さそり座の歌 994

 1歳半ほどになる孫が、日々成長している。日替わりで、少しずつ言葉が増えていくのが面白い。

 最近「バイバイ」の多様な使い方に気がついたので、書き残しておこうと思う。

 バイバイの本来の意味は「さようなら」、または「行ってらっしゃい」と言うところだろう。「仕事に行ってくるよ」と手を振ると「バイバイ」と応える。

 最近とても人見知りで、知らない方が近づいてくると号泣する。その泣き出す前に「バイバイ」が続けて出る。親しげに知らない方が**ちゃんと、手を出して抱こうとすると、両手を前に出して押し返すように「バイバイ、バイバイ」を繰り返す。「近寄らないで、来ないで」の訴えが「バイバイ」になるのだ。

 私たちは良く知っている親しい方でも、孫にとっては初めてなので、姿を見た途端に「バイバイ」とやることもある。来たばかりなのに、「早く帰れ」と言っている様で、気を悪くしなければいいがと、申し訳なくなることも多い。

 食べ物などの、もう要らないという合図も「バイバイ」とやる。ご飯を食べていて「まだ食べるの」と尋ねると、食べたいときは、こっくり頷く。もういらない場合は「バイバイ」と手を振って意思表示する。

 絵本を見ていても、飽きてくると「バイバイ」と、終わりたいという合図をする。風呂に入っていても、出たくなると、「バイバイ、バイバイ」と訴える。

 それで意味が通じるということを発見したというのが、不思議でもあり面白いところだ。なるほど、「バイバイ」のそういう使い方もありなのかと、大人のほうがビックリしているところだ。

 英語の発音を覚えるとき、舌を少し噛んでとか、上顎につけてなど、形から覚えさせられた。今、孫にはそんな指導は全くない。周りの大人やテレビなどからの、多種多様の言葉のシャワーが滲みこんで、いつしか単語が増えていく。

 「ばあば」、「ママ」、「じいじ」、「にゃん」、「ぶうぶ」…など、ものに名前があることを、誰も教えないのに自然に認識していく。英語がさっぱりしゃべれない者から見ると、その発達には、神がかり的なものさえ感じる。

 (優しい目をして孫に近寄ってくれた皆さん、即座に「バイバイ」と拒否して、申し訳ありませんでした。この場を借りてお詫びします。)
 

さそり座の歌 995 

 ある航空会社が苦情を受け付けないとか、サービスの一部を削除すると発表した。しかし、たくさんの非難の声が届いたのか、どうも取り消すようだ。

 その新聞記事を見たとき、ずいぶん思い切った方針でビックリもし、そこまで言うのはちょっとおかしいだろうとも思わせられた。しかしながら、そう言わざるを得ない状況も、少しは理解できる。

 例えば、「赤ちゃんの泣き声に対する苦情は受け付けない」と具体的に書いてあった。

 「うるさくて寝られんぞ、何とかしろ」と言うおじさん。「いつまで泣かしているのよ、いい加減にどうにかしてよ」と言うヒステリー気味のおばさん。

 遠慮なしに噛み付く「大切なお客様」に対する、客室乗務員のうろたえる姿が目に見えるようだ。そんなことを言われたって、困ってしまうことだろう。親だって、何とかしたいといろいろ手を尽くしている。客室乗務員も一緒になって、ばぶばぶとあやしたところで、熱でもあれば泣き止むはずもない。いわばこれは不可抗力なのだ。しかしながら、それが理解できない人も確かにいるし、その心情も分からないではない。この板ばさみの苦労の多さが、具体例になって表れたのだろう。

 私の音楽院でも、次のようなことが一件だけあった。電話で、**を習いたいと問い合わせが時折ある。こういう場合は、いつも担当の講師と直接話をしてもらっている。それで「あとで担当の講師に電話をさせますので」と対応する。

 1時間ほどして問い合わせの方から電話があった。「電話の前で待っているのに、どうなっているのか」とすごい剣幕なのだ。「電話がかかると思って、どこにも行かれんではないか」などと、長々と怒りの言葉を並べる。謝っても、謝っても、噛み付く険しい言葉が続く。うだうだと話は横道にも逸れ、異様にぎりぎりと責めあげてくる。

 あるスーパーで「苦情受付」を担当している方が知り合いにいる。ああまたこの人かという、噛み付き常習の人がいるそうだ。

 とはいえ、やはり、「赤ちゃんの苦情は受け付けない」と突き放すわけには行かないのだろうな。どうにかして穏便に済ませる努力をしなければならないのだろう。こちらも「担当講師の都合にもよりますので、電話がいつごろになるかはっきり言えないのですが」と対応に細心の注意を払うようにした。

「サービス業は悲しからずや」
 
 
 

さそり座の歌 996 

 朝11時半からの、二人組の生徒さんの1人から電話があった。もう片方の方のご主人が亡くなったので、ギターのレッスンをお休みしますという知らせだった。

 ギターの生徒さんのご主人が亡くなるのは、この2ヶ月ほどの間に3人目になる。先月は、2日空けて二人が続けて亡くなった。その連続には驚かされ、こんなこと初めてだなと言いながら、仲間と葬儀に参列した。そのほとぼりも冷めないうちに、また訃報の知らせが届いた。

 それに加え、脳梗塞、白内障、神経痛、そして定年退職など、親しくしている方からのいろいろな知らせが届く。身の回りでは、様々な変化が起きているのだが、それをまとめてみると怖くなる。

 こういうときは、不意に「無常」という言葉を思いだす。「この世の中の一切のものは常に生滅流転(しょうめつるてん)して、永遠不変のものはない」と、辞書に書いてある。ごくごく当たり前のことだが、普段は、そういう気分からは遠ざかっている。

 人は、思い込みの塀の中に逃げ込んでいるのだろう。まあしばらくは、このままの状態が続くだろうと言う思い込みが、一つの救いなのかもしれない。
 
 毎年、毎年、ほぼ同じようなメンバーで、合奏団のコンサートを開いてきた。また、自分の教室、公民館、デパートの文化教室で、見慣れた顔ぶれにギターのレッスンを続けている。

 この状態は、いつまでも続くような気持ちでいる。これまでとほとんど変わりなく10年、20年と過ぎてきたから、愚かなことだが、このまま未来永劫続きそうな気さえしている。

 しかし、それは錯覚なのだ。希望的観測に安住している日々に、時おり棘が刺さる。少しずつ、少しずつ有力で大切な人材が零れ落ちていく。

 勿論私自身も、足の痛み、そして耳や腎臓などの限界がいつか来ることだろう。否応なしに、引退という時期が来て、大勢の仲間と別れざるを得なくなる。

 無常。いい時にも悪い時にも、この言葉には、深遠の響きがある。逃げてはいけないのだろう。いかなると時も、この言葉をきちんと背負って、与えられた今をしっかり生きていく。辛いことだが、思い込みや錯覚から離れて、うろたえない日々を送りたい。
 
さそり座の歌 997

 新聞で、パチンコに行っていて、また車に残した幼児を死なせてしまうという記事を読んだ。こんな記事に出会うのは、もう何度目になるだろうか。腹立たしいやら悲しいやら、呆れて言葉が出てこない。

 そんな悲劇がなぜ繰り返されるのだろう。その背景にはそれぞれ個別の事情があるのだろうが、記事を読む外部の者にとっては、繰り返されるのが不思議で仕方のない悲劇だ。

 今、街の中の豪華な建物は、たいがいパチンコ屋さんだ。様々な個人商店が寂れて行く中で、そのきらびやかな様子は、異様な殿堂としてそびえている。

 しかしながら、それが成り立っていくのは、利用するたくさんの人がいるからだろう。私はパチンコをしないので、その魅力は分からないが、そこへ行くことで、楽しい時間を過ごしている方が多いのだろう。日々の退屈や憂さ晴らしに、パチンコは庶民の健全なレジャーの一つになっているのかもしれない。

 そのパチンコファンの中に、乳児を抱える若いママがいても不思議ではない。長い育児の時間の中で、息抜きをしたくなることもあるだろう。

 私の娘のところにも、孫が出来ていて、もうすぐ2歳になる。自分たちの子育てのときにはそう大変でもなかった気がするのだが、娘の子育ての様子を聞くと、いろいろ大変なようだ。(自分たちのことは、もう忘れているのかもしれないが…)

 ピアノの練習をしたくても、ほとんど出来ないようだ。それで、演奏会が近くなると、妻が子守に時折呼ばれて出かける。風呂で水浴びとかして遊ばせている間に、娘は全力で練習する。若いママは自分のことをする時間がほとんど取れないのだ。

 「ちょっと、パチンコに行って来るから、お母さん頼む」とは、言えないだろうな?そういうことが言える良好な親子関係のところには、悲劇は起きないだろうが。

 今、演奏会や講演会等で、「託児所あります」というケースもある。パチンコ屋さんの中に託児所があれば、悲劇もなくなるだろうし、お客さんも増えるはずだ。

 しかし、幼児虐待などの多さから見ても、そんな小手先では解決できない、悲劇へつながる深い闇が、若い人の中の精神と暮らしの中にあるのだろう。怖ろしいことだ。
 
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