さそり座の歌 1000
一ヶ月ほど前に、田舎の母の世話をしてくれているケアマネージャーさんから電話があった。「お母さんが、ゲルマニウム付きの寝具を15万円で買ってますけど、ご存知ですか」というのだ。全く知らなかったので、そう話した。その後、ケアマネさんが消費者センターに相談してくれ、払った分は返金され、残りも払わなくて良くなった。
余分な仕事なのに、あちこち奔走してくださったケアマネさんに、手を合わせたいほどだった。元はと言えば、いつも一人にしている親不孝息子のせいでもあるのだ。知らない男が、「ばあちゃん、いい天気やな」と親しげに話しかけて、しばらく世間話でもすれば、何か癒されることがあるのだろう。いつだったか「怪しいと分かっていたけど、この子の為なら、だまされてもいいと思った」と、被害者が語っていたのを新聞で読んだことがある。さびしい時間の中での、優しいかけ声は、かけがえのないものなのかもしれないと思うと、切ないし、申し訳ない。
それはともかく、「こういのは名簿が出回っていて、次々来ますよ。通帳とか印鑑を、もう息子さんが預かっていたらどうですか」と、ケアマネさんから助言があったので急遽そのようにした。その代わり、普段の暮らしで要る雑費のために、母の財布に幾許かのお金を月に一度入れに帰ることになった。
今日は、その母の財布への入金のために、2回目の帰省をした。財布を見ると、前のときより、三分の一ほど減っていた。「お金はあるかえ」と尋ねると「買うものは何もないよ」と答え、「もう、郵便局までおろしにいききらん」ともいうのだ。「いや、だから、通帳は・・・・」とまた改めて説明せざるをえなかった。通帳の入っている引き出しに、通帳と印鑑は、息子が持って帰っていることを書いた紙を入れている。もし探したときには、その紙が目に入ることを願って。
ふと家の郵便ポストを見ると、湯便物がはみ出していた。かなりの郵便物がたまっていた。聞けば、手が届かなくなったので、取れないというのだ。それで、そのポストをはずして下におろしたかったのだが、釘が錆付いていて、どうしても外れない。今度、新しいポストを買って帰る約束をした。
郵便物の中に、喪中はがきが4枚あった。それを読んで、「あっ、悦ちゃんが」と母の呻きが聞こえた。いつも仲良くしていた同級生とのことだった。
何はともあれ、帰ればそれなりにやらなければならないことが見えてくる。今の私の役割を果たして行きたい。
さそり座の歌 1001
1974年の9月15日に、この「さそり座の歌」を始めている。それから38年過ぎて、連載は、2012年の12月2日に1000回に到達した。その原稿を送ってすぐに、池田さんからの返信で、文学サークルの解散を知ることになった。奇しくも、1000回を出し終えてからと思うと、これも何か、不思議なめぐり合わせのような気がして、深い感慨を覚える。
久しぶりに古い例会機関紙を引っ張り出してみた。ガリ版刷りの、へたくそな私の文字がなつかしく躍っていた。茶色の西洋紙のはみ出ている縁の部分は、焦げ茶色になりぽろぽろと風化して、土に戻りそうな感じもしたほど古くなっていた。
18歳の頃、亀川の国立病院に入院していた。ふと新聞記事を見てハガキを出したところ、例会に誘われたので、どこかの公民館の2階で開かれていた文学サークルに、初めて病院から参加した。確かまだ坊主頭で、高校生気分のままの頃だった。文学など何も分かってはいなかったが、先の見えない入院生活の中で、そこに何かを求めたのだろう。
それ以来、文学サークルは、私の人生の柱になった。一枚のハガキが、私の人生の未来を開くことになった。そのちょっとした一歩が、今日につながったことを思うと、ハガキは、素晴らしい当たりくじだった。
私は、サークルから、そして池田さんから、「持続する」ということを学んだ。そのお手本があればこそ、今の私の暮らしの中の積み重ねが存在する。このさそり座の歌が1000回まで続いたのは、サークルの持続が背景にあるからに他ならない。
サークルを通しての思い出には、限りがない。池田さん、松下さん、右田さん、福田さん…、一緒に食べたり飲んだり、麻雀もよくした(楽しかったなあ)・・・たくさんのサークルの先輩を通して、私は生きるとはどういうことかを学ぶことができた。公私に、いろいろ助けていただいた。どれだけ感謝しても、しすぎることのない、大きな恵みをいただいた。
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「サークル」と言うだけで、何か特別で独特の響きが体に伝わります。「サークル」は、私の血や骨なんでしょう。別府文学サークルは、私の人生の、大切な、大切な宝物です。有難うございました。心よりお礼を申し上げます。
50年間もの長い間、大変お疲れ様でした。偉大な仕事をやり遂げましたね。一つの時代が終わることを感じます。