サンシティー音楽院 音楽だより♪
エスプレシボ
第236号
2月号2003年2月1日発行・別府市南立石1の2
発行者/竹内幸一 TEL 21-9167*FAX 21-9160
ホームページ http://www10.ocn.ne.jp/~t1a0k2u6/
Email takesan@oregano.ocn.ne.jp
骨を見る 竹内幸一
昨年の秋の終わりに少し旅行をしました。小郡の山頭火については既に書きましたが、今月は湯田の中原中也を取り上げてみたいと思います。
湯田では、種田山頭火も愛したとかいう風呂もあるホテル松政に泊まりました。ここから歩いて5,6分のところに中原中也記念館があったからです。一泊後の朝は、次の予定もありましたので記念館開館9時を目指してホテルを出ました。湯田きっての(300年以上の歴史を刻むと言う)松田屋ホテルの前の信号を渡ると、記念館はすぐにありました。
300円の入館料を払って入ると、展示入り口に赤いリボンをつけた身なりのいい紳士やおばさんが立っていました。なんとこの日は、「丘の上サあがって」という秋の企画展のスタートの日だったのです。市長や、中原家のゆかりの方、中也を研究する大学教授などが招待を受けて、並んでいました。
ちょうどその出発の時だったので、ご一緒にどうぞと入れてくれて、記念館が周到に準備した懇切丁寧な解説を聞きながら回りました。ラッキー。でも案内が終わって、館長が別室でお茶でもどうぞと賓客を案内するときには、呼んでもらえませんでした(何でかな?・・・・あつかましい!)・・・・
その企画展は、中也の精神病院での療養日誌が、膨大な資料の中から発見され、最晩年のことが新しく分かったことを中心にしていました。中也が29歳のとき、長男文也が2歳で亡くなります。「文空童子」と大きく毛筆で書かれている、亡くなった日の日記が展示されていました。「文也も詩を好きになればいいが。2代がかりならかなりなことが出来よう」とも7月24日の日記にも書いて、文也をいとしんでいました。文也を抱いたまま、いつまでも棺に入れることができなかったと伝えられています。
その衝撃は、柔らかく繊細な詩人の心のバランスを奪って行きます。愛児を失ったあと、精神病院に入院することになり、1年足らずの30歳で、中也は生涯を終えます。その最晩年の療養日誌の存在は、中也の心象風景があきらかになるという画期的な発見のようでした。
中也は明治40年山口県の湯田で軍医の長男として生まれました。記念館はその生誕の地に建てられています。前庭には、中也の幼少の頃からあった「カイヅカイブキ」の木が秋風にそよいでいました。13歳の頃より短歌などを作り始めます。17歳で、女優長谷川泰子と結婚しますが、翌年その妻が、小林秀雄のもとに去っていくという有名な事件に出会うことになります。早熟な結婚は勿論、不倫の別れなど大正時代のことですから、まさに時代を先取りする暮らしでした。
中也は第一詩集「山羊の歌」、そして亡くなった後小林秀雄などの友人の手で出された「在りし日の歌」の2冊の詩集を残しています。ここで、その在りし日の歌の中より「骨」という作品を取り上げてみたいと思います。
骨//ホラホラ、これが僕の骨だ、/生きていた時の苦労にみちた/あのけがらはしい肉を破って、/しらじらと雨に洗われ/ヌックと出た、骨の尖(さき)。//それは光沢もない、/ただいたづらにしらじらと、/雨を吸収する、/風に吹かれる/幾分空を反映する。//生きていた時に、/これが食堂の雑踏の中に、/坐ってみたこともある、/みつばのおしたしを食ったこともある、/と思えばなんとも可笑しい。//ホラホラ,これが僕の骨/見ているのは僕?可笑しなことだ。/霊魂は後に残って、/また骨の処にやって来て、/見ているのかしら?/故郷の小川のへりに、/半ばは枯れた草に立って/見ているのは、―――僕?/丁度立て札ほどの高さに、/骨はしらじらと
とんがっている。
長くなりましたが、「骨」という詩を終わりまで書きました。教科書などにも取り上げられていましたので、ご存知の方も多いかもしれません。私も、多分20代ごろに読んだことを懐かしく思い出しました。これから人生を歩き出そうとする頃でも、それは印象的でしたが、今読むと、また違った深さが感じられます。
この作品は中也の全作品の中で一番まとまった表現形式を持った秀作と言われています。他の作品は、泣き虫児的な発想と、傷口をいかにも痛そうに見せる支離滅裂な言葉の選択が、親しみやすい疼痛を読者にあたえるということで、人気を博しているというところもあるようです。自虐的なアイロニーとペーソスの痛々しさは、詩壇の評
価の中で必ずしもみとめられているわけではありません。しかし、その感傷的な美質は多くの人の心に届いています。
なかでも、この自分の骨を見るという、乾いた視点は独特です。もう一人の自分を意識するという垣根を越え、いわば自分の棺桶の中の姿を意識しています。少し不気味
な心の風景ですが、読者にいろいろな思いを与えることでしょう。限定してしまうような私の思いは書きませんが、あわただしく流されていくなかで、たまにはこのような視点を持つことも無駄にはならないことと思います。
あなたには自分の「骨」が見えますか?
<行事予定>
■第141回 さわやかコンサート
2月28日(金)鶴見病院6時40分
■第11回エチュード・ファミリー・クラブ例会 2月9日(日曜日午後7時)初心者歓迎!
■サンシティー音楽院講師演奏会
3月8日土曜日午後2時・シャンテドール
お土産ケーキ付き 1000円
■稲垣稔ギターリサイタル
3月17日(月)夜7時よりBコン中会議室
■春の音楽祭 4月29日サザンクロス
●ルベックスペシャル告知板
楽器パートが確定しました。いよいよ出発です。2月より毎週練習に入ります。2月2日(日)は楽譜作成をします。
☆レッスンお休みのお知らせ
2月11日は祭日でお休みです。
■◇ホームページできました■◇
この新聞など、竹内幸一のいろんな様子が分かるホームページが出来ました。これまではメールをやっている方に、いわば押し付け商法で送りつけて失礼していましたが、これからは興味のある方だけにHPを開いていただければと思い、作成しました。パソコンのことが良くわからない素人作品ですので、まだいろいろ手直しが必要ですが、長い目で見てください。掲示板もありますので、感想などの投稿もしていただけると嬉しいです。
ホームページ http://www10.ocn.ne.jp/~t1a0k2u6/
メールをお持ちの方はこちらへアクセスをお願いします。
なおご希望がありましたので、更新情報だけは別途メールでお送りしますことをお許しください。
J.S.バッハについて 5 友永敬子
D ミュールハウゼン時代 (1707〜1708年)ミュールハウゼン聖ブラウジウス教会のオルガン奏者に採用される。
この間に、いとこのマリア・バルバラと結婚した。
ミュールハウゼンでは、オルガン奏者としての職務を果たすと同時に、教会用声楽曲の作曲と演奏にも熱意を示した。市参議の命により、壮大なカンカータ『神はわが王』を作曲した。聴衆に感動を与え、市参議は印刷出版させた。これは、作曲家としてのバッハの実力を世に知らしめる事になった。現存するバッハのカンタータのうちで、生前に印刷された唯一の曲である。
純粋に自分の音楽を追求しようとするさまざまの規則に縛られ、ミュールハウゼンの保守的な音楽環境に、不満を持ってきた。バッハは1年後、辞表を出した。(つづく)
リレー随筆90
一生涯できる趣味 ギター科 村上 昭子
はじめまして、私は愛媛県で生まれ育ち、去年の3月に別府市に引越して来ました。
私が、ギターを始めたきっかけを書きたいと思います。
ギターとの出会いは、中学生時代です。フォークソング好きの先生がいて、自習の時間や休み時間に、イルカの「なごり雪」、かぐや姫の「神田川」の弾き語りをしてくれ、憧れを感じたことからでした。
友達と夏休みバイトをして、安いフォークギターを買い、本を見て練習をしたけれど、楽譜が読めない!!リズム感がない!!指がとどかない!!と言う結果で諦め、押入れの中に閉まったままになりました。
そして社会人になり、ギターを習いたいと思っていましたが、勤務時間が不規則な点もあり、何もせず5年間が過ぎました。
私は、今まで何かを成し遂げたことがありません。去年の引越しをきっかけに、ギターを本格的に習おうとギター教室を探したところ、縁あってサンシティー音楽院を紹介して頂きました。
中学時代の失敗もあり、緊張していた私を、竹内先生はやさしく指導してくれました。そして、少しうまく弾けるたびに誉めてくれるので、やる気が出ました。
半年が過ぎた頃、先生にひまわりと言うギターサークルを紹介して頂き1人で弾く楽しさとは違う、みんなで弾く楽しさを知りました。初心者の私を温かく仲間に入れてくれた、ひまわりのみなさんと竹内先生に感謝しています。
コンサートに何度か行き、若い子からお年を召した方まで、楽しそうにギターを弾いている姿を見て、私にも夢ができました。それは、友達の結婚式でラブソングを弾けたらステキだろうな!!と言うものと、私のギター演奏を聞いて、楽しい時間を過ごせる人が居たらいいだろうな!!と言うものです。
まだ初心者なので、遠い先のことになりますが一生涯できる趣味なので、気長に頑張っていきたいと思います。
Minoru
Inagaki
稲垣稔ギターリサイタル開催
竹内竜次が学生時代に師事した方で、フランスに留学しようとする進路にも大きな影響を与えてくれました。結婚式にも参列していただきましたのでご存知の方も多いことと思います。ぜひ応援してください。
★時/3月17日(月曜日)夜7時開演
★所/Bコンプラザ・中会議室
★入場料/一般2千円・学生千円
稲垣 稔 プロフィール
兵庫県明石市出身。11歳でギターを始め、佐本博、近藤敏明両氏に師事。
1975年
第2回日本ギターコンクール(大阪)第1位。
1977年 渡仏。パリ国立音楽院ギター科に入学、A.ラゴヤ氏に師事。
1980年
同音楽院を首席(プリミエ=プリ)で卒業。パリU.F.A.M.国際
音楽コンクール第1位。
第6回セゴビア国際ギターコンクール(スペイン)第1位。
1981年
第6回ガルニャーノ国際ギターコンクール(イタリア)最高位。
1982年 スペイン・日本両政府共催による「日本週間」で日本人ギタリスト
代表としてリサイタルを開催。
1984年 ジョルジュ・シフラ主催の新進演奏家オーディションに合格。
1985年
フランスのテレビ番組「ユネスコ40周年記念」にゲスト出演。
1987年 サブレ国際ギターコンクール(フランス)第1位。
1988年
スペイン大使館主催「セゴビア追悼コンサート」(フランス)に出演。
帰国。NHK「FMリサイタル」に出演。東京(バリオスホール)、大阪(アクア文
化ホール)にてデビューリサイタルを開催。
1993年
第48回文化庁主催芸術祭音楽部門で、『芸術祭賞』を受賞。
1994年 CDアルバム、「ソナチネ」「ファンタジア」「レヴリ」の3枚を発表し、いずれも「レコード芸術」誌等で特選などの高い評価を得る。
1995年
兵庫県より、平成7年度「兵庫県芸術奨励賞」を受賞。また同年
イケヤ=セキ彗星の発見者として名高い関勉氏により、新発見の惑星に「イナガキ」の名が付けられた。これはギタリストとしては
セゴビアに次いで2人目となる。
1996・97年 連続でJ.G.A.(ジャパン・ギター・アソシエーション)主催の
『ギターフェスティバル』にゲストとして招かれる。最近ではソロ活動はもとより、室内楽の分野にも活動を広げ、1998年11月J.S.バッハの2台のギターの為の「イタリア協奏曲BWV971」
(稲垣・松本共編)が現代ギター社より出版された。
1999年6月 東京文化会館にてチエコの名門、ヤナーチェク弦楽カルテットと共演し絶賛される。
1999年7月 CDアルバム「イタリア協奏曲(J.S.バッハ)」(ギターデュオ)がEXTONレーベルより発売される。
2001年4月 第5回ヴァンドーム国際ギターフェスティバル(フランス)に日本人ギタリストとして招待演奏し絶賛される。
これまでにフランス、スペイン、イタリア、スイス、韓国、日本等でコンサートや講演会を催すほか、TV・ラジオにも出演し幅広い活動を行っている。
長崎見聞録 5 河野観光社
14:00前10分に、舞台袖に控えました。チューニングは?と指揮者が促します。「はい、できてます。」 「誰々さんはいる?」「エッ?」「どこ?」「なに?」意味不明の会話が飛び交うのも本番前ならではです。舞台プロデューサーの声。「はい、本番3分前。ブザー鳴らして」「はい、1分前」「本日は九州ギターフェスティバルイン長崎に、ご来場いただきまして・・・・」よし、いこうとだれともなく、かけ声をかけ舞台に立ちました。
「いやー、終わったー。」袖に引き上げ、顔を合わせ笑顔のるつぼ。失敗などどこ吹く風で、この一瞬がたまらんいいです。この時、思いました。「初っぱなの出番がいい。」と。この後を思ったら気は楽だしあのプログラムは聴き落とせない。飯はあれを食いたいなどときら星のごとく思い巡りました。演奏の感想等は後で誰かがしてくれるでしょう。
というわけで、アンサンブル終了後ホテルへ向かいました。楽器類は会場に預け荷物だけ持って、電車でなくタクシーで向かいました。ここから紳士3さんは佐世保に向かいました。何でもお孫さんが待っているとかで。
ホテルはあの出島隣の「ベルビュー長崎」。改築早々のホテルできれいでした。ロビーにつくと硬水のサービスが目に付きました。田舎坊ですからものめずらく早速試飲しました。冷やしすぎてなくて、うまい。観海荘の温泉もうまい。あまりのうまさ
に手持ちのペットボトルへお土産にもらいました。これを見ていた紳士2さんがにやにやしておりました。このホテルはインターネットのジャックを各部屋に装備しているんだって・・・。使えこなせなかったけどね。団体行動の後、シングル部屋に入ってちょっととまどいます。「エッ、まだこんな事してていいのかな?集合時間は?」なんて心配してしまいますウ。集合10分前ロビーに降りると紳士4さんが先着でした。(つづく)