さそり座の歌 982

 5月29日、台風2号が九州をかすめて四国沖へ行った。幸い、そう目立った被害はなく、雨で水不足が解消され、田植えをすることができるとの報道もあった。

 台風や雪などの自然現象を見ていると、妙にわくわくしてしまうことがある。強い風が吹いて木が大きくなびいているのを、窓からのんびり眺めながら、内心で、もっと強く吹け吹けと思っている。木が倒れるのを見たいと念願したりもしているのだ。

 雨や雪でも、降りしきる激しさを見つめながら、もっともっと激しさを増せばいいのにと思うこともある。その期待感は、よく考えれば、不遜極まりない軽薄な思いでもある。

 それは、どういう心理現象なのだろうか。風が吹いて、自分の家が壊れるとか、雨で流されるなどの想定は全くしていない。安全地帯から外を眺めて、面白がっているだけのことだ。愉快犯?といった類の仲間ともいえるだろうか。

 これが内面の想定外となり、自分の家が崩れ始めたりしたら、今度は、雨よ、風よ治まれと、強く強く祈ることは間違いない。自分勝手なものだ。

 今度の東日本大震災は、想定外だという人たちもいる。そのほうが、責任を取らなくて済むという発想からだろうか。

 しかし、想定内だろうが想定外だろうが、被害を受けた方々の現実は少しも変わらない。5月30日現在、死者15,269人、行方不明8,526人、避難者102,501人と新聞に書いてある。

 筆舌に尽くせない絶望を、こちらの安全地帯から軽々には語れないが、その数字の怖さを我々は本当に感じているだろうか。10万人というイメージは、もう我々の想像力を超えてしまっている気がする。

 テレビでの映像は、現実とはかなり違うということも良く聞く。勿論、実際に現場へ行くと、その凄絶な光景に、テレビは真実を伝えていないことを知るのだそうだ。

 そんなことを思うにつけ、まだ自分は本当の自然の怖さを、全く知らないんだろうと思う。それを肌身に感じて知ってしまえば、風よもっと吹け、もっと雨よ降れとかは、口が裂けても言えなくなることだろう。そんな日を迎えたくはないが、いつどんなことが起こるかわからないのが、自然というものだ。
 
さそり座の歌 983 

 このところ、パソコンで苦労している。この1ヶ月ほどの間に、知り合いにも助けてもらい2回リカバリーをした。そのたびに、メールアドレスをはじめ、住所録など貴重なデータが消えてしまい、がっくりと肩を落とさねばならなかった。

 いろんなつてに頼んだり、古いデータを見つけて何とか復興しつつあるのだが、NTTの光通信の設定も消えていることが分かった。カスタマサポートに電話すると、メモリーの容量が小さすぎて、再設定できないので、増設してからまた連絡してくださいということになった。

 パソコンに詳しいギターの生徒さんと、たまたまその話が出て、見てもらったところ、「メモリーを増やせないことはないけど・・・」と、何か奥歯に物の挟まった感じなのだ。

 話は突然変わるが、もう20年以上ギターに来てくれている方が、あるとき、「これ修理できませんか」と、ギターの調弦器を持ってきた。「どこも悪くなってないのですが」と差し出す器具は、確かに新品同様にも見えるのだが、針が反応しない。

 それは、20年ほど前の旧型もいいところの、今では全く見かけない機種なのだ。「周りは新しそうに見えるけど、これ、もう寿命でしょう。電化製品と同じですから劣化しますよ・・・」と話したのだが、その方は、大事そうにして、その品物を捨てきれない感じだった。

 ということで、本題に戻ると、パソコンの寿命は、だいたい5,6年なのだそうだ。今トラブル続出のこのパソコンは、もう10年ほど使っている。この機種の前の製品に比べ、全くトラブルがなく、大変お気に入りのパソコンライフを過ごすことができていたのだ。

 見かけもどこも変わっていないし、私自身の気持ちとしては、例の調弦器と同じように今でも新品同様の気分なのだ。しかし、いつの間にか時は過ぎ、パソコンは老化して時代遅れになっているのを知らないだけだった。

 メモリーのことなど全く知らなかったのだが、このパソコンは、200メガバイト程度。同じ単位で言うと、今売られているごく普通のパソコンで、2千〜4千メガバイトらしい。実に10倍以上の性能になっているのだ。

 私が、調弦器を持ってきた方に感じたのと同じような思いを、パソコンの話し相手の彼も感じたようだった。「もうこんな古いのに手を入れるより、買い換えたほうが・・・」ということなのだ。

 どこかで買い替えということはありうるのだが、その判断は、倹約家?の私には難しいことだ。

さそり座の歌 984

 もうそろそろほとぼりも冷める頃なので、一応、妻の入院のことを記録に残しておきたいと思う。

 7月の半ばに、娘の演奏活動がだいぶ入っていた。それで、どうしても困る1週間ほどの間、妻が孫の子守のために、泊まりこみの手伝いに行く予定を組んだ。

 その留守の間には、食事、風呂、洗濯、猫の世話などのいろんな対策が必要だった。頼りない留守番役の私は、くどくどと何度も念押しされながら準備がすすんでいた。

 ところが、まだきちんと準備が済まないある日、妻がちょっと検査に行ってくると、なぜかあっさりと病院へ出かけた。いつもだと、うだうだと言いつつ、なかなか行動には移さないのだが、今思えば自覚症状が相当あったのだろう。

 夕方「このまま入院するようになった」とメールが来た。あわてて丁度帰っていた娘と病院に行くと、詰め所ですぐに、「先生が説明しますので」と、内視鏡の画像のある部屋に案内された。入院というだけでも動転しているのに、何か深刻な話かもと思うと、先生の前に座って足が震える感じだった。

 「まあ、一週間ほどで退院となるでしょう」という言葉に、やれやれと、肩の力が抜けるのがわかった。

 たまたま娘がいたので、入院の準備から、家での私の世話まで、何やかやと大車輪の働きをしてくれた。それでも、佐賀のほうの家でも演奏などのはずせない仕事があるので、ぎりぎりまでいてくれて、帰って行った。

 たまたま妻の長期不在の話が進んでいたので、一人になっても、そう慌てふためくことにならなかったのは幸いだった。しかし、仕事が済んで、一人でぼそぼそと遅い夕食を食べていると、なんだかやけに部屋が静かに思えた。これで、もしあの時医者から、「末期の**です」とか言われていたら、それこそ食事が喉を通らなかったかもしれない。

 娘は帰る前に、孫や猫などの写真に、いろんな言葉を添えたお見舞い状を、7枚作ってくれた。それを1日に1枚妻に渡さねばならないので、私は毎日病院に行かざるを得なかった。長男の嫁は、食べきれないほどのいろんな料理を届けてくれた。

 家族のいろんな絆を感じられたのはとても嬉しかった。
しかし、しかし、私は今回痛切に思ったのだ。残されたくない。私は妻より先に死にたい。
 

さそり座の歌 985

 7月の終わりにテレビが映らなくなって、約2ヶ月が過ぎた。新聞で見たのだが、この機会にと、テレビ離れしたという方が、9万人もいるという記事を読んだ。全国での数だから、それが多いのか少ないのかすぐには判断できないが、報道されるぐらいだから、NHKも驚いているのだろう。

 しかしながら、この契約解除の数字は、届け出て手続きした分だけのことだ。実際の数はもっとあるのではないかと思う。と言うのは、契約解除のやり方が、かなり難しいという体験があるからだ。

 テレビを見なくなれば、自動的に受信料契約が解除になると何となく思っていた。勝手に放送を打ち切ったのだから、これまでの契約者は自動的に契約が抹消され、新しいテレビを買って契約した人だけが受信料を払えばいいだけのはずだった。

 しかし、少し不安になったのでネットで調べてみると、何と何と…自己申告制なのだ。まず電話でNHKの担当部署に電話(細かいが、この電話代はこちら持ちの有料)をする。そこで担当からいろいろと審査の質問があり、その返答がすべて契約解除に該当すれば、NHKから申請書類が郵便で送られてくる。それに記入し、印鑑を押して返送して、その後しばらくして、契約解除できましたという知らせが来るという仕組みだった。

 つまり、何もしなければ、テレビは見ていないのに、受信料は払い続けるということになるのだ。これ、皆さんご存知なのだろうか。70、80代の年配の方は、この手続きが出来るのだろうか。

 ネットで連絡先の電話番号を調べ、有料にもかかわらず審査時間の長くなる電話をきちんとした人の数が、9万人ということなのだ。その表向きの人数が正確だろうか。

 ちょっと横道にそれるが、大震災で被害にあっても保険の手続きが出来る人はいいのだが、家族、親戚の皆さんが被害にあわれ、誰も手続きをしなければ、保険会社の丸儲けになるのだろうか?素朴な疑問である。

 ともかく、私は今回完全に、契約解除の手続きが済んだ。テレビ離れをしたという事を知らせたら、ある方からそのことに関して連絡が来た。

 「私は、テレビをやめて4年になります。なかなかいいもんですよ」と、励まされた。仲間もいるのだ。

 また、別の機会にテレビのない暮らしの実態について、普段の様子を書きたいと思っている。
 

inserted by FC2 system