さそり座の歌 998 

 木曜日の午後のことだった。郵便局に用事があって出かけた。車のドアを閉めて、郵便局の前の道路を見ると、車が信号でだいぶ並んでいる。

 そちらを見て、「渡れるかな」と思った瞬間だった。風景が突然傾いた。あ、あ、あ、と「あ」を3回言うほどの間に、膝、右手、左手、左肩から落ちて行き、顔がコンクリの直前で止まった。乾いたコンクリの臭いが鼻に充満した。

 座り込んで呆然とした。膝や手が痛い。車止めの出っ張りに左足が引っかかって転んだのだと理解しつつ、何とか立ち上がった。歩けることは歩ける。指を動かしてみても、全部よく動く。大丈夫かも…とジンジンした痛みの中で、少し安心した。

 車を運転して帰る。しかし左手が痛くてハンドルを回せない。必死の思いで、何とか家まで帰り着いて、あちこち冷湿布をしてもらうと、何とか人心地がついた。

 動かさなければ余り痛まなくなったので、そのまま様子を見ることにする。夜、ギターを抱えてみるが、左手が痛くて持ち上がらない。「とても弾けないな」と愕然とする。

 ほんの一瞬のうちに暗転したのだ。色々なことが頭の中を巡る。明日は、21年毎月続けた病院コンサートがある。いよいよその連続記録もストップか?万一骨折なら、9月2日、23日のコンサートはどうしよう。不安は悪い妄想につながる。

 まあ、一晩寝ればという願いも、変化なし。ギターを持っても左手が同じように痛むので、病院行きを決心した。レントゲンを撮って、判定が出る。「打撲ですね。しばらく左手を動かさないように」と言って、左手に湿布を包帯でぐるぐる巻きにして終りだった。

 「よかった、とりあえず骨折でなくて」と気分が晴れる。現金なもので、そのご託宣のせいか、帰ってギターを抱えてみると、何とか音が拾える。「弾けるかも?無理かも?」と思いつつ、午後の仕事場のトキハへ、タクシーで行った。初めてのこと。1040円。

 左手を固く包帯で締めているので、なんだか痺れているようでもあり、痛みがそうない。その夜の病院コンサートで、一曲弾き終わるたびに「やったあ、弾けた、弾けた」と、誰にも気づかれないように一人で喜んだ。

 もうまかり間違ったようなものだが、この続編だけには出会いたくない。まかり間違えば…と思うと空恐ろしくなる。慎重に、慎重に、足を高く上げて歩かないと・・・。
 
さそり座の歌 999 

 今日は仕事のある日だったが、レッスンをやりくりして1日空けた。

 いろいろと回るところがあるので、朝8時にこちらをスタートして、まず、田舎の母の世話をしてくれている社会福祉センターに向かった。そこでケアマネージャーのKさんより、介護保険証や医療保険証を預かった。

 それを持って向かったところは、近くにある特別養護老人ホームだった。いよいよ新しい段階を踏まねばならなくなったのだ。

 先日、田舎に一人で住む母を久しぶりに訪ねて、昼飯を一緒に食べた。そのとき、いつもそういうことを言わない母が、「足が動かんようになったら、デイサービスにも行けんようになるので、そのときどこか入るところを探しといてくれんかな」と、何度か私に頼むのだ。これまでは、そんな話をすると、いつも「ここが一番いい」と繰り返していた。それが、時折介護センターにも電話をして、「動けんようになったらどうしよう」と不安を訴えることもあったそうだ。

 それで、いますぐはともかく、申し込みだけはしておいたほうがいいということになり、今日その申込書を書きに行ったのだ。

 3箇所に申し込みをした。市役所で母宛の郵便物を私へ転送手続きもした。お世話になっている従妹のところへお礼にも行った。すべてを済ませて、母のところへ帰った。「悪くなったらすぐ入れるように、申し込みが出来たから、何も心配せんでいいよ」と話をしたら、喜んでいるような感じだった。

 そう言いつつ、部屋のあちこちを見回していた。半分しか開かない障子戸、私が子どものころから貼ってある複製の粗末な絵、飾り棚の人形…それらは何十年も変わることのない景色だった。

 そして電話台の黒電話。「ちょっと帰るから」と電話をすると、「何もしてあげられんよ」と、食事の準備が出来ないお詫びの声が、その電話から最近はいつも聞こえてきた。その電話の声が聞けない日が来る一里塚が、今日なのかもしれない。その日は私のふるさとが、空洞になる日でもある。

 その部屋に住み続けて、88年。母は、これからどれくらい、この部屋に住むことができるのだろう。

 仏壇の横の床の間に、倉田紘文先生からいただいた絵皿が飾ってある。仏様に手を合わせたあと、いつもその皿に目が行く。その皿には、先生の優しい丸い字で「ふるさとに今も母ある冬日かな」と揮毫されている。
 

さそり座の歌 1000

 一ヶ月ほど前に、田舎の母の世話をしてくれているケアマネージャーさんから電話があった。「お母さんが、ゲルマニウム付きの寝具を15万円で買ってますけど、ご存知ですか」というのだ。全く知らなかったので、そう話した。その後、ケアマネさんが消費者センターに相談してくれ、払った分は返金され、残りも払わなくて良くなった。

 余分な仕事なのに、あちこち奔走してくださったケアマネさんに、手を合わせたいほどだった。元はと言えば、いつも一人にしている親不孝息子のせいでもあるのだ。知らない男が、「ばあちゃん、いい天気やな」と親しげに話しかけて、しばらく世間話でもすれば、何か癒されることがあるのだろう。いつだったか「怪しいと分かっていたけど、この子の為なら、だまされてもいいと思った」と、被害者が語っていたのを新聞で読んだことがある。さびしい時間の中での、優しいかけ声は、かけがえのないものなのかもしれないと思うと、切ないし、申し訳ない。

 それはともかく、「こういのは名簿が出回っていて、次々来ますよ。通帳とか印鑑を、もう息子さんが預かっていたらどうですか」と、ケアマネさんから助言があったので急遽そのようにした。その代わり、普段の暮らしで要る雑費のために、母の財布に幾許かのお金を月に一度入れに帰ることになった。

 今日は、その母の財布への入金のために、2回目の帰省をした。財布を見ると、前のときより、三分の一ほど減っていた。「お金はあるかえ」と尋ねると「買うものは何もないよ」と答え、「もう、郵便局までおろしにいききらん」ともいうのだ。「いや、だから、通帳は・・・・」とまた改めて説明せざるをえなかった。通帳の入っている引き出しに、通帳と印鑑は、息子が持って帰っていることを書いた紙を入れている。もし探したときには、その紙が目に入ることを願って。

 ふと家の郵便ポストを見ると、湯便物がはみ出していた。かなりの郵便物がたまっていた。聞けば、手が届かなくなったので、取れないというのだ。それで、そのポストをはずして下におろしたかったのだが、釘が錆付いていて、どうしても外れない。今度、新しいポストを買って帰る約束をした。

 郵便物の中に、喪中はがきが4枚あった。それを読んで、「あっ、悦ちゃんが」と母の呻きが聞こえた。いつも仲良くしていた同級生とのことだった。

 何はともあれ、帰ればそれなりにやらなければならないことが見えてくる。今の私の役割を果たして行きたい。

さそり座の歌 1001

 1974年の9月15日に、この「さそり座の歌」を始めている。それから38年過ぎて、連載は、2012年の12月2日に1000回に到達した。その原稿を送ってすぐに、池田さんからの返信で、文学サークルの解散を知ることになった。奇しくも、1000回を出し終えてからと思うと、これも何か、不思議なめぐり合わせのような気がして、深い感慨を覚える。

 久しぶりに古い例会機関紙を引っ張り出してみた。ガリ版刷りの、へたくそな私の文字がなつかしく躍っていた。茶色の西洋紙のはみ出ている縁の部分は、焦げ茶色になりぽろぽろと風化して、土に戻りそうな感じもしたほど古くなっていた。

 18歳の頃、亀川の国立病院に入院していた。ふと新聞記事を見てハガキを出したところ、例会に誘われたので、どこかの公民館の2階で開かれていた文学サークルに、初めて病院から参加した。確かまだ坊主頭で、高校生気分のままの頃だった。文学など何も分かってはいなかったが、先の見えない入院生活の中で、そこに何かを求めたのだろう。

 それ以来、文学サークルは、私の人生の柱になった。一枚のハガキが、私の人生の未来を開くことになった。そのちょっとした一歩が、今日につながったことを思うと、ハガキは、素晴らしい当たりくじだった。

 私は、サークルから、そして池田さんから、「持続する」ということを学んだ。そのお手本があればこそ、今の私の暮らしの中の積み重ねが存在する。このさそり座の歌が1000回まで続いたのは、サークルの持続が背景にあるからに他ならない。

 サークルを通しての思い出には、限りがない。池田さん、松下さん、右田さん、福田さん…、一緒に食べたり飲んだり、麻雀もよくした(楽しかったなあ)・・・たくさんのサークルの先輩を通して、私は生きるとはどういうことかを学ぶことができた。公私に、いろいろ助けていただいた。どれだけ感謝しても、しすぎることのない、大きな恵みをいただいた。
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 「サークル」と言うだけで、何か特別で独特の響きが体に伝わります。「サークル」は、私の血や骨なんでしょう。別府文学サークルは、私の人生の、大切な、大切な宝物です。有難うございました。心よりお礼を申し上げます。
50年間もの長い間、大変お疲れ様でした。偉大な仕事をやり遂げましたね。一つの時代が終わることを感じます。

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