さそり座の歌 990 

 1歳3ヶ月の孫が遊びに来ている。日が経つにつれ、よちよち歩き出し、意味の分かる言葉を少しずつ話し出したりする。その日々の変化を見るのは、とても楽しい。

 中でも、食事の場面は、いろいろと変化があって面白い。今のお気に入りは、味噌汁のわかめ、煮た大根、それにどういう訳か納豆ご飯もよく食べる。
その食べかたを見ていて思ったのだが、今は、本能の赴くままと言うか、体の要求するものを、素直にそのまま口にしている感じだ。

 これを食べると体にいいとか、肥ると困るなどの雑念は、勿論全く前提にない。体のどこかから、今はそれが必要という命令を受けて、素直にそれを口にしている感じなのだ。

 いつだったか、幕の内弁当があったのでそれを見せたら、たくさんの種類の食品をじっと眺めていて、「これ」と指差した。それは大根の漬物だった。しばらくしゃぶっていたが、体が塩分を要求していたのだろうか。

 昨日までバナナが好きだったのに、海苔をよく食べていたのにと思っても、体が要求しなくなると、要らないという拒否の意思表示は実にはっきりしている。手を振って顔をそむける。何度すすめても、妥協はない。何かのついでに要求していないものが口に入ると、ちょっと噛んで味が分かり次第、また口から出してしまう。その断固とした意思は、どうしてそこまでと不思議に思えるほどだ。

 指差して、これを食べたい、手を振ってこれはお断りが、実にはっきりしているのだ。これは何歳ぐらいまでのことなのだろうか?体の欲する内面の声をいつまでも聴くことができれば、健康な体に自然になっていくのではとも思うが、そうはいかないようだ。

 大きくなるにつれ、食べ物に対するいろんな情報が脳に注ぎ込まれていく。それに振り回されて、いつか本能の声を聴くことができなくなるのだろう。これは体にいいはず、悪いはず、残り物を整理しよう、そして勿論、予算との相談で食べるものも決まってくる。

 そして、体が要求しないものが無理やり押し込まれ、必要なものは入らないことになる。その弊害でガンや高血圧になるのかも知れない。

 健康になりたければ、「赤ん坊の食生活に学べ」という、栄養学者の研究報告が出るようなことは、これから先ないだろうか?
 

さそり座の歌 991 

 2月6日午前9時4分、叔母が81才で亡くなった。大腸癌が転移していて、ほんの1ヶ月ほどの入院であっけなくこの世を去った。

 この叔母は母の妹で、私にとっていわば2番目の母親のような親しみを持っていた方だった。極めて個人的なことになるが、その叔母の思い出を少し書き残しておきたいと思う。

 私の小さいころ、叔母は結婚して東京に住んでいた。そのご主人との間に子供がいなかったからだと思うが、姉の子である私に、何かといろいろ贈り物をしてくれた。

 また「東京のおばちゃん」から小包が着いたと、目を輝かして開いたものだ。それは食べ物であったり、文房具であったり、本であったりした。そのどれにも、何だか東京の眩しい輝きがあった。田舎の農家で育った私には、手に入ることのないはずの貴重な品物が、江戸時代から続いている古ぼけた家のなかできらめいていた。

 食べ物では、チーズとか紅茶があった。初めて飲む紅茶の香りには、遠い東京の大都会の匂いがした。文房具では、ファスナーつきの筆箱とか、三角の鉛筆とか、誰も持っていないような珍しいものが多かった。中学の入学のときには、革の手提げかばんを贈ってくれた。当時は、肩掛けの白い布かばんが普通で、貰ったのはいいけど、それを持って学校に行くのが、恥ずかしくてならなかった。それもなつかしい思い出のひとつだ。

 今でも田舎の家にあるが、野口英世、ヘレン・ケラー、水戸光圀などの偉人伝の本は、何度も何度も読んだ。50年過ぎた今でも、その挿絵が浮かんでくる。本を読むのが好きになったのは、その本からだと思う。「少年」という月刊誌を送ってくれていたこともあった。たぶんこの本で、赤胴鈴之助や鉄人28号を楽しんだのだと思う。

 「東京のおばちゃん」は、ご主人が亡くなり、再婚して「八幡のおばちゃん」になった。息子が一人生まれ、その子は、私のことを「にいちゃん、にいちゃん」と呼んで慕ってくれる。かなり前に父親を亡くし、今度は、長く二人暮らしをしていた母親を亡くして、彼は一人になった。

 田舎に住む87才の母にとっては、その叔母が尋ねてきてくれたり、電話で話すのが、大きな楽しみだったはずだ。今度のことを伝えるのは、とても気の重い辛いことだった。

「東京のおばちゃん」。

 なつかしくて温かいこの言葉だけは、生涯、私の中に残っていくことでしょう。長い間有難うございました。安らかにお眠りください。合掌。
 
在りし日の声音(こわね)反芻冬の夜
冬枯れの窓に雨降る野辺送り 
野辺送り待ち時間にも日脚伸ぶ
短日や諸々終えて箱一つ 
 

さそり座の歌 992

 父方の伯父の33回忌の法事をするという連絡が、一ヶ月ほど前に、田舎に住む従兄弟からあった。丁度、5週目のお休みの日で行事も無く、都合よく、本日参列できた。

 先日は、叔母の49日の連絡をいただいた。しかし、丁度その日はコンサートの日で、不義理をしなければならず、申し訳ないことになったばかりだったので、いい日を選んでくれて助かった。

 今朝、法事の会場に行く前に、小学校の同窓会で近くのホテルに一泊していた母を迎えに行った。87歳の同窓生が、7人集まって話を弾ませたようだった。一時期腰の痛みとかでとても弱り心配していた母だったが、最近大分いいようで、同窓会に出たというのをあとで聞いて、びっくりするやら嬉しいやらだった。

 それに参加できる一人であることも凄いといえるが、法事で並んだ顔ぶれの中でも、母の存在は目立った。母方の兄妹9人、父方の兄妹8人、みんな亡くなってしまって、私の母1人だけが幸い健在なのだ。従兄弟たちに囲まれ、きんさん、ぎんさんのように、親しげに話しかけられて、母もとても嬉しそうだった。

 東京や神奈川などに住む従兄弟たちとは、久しぶりに出会った。それぞれの暮らしの自信や苦労が顔ににじみ出ていた。その中の1人は、田舎暮らしを勧める雑誌を見てその気になり、この春から、大分県の緒方町に移り住んだのだと言って、みんなをビックリさせた。

 いろいろ話を聞くと、やはりがん家系というのがあるのだとわかった。今度の法事の伯父には、息子が5人、娘が2人いた。息子一人は小さいころ亡くなり、4人の息子が成人したのだが、何とそのうち3人が胃がんの全摘手術をしたそうなのだ。

 なんだか、蛇足になるが、今回の法事のお経を読むお坊さんが、風邪気味だった。少し読んでは「コンコン」、少し読んでは「ゴホン」」で、聞いているほうが気の毒になるほどだった。

 そんな様子を初めて見たので、お坊さんも風邪を引くのだと、なんだか妙な感動?をおぼえた。万難を排して遠くから人が集まっているところへ、「今日は風邪で行けません」と簡単に言えない職業なのだ。それは、演奏会を控えて体調を整える演奏家とも変わらない事だった。暢気な仕事など無い。
 

さそり座の歌 993 

 最近、悲惨な交通事故が立て続けに起こり、新聞やテレビで繰り返し報道されている。幼い児童や、若い妊婦が亡くなったりして、どの事故も目を背けたくなる残虐な現実になっている。

 しかしながら、現場から遠くにいるこの私にとっては、やはり他人事でしかない。胸は痛むのだが、それらはしばらくすれば、次々にやってくるニュースの渦に流されて消えてしまう。

 運転する私にとっては、その悲惨な現実の加害者になりうる。勿論、どういうめぐり合わせかで、走る凶器の餌食になることもありうる。家族や身近な方にも、いつそれが降りかかるかもわからない。それは、杞憂と言えない確率の高さがあると思う。

 9・11のアメリカでのテロ報道を浴びて、知り合いが精神に変調をきたした事があった。今はもう治ったが、この続発する交通事故や原発事故などを、真正面から受け止めれば、同じようなことになりかねない。それが、何とか平衡を保っているのは、人の中に本能的な防御システムがあり、事故の現実を少しづつ薄め、忘れさせてくれているような気もする。

 とはいえ、娘さんを亡くしたお父さんが、次のようにコメントしていた。
「犯人には、当然、死んで償ってもらいたい」
 その1行を読んで、ギクッとした。そこまで言うかと、少し反発する心があり、ギクッとしたのだと思う。

 しかしながら、これこそ、傍観者の反応に違いない。若い娘を亡くした父親の気持ちは、本当のところ、ほとんど理解できていない。その血を絞るような慟哭の叫びを、やはり受け止めなければと思う。簡単には忘れてはならないことなのだ。

 ドラマで「あなたが死んだところで、この子が生き返るわけではありません」と言ったような、涙の場面があるが、そんなきれいごとの解決に行けない、棘の現実がある。

 被害者の家族は、勿論辛い涙で溢れていることだろうが、加害者の18歳の少年の親や親戚などは、今どんな気持ちで暮らしているだろうか。それこそ世間に顔向けが出来ない地獄の毎日のことだろう。どうお詫びしたところで、何も変えられない過酷な重荷を背負って、これから生きて行かざるをえない。

 事故は怖い。
 

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