さそり座の歌 970

 今日は5月5日。長い大型連休の終わりの日だ。Uターンラッシュで混雑している搭乗客に、テレビがインタビューをしていた。子供を連れた若い父親が「終わるのが、何だか淋しいですね」と答えていたのが印象に残っている。

 丁度私も、同じような気分を味わっていた。と言っても連休が終わることに対してではなく、昨日の5月4日に終わった中学の同窓会の余韻の淋しさのことだった。

 昭和39年に田舎の中学を82名が卒業した。それから約45年過ぎて、在郷の世話人が同窓会を立ち上げてくれた。

 往復はがきで知らせが来たのだが、期限近くまで何となく返事を延ばしていた。この気分は、どこから来ているのかよく分からないのだが、なぜかストレートに、嬉しい、参加しようとはなれなかった。

 何となく気だるいもやが、どうしてか分からないが湧いてくるのだった。現実を離れて、45年前に戻るのに、ほんのわずかだが後ずさりしたくなる気分があった。戻りたいけど、少しわずらわしいという思いだった。

 私のその気分は、漠然としたものだったが、今回欠席した者の中には、家庭や仕事などいろんな問題を抱えていて、一足踏みだせなかった者もいたことだろう。みんなと顔を合わせれば、どこに住んでいるのか、何をしているのか・・・と、当然のように聞かれて話さねばならなくなる。それが重荷になった者もいたことだろう。

 とはいえ、私は、近所に住む同級生の誘いもあり、参加した。

 それぞれ、白髪になり、禿が広がり、相応のおじさんになっていた。しかししばらく話すと、その笑い方や、しゃべり口に昔の面影がたくさんあらわれた。宴会で、あれこれとくっついては離れ、握手をして話を弾ませた。

 今日のUターンラッシュの中に、ほんの2時間ほど一緒に過ごした同級生たちがいたことだろう。30年、40年と暮らした、千葉や、山口や広島、埼玉などの暮らしの巣へ帰って行ったのだ。またそこで、それぞれの暮らしが続いていく。

 パーンと打ち上げたほんの束の間の明かりの下で、やあ、やあと語り合い、笑いあった。花火が消えた後の寂寥の中で、あのひとときは、何だったのだろうと考える。33名の並んだ、幻のような記念写真が残っているばかりだ。 
 
 

 さそり座の歌 971

 時おり、田舎に住む84歳になる母の様子を見に帰る。途中のスーパーで弁当を買って行き、それを差し向かいで一緒に食べながら、暮らしの変化を尋ねるのが、何時ものパターンになっている。

 ほんの半年ほど前までは、味噌汁や山菜の煮付けなどをしてくれていた。それはもう、何十年も続いた、ごく当たり前のことだったが、ついにそのおふくろの味も終わりになった。食事の支度が困難なので、市の配食サービスを頼むことになったのだ。

 食事を作るのも大変なのだが、それよりも、畑の世話ができなくなり、野菜が採れなくなくなったのが、母には打撃のようだった。料理を作ろうにも、材料がないのだ。

 これまで、天気の日は毎日畑に出て、大根、ジャガイモ、茄子、胡瓜、葱、等々・・・、自給自足ができるだけの野菜を育てて暮らしていた。それができなくなったのだ。それに加え、庭に草が生えてしまうことを、何よりも気にしている。

 帰省した時は、何時も、当たり前のような景色の庭を見てきた。しかし、人の手が入らなくなると、こうも変わるのかと驚かされる。少しずつ、少しずつ、母が毎日草取りをしてくれていたことを改めてかみしめている。

 居間のカレンダーに、月間スケジュールを書いた紙が貼ってある。火曜日と金曜日は、デイサービス、木曜日はホームヘルパーさんの訪問日、月曜日は、整形外科の診察日。

 母は、「頭や、背中を洗ってくれてなあ」と、デイサービスでの有難さを話す。「お昼ご飯が出て、おやつが出て、歌をうたったりゲームをしたりもするよ」と、その二日が楽しみの様子だ。

 ケアマネージャーの方とも時おり電話で話すのだが、まわりの方とも打ち解けていて、デイサービスはうまく行っているようだ。

 今までこういう事に触れたことがなかったが、今回、初めて介護の状況を知ってみて、親不孝の長男に、とても有難い制度なことが分かった。個人的には到底できないことを、格安の料金でやってくれている。素晴らしいことだ。

 いずれ今の状況も変化し、いろいろ難しい時期もやってくることだろう。せめて、デイサービスが楽しめるような今の体力が、少しでも長く続くことを願っている。
 

さそり座の歌 972

 サッカーの世界大会が終わった。日本は、大会参加までの練習試合で連敗という事もあり、期待は全くと言っていいほど持てなかっ た。予選敗退が当然の感じで、監督はさんざんにこきおろされていた。心無い過激な人が、監督の実家に石を投げ込んだりしたそうなので、玄関の前に警官が立ったというほどだった。

 ところが、開いてみれば、日本チームはベスト16に入る存在感のある活躍をした。どの対戦チームも各上なのに、いい試合をし、見事2回も勝った。

 その結果を見て、それこそ手の平を返したように、監督の人間性や作戦が褒めちぎられた。活躍した選手は、世界の桧舞台へ大金を獲得して飛び立つことにもなった。まさに地獄から天国への大変身だった。

 それはそれでよかったのだが、一つ気にかかることがあった。世界大会に出る選手は皆それぞれスターなのだが、中でもN選手は、日本を代表するスーパースターだった。控えか出場できるかどうかがぎりぎりの二流選手ではなかった。試合に出て当然。日本チームを牽引して当然という立場だった。

 プロ野球でもよくあることだが、チームの中心選手が、怪我で欠場することがある。その後、チームががたがたになり負け続ける場合と、すぐにその選手に代わる新戦力が出て、成績がかえって良くなる場合とがある。

 休んでいるスター選手は、その結果を休養しながらどんな思いで観ているのだろうか。成績が悪い場合は、チームに迷惑をかけて申し訳ないと思いつつも、自分の存在を確認できる。しかし、逆の場合は・・・。

 当然試合に出ているはずのN選手がいないチームが、それまでと違って、溌剌とプレーし大きな成果を上げていく。その活躍を、ベンチの選手(N選手も含めて)が躍り上がって一緒に喜ぶ。「チームが一つになっているのが勝因」といった論評もよく出た。

 その姿は、N選手の人間性でもあるのだろう。しかし、宿舎で一人になったとき、N選手はどんな気持ちだったのだろうかと考える。帰国第一声でN選手が「もう、日本の代表にはなりません」と言ったと報じられた。爆発するような歓呼の中での、そのひとことの寂寥が胸を突く。

 まかり間違えば、Nをはずしたから、日本は惨敗したのだと、また石でも投げつけられかねないことだった。毅然とやった監督が、大きな賭けに勝ったという事なのだろうか。

さそり座の歌 973

 「自立支援センターおおいた」という介護施設がある。この組織は、障害があり在宅して暮らしている方への、訪問介護をしているのだそうだ。 

 そこは、普段は家で過ごしている方に、センターに来ていただいて、他の人と触れ合う場を設けている。週に一度、いろいろな内容でイベントを開いているとのことだった。

 その一回として、今回は、楽器で遊ぼうという企画が出てきた。障害者の方が何でも自分で出来る楽器を持ち寄って、みんなで遊べたらという主旨の会だった。縁あって、私にそのお手伝いの依頼があったので参加した。

 八畳ほどの部屋に、約10名が集まっていた。センターの職員以外は、皆さん車椅子での参加だった。その中で二名の方がハーモニカを吹くことになっていて、私はその伴奏をするという役割だった。

 まず練習をして、その後発表会をという流れだった。Aさんは高年の男性で、足ばかりでなく手の機能も失われているようだった。車椅子に支え棒で取り付けたハーモニカに、口を持っていき「酒よ」とか「大きな古時計」を吹いた。

 家では思うところに口が行くのだろうが、緊張しているのか、音がなかなか定まらなかった。それでも何とか最後まで行き、「出来ましたね」と私が笑いかけると、とても嬉しそうな笑顔で応えてくれた。

 Bさんも車椅子だが、ハーモニカを手で持っていて、「昴」とか「いい日旅立ち」を早く元気よく吹いた。一回目の時は、かなり途中の休みをぶっ飛ばしていた。しかし、感のいい方で、三回目にはきちんと伴奏に乗って演奏してくれた。

 終わってすぐに、担当の職員の方からお礼のメールが届いた。「いつも家にいて、人と接することの少ない利用者の方の、別の面が見られて、また、二人ともとても喜んでおられ、良かったです。これからの練習や生活の励みにもなられると思います。・・・」と書いてくれていた。

 私は伴奏が上手ではないのだが、初対面の方とそれこそ「息を合わせる」ことが少しできた気がする。今ある機能を精一杯使い、音楽を大事にしているお二人に接し、私自身も音楽が出来る幸せを味わうことが出来た。

 Aさん、Bさんの分身ともなるハーモニカのように、私も、もう一歩ギターに近づけるヒントをいただけた気がする。これまでにない貴重な体験だった。
 
 
 

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