さそり座の歌 986

 ある方の文章を読んでいたら、「これから先は、自慢ばかりになるので、書くことをここでやめます」と書いてあった。

 それが、なんだか後でだんだん効いてくるボディー・ブローのように、いつまでも私の体をめぐっている。少なからず、自分の中でも、そんなものだなという自覚がどこかにあったからだと思う。

 文を書いたり、俳句を送信したり、また演奏を発表したりと、いろんなやり方で自己発信を続けながら生きている。それは「自慢」と言われれば、そうなのだろうと思う。周りの人たちに、「私を認めて」と、何度も何度も訴えているのだ。

 例えば、私のホームページの表紙に、孫の写真を最近良く載せている。いろんな方から、「かわいいね」と言ってもらえるのが嬉しいのだ。それも、自慢の一つに違いない。

 しかし、いろんな立場の人が、どう思うかを少し考えると、なんだか、悪いような気もしてくる。結婚に縁がなかった方。結婚しても子供に恵まれなかった方。また、実際に孫が居る方でも、「うちの孫のほうがもっとかわいい」と思っている方。深読みすると切りがないが、ひょっとしたら、私の孫の写真は、不快な気分や、妬みへつながっている可能性もあることだろう。

 今、「自慢」と「認めてもらいたい」と言う願望とはどう違うのだろうと、頭をひねって長く考える。同じなのか、もし違うとすれば、どのような違いなのか、自分で答えを出せないで居る。

 極端な例だが、柱に向かってギターリサイタルを開く事も可能だと思う。日にち時間を決め、プログラムを作り、予定の日までがんばる。演奏会当日、家にある一番好きな柱に「聴いてください」と真剣に演奏する。それが出来れば、いろんな意味の向上も出来ないことはないだろう。

 しかし、やはりそれではなんだかつまらない。誰かに聴いてもらいたいという願いがなければ、少なくとも私は練習できない。

 周りの方が活躍したり、いいことがあると、その反応が私には2種類ある。ひとつは、なんだか面白くないな、妬ましいという気分のとき。そしてもうひとつは、素直にその方の努力や成果をたたえたくなり、凄いなと心から認める時とがある。

 ここらあたりに、今の未消化の気分を解きほぐす鍵があるような気もする。もうしばらく思いを深めてみよう。
 

さそり座の歌 987

 田舎の風景の見本のような絵画には、麦わら屋根と柿の木がよく描かれている。私の故郷の家にも、子供の頃からある柿の木が、2本ある。今年は、柿の生り年のようだ。

 先日、その柿の木のある家に、一人で住んでいる86歳の母から電話があった。「柿が沢山あるから、取りにお帰り」というのだ。もう袋に入れて用意をしているらしい。「あ、まあ、そのうち」とあいまいな返事をして電話を切ったのだが、ちょっとそれが、なぜかいつまでも気にかかる。

 本音を言えば、もう柿はいらないのだ。先日も袋いっぱい持って帰って、始末に困ったせいもある。こちらでも良くいただくし、手入れしてない我が家の柿はみすぼらしくて、人に配る気にもなれない。演奏会シーズンで、次々行事もあり、時間を取るのが面倒なこともある。それでも、母の思いが、少しは気になるほどの、気持ちは持っている。

 先日、緊急連絡用のボタンのある会社から電話があった。電源が切れているというのだ。差込が抜けているようなので、見てきてほしいという。母に電話してみるのだが、「ようわからん」と埒があかないので、仕方なしに車を走らせた。着いたら、ヘルパーさんがしてくれたと、コードはつながっていた。

 ま、それはそれでいいのだが、久しぶりに一緒に昼飯を食べながら話をし、ちょっと驚いたことがあった。

 近所の様子や、デイサービスのことなどを話したあと、母から見ると曾孫になる子供について話をした。「**(曾孫の名前)は、もう歩くようになったかえ」と問うのだ。「まだやな、つかまり立ちはして、いろいろ物を落としているけどな」「そうかえ」と話が進んだ。

 それからしばらくいろんな話が出て一区切りついたころ、「ところで、**はもう歩くようになったかえ」と、真面目な顔で言うので、ちょっとのけぞった。「だから・・・」とまた説明をして、話が続き、また一息置いたころ
「**はもう歩くかえ」が、また出たのだ。

 落語にそういうのがあるので、私は思わず笑ってしまったのだが、内心には冷たいショックが走った。

 そんなことを思いだすにつけ、柿のことなどが気にかかる。孫が歩き出したら、なるべく早く見てもらって、安心させてやりたいものだ。

さそり座の歌 988 

 6名でグループを作って、病院で毎月コンサートをしている。毎年12月は、クリスマスコンサートということで特別企画が加わる。病院の職員の皆さんのキャンドルサービスやサンタさんが出てのプレゼント、それに保育園のお遊戯も参加してくれる。

 演奏のほうも、常連メンバーに加え、この月だけは特別にゲストを招いて演奏してもらっている。今年は、ピアノとヴァイオリンの姉弟にお願いをした。ピアノは中学3年生。ヴァイオリンは小学校の1年生。二人はもうすでに、それぞれコンクールで受賞歴もある実力の持ち主である。秋にあった別のコンサートで好評だったのでお願いをしたところ、快く参加していただいた。

 演奏本番前にリハーサルをした。小学校の1年生なのに、かなり長い曲を表情もきちんとつけて演奏している途中でのことだった。

 お姉ちゃんのピアノが少しミスをしたのだ。ガクッと曲が止まってから、小学校の1年生の男の子が、猛然とお姉ちゃんに食って掛かった。

 「間違わんでよ!」「ちゃんと弾いてよ!!」と、泣きながら抗議するのだ。その迫力に、リハーサルを見ている私まで、あっけに取られてたじろいでしまったほどの、驚くべき激しさだった。

 ちゃんといい演奏をしたいという、純粋無垢な強い気持ちが、まあまあこの辺でいいかと、粗製乱造で曲を垂れ流している自分の頬を張り飛ばした。一流の演奏家になっていく人と、アマチュアに毛の生えたままで終わる者のとの違いは、その気持ちの強さの違いなのかもしれないなと思う。どれだけ自分に厳しく、真摯な練習の取り組みをするかで、結果は大きく変わっていくことだろう。努力すればいいことが分かっていても、それがなかなか凡人には出来ないのだ。努力できるということ自体が、大きな才能なのだ。

 還暦を大きく過ぎた自分には、もう手遅れかもしれないが、この体験が少しはピリッと来る、気付け薬になればとも思う。

 激しい騒動をした後、二人はすぐに仲直りしていた。本番までの待ち時間に、姉弟は「あっち向けホイ」などして明るく遊んでいた。やっぱり肉親の遠慮のなさが、あれだけのことを弟に言わせたのだろう。

 本番で、おうちの母親や祖母などが見守る中で、二人は、喝采を浴びる見事な演奏をした。

さそり座の歌 989

 昨年末は、娘夫婦と1歳3ヶ月の孫が泊まりに来てくれて、4日滞在した。孫とのふれあいの時間は、何にも変えがたい喜びがあった。

 孫と接しながら、そう言いえばと、娘と話が弾んだ。孫がいる今と、いないときの違いが、はっきりと感じられて、自分の事ながら笑い出したくなるほどだったからだ。

 若い女性がギターに来てくれていると、出産で退会ということがよくある。その方が、しばらくしてから、たいがい赤ちゃんを見せに来てくれる。

 そのときの自分の対応が、今思えば実にそっけないものだった。申し訳ないけど、別にそう見たくもないのに一応見せてもらった。そしてお義理の言葉をかけたりして、早々にレッスンに戻ったものだ。少しぐずったりすると、邪魔くさいなと、見せない内心は、はなはだ失礼な対応だったように思う。

 ところが、自分の孫が出来て、人に見てもらうときの気分が今やっと本当に分かってきた。ああ、あの方もこういう気分で、かわいい赤ん坊を見せに来てくれたのだろうなと、今頃ようやく分かった次第なのだ。自分が孫を持ってはじめて、そういう思いやりが芽生えたのを感じる。心のこもらない、失礼な対応をしてしまった方には、もう取り返しがつかないのだが・・。

 道や店を歩いていても、車を走らせていても、小さな子が良く目に付く。あの抱かれている子は、うちのと同じくらいかな。また、小さな女の子と手をつないで歩いているのをみると、うちも、いずれ大きくなると、ああいう風になるのかな…楽しみだなと思う。今まではそんなことは、全く目に入ってこなかった。

 娘は、自分が妊娠するまで、この街には妊婦が一人もいないと感じていたらしい。本当は居ても見えなかったのだ。ところが、自分が妊娠すると、あちこちで妊婦さんが沢山眼に入るようになったと話していた。

 立場の違いで、人間の目の見え方と言うのは、こうも違うのかと、強烈に実感した。相当大きな発見をした感じだ。

 このようなことは、いろんな場面であることだろう。相手の気持ちになると言うのは、やはり相当難しいことだ。とはいえ、そういうことがあることを胸に刻みながら対応できれば、少しは奥行きに違いが出てくることだろう。それが、大人の人間の深みかもしれない。
 

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