました。それが、てなもんや三度笠とかベン・ケーシー、ライフルマンなど、いろんな思い出に残る番組を、自宅で楽しむことができるようになったのです。それは、ある意味、ひとつの人生の革命でもありました。

 あれから50年、テレビによって、さまざまな情報をもらい、また膨大な楽しい時間を過ごすことができたと思います。一億総白痴化ともいわれ、テレビの功罪などもあったでしょうが、それを通り越して、テレビは人々の暮らしそのものになって行きました。

 私は、20歳過ぎに、ようやく入院暮らしを終え、日給600円の仕事ができるようになりました。その頃、3畳一間に下宿していた部屋に、給料を貯めて買った小さなテレビを置いたときの感動を忘れることができません。

 赤い外枠の室内アンテナのテレビでした。当時の私の日々は、青春彷徨時代でしたので、あちこち何度も引越しをしました。そのたびに、このテレビを抱えて新しい夢を求めて動きまわったものです。

 還暦から2,3年過ぎたころ、たまたまアナログ放送終了という、大転換の時期に遭遇しました。親戚の家などで、新しいデジタルテレビを見ていると、画像がとても鮮明で、なるほど新しいテレビの時代が始まったんだなと感じさせられています。

 しかし、最近、私の残りの人生は、あと何年ぐらいなのだろうと、時折思います。いろいろ、人に言えない持病を抱えて、塀の上をよたよた歩いています。いつ病人の中に転げ落ちてもおかしくないと思いながら、毎日を送っています。

 若い頃、何度か死んだ身ですので、古代稀なる年齢、古希まで行ければ上出来ではないかとも思っています。ま、先に行けば行くほど欲を出すのが、人間の常でしょうが。

 それまで、あと7,8年。最晩年をテレビのない日々でもいいのではないかと、なんとなく思い続けて、とうとう今日までテレビを買わずに来ました。

 デジタル移行の大転換が、私の暮らしの新しいスタートを決意させてくれました。これまで通りにテレビがあればあったで、それなりに興味深い番組にも出会えることでしょう。

 それが、なければないで、何とか新しい時間の過ごし方が見つかるのか、見つからないのか、これからのお楽しみです。

 長く生きていると、いろんな意味で身の回りがマンネリになって来ます。ある意味、その変化のないのは幸せなことでもありますが、このチャンスに、少し新鮮な時間を作り出せないかなと思っています。

 読書の時間を多くする。新聞を熱心に読む。趣味で買いためていて見ていない、オペラ等のDVDに目を通す。気が向けばレンタルビデオで借りて、いろんな映画を見る。俳句の感動体験のために、あちこちへの吟行時間を増やす。最近遠ざかっている詩や小説の創作にも取り組めれば…etc

 この公約?が果たしていつまで続くでしょうか。最近は、国のマニフェストでさえ、後で変更可能です。「ああ言ってたけど、ついにテレビを買ったらしいよ」という、おかしな噂が流れたときは、頼りない国の政策にならっているんだから仕方がないと、どうぞご容赦ください(笑)

連載その1
 これも何かのご縁・・・
       高橋由紀子(声楽&ピアノ科)

 今月より1年間連載を担当いたします声楽
科ピアノ科の高橋由紀子です。たいした文才
もネタもないので、いかがなものかとご辞退
申し上げたかったのですが、院長先生より、
「これも何かのご縁と思って・・・」と言わ
れ、しぶしぶ・・・いえ、有難くお受けした
次第です。とまあ、お受けはしたものの何を
書くべきかぼんやり考えていた時に音楽院に
お世話になってどれくらい経つか、指折り数
えてみました。なんと今回初めて気が付いた
のですが、来年の4月で20年でした。この
連載中に20年目を迎えるということです。
まさしく、院長先生がおっしゃっていた何か
のご縁・・・。
 音楽院にお世話になるきっかけは、親友が
結婚を機にしばらく講師の仕事をお休みする
という時と、私が5年間勤めていた職場を退
職するというタイミングがいっしょだったと
いうことでした。今思うと、これもご縁だっ
たのでしょう。そのまま、居心地のよいこの
空間で、たくさんの生徒さんたちと出会い、
大好きな音楽の仕事を続けてきました。
 その後、音楽院とは別にもうひとつの仕事
を持つようになり、以来、ずっと二束のわら
じで過ごしています。職場も履歴書に書きき
れないくらい変わったのですが、職選びの際
にも、いろいろと不思議なご縁を感じます。
仕事はもちろん、そこでの人との出会いもそ
うです。
 以前、同僚の先生が生徒たちに言った「こ
の果てしない宇宙の中の地球という星の、日
本という国に生まれ、大分の別府というこの
土地のこの学校のこのクラスで、君たちと出
会うのは奇跡みたいなものだ、だからこの出
会いを大切にしよう」という言葉を聞いて感
動したことを覚えています。
 たくさん職場も変わりましたが、そこで出
会った人たちは、多分私の人間形成にも深く
かかわっていると思います。圧倒的にいい出
会いが多いのですが、もちろんそれだけでは
ありません。しかし、それはそれで、これも
魂の修行?と思いつつ過ごしてきました。
 職場で過ごした時間を振り返ってみると、
音楽院の19年4ケ月(現在進行中)がダン
トツで、その次が、5年9か月、5年、2年
9か月(現在進行中)・・・と続いていきま
す。これだけ同じ空間で同じ仕事を続けてこ
られたのも、ひとえに院長先生や奥様のおか
げで、改めていいご縁だったと感謝の気持ち
でいっぱいになります。
 ただ、20年目を迎えるにしては、あまり
成長のない私は反省だらけです。
 時間は何もしなくても経過します。続ける
ことは決して簡単なことではありません。し
かし長く続けたからといっても単にあぐらを
かいてしまっている状態では、ただの時間の
無駄遣いでしかありません。
 なでしこJapanの澤選手も日本代表になっ
て18年とか。同じくらいの時間を過ごして
いる訳で、18年間日本代表を続けていると
いうのも驚きですが、続けているだけではな
く、エースとして活躍し、世界一になるとは、
まさしく運や才能だけではない、努力の人な
んだと思います。多分、今回の連載の話も、
20年目を迎える私にもっともっと努力しな
ければいけないという戒めもあったのかもし
れません。澤選手やイチロー選手など世界で
活躍している人を目の当たりにすると、自分
の甘さが情けなくなってしまいます。
 音楽の仕事も、もう一つの仕事も自分の好
きなことをやらせていただいていること、ど
こも異常はなく健康です!とまではいきませ
んが日々健やかに過ごせていること、自分を
生かしてくれているすべてのものに感謝し、
努力を怠らず、これからの時間を大切にして
いきたいと思います。このように思えたのも
この連載のおかげです。多分、この一年間の
連載が自分を見つめなおすいいきっかけにな
ると思っています。
 一年間どうぞよろしくお願いいたします。


一少年の戦争                      
青谷 徳彦 (中部公民館)

 今年もまた8月が来ました。私にとっては忘れることができない8月です。
 1938年8月にソビエト、満州、朝鮮の国境で、ソビエト軍と日本軍との紛争「張鼓峰事件」が勃発しました。その当時私たち家族は戦場から数10キロの北朝鮮羅津に居住していました。その日は朝から砲声がひっきりなしに轟いていました。
 私の父は満州鉄道の職員で、軍用列車の輸送指揮任務の日で、家を出るときに母が、「今日は砲声がひどいから千人針をつけて下さい」とすすめました。しかし、父は、「大丈夫だ。弾のほうが逃げてゆくよ」と答えて玄関を出ましたが、母の心配を気にしたのでしょう、引き返して千人針をつけて出勤しました。父は、輸送指揮中に、ソ連軍の砲撃を受けて、供儀駅のプラットホームで戦死しました。
 遺体は、羅津病院に運ばれていました。遺体は包帯で巻かれ、顔色は少し青かったのですが、いつもの優しい表情でした。すぐ横には、父の血で真紅に染まった国民服が安置されていました。
 私は、小学校3年生で、下に妹と弟二人がいました。子供を育てる母の苦労は大変でした。戦中戦後の食料も乏しい時代に、頑張った母でした。
 父の戦死は、戦争のむごさを知った最初の体験でした。父の死により、母方の熊本に帰りました。小学校の6年生の12月8日(1941年)米英軍との開戦をラジオ放送で聞き、「米英が何だ。ヤッツケテしまえ」と・・・私も軍国少年でした。
 毎日、勝利の戦況をラジオで聞き意気軒昂な小国民でした。1944年サイパン、テニアンなど次々と守備隊が玉砕「全滅」し、戦況は悪化してゆきました。
 青年達は軍隊に徴集され、私たち中学3年生(旧制)は、学徒動員令に依り熊本の三菱工場に動員され、「飛龍」戦闘爆撃機の生産に働かされました。
 勉学を捨て、鉛筆をハンマーにかえて国家の至上命令で働きました。朝出、午後出、夜勤と三交替です。学徒も一般工員とともに、睡魔、疲労、空腹に耐えながら、15歳の少年達は頑張りました。
 その間には、監督将校が巡回します。睡魔、疲労でサボっていたら、殴られる恐怖でおびえた日々もありました。その間には、昼夜を問わず空襲があり、防空壕に逃げ込むこともしばしばでした。そうした中で、心も荒んで他校生との暴力乱闘などもありました。
 戦況もますます悪化、1945年4月には米軍が沖縄に上陸、地上戦になり悲惨だったことは伝え聞きました。その頃から米軍の戦爆連合の空襲が連日始まり、B29による爆撃、グラマン戦闘機の機銃掃射が繰り返されました。
 急降下したグラマンが、私たちに向かって機銃掃射をしてきたこともありました。米兵のかおもはっきり見え、笑いながらの掃射です。運よくレンガ塀に隠れて難を逃れましたが、塀には弾痕が2ヶ所あり、震えが止まらなかったことなどを覚えています。
 1945年8月15日、終戦(敗戦)をラジオ放送で聞き、負けた虚しさ悔しさと、反面これで戦争が終わったというホッとした複雑な気持ちが交差していました。
 1946年に平和憲法が制定され、九条に戦争の放棄を掲げた新憲法ができたことを心から嬉しく思いました。それに感動し、平和憲法を永遠に守ってゆく一人でありたいと思いました。
 「一少年の戦争」は、67,8年前のことで、資料も持ち合わせず想い出し、思い出しで書きました。
 次々にあんなこと、こんな怖ろしかったこと、悲しかったことなど出てきますが、自分の歴史として、またいずれ纏めてみたいと思っています。

エスプレシボ ♪339 

円満の秘訣
           竹内幸一
 厳しい暑さの続いている8月の終わりです。皆様、夏バテしていませんか?残暑お見舞い申し上げます。さわやかな秋風が待たれますね。

 さて、今月は、「円満の秘訣」というタイトルです。なかなか、そうは言ってもなあ…という内容ですが、頭の片隅にちょっとだけそういうこともあるかと、ピンで止めておいてくれたら嬉しいです。

 もう20年近くギターに通ってきてくれているFさんという方がいます。申し訳ないけど、今回は、Fさんの口癖(金言)を材料に使わせていただくことにしました。最初突き落として、後でその何倍も持ち上げますので、モデルになってもらうのをどうぞご容赦ください。

 Fさんとの30分のレッスン時間の間には、いつも5分ほど休憩がはいります。話が盛り上がると、朝鮮に衛生兵で行っていたことや写真屋で儲けた話など、もう覚えてしまうほど聞かせてもらっています。それはともかく、その会話の中で、Fさんが頻繁に使う口癖のような小文がありますので、まずそれをご紹介しましょう。

 「どーーでもいい」、「知っとるけど、な〜んも言わんのじゃ」、「なんでも裏がある」…と言った、耳にたこが出来るほどの、Fさん語録を毎週拝聴しています。

 私は、当初、その弱気で退廃的なFさん語録が不愉快でなりませんでした。世をすねた感じの、負け犬?のような敗北の言葉ばかりに聞こえました。「どうでもいい」の「ど」に凄い力をこめる言いかたには、思い通りにならないことへの怨念のようなものを感じました。

 「な〜〜んも言わんのじゃ」と言う裏には、今までいろいろ意見をして、それが無視され続けてきた歴史がたぶんあるんでしょう。ひとこと言えば、その何倍もの言葉で否定されて、黙り込んでしまった体験から、「な〜〜んも言わんのじゃ」にたどり着いたのではないかと思います。

 「何でも裏がある」には、自分がこうと信じてきたことが、ときおり、ひっくり返されて、自信喪失した体験が多かったのかもしれません。

 しかし、5年、10年と毎週Fさんと話しているうちに、次第に私の中の、何かが溶けていくのを感じました。それは、いわゆる若さを失って行きつつあるのか、酸いも甘いも噛み分ける大人?になりつつあるのか良くわからないのですが、最近になって、Fさん語録に感動するようにさえなってしまったのです。
 「どうでもよくない」と自分が思えば、いろいろと家庭の中などで、意見を言わざるを得ません。それが通らないと、きりきりと歯噛みして、何度も言っては、諍いの元になります。

 自分が正しいとは信じているのですが、それが相手に伝わるかどうかは、別の次元の問題です。10年、20年と共に暮らしていて、「どうでもよくない」と青筋立てて怒鳴っても、私の場合、残っているのは、「人を変えていくのは難しい、いや、人を変えるということは、出来ないんだ」という思いばかりでした。

 (これは、ごく個人的なことですので、多くのご家庭や、職場の人間関係では、建設的な会話が出来て、理解を深め合っていることと思います)

 お互い年金をもらうようになった私ども夫婦には、いささか手遅れの感もあります。これまで、どれだけ「どうでもよくない」と言い合ってきたことでしょうか。しかしながら、まだまだ、暮らしは続きます。

 「どうでもいい」は、相手を認める前向きの言葉にもなり得ると思います。「どうでもよくない」の背景には、相手を認めない傲慢な自分があります。現実の姿を肯定し、それを丸ごと受け入れようとする、豊かな心の裏返しが「どうでもいい」だと思うのです。笑顔で相手を認め、尊重していくところからしか、よりよい変化の兆しは生まれてこないのではないでしょうか。

 それは、30数年夫婦として一緒に暮らしてきてたどり着いた、私のひとつの結論でもあります。(いつもそう、うまくいくわけではありませんが・・・現実の人生は多事多難、多種多様の応用問題ばかりですね)

 「な〜んも言わんようにする」のは、かなり難しいことです。言ってどうにもならないことを積み重ねて後に、悟りを開くしかないんでしょう。

 「何でも裏がある」と言うことは、現実を見る自分の甘さの問題でしょう。どのような現実に出会ってもうろたえない、幅広い受け止め方が出来ればと思います。

 「どうでもいい」、「何にも裏がある」…それは、どういう現実がやってこようとも、何事にも動じない高僧の悟りの言葉とも言えるかもしれません。悟りへの道のりは険しいですが・・・。

 
連載その2
今年の夏をつらつらと・・・
       高橋由紀子(声楽&ピアノ科)

『優しい夏』
今年はいつも以上に節電ということで、職場
の室内温度は28度より低くならないようにきっちりと管理され、スーパークールビズの呼び名と共に男性は綿パン、ポロシャツ、アロハまで、今までには見られなかった服装も見られるようになりました。今までのように寒くて震えることもなく、身体も28度に慣れたせいか車のエアコンも前年比2度アップでも十分快適で、自分の部屋のエアコンも一度もつけずに扇風機だけで夏を終えそうです。
身体にもお財布にも優しい夏になりました。

『とほほな出来事』
7月に健康診断で胃の要検査を言われ、病院
に行きました。その結果、小さなポリープが
2つと潰瘍になりかけの赤い炎症が1つとピ
ロリ菌が見つかりました。特に胃がもたれる
などの自覚症状はなかったのですが、慢性胃
炎、胃潰瘍、胃がんなどの原因にもなるとい
うことで、ピロリ菌の除菌をすることになり
ました。名前はピロリとかわいいのですが、
胃酸の中に生きる強者です。日本では2人に
1人がピロリ菌感染者、40歳以上になると
約70%が感染しているとされているようで
す。ただその強者をやっつける薬の副作用も
かなりきつく、1週間だけの飲用ということ
でどうにか我慢して飲み終わったのですが、
ホッとしたのも束の間、人生初の薬疹を発症
してしまいました。強い薬とは聞いていまし
たが本当にびっくりしました。それで今度は
薬疹を抑える薬を飲むこととなり・・・
先生「これも強い薬なので、あまり長くは飲
まれないので、一応4日分薬出しときますね」
私「先生、その薬って胃には・・・」
先生「よくないですねぇ」
私「・・・」
胃腸科に来て胃に悪い薬を飲まされる羽目に
なるとは…。次回ピロリ菌の検査で除菌され
ている事をただただ願うばかりです。

『お墓参り』
母方の実家が宮崎県の高千穂町の隣、日之影
町というところにあります。祖父母は、母が
10代の頃に亡くなっており、すでに実家の
跡地しか残っていませんが、お墓は近くに住
む母のいとこが守ってくれています。昔は谷
底からうねうねと曲がった細い道を山の上ま
で登っていたものですが、今は青雲橋という
橋面から水面までの高さ137mという見下
ろせば目がくらみそうな、でも渡っている時
は橋とは思えないほど立派な橋が出来、通う
のがとても楽になりました。墓石には祖父母
の名前の他に戦時中に亡くなった叔父、叔母
の名前も刻まれています。母曰く、優しい両
親と美しいお兄さんとお姉さんだったそうで
す。タイムスリップできるものなら、ご先祖
様がどのような人たちで、どのように暮らし
ていたか見てみたくなります。一年に一度は
ご先祖様を思い浮かべるのもいいものです。

ということで、今年の夏もいつもと変わりな
く(まあピロリ菌騒動はありましたが)過ご
せたことに感謝します。次は実りの秋ですね!

父娘ギターのはじまり          
             石井まこと(ギター)
 現在、NHK大河ドラマ「江(ごう)」で主人公として活躍している上野樹里さんはご存じだと思いますが、彼女の最初の主演映画「スウィング・ガールズ」(2004年9月公開)はご存じでしょうか。この映画が、サンシティー音楽院の竹内ギター教室へ父娘が通うきっかけでした。
 最初にこの映画を見たのは海外へ行く飛行機の中でした。狭い座席ですが誰からも邪魔されずに、アルコール片手に本を読んだり、映画をみたり、エコノミー症候群にだけ気をつければ、私にとっては、至福の空間に包まれる特別指定席。ここで提供される映画を見溜めしようと片っ端から見ていくのですが、その時ひっかかったのが、この映画でした。竹中直人さんや故谷啓さんの円熟した演技者のなかで、ほとんどがオーディションで選ばれた若者たち。タレント陣も上野樹里さんはじめほとんどが楽器演奏経験ゼロのなかでのクランクイン。自分ができなければ映画が完成しない緊張感と徐々に音楽になっていく達成感がひしひしと伝わり、まさにこの一瞬でしか制作できない映画だったのでしょう。 この役者たちが最後はビッグバンドのスタンダードナンバーをほぼ完璧にこなすだけでなく、山形の方言・置賜(おきたま)弁を駆使し、映画のキャッチコピーにもなった「ジャズやるべ」の台詞もさまになり、映画の宣伝がてらの全国公演やニューヨークでの海外公演もこなしていくわけで、役者の成長には驚かされます。
 巷に演歌や歌謡曲が溢れていた1970年代、私は漫画「トムとジェリー」のバックミュージック=デキシージャズ系の音楽にどっぷり浸かっていました。そのせいで、ジャズ音楽と舞台進行がかみ合い、コミカルかつドラマッティックに進行する「スウィング・ガールズ」にはまったのかもしれません。クラッシックの音楽教室なので恐縮ですが、同映画でかかるルイ・プリマの「シング・シング・シング」やトムとジェリー「恋ははかなく」(終戦直後1946年作!)でかかるルイ・ジョーダンの「Is You Is or Is You Ain't My Baby?」は聞いただけで体が勝手に動き出します。余談ですが、娘も勝手に体が動くみたいで、大袈裟ですが遺伝子の凄さを実感します。
 さて、この映画「スウィング・ガールズ」にサントラCDがあることを知り、即購入。いつも車内でよくかけていました。これを聞いていた娘たちも映画を見たいということになり、次にDVDを購入、自宅で上映。予想通り大受けで、DVDが壊れるほど何度も何度も見てしまう始末です。この時に色々な楽器が登場したのですが、当時小学1年生の上の娘はギターを弾いてみたいと言いだし、教室を探してみようということになりました。私としては、サックスやピアノを選ぶのかと思いきや、ギターが弾きたいと言って譲りません。なぜそうなのかは未だに謎ですが、一番カッコ良くみえたようです。
 そんな時、下の娘の保育園送迎時に道すがら目にしていたサンシティー音楽院に「ギター」と書いてあることに気づき、早速電話。院長が直々に応対して頂き、娘の意志を再確認した上で、レッスンを受けることになりました。送迎と付添いくらいはと仕事をやりくりすることにしたのですが、「お父さんもどうぞ」の竹内先生の言葉で、私も娘の伴奏者の訓練を受けるという予期せぬ展開に。昔、下宿街の中古品店で四半世紀も前に買い、埃をかぶっていたフォークギターを押し入れから引っ張り出し持参。娘はギターをやりたいと聞いた祖父の粋な計らいで手に入れたギターでレッスンを開始することになりました。
 入門してかれこれ1年半以上が経過しました。2人の上達は遅く、竹内先生にはご迷惑をおかけしているのですが、先生の「いいですねー」「できるようになってきましたね」との加点主義の指導方法のおかげで娘ともども、息長く楽しく続けることができています。月2回あわせて1時間のレッスンですが、ギターに集中する時間は日々の喧噪を忘れさせ、音楽に集中し娘と過ごす癒しの時間、幸せに過ごしております。

 

エスプレシボ♪340 

白ばらの匂う夕べは 
                竹内幸一
 台風が過ぎた後、素晴らしい秋晴れの日が続いています。朝晩は少し寒いですが、今頃は一番過ごしやすい時期ですね。食欲の進む時期でもありますので、皆さんよく食べて、やがてやってくる寒さに耐えられる体作りをしましょう。

 さて今月は、ひとつの歌から、50年程前のことを懐かしく思い出しましたので書いてみることにします。どうぞお付き合いください。

 毎月第3水曜日の午前10時半から、光の園のホールを使わせていただき、歌声サークル「野ばらの会」が開かれています。ハーモニアス別府で立ち上げた行事ですが、今月で77回目(6年と5ヶ月)になります。

 その会では、皆さんのリクエストでいろんな曲を歌っていますが、9月に歌った曲の中に、「白ばらの匂う夕べは」と言う曲がありました。これを歌いながら、丁度私が50年前の、坊主頭の少年の頃を懐かしく思い出したのです。

 13歳で中学生になり、制服やかばんなどぴかぴかの初々しい私たちを迎えてくれたのは、その年大学を卒業したばかりの若々しい女の先生でした。国語と音楽を担当するU先生が、最初の出会いのときに名前を書いてくれた黒板の文字が、今も目に浮かびます。

 その先生が張り切ってコーラス部を創設することになりました。それに「竹内君も入ろうよ」とU先生が誘うのです。今では違うかもしれませんが、当時は、コーラスなどは女のやることと決まっていたので、断っていました。しかし熱心に勧めてくれて、とうとう、仲のいい男友達と二人で入りました。20人か30人のコーラスの真ん中に、男が二人と言う妙な組み合わせでした。練習を積んで、バスに乗って、中学校のコーラスの大会に行った事もありました。

 そのコーラス部の活動の中で、「白ばらの匂うゆうべは」を歌ったのです。緑色の小さな手帳みたいな歌集に載っていました。たぶん、ほかにも沢山歌ったと思うのですが、なぜかその歌だけが思い出されます。

 しばらくしてからだと思いますが、音楽のテストで珍しく100点をとったことがありました。音符の長さや表情記号の名前などの、楽典のテストでした。めったにないことなので、その大きな100と言う文字が鮮明に思い出されます。

 ついでに同じようなことを付け加えますと、小学校の4年生のときに、先生から作文をほめてもらったことがありました。このあたりがいいところと、文字の横の一字一字に赤丸が付いていました。そこをスタートで、文を書くことや本を読むことが好きになり、これまでの私の暮らしの中にそれがいい趣味として、脈々と生き続けている気がします。

 例外?もあります。なぜかよく覚えているのですが、船の絵を描いて、花丸をもらったことがありました。たぶん、たった一度のことでよく覚えているのだと思いますが、これはそのとき限りのことで、絵のほうは花開く才能を全く持ち合わせていなかったようです。(笑)しかし、黒色を沢山使った大きな船の絵は、画用紙からはみ出しそうでした。

 小学校、中学校の間には、膨大な体験をしながら過ごしてきているはずです。しかし、50年過ぎた今、100点のことや、文や絵の赤ペンの丸のことだけは、忘れずにいるのです。そこに、教育と言うものの原点があるような気がしてなりません。時折、ギターの生徒さんも、「ほめられると嬉しい」と率直に言ってくれる方がいます。大切なことですね。

 ♪白ばらの匂う夕べは、月も夢見る♪
本当に夢のような一年ではなかったかと思います。小学校の頃は、音符が読めなくて、先生から読めと当てられるのが恐怖でした。しかし、U先生に受け持たれて、なぜか読めるようになりました。音楽の仕組みも少し分かるようになりました。先生への淡い思いが、努力に結びついたのかもしれません。

 しかし、♪月も夢見る♪時間は、ほんの短い間でした。3月に、父が38歳で亡くなりました。U先生も自宅での葬儀に来てくれました。春には、私が腎臓結核になりました。半年ほど入院をして手術をしました。学校も留年してしまいました。

 それから学校は休みがちで、その後入学した高校も卒業できないままでした。手術のあとの後遺症のような尿道狭窄や腎機能の低下で、2年余りも入院せざるを得なくなりました。病院で成人式を迎えました。

 その頃の機能障害は、50年たった今も残っていて、私の暮らしに影響を与えています。いろんな障害を持ちながら暮らしていくのは、楽とは言えませんでしたが、私の日々には、いつも音楽が身近にがありました。そして文学の香りもありました。大げさなようですが、あの頃のお陰で、ここまで何とか生きてくることが出来たような気もするほどです。

 「白ばらの匂う夕べは」や、たった一枚の100点は、私の生きていく日々の支えだったのかもしれません。その音楽を基点として、ギターと言うものに結びつき、今の私があります。ありがたい限りです。
 
連載その3
 秋の始まりは…宇宙
       高橋由紀子(声楽&ピアノ科)

 秋ですね。昼間はまだ日射しが強かったり、最後の蝉が鳴いたりしていますが、夕方になるとぐっと秋色にかわり、赤とんぼが乱舞したり虫の音が響き渡ったり、ちょっと肌寒いこの季節が大好きです。今年の中秋の名月はちょうど満月で惚れ惚れするくらいきれいでした。日光浴ならぬ月光浴で全身が浄化されるような気がしました。出来れば一晩中月と向き合っていたかったのですが、それは無理なので、窓を開け、布団の中から眺められるぎりぎりのところまで身体を伸ばし、月を眺めながら休みました。
 美しい月を見た後、たまたまだったのですが、NHKの番組で『宇宙の渚』というのを見ました。海と陸の境を渚というように、地球と宇宙の境をそれに例え、そこでの出来事をNHKとJAXA(宇宙航空研究開発機構)が共同で開発した超高感度カメラを国際宇宙ステーションに持ち込みそのカメラで撮影した映像をLIVE(生中継)で届けるという番組でした。
 まずは、映像の美しさに感動し、初めて見る映像に感動し、生中継に感動しっぱなしでした。宇宙から見た地球、オーロラ、流星、雷、スプライト(雷雲の上層で発生する発光現象)、日の出、日の入り、街の明かりなど、とても鮮明に見ることが出来ました。
 その中で印象深かったのが、地球をやさしく包み込むような大気圏とその周りを包む薄いベールのような大気光でした。地球は守られているんだなあという印象を受けました。
 地球には宇宙からいろいろなものが降り注いでいるそうで、例えば、流星。1cmから1mmぐらいのものが秒速10kmから70kmぐらいで大気圏に衝突するので大きく燃えて光って見えるらしいのですが、肉眼で見えないものを含めると、1日2兆個100トンもの流星(ちり?)が地球に降り注いでいるそうです。大気圏で燃え尽きなかったらどれだけ地球は重たくなっていたのでしょう。
 また、オゾン層を破壊する『真珠母雲』や100年ほど前から見られるようになった通常の雲よりも10倍ほど高い位置に出来る『夜光雲』も紹介されていました。どちらも一見とてもきれいなのですが、オゾン層を破壊する雲だったり、二酸化炭素が原因で出来たりする雲なので、きれいだけど出現は脅威なので複雑です。
 それから、各地の夜景が印象に残りました。大都市の明るさ、小さい街の明るさ、海岸線沿いの明るさ、大分別府の明かりもよく見えました。九州の上にはたくさんのイカ釣り漁船の明かりが見え、その先の隣国も別府湾から見る四国ぐらい近い?と思えるぐらい近くに見えました。番組の間にメキシコ付近の亜熱帯やサハラ砂漠、中東などもLIVEで次々と映し出されていきましたが、こうして見ると、宇宙から見る地球はとても小さく感じました。そして、この一つの星の中にいろいろな国や人種や言葉や風習があるのがとても不思議な感じがしました。地球で起きているいろいろな問題も宇宙から見ればとても些細な出来事なのかもしれません。
 LIVEで、それも宇宙飛行士の目で見るような鮮明さで地球を見られたことに感動しながらも同時にいろいろと考えさせられることもありました。他国の有事の際、遠い国の出来事と感じていましたが、宇宙から見ると一国の大気汚染も汚染された排水も原発事故の放射能もすべて地球の汚染になるんだなとか、研究でオゾン層の破壊も地球の温暖化も分かっているのに修正できないようであれば人間はホントに愚かだなとか、地球が破滅しても広い宇宙では小さな惑星が一つ流星のごとく消えるだけなのかなとか・・・。
 とまあ、いろいろと考えさせられる番組でもありましたが、今までになく地球を愛おしく感じるようにもなりました。そして大切にしないといけないと感じました。
 いつまでも地球が健康でありますように!いつまでも美しい月や星空が見られますように!と願った秋の始まりでした。


 【特集】私の面白失敗談
◎某地方裁判所のエレベーターに数人で乗り合わせ、前の方が降りるとき、気を利かせて(開)のボタンを押したら、ドアがいきなり閉まって人(弁護士)が挟まれた。
(もちろん、安全装置があるので大事にはなりませんでしたが)よく見たら(開)じゃなくて(閉)のボタンだった。ごめんなさい。某先生。


◎電話で外線に架けたつもりが内線で、おもいっきり敬語で話して、総務の女子に失笑された。

◎午後2時いつものようにグループ練習が始まって40分経過した頃、突然私は意識を失い、ギターを抱えたまま、前のめりにいすから転げ落ちました。と思ったが、すんでのところで、転げ落ちはなかったのですが、一瞬意識はなくなつたのは本当です。今までに3回こんなことを経験しました。いつかほんとの転落が起こるかもしれませんので、同じグループの皆さんは覚悟しておいてください。どのグループか? とお尋ねですか。午後2時から練習するグループといえば、グループの人はだいたいお分かりと思います。
 私に別に持病があるわけではありませんし、命に係わることは絶対ありませんので心配しないでください。しかしギターがどうなるかそれが心配です。命についで大事なギターです。原因は医者にかかってはいないですが、はっきりしています。「睡魔」シンドロームです。我が家では午後2時は昼寝の時間です。こんなわけですから、演奏の途中私が転げ落ちても、気にせずに演奏は最後まで続けてください。お願いですから。

◎オストメイト
オストメイトを知っていますか。
直腸ガンなどで人工肛門を装着している人が、パウチを腰に装着していて、そのパウチを洗浄するための、汚物流し(衛生陶器)をオストメイトと言います。
汚物を流す事が出来、温水シャワーが付属しているので、器具を洗浄出来ます。
最新の多目的トイレには、必ずオストメイトがあります。デパートに買い物に行った時に、トイレに行きたかったので、館内地図を見ながらトレイを捜していました。
妻・・・オススメトイレがあるよ。
亭主・・それは、オススメトイレやねえで、 オストメイトと読むんや。
妻・・・オスとメスとてなんな。
亭主・・雄と雌とやなくて、オストメイト。(最初の下りを説明。)
妻・・・そんなん、誰も知らんわ。

◎とある吹奏楽のコンサートで、自分の楽譜を全部忘れてゲネプロにのぞんだ。
前日の練習会場に楽譜ファイルを忘れて帰り、
翌日のゲネプロ直前まで忘れたことに気がつかなかった。同じパートが2人いたので、ゲネプロは見せてもらい、本番直前、コンビニにコピーに走りました!それから、演奏会のときは、かならず、他の団員から「楽譜は大丈夫?」とマジで聞かれるようになりました。



 

♪341 
エスプレシボ  11月号
天命とは?                竹内幸一
 10月の終わりになって、急に気温が下がってきました。これまで毛布一枚で気持ちよく眠っていたのですが、そろそろ布団が要る時期のようです。気候の変わり目ですので、皆様、どうぞ風邪など引かないように気をつけてください。

 さて今月は、「孔子(井上靖著・新潮社)」を最近読みましたので、その一部について書かせてください。この本の内容は、孔子が亡くなって30数年過ぎた後、孔子と一緒に旅をした雑用係のような人物の語りで作られています。弟子として名高い人々が亡くなった後、孔子と共に旅をして直接知っている唯一の人として、孔子研究者の集まりが開かれ、その人物の話を聞くと言う内容です。

 その中で、「天命」についてかなりの量の記述があり、何度も出て来ます。たぶん、作者の井上靖も、このことを特に言いたかったのではないかと思います。ご存知の方も多いと思いますが、孔子の言葉として「50歳にして天命を知る」というのがあります。この真の内容を知って愕然としましたので、今回は、これを取り上げました。

 私もそう思っていたのですが、普通「天命を知る」と言えば、「自分のやるべき仕事が、天から受けた大きな使命だと悟る」と言う受け止めかたではないでしょうか。孔子の考えを、自信を持って押し進め広めていくことが「天命」のすべてと思っていたのです。

 この本の語りの人物は、「子のお口から出たお言葉の中で、天命とは、私には一番難しく、一番怖ろしく感じられるお言葉であります」と書いています。そして、天命の前に、「天」とは何かが詳しく語られます。いかに正しく立派なことをしていても、翌日の生命の保証すらありません。いかなる思いがけない苦難が立ちふさがってくるか分かりません。吉凶禍福の到来は正しいことをしようとしまいと、そうしたこととは無関係なのが、天なのです。

 その一例として、難民のお世話をした人のことが述べられています。ほとんどの人が帰り、一番やさしくて熱心な3人だけが残って、最後の後片付けまでやり終えて、家を出ます。そのとき、たまたま、雷が落ちてその3人だけが死んでしまいます。

 幼児の列にクレーン車が突っ込んで、何人もの幼い命が奪われます。あるいは津波で、どれだけ立派な行いをした方が、亡くなってしまったでしょうか。勿論、努力が報われて因果応報を感じるような例もあります。しかし、これが天のなさることかと、信じられないようなことも身の回りに沢山あります。

 そういう大きな天の摂理の中に自分を投げ込み、成敗は天に任せ、その中で信じた道を歩く。

 それを、50歳にして孔子は悟ったというのです。
 この乱れに乱れた世の中を少しでも良くしていこうとする天からの使命がある。しかしながら、必ずしもそれを天が守ってくださるとは考えない。いつ思わぬ障害が起こるかもしれないし、いつ倒れるか分からない。しかし、思いがけないどんな障害がたとえやってきても、己が天から与えられている使命にたいしていささかも努力を惜しまない。

 それが「天命」だというのです。この本の語り手が言うように、この言葉の怖さ、また難しさには、計り知れない深遠があります。

 語り手はまた「これほどの醒めた思想家は、子以前には居なかった。この未曾有の騒乱時代に人間醒めて生きていく以外にない。そうでなければ、みんな狂うほかない」とも言っています。

 そんな折、人生を変えた絵画との出会いを書いた、姜 尚中氏の文を読みました。姜氏は、日曜美術館の司会を今年の3月まで務めていた東大大学院(政治学者)の教授です。

 「日本から、在日と言う出自から逃れるようにドイツに渡り、希望も将来もなく途方にくれていた」頃、1枚の絵を見ます。アルブレヒト・デューラーの自画像です。18世紀の初頭、ドイツでは戦乱と殺りくが繰り広げられ、疫病と飢餓が蔓延していました。常に死の淵を見つめながら、28歳の時にデューラーが描いた自画像でした。

 姜氏はそれを見たとき『すべてを受け入れ、私はここに立つ。お前はどこにいるのだ』と、その自画像の目が問いかけたというのです。それで、迷妄を打ち砕かれ、あるがままの自分を受け入れ、在日という制約の中で一歩を踏み出そうという気持ちになれ、現在に至る…という文でした。

 姜氏はまた、ユダヤ人ゆえ過酷な迫害を受け、ウィーンからイギリスに亡命した陶芸家、ルーシー・リーの作品に出会ったときも、時代の課す制約を受けいれる力について思いを深めたそうです。

 これらも、なんだか孔子の天命と共通するものがあるような気がして取り上げました。

 私は凡人ですから、その天命というものに、ともすれば投げやりな気分を持ちかねません。しかしながら、これから、いろんな良いこと悪いことに出会いながら生きていく時間を過ごすとき、この天命論がひとつの背骨になり、逃げないで前向きに生きる支えになるような気もしています。皆さんはいかがでしょうか。

連載その4
 通勤と山の風景
       高橋由紀子(声楽&ピアノ科)
 毎日、別府から山を越えて挾間町まで通っています。家から職場まで30分弱の道のりです。通勤路は、まだまだ自然がたくさん残っており、田畑もたくさんあります。無人の野菜売り場にも大変お世話になっています。母も庭で野菜を作っていますので、どれだけの労力がいるかが分かるだけに、新鮮な野菜を安くゆずっていただけるのには感謝の気持ちでいっぱいです。最近は作っている方とも顔見知りになり、私が帰る頃にわざわざ待っていてくれる時もあります。
ちょっと前まで、回りの田んぼは夕日を浴びた稲穂が美しく、その合間に真っ赤な彼岸花が咲き乱れていました。今は、コスモスが道路脇に咲いています。背丈は30cm程しかないものも花をたくさんつけており、ご近所の方が手入れをされているような感じです。もう少しすると山は紅葉し、年に何日かは雪化粧し、普段感じることの少なくなった季節感を感じることができます。
また、自然の移り変わりだけでなく、いろいろな動物との出会いもまた楽しみの一つです。山の上のある一軒家の前を通る時、何か見られているという感覚がありました。そのうち、そこの飼い犬がいつも私の車を見ている事に気がつきました。最初、通る車を眺めているのかと思ったのですが、後ろ向きに見ていた首の向きを変えてまでこちらを見ているのを見て、私を見ていると確信しました。ある日、その犬が道路の真ん中に立っており、私の車を見るとうれしそうに駆け寄ってきました。ひいては大変なので、スピードを落として避けようとしましたが、犬はうれしそうに尻尾をふりながらどんどん近づいてきて、窓からのぞき込んできました。なんて人懐っこい犬だとは思ったのですが、山道とはいえ、スピードを出して走る車も多いので、早くおうちにお帰りと言って、ゆっくりと走り出しました。すると、また追いかけてくるのです。でも追いつかなくなると、不思議そうに頭をかしげながら見送っていました。見られる・追いかけられる理由がずっと分からなかったのですが、ある日、飼い主の車が止まっているのを見て納得。私の車と車種も色も全く同じでした。いつも見ていたのも、追いかけてきたのも、ご主人様と思っての行動だったようです。人違いとはいえ、これほど慕われるのもいいものです。
 猿もよく見かけます。1匹というよりは数匹でいることが多いようです。先日、高崎山に行った時、職員の方がオスとメスの比率が1対9ですと言っていました。オスの数が極端に少ない理由は、オスは4,5歳になると血が濃くならないようにという理由から群れを追われるそうです。追われた猿は、離れ猿となり、天敵にやられたり、交通事故にあったり、人間に捕えられ殺処分されたりする運命だそうです。運よく違う群れに合流し生き延びるオス猿は少ないそうです。職員の方も猿の世界に生まれるのであれば絶対メスがいいと言っていました。また今年はどんぐりが豊富で、たまに餌場に来ない日もあるそうです。エサをあげなくても十分山で生きられる猿たちです。職場でも一度猿が出たのですが、誰かがエサをやったのか、居つくようになってしまいました。捕獲して山に返せないものかと役所に連絡すると、群れには帰れないので殺処分ですと言われたそうです。結局、猿は捕獲され殺処分されてしまいました。今思えば、そんなに大きな猿ではなかったので、群れから追われたばかりの猿だったのかもしれません。高崎山で育った猿であれば小さい頃は餌場などに下りてきて人間にも慣れているだろうし、捕獲された意味も分からなかったかもしれません。山で猿を見かける度に、早く山にお帰りと祈るばかりです。
 それから、イノシシも見かけます。初めて見た時は道路脇を入っていく小さな縞模様でした。ウリ坊?と思ったのですが、まさかこんな近くにイノシシなんてと思っていたので、見間違いかなと思っていました。それからしばらくして、今度は道路を横切って林の中に入っていく茶色い大きなお尻を見かけました。
やっぱりイノシシだ!と思ったのですが、それでもまだ半信半疑でした。そして、とうとう先日、霧の深い日、ガードレールを沿うように走るイノシシを見かけました。背丈は車のタイヤの高さぐらいだったので、まだ若いイノシシだったと思います。これもまたひいては大変と後続の車も気がついて避けてくれるように中央車線にぐっと車を寄せて走りました。イノシシも私の車を横目で見ながら必死に走っていました。ほんの1,2秒ですが、イノシシと並走してしまいました。次の日、ひかれたような跡はなかったので逃げ延びたと思います。
他に、茶色い模様の足の細長い鳥の親子連れを見かけたこともあります。親鳥2羽、子供が数羽の団体さんでした。道路脇から出てきたところに私の車が来たのでびっくりして引き返してしまいましたが、とてもかわいらしかったです。
あと、これは飼われていますが、ヤギも2匹見ることができます。朝は優雅に草を食んでいて、実にのどかな風景です。これら毎日の通勤の中で見られる光景は、私にとって癒し以外のなにものでもありません。便利に車に乗って通勤している自分が言うのもなんですが、この風景をいつまでも残したいと切に願う毎日です。
 
第2の人生の趣味
      津守  實 (トキハ文化教室)
 私は今年3月でサラリーマン生活を終えました。44年間、山あり谷ありの日々を送り無事退職して、今後、第2の人生に何をしたら良いか考えていました。そのとき、大分合同新聞を見て、文化教室にギター講座があることを知りました。楽器は苦手ではありますが、趣味でもありますので、このギター教室の講座に5月に入会しました。
 一日の日課としては、朝はゴミ出しをし、糖尿病でもあるので、病院に通います。午後は散歩や家の周辺の草取りをします。食事には甘い物を避け、砂糖の入っていないものを選びます。タバコ、アルコール類は禁止して、毎日お茶とバランスの取れた食事に気をつけています。
 現在、竹内幸一先生のご指導でギターの講座を受けています。夢としては、影を慕いて、禁じられた遊びなどの曲をギターで弾くことです。夢が叶うように努力しますので、よろしくお願いします。
 
【特集】私の面白失敗談
◎右目のコンタクトレンズ
今、右目に着けているコンタクトレンズは、15年くらい使っている。左目のレンズは、3〜4年で紛失して、そのたびに買い換えるのだが、右目のレンズは、なくならない。それでも、3度紛失の危機があった。
 1度めは、10年前。夕方、レンズをはずした時に、どこかに飛んで行って、行方がわからなくなった。コンタクトレンズを使った事が無い人には、判らないだろうがレンズを外す時に、目尻を外側に指で引っ張ると、眼球に涙で張り付いていたレンズが、外れて目の外に30cmも飛び出すのである。目尻を外に引っ張る指と、反対の手でレンズを受け止めるのだが、キャッチしきれずに床に落ちることがよくある。自分の半径50cmを捜したが、1時間たっても見つからず、買い換える事にした。次の日の朝、洗濯機から取り出されて、畳まれた洗濯物(干す前なので、生かわき)の一番上の毛糸のセーターに付着しているコンタクトレンズを、妻が発見。洗濯機の中で、セーターと一緒にかき回されたレンズが、セーターに付着して、帰ってくるとは、すごいことだと思った。
 2度目は、5年前。朝レンズを装着する前に、石鹸を片手で泡立て、指先でレンズを洗浄するのだが、つるっとすべって洗面台の、排水口の中に流れていった。これで又、2万円の出費か、もったいない、などと考えつつ仕事を終え帰宅。夕方、洗面台の前に立って、もしやと思いながら排水口の蓋を持ち上げて見たら、蓋の下部のほうに、糸くずや、髪の毛と一緒にからまったレンズを発見。今日一日、家族が手を洗ったり、顔を洗ったりしたろうに、好く残っていたと、ほめてやった。
 3度目は、1月前。風呂に入っていて、右目がゴワゴワしたので、湯船のなかでレンズを外して、装着しようとしたところ、どこかになくなってしまった。お湯のなかに落ちたと思い、捜してたけれども見つからない。こまったもんだと思いながら鏡を見ると、右のホッペタにレンズが張り付いている。
 このコンタクトレンズは、根性がある。
 
 
 
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