サンシティー音楽院 音楽だより♪ 

エスプレシボ第247号 
       1月号

1140  竹内幸一

 皆様、新年明けましておめでとうございます。この新聞の読者の方々には、旧年中いろいろな面で大変お世話になりました。有難うございました。

 さて……今月も(最近この話題ばかりですが、今月で打ち止めですのでご勘弁を)25周年記念演奏会のことを書かずにはおられません。

 「1140」。この数字の意味がお分かりでしょうか?そうです、これは、昨年12月21日にBコンで開かれたルベック25周年記念演奏会の入場者数です。恐るべき数字です。クラシックギターのコンサートで、こんな数字が出たことは、長い歴史の中でおそらく九州全体でも稀な事ではないでしょうか?それほどのすごい数字です。

 昨年の末にホールを予約し、一月のこの新聞に決意文を発表しました。以来、千名を目標にとか、千名を集めるのは大変なことですと、何度千名という言葉を書いたことでしょうか。しかし、それはいわば夢の到達点のスローガンであり、景気付けの掛け声のような意味合いでした。私自身も本当の所千名に届くと思っていたわけではありません。

 それが何と何と、千名を大きく超えて、1140名の方に来ていただくという、盛大な会になったのです。舞台の終わりに、きよしこの夜が流れ始めると、私の中で張り詰めていた緊張がゆるみ、胸に溢れる物がありました。それは、出演者の皆さん同じだったようです。舞台袖に下がるとフルートを吹いた娘が一番に寄って来てくれ、「お父さん良かったね」と言ってくれました。私は何も言えず、ただ頷くばかりでした。

出演者の皆様、そして応援して下さった全ての皆様と、この成果を称え、喜びを分かち合いたいと思います。皆様、本当に有難うございました。そしてお疲れ様でした。

 会の終わりのあいさつでも少し触れましたが、今回は実にたくさんの方から応援をいただきました。5年ぶり、10年ぶりに懐かしい方が尋ねてきてくれて、券を買ってくださったりもしました。出演者の仲間の方も、友人知人、そして飲み屋とかでも、片っ端から券を薦めたという話が伝わってきました。私の知らない所で、それぞれの方が、懸命に努力してくださった積み重ねの数字が1140なのです。ありがたい限りです。

 ルベックスペシャルは、全部で17名ですが、1年間毎週土曜日の夜練習して、全員集まったことは、一度もありませんでした。4,5人ということもあり、指揮の高野さんに気の毒やら申し訳ないと言うことも何度もありました。しかし、時折職場のことを聞いてみると、どこも今は大変です。仕事があるだけでも良い方という中で、過酷な労働をしている方がたくさんいます。目いっぱい働き、そして家庭サービスもし、その残りのほんの少しの隙間にギターが存在しているのです。…でも、そんな中でもギターを続け、ギターを大切に思ってくれているからこそ、12月21日は全員が揃って舞台に立つことが出来たのです。

 演奏会の少し前、指揮の高野さんと話していたら「ギターがなくて、定年を迎えたら、自分の人生なんだったのか?きっとつまらん人生だったと思うだろう」というような話をしてくれました。ギターというもの、あるいは音楽というものの持つ何かが、いわば人生の宝と言わせるのでしょう。それは、仕事を持ったり親を介護しながらギターを続けているひまわりの方や、あちこち痛いところがあって体調も充分でない方たちもいる中で、今回の記念演奏会のために泊り込みまでして練習をしたムーンの方たちも、同じような思いを持ってくれているに違いありません。その全ての方の思いがこの輝く日につながったのだと思います。

 率直に言って、今回は私もこれ以上出来ないというほどこのイベントに取り組みました。もう一度やれといわれても、なかなか腰が上がらないかもしれません。しかし、そんな苛酷な労働環境の中で、ギターを大事にしてくれてる方のことを思えば、また、こんなにしていただいていいのだろうかと怖くなるほどのたくさんの方の広告や、入場券のご協力のことを思えば、ギターを仕事にしている私が、弱音を吐けません。これから、5年間また地道に力を蓄えて、何としても、今回以上の30周年記念イベントをしたいと思います。今回の皆様のご支援に対しまして、何もお礼はできませんが、その5年後のイベントのお約束をお礼に代えさせていただければ幸いです。

 演奏会の日の夜は、明るく場を盛り上げてくれる福田進一先生も参加しての打ち上げでした。2次会はカラオケで、歌い、飲み、踊りの楽しい会でした。いろんなキャラクターの宴会部長が活躍してくださるので、本当に助かります。

 その会も終わり、私と妻と娘との3人がカラオケハウスの前に残りました。そのまま帰る気になれず「どっか行こうか」ということで近くのジョイフルに行きました。

「ああ、終わったなあ」と椅子に座ったとたん、娘が目頭を押さえて感極まって泣き始めました。この一年、ああでもない、こうでもないとあらゆることを相談し、アイデアを出し合い、検討しながらこの日を迎えました。様々な礼状や受付関係の準備、封筒の宛名書きや、書類の送付…そんな細かな作業の助けがあって、この日を迎えたのです。その3人で、この日の成果やこれまでの思い出をいくら語っても、語りつくせない夜でした。

 たくさんの方々からいただいた人情や優しさに浸って、この正月は心豊かにゆっくり出来そうです。本当に皆様有難うございました。

皆様が健康で、いろんな望みの叶う毎日が送れる1年でありますようお祈りしています。

リレー随筆105

よろしくお願いいたします

トキハ別府店ギター教室 内宮 健治

明けましておめでとう御座います、本年もご指導よろしくお願いいたします。

今年も皆様方にとって、良い年でありますようお祈り申し上げます。

今年も先行きの見えない混沌とした、今日、明日何があってもおかしくない、さらに弱肉強食が一層加速される年になるのではないかと懸念しています。

将来の希望が若者にも、高齢者にも持てない状況です。
 せめて、自分だけでも、出来れば音楽をとおして周囲を明るく出来ればと願っています。そのために、出来るだけ時間を作り、昨日より今日少しでも向上できるよう努力して行きたいと念じています。

さて、手前ごとですが今年63歳を迎えることになります。

現役時代は某企業に勤め、プラント建設、管理、営業、最後に都市開発、大規模商業施設の建設などに携わってまいりました。

この間、家庭も顧みず無論退職後の事など、他人事のように考えていたわけですが、いざ、現実その立場になってみると、日々をどう過ごせば有意義(充実)といえるのか、からっきし見込みが立たずあれこれと手を染めては、納得がいかず不完全燃焼状態が大半のものばかりです。

現役時、退職後の楽しみとして漠然とこんなものかなと、とにかく費用の掛かりそうなものを早めに手当てしておこうとばかりに、準備したものもありますが、これとて、体力気力に自信がなくなった今では、のめりこむ自信が無く、マー失敗と言えます。

実現できたらいいなと、かなりメルヘンチックに考えていたログハウスを、行きがかり上取得してしまい、温泉三昧を湯布院の塚原で始めてみたものの、家族がいまいち馴染めなく予定していた選択肢のひとつとは言え、日出の実家住まいとなっています。

女性の接し方についても然りで、現役時代有無を言わせず済ませていたことが、非常識の世界のようです。

女性特有の心情も理解せず(しようとしなかった)天罰覿面で、今では、事ある度に逆襲を浴びおろおろするはめになり、奥方の顔色を窺いつつとに角、波風が立たないよう日々努めている次第で、はかない願いとは言え、捲土重来を期しているところです。

退職後の過ごし方で、大半の方がまず思うことは、「時間をどのように過ごせばいいのか」と聞いていますが、今のところはテレビ相手の時間は比較的持たないで済んでいますが、心の持ちようとして
 1)  馬鹿なことをと言われそうなことを、なるべく否定せずやってみる。
 2)  やると決めたことは、最低3年間を目処としてやる。
3)  体を動かすことを厭わない。

等を考えていますが、何方か具体論でご指導戴ければ、残り少ない人生を回り道しないで済みますので助かります、よろしくお願いいたします。

♪気ままなコンサートレポート♪ 2

今まで、数え切れないほどのコンサートを聴き、たくさんのプレイヤーから、たくさんの感動を得てきました。でも、その中で、私とピアノとの関わり、音楽への想い、これらを含め、広い意味で人生が変わるほど、強く衝撃を受けたピアニストは、たった2人です。1人は、内田光子(いつか書きたいと思っています)。もう1人は、今回レポートする「エフゲニー・キーシン」。

 キーシンは、以前から名前は知っていましたが、特別な思い入れはありませんでした。チラシを見て、「ま〜鹿児島へ旅行に行くと思って」と、何気ない気持ちでチケットを購入。もしこの時チケットを買わなかったら…と今思うと怖ろしくなるほど、聴き逃したくないコンサートでした。鹿児島まで、車で約5時間(往復10時間!)でしたが、運転の疲れも吹っ飛びました(運転したのは父ですが!)

エフゲニー・キーシンピアノリサイタル

20031121日 鹿児島県文化センター

 プログラムは、第T部ソナタD960(シューベルト)、第U部シューベルトの歌曲(リスト編)、巡礼の年、メフィストワルツ(リスト)で、一貫性のある流れになっていました。
 最も感銘を受けた曲は、一曲目のシューベルトのソナタ。この曲は、シューベルトが亡くなる2ヶ月前にかいた最後のソナタで、演奏時間50分ほどの大曲です。その長大なソナタの最後の音まで少しのゆるみも感じさせない、素晴らしい演奏でした。

「キーシンは、どんな演奏をするんだろう?」と期待する耳に届いた、始めの一音だけで、一瞬にしてその深い音色に魅了されました。そして、次々と彼の手から生みだされる音楽に、鳥肌の立つような感動を覚えました。

今回キーシンの弾くこの曲を聴いて改めて思ったのは、「音楽には、1つも無駄な音がない!」というごく当たり前かもしれないことでした。キーシンの音楽には、ただ1つも無駄な音がない。どの音も、みな音楽でした。全ての音が必然性を持って他と繋がり、かといって理屈っぽくなく、全ての音が生き生きとその音楽の中で生きて存在していました。このようなことに気付けたのは、自分自身の中で新しい発見でした。

全曲を通じて感じたのは、音楽に対する真摯さです。キーシンは、ただ愛する音楽のために演奏していると思います。他に欲も驕りも何もない、純粋で真摯な音楽でした。

 演奏家には、色々なタイプがあって、「何のために弾いているか」によってタイプが分けられるのではないかと思います。観客を意識して演奏するタイプ・自分のために演奏するタイプなど。

キーシンは、音楽のために演奏する演奏家なのではないかと思います。そこに音楽があって、何かを語っている。その曲自体の持つ豊かさ、美しさ、悲しさ、醜さ…を表現するために演奏する・・・これがキーシンの演奏であるように感じました。

音楽を愛し、感謝し、敬服している。これこそ最高の音楽家の演奏が、感動の記憶としてまだ今でも鮮明に残っています。これを聴いた聴衆の方は、音楽っていいな、ピアノっていいな、と感じたに違いありません。その感じた心が、最後の鳴り止まない拍手と、6曲のアンコールと、スタンディングオヴェーションとして現れたのだと思います。もし、再度九州にキーシンが来る好機があったなら、私は確信を持って、お薦めします!たとえ車で10時間かかっても(笑)!!       (竹宏)

サンシティー音楽院 音楽だより♪ 

エスプレシボ第248号 
       2月号

10分でも  竹内幸一

 暖冬とか、天候不順とか言われていましたが、このところ寒は寒らしい冷える毎日ですね。でも、厳しい寒さも、1年のメリハリがきちんとついていいものだと前向きに受け止めたいものです。環境破壊などが起きずに、美しい四季のある日本に住む喜びを味わえる日が続いてほしいと思います。

 さて、もう2月・・・するすると時間が過ぎて行きますね。何かきちんとした心構えも持たないまま1年が過ぎ去っていきそうな気がしま.す。

そこで遅ればせながら、私なりの今年の小さな抱負をここでご披露しましょう。新年のいろんな抱負をお持ちの方も多いと思いますが、これも参考にしてもらえればうれしいです。

 今回のタイトル「10分でも」は、娘宛てにきたK教授からの年賀状に書かれていたものです。この先生は、娘が大学でピアノを学んだ女史で、卒業後も自宅レッスン受講や研修会などでのお付き合いが続いています。

聞くところによると、K先生は、ドイツに長年滞在し、ピアノの研鑽を積みながら結婚もされていたようですが、ピアノと家庭のどちらをとるかで、ピアノを選んだというほどの凄まじい音楽魂を持っておられる方のようです。昨年も佐賀と東京でピアノリサイタルを開催しています。リサイタルの前になると、電話も止めて、1日に8時間以上は集中練習をするんだそうです。

そのような方が、年賀状の末尾に「今年の私の目標。10分でも毎日練習すること」と書いていました。私も良く生徒さんに、10分でもいいからという話をごく安易にしていましたので、この先生がたったの10分?と、少し吹き出しそうになりました。

 しかし、しばらくいろんなことを考えているうちに、そこにある深遠な人生哲学とでも言うようなことに思い至りました。極端な言い方になりますが、自分の人生の方向を変えるようなことも、その分岐店の一点は、ごくごく小さな「10分でも」からの出発だと思ったからです。

お茶の教えのひとつに利休百歌があり、その一番初めに「その道に入らんと思う心こそ,我が身ながらの師匠なりけれ」とか書かれています。やってみよう、この方向に歩いてみようと言う、ほんの小さな自分自身の思いこそが、リサイタルの開催など、その後の大きな世界の広がりに繋がるということなのでしょう。

ほんの小さな気持ちの動きが、「10分でも」といわれれば行動に結びつきやすくなります。最初から、8時間練習しろと押し付けられれば、誰でもしり込みしてしまうでしょう。気持ちを動かすほんのわずかな後押しが「10分でも」にあると思うのです。

どなたでも思い起こしてみれば分りますが、仕事を選ぶ時でも、結婚を考える時でも・・・他どんなことでもそのスタートは、ほんのささやかな気持ちの動きからでした。結果的には思いもかけないような大きなことに結びつくにしても、その一歩が違っていたら、今の自分はありませんでした。病気をして半年休学していた私が、あの田舎の家で、「ギターをしてみようかな」と気持ちをかすかに動かしたからこそ、今があります。

新しい世界に飛び込む、そのささやかな出発も、なかなか勇気がいるものです。しかし、もしそれが出来たとしても、この先生の目標には、次に最も厳しいことが書いてあります。そうです。「10分でも毎日」という、「毎日」ということです。

この持続ということの、厳しさや辛さを体験しているかたはたくさんおられる事でしょう。だからこそ、このようないわばピアノを仕事にしているようなプロの方でも、「毎日」という目標を掲げるのだと思います。

今日は風邪気味で、無理すると長く寝込むかも。明日は仕事が早くからある。宴会で呑み疲れて、もうとにかく寝たい、寝たい。いろいろ上手く行かないことがありむしゃくしゃしてやる気にならない・・・・・等々・・・

練習を止めるというか、さぼる理由は実にたくさん出てきます。1日休み、また少し続けて、・・・ポツポツ休んでいるうちにいつの間にか全く止めていたということは、それこそ日常茶飯事にあることですね。

でも、それはそれでいいというか仕方のないことと思います。又すごろくのように、「10分から」のスタート地点に戻ってやり直せるのが、人生だと思います。生ある間、その繰り返しで私達は過ごすのではないでしょうか。

だからこそ、この「10分でも毎日」という目標に私は感動したのです。それを業とする方が、毎日10時間とかではなく、「10分でも毎日」と書いたことの奥深さを私は思います。今年は私も初心に帰って、「10分だけでも毎日」を念頭において暮らしたいと思います。10分だけ・・・と思っていてもそこにはいつしか、おまけがくっついてくるものですからね。

歩き始めないことには、何も生まれません。どうぞ皆さんも、新しい年には又新しい目標を掲げて、忍耐力?を試してみてください。


リレー随筆106

寒中お見舞い申しあげます。

別府トキハギター科  是永 洋子

ここ数日、寒さが厳しく、街行く人も足早で、家中の暖房器具も、早朝と夕方から床につくまでフル回転、こう寒くては、陽だまりとか、ひなたぼっことか、太陽が恋しいばかりです。
 私もギターを始めて、一年が過ぎようとしています。みなさんの仲間入りができたこと、心から嬉しく思っています。日々の生活の中で音楽はいつも私にとって受身的な存在で、それをプロとして活躍している方や、趣味として頑張っている人達を羨望の思いでみていましたが・・・。

 そんな私がこうしてギターを手にとって、夢中になって、下手なりになんとか一曲ずつ弾けるようになりました。丁度、息子の結婚宣言、そして結婚と相まって、ギターがタイミングよく私の中に入りこんできたわけです。

 今の教本には、「あざみの歌」「鈴懸の径」が入っていて、とても懐かしい気持ちになるのですが、多分それは、母の大好きな曲で、時々口ずさんでいるのを聞いていたからでしょう。その母も入院生活を余儀なくされて、遠方なため、介護もままならないのですが・・・。好きな歌番組にも興味を示さなくなった母、ベッドの上で退屈しているでしょうから、いつか弾いて聞かせることができたらと思っています。

 話は変わって―――

私は長年、水泳をしています。11年程教室に通って、指導を受けていたのですが、閉校になってしまい、今は市営プールに行っています。

 自発的にするのはなかなか難しく、ついつい億劫になりがちですが、泳いだ後の爽快感は何ともいえません。水泳が体にいいことはよく知られているのですが、経営を維持するための水泳人口には、まだまだのようです。将来を夢見ている子供達のためにも、そういう環境が失われないよう頑張って欲しいものです。

ギターのおかげで、クラシック音楽にもなんとなく耳を傾けるようになりました。これからも、竹内先生のご指導、皆様とのおつきあいを大切にして、私なりに努力していこうと思いますので、よろしくお願い致します。

 ♪気ままなコンサートレポート♪ 3

今回は、別府で行われたコンサートについて書きたいと思います。といっても、聴衆としてではなくて、お手伝いをさせてもらえたので、裏方レポートです。

10回ハーモニアス別府

ニューイヤーコンサート

04118日 別府Bコンフィル

このニューイヤーコンサートは、毎回世界最高峰の演奏を破格の値段で提供している、大変有り難いコンサートです。今回は伊藤京子さんとオイストラフを中心として、YBP合奏団、園田さん、岩野さん、の出演でした。

伊藤京子さんは、演奏はもちろん、お人柄も素晴らしい方でした。印象的だったのは、舞台でYBPの若手奏者を、伊藤さんご自身がお一人ずつ紹介されたことです。若手の将来を見守る温かさと、大きさを感じました。打ち上げのご挨拶で、スタッフ・出演者など色々な方にコメントし、気配るご様子から、お人柄を伺い知ることが出来ました。そんな穏やかな伊藤さんですが、とても存在感があります。楽屋に来られた時、楽屋を出られて舞台へ向かわれるとき、その姿はさっそうとしていて、まるでそこだけが外国のワンシーンのようでした。伊藤さんが通るたびに『おぉ!伊藤京子だ!!』と心の中で叫んだのは、私だけ?かな?

彼女に負けず?お人柄がすばらしかったのは、オイストラフです。楽屋裏でも、始終ニコニコと笑顔を絶やしませんでした。演奏前に、昼食が少し足りなかったというご要望で、サンドウィッチをなんと4人前!と、さらにバウンドケーキまで。演奏前はあまり食べられない、なんてことはないんですね。この精神力が、ニコニコの源なのでしょうか。大食であることはさておき、オイストラフの演奏は大変素晴らしかったです!ヴァイオリンは、弓で弦を弾くために、よく弓と弦のこすれる音がします。でも、オイストラフのヴァイオリンは、高くても低くても「弦の音だけ」でした。もともと弦だけの音の響きは、とても柔らかいですよね。でも、それに過度な力を加えたり、不必要に大音量で弾いたりすることで、何らかの負荷がかかり、弦本来の音の美しさを失ってしまうのです。

例えば、ギターやピアノも弦楽器ですので、同じことが言えます。弦楽器が、純粋に弦の音を出す時、とても柔らかく温かい音がします。それが弦楽器の美しさなのだと思います。彼のヴァイオリンはまさに弦の演奏でした。懸命に弦と弓をこすり合わせるような演奏とは違い、心が安らかになる演奏でした。

フルートの園田さんは、初々しい演奏で好感が持てました。打ち上げのご挨拶で、「これからの課題もたくさん見付かりました」と仰っていた彼女の姿勢に、拍手したい気持ちでした。きっと、大舞台の演奏が終わって晴れやかな気分だったことでしょう。でもそんな時すぐに、自分を振り返り、更に前進に向けて考えることは、なかなか出来ません。こういう方は、今後さらに飛躍なさると思います。

ピアノの岩野さんは、以前、歌手の友永葉子さんとの共演を聴いてから、かくれファン(隠れてないですけど)でした。今回、岩野さんのピアノを聴いて、改めてその素晴らしさを再確認しました。譜めくりの関係で、一度すぐそばで聴くことが出来、感激でした。リハ中、音楽的にもすごいけど、テクニック的にもすごいな〜と思っていたら、「は〜まだ指が起きてない。動かん」とぼやく岩野さん。いやいや、十分動いてます・・・ほんと。

譜めくりといえば、伊藤京子さんの譜めくりをされている方は、天才的な譜めくりです。アルゲリッチ音楽祭などでもご活躍で、中でも伊藤京子さんとはもう阿吽の呼吸で譜をめくってらっしゃいます。どんな曲でも、「あ、今だ!今めくって欲しいな」というのがわかるそうです。他の人が代理などは絶対に出来ない、スペシャリストです。次回コンサートに行かれた際に、皆さんも譜めくりという面でも観たり聴いたりすると、また違ったことを感じるかと思います。

 

このように楽しい、そしてもちろん素晴らしい、このニューイヤーコンサートは、「別府の町に良質の音楽を」ということで始まり、10周年を迎えています。この会を10年間支えてきたメンバーの方々には、ただただ、すごな!と頭の下がる思いです。その日コンサートを聴いているだけでは分りませんが、ひとつのコンサートを開くことは、大変なことです。私には想像もつかないことがたくさんあるでしょう。「素晴らしい音楽を、別府の町でたくさんの人たちに聴いて欲しい!手軽な値段で提供し、より多くの人がより良いものに触れてほしい!」そんな思いで、おそらく精神的にも、肉体的にもご自分の身を削って取り組んでらっしゃると思います。

話は飛びますが、昔は「うちで冬大根が取れたで。美味しいけん食べよ」とか、「うちに寒椿が咲いたよ、きれいやけんかざってな」などと、何か良いものがあれば、みんなで分け合い、喜び合うのが当たり前でした。今は、自分のためだけにスーパーで物を買います。我家もそうですし、多分もうそれが当たり前ですね。その中でも、「たくさんもらったから」「お花がたくさん咲いたから」と言う声を聞くと、温かい気持ちになります。自分だけで完結する喜びは、分け合うことで更にその価値が何倍にも増していくのです。

これと同じで、自分だけが良い音楽を聴けたらそれで良いなら、自分だけが都心に行けば聴くことができます。でもそれを、この別府で地元の人と分かち合いたい、と活動をなさるメンバーは、本当に温かいですね。メンバーは別府の温泉のように、底から湧き上がるような音楽文化を望んでいるのです。このような、すぐ結果にはならない、目に見えないものへの地道な活動は、何と尊いことでしょう。(竹宏)

エスプレシボ 3月号 249号

音のことのは 竹内幸一

 今日は2月23日です。月末の日程にゆとりがないので、そろそろ新聞の準備をとパソコンにむかっています。外は、むせるほどの暖かさと言うより暑さで、2月の末というのにもう入学式があってもおかしくないほどです。暖かくなる嬉しさを通り越して、暑さの心配と言うのはどうも気ぜわしすぎますね。

 さて今月は久しぶりに、最近読んだ本のご紹介をしましょう。「音のことのは(ネイチャー・プロ編集室・幻冬舎)」と言う本で、音を仕事にしているからということで、ある方よりいただきました。

 帯封に「ながい静と一瞬の音 聴きすます心の耳はすこやかですか?」とあります。身の回りにあるさまざまな音をことのは(言の葉→言葉)を集めて、人が音を捉えるイメージの根源に迫ろうと言う内容です。

 この新聞を読んでくださっている方は、たいがい音楽とかかわっていますので、聴くと言うことには敏感でしょう。演奏するときに、いい音、気持ちのいい音の流れが出せるかどうか、または、自分や相手に聞こえるかどうかは楽器をするからにはいつも気にかかります。それ以外にも、周りにはテレビや車の騒音などさまざまな音が溢れていいます。しかし、ほんとに耳を澄ませて聴いているものがあるか、聴こえてくる喜びを感じているかと言われると、はて?と首をかしげてしまいます。ほとんど聞き流しているものばかりですね。

 今回はそんな方に、音を耳にするという当たり前のことを、少しじっくり見つめなおしてもらうヒントがつかめればと思って書き始めました。

 [はじめに] 音は瞬間/そして、永劫/霧の声を/露の囀りを/光りのささやきを/心の耳で聞きなして/音の「ことのは」は生まれます/過去から未来へ/流れ星のように消えていく輝きを/すくいとって小さな1冊に編みました/

 長くなりましたが、この本の最初に、そんな前書きがあります。何気なく聞こえ、消えていく音そのものへの、深いこだわりが予感されることでしょう。

 それから目次になり、5つの章立てで音に関する言葉が、さまざまなカラー写真とともに集められています。今回はスペースの関係もあり、その第1章だけに焦点を当ててみます。残りはまたいつか、ほかのネタが見つからない機会にと言うことにしたいと思います。

 第1章のタイトルは 『黙(もだ)の章』 です。初めに静寂(しじま)があった。…という書き出しで始まります。

 演奏していても、休符のところで、音を出さないと言う「音を出す」と言う意識のある方は、相当音楽がわかっている方でしょう。同じように、音を云々するときに、静寂と言う音が意識できるところから、次のステップが始まるのだと思います。

 かごやか→まわりを山や森に囲まれてひっそり静もる空間。しめやか→ひっそりとして静かな感じ。寂寂(せきせき)→天地は息を止めそれに耳澄ます境地。…そんな言葉が続き,詩や俳句などの使用例を引用して説明します。

 今はいつも何やかやがなり立てるような音が溢れ、このような味わいを感じることは,なかなかできませんね。しかし、この静寂の次に聞こえる音こそが、心の琴線に迫るものだと思います。音を大切にするには、その前の『寂(せき)として声なし』を味わうことが大事なのだろうと思います。

 もう少し本の中身を拾って見ましょう。
 音無の里(おとなしのさと)→さびしい山間にひっそりとある隠れ里。そこでは、音や声が聞こえないので、人は誰はばかることなく泣けるそうです。和敬清寂(わけいせいじゃく)→心を穏やかに保ち、相手を敬い、その澄んだ心で清らかな静寂を愉しむという、茶道で重んじられる精神。無声の声→大きな声で怒鳴るより、心に訴えかける無声の声のほうが、遠くまで及ぶ。沈黙→自らが口をつぐむこと。口をつぐむ者は魂を守る(旧約聖書) 維摩の一黙(ゆいまのいちもく)→「絶対の悟りとは何か」と言う命題に、悟らぬものはさまざまに答えたが、悟りの境地を得た維摩は、長く黙すしかなかった。真の悟りは、言葉で表せず、沈黙を持って示すしかないと言う意。多言は一黙にしかず。

 少し話が難しくなりましたね。何しろ、色をつけるには、まず真っ白なキャンバスが必要ということでしょう。これから本は、「天地(あめつち)の章」、「有情(いきもの)の章」、「現人(うつせみ)の章」、奇(あや)の章」と進み、音に関する言葉をやさしく解きほぐしてくれます。

 そこには、身近な例語でいえば海鳴りや鵙の高音などの広大な音の世界が広がっています。しかしそれらを読んで知識が増えるよりも、私には「黙(もだ)の章」が衝撃でした。忘れていた何かがそこにありました。

 いろんなことであくせく走り回って、いい音を聴こう、気持ちのいい音楽を奏でようとしきりにもがいています。しかし、足が宙に浮いて、前のめりになって、ただただ音を出すことだけに囚われて、ヨタヨタしています。そんな私に、音の原点は何なのかと考えさせてくれました。「静寂を聴く」ということを忘れていました。

何もないところの時間があり、次に、大切にいつくしむように出される音こそ、磨き抜かれた輝かしい音になるのでしょう。そして音が消えたとき、また静寂に戻ることができて、初めて完結のプロセスとなります。言い換えれば、音楽の音を出すということは、「沈黙の祈りに始まり、沈黙の祈りに終わる」とでも言えそうです。



リレー随筆107

私とギター
    中部公民館ギター科 山本 充児 

 私がギターを始めてもうすぐ2年になります。これまでを振り返ってみると、時間だけは過ぎたもののなかなか上達していないなとギターの難しさを痛感しています。

 私は歌うことが好きで、高校生の時から合唱をやっています。しかし、以前から歌うこと以外に何か楽器もやってみたいという思いがありました。ピアノかギターをしようと思ったのですが、ギターのほうが持ち運べてどこでも弾けるという利点があるのでギターをしようと考えました。

そして、ギターを購入し自分で練習したものの難しくて弾く事ができませんでした。独学ですることに限界を感じ、ギター教室のようなものに行ってちゃんとギターを習おうと思っていたところ、近所の中部地区公民館にギター教室があることを知り、参加することにしました。

 中部地区公民館のギターサークルの方々はとてもやさしい方ばかりで、とても居心地が良いです。皆さん本当にギターが好きな方ばかりなんだなと感心させられます。また、竹内先生も親切丁寧に指導をしてくださり、とても感謝しています。

 これからもギターを通じて知り合う人たちとの出会いを大切にし、早く一人前の演奏ができるようにがんばりたいと思います。 

♪気ままなコンサートレポート♪ 4

この季節、雪や凍結の影響で予定していても行けないことがありますので、遠出は控えまして、大分で行われた日本フィルを聴きに行ってきました。 

第29回 日本フィル九州公演 

2月26日(木)19時〜 グランシアタ

日本フィルの公演は1975年から毎年行われ、今回で29回目ですので、一度はお聴きになったことがある方も多いかと思います。

毎年、様々な楽器のソリストとの共演が聴けるのも、日本フィル定演の魅力です。来年は30周年なので、どんな企画が飛び出すか楽しみです。 

今年のメイン曲は、ムソルグスキー;ラヴェル編の「展覧会の絵」でした。ムソルグスキーの友人の遺作絵画展に印象を得て、10枚の絵をモティーフにし、10枚の絵を観覧していくように曲が進みます。この曲は、今回を含め、どのオーケストラの演奏を聴いても、とにかくラヴェルってすごいな〜と思います。もともとピアノの独奏用のこの曲を、あら?こんなところにこんな楽器が!というような隠し味的楽器や、う〜んこのメロディーにぴったり!というソロ楽器などを用いて、さすがオーケストラの魔術師といわれたラヴェルならではの編曲がされています。このラヴェル編曲を聴く機会の方が多いために、原曲のピアノ独奏で展覧会の絵を聴くと、「この始めのメロディーはトランペットなんだけど」などと、編曲のほうが先行してしまうのは、困ったものです。本当は、原曲のピアノソロで聴くのも、統一感があってとっても素敵なんですよ〜。 

さて、日本フィルは今年、新しい正指揮者;沼尻竜典氏を迎えての公演でした。そのせいか、どうも指揮者よりもコンサートマスターの方が落ち着いているように感じられたのは、気のせい?なんて。楽団の方々は、それこそベテランばかりで、そんな中に指揮者として新入りするとは、振り難いだろうか、どんなものなんだろう…と要らないお世話のようなことを考えながら聴きました。沼尻氏の指揮は、髪の毛がもっとぼさぼさだったら(笑)小澤征爾に似てる!という振り方でした。(ちなみに大学在学中から新日本フィルハーモニー交響楽団で小澤征爾のアシスタントを務めていたらしい。そりゃ影響を受けたでしょうね)言うまでもなく、分かりやすくて、身振りが劇的な指揮、でした…。
 オーケストラは、大分が九州公演最後ということで、いい意味で、落ち着きと解放感が共存したような演奏だったように思います。観客の私たちも、最後の曲が終わった時に、団員の達成感と疲れを共有したような気がしました。最後の団員・指揮者の挨拶で、自分たちはこれから羽目をはずすかも…と仰ってました。 

今年のソリストは、なんと若々しい17歳のヴァイオリニスト神尾真由子さん。曲はラロの「スペイン交響曲」という、超絶技巧的な曲でしたが、その曲を曲に呑まれることなく、曲に上回る超絶なテクニックで弾きこなしていました。私はあまりの技巧に圧倒されてばかりいましたが、周りから「すごい」「感激」という熱狂の声が聞こえました。17歳とは驚くべき!みずみずしく、生き生きとした動きのある演奏を久しぶりに聴いて、溢れんばかりの彼女のエネルギーを少し分けてもらったような気がします。 

 今回聴いた日本フィルは、1956年創設という半世紀に近い古い歴史をもっています。その前身となるのは、なんと1911年までさかのぼる歴史をもつ東京フィルハーモニー交響楽団で、共に、長い歴史の中で変化しつつ、それぞれ意欲的演奏活動を繰り広げています。

このように長い間、オーケストラを存続させるのは、実は簡単なことではありません。というのは、まず経済的な面で大変な負担があるからです。日本には、プロとして演奏活動をしているオーケストラが25団ほどありますが、どのオーケストラも華やかな舞台では分からない、大変厳しい状態にあるそうです。特に、都心には中心的地位を占めるオーケストラが集中していて、不景気の影響も受け、激戦状態になっているようです。

オーケストラにこのような状態が生まれているのは、言うまでもなく、日本のオーケストラが基本的に自費運営であるためです。自身で獲得したものを自分たちの中で還元し、生活の糧にしなくてはなりません。これは、想像するよりはるかに大変なことでしょう。

ヨーロッパでは、国から年間何十億というお金が支援され、それにより楽団員の生活が守られているオーケストラがたくさんあります。音楽や文化が国によって保障されているのです。他分野においては、日本にも、国が何かを保障しているシステムはありますが、日本のオーケストラの場合、国から守られているとは言えません。それをみると、オーケストラを含めた音楽や文化の捉え方が、各国で異なることが分かります。日本では、音楽は、国によって保障するほど必要不可欠なものとはされていないようです。でも、そもそも今は、生きていくために、何が必要不可欠なものかは、国から保障されるのではなくて、個々で判断しなければならないという、ある意味自由で、ある意味恐ろしい時代なのですが。 

そんな今の日本での、オーケストラの運営は、企業と言えるでしょう。営利と結びつけることで、その利を得たものが残っていく世界です。繁栄する可能性も、絶滅する可能性も含んでいます。

こういったことは、たくさんあると思います。例えば日本の祭りに使われる踊りや音楽などでも同じです。初めは村の者が集まって当たり前にやっていたものが、存続が厳しくなる。その中で消えていくものがある反面、観光という商業と結びつくことができると、利を得ることで、伝承文化としてその存続を可能とし、その形態もそれに合わせて少しずつ変化してきます。
 このように、日本のオーケストラも、存続するために、それによって生み出されるものへと今後、次第にいろいろな面で変化していくことと思います。さらに半世紀後の日本フィルは、一体どうなっているかな?(竹宏)

エスプレシボ 4月号 250号

未来へ  竹内幸一

年度末で、いろんな方がお忙しそうです。きちんとした区切りをつけて、新しい年度を迎えるには、いろんな手続きが必要なのでしょう。音楽院では、別にそういう区切りはありませんので、いつまでも同じような練習の日が続きます。それで、その倦怠防止のためにも、一つのアクセントとして、「春の音楽祭」をこの時期に入れています。このステップを踏んで、また一段高いところへ進む方を良く見かけます。出演の皆様は大変ですが、自分自身の内面にどうぞチャレンジして、この一日に確実な足跡を残して下さい。

さて、前置きが長くなりましたが、今回は少し辛口時評?(になるかどうか)を書いてみましょう。最近読んだ本で2つのことに、少しショックを受けましたので、まずそれをご紹介しましょう。

一つは児童虐待のことです。毎日のように新聞等に記事が出て、胸が詰まるようなことが頻繁にありますね。私はそれに対し、親としてのその仕打ちに腹を立て、子供が可愛そうだとひたすらそれだけを思っていました。

しかし、最近読んだ本には、そういう虐待記事のあとに「これは人類が滅びはじめたということだ」と書いてありました。そう言われれば確かに、種の保存の否定ですね。いわば本能的であるはずの子育てが崩壊していくことは、人類の滅びの前兆なのかと、私は切っ先を突きつけられた気がしました。

もう一つは自殺者数のことです。よく新聞などでも取り上げられて何気なく見過ごしていました。平成10年以降、毎年3万人を越える人が自分で自分の命を絶っているのです。

この数字は、それまでそう私に響いてはいませんでした。しかし、今度読んだ本にはそれに続いて、「毎日100名ほどの方が自殺している」と書いてありました。年間3万数千人の自殺者数ということと同じなのですが、私には、毎日毎日、日本のどこかで100名もの方が自殺しているということが、これまた衝撃でした。児童虐待ということが人類の滅びへの道ならば、自殺という行為は、それ以上に直接的な人間の滅びに違いありません。

 なぜなんでしょう。なぜこのようになってしまったんでしょうね。様々なことが茫漠と浮かんできますが、私には具体的な答えがはっきり見つかりません。たぶんその道の専門家の方からはいろんな分析があり、対応策も出されているのかもしれません。しかし、誰ももうこれで安心という思いはしていないことでしょう。それどころか、事態はますます深刻化しているような気がします。

 自殺者数の記事に、このうちの2割は借金等の経済的な面が原因と書いてありました。児童虐待でも、そこにはやはり経済の問題が少なからず絡んでいることでしょう。

 別府の駅前通りには、あちこちで廃業店舗が増える中で、サラ金関係の店のなんと多いことでしょうか。それだけ需要があるから存在できるのでしょうが、これは、やはりどこかがゆがんでいる証のような気がします。きちんと働き給料を手にする暮らしをしている人には、本来は必要のない店舗のはずです。しかし、いろんな意味で困っている人は勿論、給料で暮らす普通の人まで、何かにあおられるように金を借りまくるようになり、自己破産する例は後を絶ちません。

 金銭にある麻薬のような魅力が蔓延し、その弊害が児童虐待や自殺へも通じる一つの原因であることは明らかだと、私は思います。 

 そういう思いをしている時に、この別府に、競艇の場外券売り場を設置したいという動きが起こっていることを知りました。いずれは、馬券売り場も作りたい意向のようです。それに加えて、観光発展の起爆剤に「別府にカジノ誘致を」という声も出ています。

 ギャンブルで身を持ち崩して、破滅していった人の例は珍しいことではありません。そして、その影には一家離散や、虐待、自殺などの悲惨な現象も勿論隠されています。

 しかし、そういうマイナス部分を押さえ込んでも、ギャンブル場を作りたい人たちがいます。それが経済の発展であり、街の活性化であると錯覚し、ひいては、自己の利益にもつながるからでしょう。しかし、私はたとえそれが繁栄というにしても、ギャンブルでの興奮と喧騒の街になるよりは、今のままでのんびり湯煙のあがるこの別府が好きです。路地裏散歩など、古いものを大事にするような新しい取り組みの芽生えのほうが、どれだけ心豊かな発展か分かりません。

 儲かることが成功であり、善であるという時代が続いています。すべての規範は金になるかどうかで判断され、それが経済の発展と信じ込まれています。金を求め、金をほしがり、やみ雲に走り続ける人間。街にサラ金が溢れます。その果てに幸せが待っていたのでしょうか?

 人間を置き去りにして、儲かれば何をしてもいいんだという典型的な見本が、ギャンブル場ではないかと私は思います。こういうギャンブル場はお断りだという、人の心が育ち大きくなるところから、人間回復の一歩が始まる気がします。先の、児童虐待や自殺の問題に、何らかの明るい光りが射すとすれば、そのあたりに糸口があると思えるのです。

 金はあるに越したことはありません。しかしいつも求め続けて焦燥感に駆られるのは辛いことですね。夢のような話かもしれませんが、貧しくとも、気持ちが豊かでのびのび暮らせるほうが、どれだけいいか分かりません。

でも、人々の持つ物差しの基準が代わることで、人間性が取り戻せるとしたら、その夢の可能性がないわけではありません。子供を大切にして暮らせるような、この街で何らかの癒しが得られ、生きていく希望が生まれるような・・・そんなふるさとを未来に残せたらと思います。

 私は、別府をギャンブルの街にするのは反対です。

リレー随筆108

ギターの音が大好きです 沖田 明子

 ある曲の中の一瞬、ギターの弦がキュッとなる音に、なぜかとても惹かれて、何度もその曲を聴きました。それ以来、ギターの音が大好きです。

 私は、障害がある方々と一緒に活動できる仕事に携わらせて頂いています。訪ねたある学校の教室には、アコースティックギターがありました。ギターは持ち運びできるし、子ども達の近くで演奏できるよと先生が話してくださいました。ピアノとは別の魅力を持ったギター、弾きたいなとずっと思いつづけてきました。ちょうどその頃、村治香織さんが大好きで、ボサノヴァも以前から好きだったので、思い切ってギターを購入しました。ところが指が届かなくて、練習もしなくなり1年が経ちました。

 竹内先生の教室へ以前通っていた方から当教室の事を伺いました。残念ながら4月からは別府を離れるため、習えたとしても2、3月の2ヶ月間だけ。それでも、ギターを弾きたい思いから、まったくの初歩から2ヶ月だけの受講をお願いしました。とても優しく丁寧に竹内先生に教えていただくことができ、まったく音を出せなかった自分が、ギターを弾けるようになり、本当に嬉しくて仕方ありません。初回のレッスンで戴いたエスプレシボ248号の‘10分でも’、この文章に惹かれるままに、できる限り毎日練習を始めました。練習する毎に、ギターの音や面白さにどんどんはまって、10分どころか気付けばあっという間に30分、1時間経っています。もちろん大成された方の10分には、はるかに及びません。

 2ヶ月だけ、という時間の限りが自分には良かったのかも知れません。いつまでも先生に教えていただけるという甘えが持てない分、1回のレッスンはなおさら貴重ですし、貪欲になれたと思います。ギターを教えていただけたこと、今までよりももっとギターを好きになったこと、短期であっても毎日練習できる今習うことができたこと、本当に光栄です。そして何よりも、こんなに夢中になれたことが嬉しいことです。

 教室を離れても、これからも練習を重ねたいと思います。ぽかぽか陽気の休日に、のんびりギターで好きな曲を弾きたいな、そんな夢を描いています。

 竹内先生の指の運びと、奏でる音たちは、私にはまるで魔法使いのようでした。竹内先生にお会いできたこと、心から感謝いたします。本当にありがとうございました。

お便り  大正琴 紫会主宰 矢野 シゲノ

 この度は当おさらい会への御競演をありがとうございます。

昨年暮のギターコンサートに感動してお礼の手紙を書こうと思いながら怠けていました。

 記念のコンサートに向けて大変なご苦労であった事を想像し、会場が少しでも埋まるようにと、クラシックには余り興味を持たぬ生徒さん達にも熱心にすすめました。意外に手ごたえがあって中には他の人達も誘ってくれたりして思いがけず追加の券をいただいたりしました。

 私自身は長い事ギターの演奏や合奏を聴くことなしに過ごしてきましたし、もともとギターの音色を余り好きではなかったのですが、あのコンサートで目が覚めるようにギターの魅力にはまりました。残念だったのは竜次君の演奏をきかれなかった事位で、あれ以来ギターの音色のまろやかで心に沁み入るような音楽が大好きになりました。本当に感動のコンサートでした。

 昭和三十年代友人と二人で日比谷公会堂で 七・八人位のギター合奏があるとの事で珍しいからと行ったのですが、全然ハモらないしつまんなかったねと言って帰った事を覚えています。あれから半世紀近く、楽器も低音楽器は改良も加えられて変わってきていると思いますし、又私自身の感性も昔よりいくらか向上して受け止め方の変化もあると思いますが本当に感動しました。

 難しい奏法を皆さんよく続けて勉強された事を思うとそれだけでも立派だなと思います。

 ピアノとオーケストラのコンサート位しか興味なかった私もこの頃はギターのコンサートを探すようになりました。今年度のルベックのコンサートも今から楽しみにしています。四月の大萩康司の券も手に入れました。昔いただいた新堀ギター室内合奏団も探し出して聴いています。あの頃ちっとも心に響かなかったギターの音がこんなにも変わってきこえるかと自分の変わり方にもおどろきます。人間って面白いですね。

私たちのおさらい会も今年で終わりになる事と思います。生徒さんの比較的若い方は九回なんて数は悪いから十回までやりましょうという人がありますが、何しろ高齢者ばかりとなった今、おさらい会の直前まで次々に腰や脚や全身の衰弱で次々に脱落して十三名とある所は十名位になってしまいました。個人レッスンができないのと、新人の教室をもつ元気もなくなって、新しく人を入れなかったのでどんどん高齢化し終わりに近づきました。私自身もダウンしてしまい、どんな会になるかと心配ばかりです。

一月始めにある健康法を知って実施したところ、急に元気が出てすっかり年の事を忘れていましたので少々体力に思い上がっていたようです。これからは、やはり年齢をよくわきまえて生活するように考え方を変えようと思っています。

竹内さんはいつも縁の下の力持ちのご苦労をしながら他を立ててこつこつと地道に継続しています。その音楽の発展に努力していらっしゃる姿を尊敬し続けています。今が一番充実した年齢、どうぞ益々発展し続けられるようにと祈っています。           

♪気ままなコンサートレポート♪ 4

 お便りを下さった矢野さんには、小さい時からお世話になっており、皆さんに使って頂いている教室のグランドピアノは、矢野さんのお蔭で手に入ったものです。温かいお人柄の矢野さんは、たくさんの生徒さんに大正琴のご指導をされています。その大正琴のコンサートを聴かせて頂いたので、今回書きたいと思います。また、この会にはギター合奏団ひまわりの賛助出演などもあり、変化に富んだ楽しいプログラムでした。

9回 紫会おさらい会(大正琴)

(3月21日13時〜 ニューライフプラザ) 出演者の方はご高齢の方が多いそうで、矢野さんのお話では、老人ホームなどに慰問演奏に行くと、聴いている方よりも、慰問した演奏者の年齢のほうが高いこともあるそうです。でも、コンサートで聴いた大正琴は、生き生きとして、本当に素敵でした。特に、大正琴のハーモニーに魅力を感じました。
 今まで大正琴を聴く機会が少なかったので、皆さんの奏でる堂々たるハーモニーに、驚きを感じました。ハーモニーは、音楽で重要な要素ですね。ハーモニーの中でも、私が最も大切だと思うのは、バスパート、低い音を担当するパートです。オーケストラでも、合奏や合唱でも、全てのハーモニーにおいて言えると思います。オーケストラのヴァイオリンや、合唱のソプラノは、メロディーを担当する華やかなパートですが、そのパート以上に、バスパートは、ハーモニーを支え、その音楽をある意味で支配する大変重要なパートです。
 今回の、大正琴のハーモニーの魅力は、そのバスパートにあるように感じました。私は、大正琴のことを余り知らないのですが、大正琴にはバス専用の大正琴があるそうです。そのバスが、穏やかな曲では、下からどっしりと支えて受け止め、軽やかな曲では下から持ち上げるように弾みをつけます。その上に、メロディーや他のパートが絡み合い、絶妙な合奏になっているのです。

合奏の魅力に加え、私が大正琴の魅力として感じることは、今、主に中高年の方に広く愛され、親しまれている楽器であるということです。こういった楽器は、貴重だと思います。例えば、外国では大正琴のように、ピアノやヴァイオリンを高齢の方が楽しんで弾いています。小さいころから習う楽器と、決まってないのです。今は少しずつ変わってきていますが、楽器は、いつからでも始められる!だからこそ幅広い層の方に、楽器を、音楽を楽しんでもらいたいと願います。大正琴はそういう意味で、とても重要な役割をもつ楽器ですよね。大正琴などの楽器を通し、音楽が益々たくさんの方の楽しみになりますように。(竹宏)

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