さそり座の歌 978
今日の新聞の一面記事は、大相撲の春場所中止の知らせだった。あまりにも露骨な携帯電話の八百長騒動に、中止せざるを得なかったのだろう。
昔、プロ野球で黒い霧事件というのがあり、何人かの選手が永久追放になった。どうするのかは知らないが、9人でする野球の場合、勝負にかかわる八百長は、かなり難易度が高い気がする。それに比べれば、二人で合意すればいいのだから、相撲の八百長は簡単に出来ることだろう。携帯電話のやり取りの記事を見ても、さもありなんと納得出来ることだった。
私が子供の頃、プロレスをテレビで見るのが大きな楽しみの一つだった。力道山の空手チョップは、すごくかっこよかった。しかしいつの頃からか「あれは、ストーリーの始めから決まっているショーだ」という情報が、末端の我々にも伝わってきた。それで、馬鹿馬鹿しいとプロレスを離れた人もいたことだろう。しかし、そう思ってでも楽しめれば、それはそれで庶民のいい娯楽になるので、今でも続いている。
真剣勝負を期待する方々には残念だろうが、相撲もそういう目で見られる流れなのかもしれない。7勝7敗の力士が、千秋楽で必ず勝ち越すなど可愛いものだ。この場所では、誰を優勝させるのが、世間の話題になり相撲人気を盛り上げるかというシナリオが、始めから出来ているという事もありうるのだ。それも不可能ではないのだから。とはいえ、例えそんなことが万一裏であるにしても、相撲の楽しみという娯楽は、これからも人々の中に続いていくことだろう。
さて、この八百長問題、人前で演奏する事の多い我々の仕事にとってはどうだろうか?勿論、一曲だけ発表会で演奏する生徒さんにとっても同じことだ。演奏を聴いてくれるお客さん、そして自分自身への勝負において、八百長がありうるだろうか。
演奏はいわば一人相撲だ。その勝敗は、自分で決められるものだ。そういう意味では、八百長もありうる。数々の言い訳で、素直に敗戦を認めない場合もある。また、自分の持っている力を冷静に見ていないと、いつも負けた、負けたと嘆くことにもなる。
「何がしかのお金を払う」、「何かにお祈りする」等で、もし素晴らしい演奏が出来るとしたら、それにすがるかもしれない。しかし、どんな方法でも、自分の持っている実力は変えられないことを、我々は知っている。努力して身に付けた分だけしか、表に出てこないのだ。気長に、地道な練習をしよう。
さそり座の歌 980
お寺から連絡があり、今年が父の50回忌になることが分かった。慌てて親戚縁者に連絡し、麗らかな春の日曜日を法事にあてた。
読経の後、お坊さんが、少しだけと断わりつつ仏教についてのお話をした。「故人を思い出してあげることが、一番の供養です。」「50回忌で一応の区切りとなりますが、これからも仏様の前に座って、思い出してあげてください」
そんな話が印象に残っている。17年、33年、そして50年と法事のたびに集まるのは、故人を思い出すためのことなのだろう。それがなければ、普段の暮らしのあわただしさに追いまくられて、きちんと故人を偲ぶ事はない。根無し草のように浮遊している自分が、この係累の末にあるのだという認識は、凧につながる一本の糸が見えることでもある。
その先祖とつながる糸とは何なのだろうか。どこまで遠く吹かれても、上がっても落ちても、その見えない糸は自分の後ろに厳然とある。しかし、人は、ともすればそのことから目をそらしがちになるので、時折、こうして法事を開くのだろう。
しかしながら、集まった顔ぶれを見て、50年の長さを改めて思った。以前の集まりなら、我々の上の世代(父や母の兄妹)がいつも何人か居た。しかし、今回は、伯父伯母は一人も存命の人がなく、従兄弟とその子の集まりだった。それだけに、85歳の母の存在が際立ってもいた。
集まった半数は、故人のことを全く知らず思い出す手がかりもないのだった。こうして時間が過ぎて行くのが世の習いで、過去は霧がかかるように遠ざかっていくのだろう。
50年前、父は36歳で亡くなった。結核だった。私は、13歳、弟は3歳だった。あれからさまざまなことがあり、いろんな波風を越えて、父からの命のバトンが続いている。
5ヶ月の曾孫を、父はあの世からどのような思いで見ているだろうか。「ばぶばぶ」と無邪気に喋る幼児に、「このおじいちゃんがいたから、お前が生まれたんだよ」と話しかけると、集まっているみんなが笑った。
帰るころ、縁側から庭の紅梅を見ていたお坊さんが、「今日は、みんなが帰って来て、お母さんが嬉しいそうやな」と私に話しかけた。鮮やかな庭の紅梅が、目に沁みた。
さそり座の歌 981
家族の方から、Aさんが入院したと言う知らせが入った。前日こそレッスンをして、Aさんと親しく話をしたばかりだったので、それこそ狐につままれた感じがした。
お見舞いに行くと、幸い、そう心配するような様子ではなく、一安心だった。Aさんは、もう20年を超えてギターをしてくれ、娘が「私のおばあちゃんの一人」と親しくさせてもらっている方だった。80歳を過ぎているけれども、きっとまた退院してギターを持ってくれることだろう。
ところがそのとき、たまたまそのS病院の3病棟を歩いていると、30年前に胃潰瘍で入院したときの部屋が見つかった。そういえば、入ってすぐの重症のとき、この一人部屋だったと記憶が蘇ったのだ。
お見舞いの帰りに、自販機のある休憩室でコーヒーを飲みながら、妻と想い出を話した。
家の買い替え、多額ローンの不調など、いろんなことが重なり、今のこのサンシティー音楽院に移る直前、私は大量に吐血をして救急車でこのS病院に運ばれた。
入院してすぐ、胃潰瘍は再発することが多いと言うことを聞き、もう何もかもやめてしまおうと、病院の天井を見ながら決心し、妻に伝えた。妻が前の家を買ってくれる予定の人のところに話にいくと「今は、いろいろと弱気になっている時期ですから、しばらく時間を置いてまたご相談しましょう」と言ってくれた。
この方の思慮深い大人の対応のお陰で、音楽院はその後完成にこぎつけ、30年後の今の私がある。それは、大きな分かれ道だった。このときやめていたら、その後の私の人生は大きく変わっていたことだろう。
入院は、一ヵ月半だった。息子は小学校の一年生で、学校の帰りにかなりの距離を歩いて病院に寄ってくれていたのを思い出す。黒いランドセルがとても大きかった。
妻は何日か病院に泊まりこんで、そのまま自分の病院へ仕事に行ったりもしていた。吐血した現場にいた保育園の娘は、その後救急車の音を聞くと「パパの車がまた来たよ」いつも言うようになったものだ。
「あれから30年か、ようここから抜け出して、ここまできたもんやな」と妻と感慨深く話した。幸い、胃潰瘍は再発しなかった。