さそり座の歌 966

 夕刊のお悔やみ欄で、知っているKさんの名前を見つけてはっとした。まさかと思いつつ、倉田紘文俳句教室の住所録を見ると、住所も同じだった。

 Kさんは、俳句教室での席がいつも隣りだった。待ち時間に、東京での勤め時代のこと、別府に引き上げてきてから、油絵や詩吟、そして野菜作りのことなどを話してくれた。85歳とは思えないしっかりした方だった。

 俳句教室の代表の方と一緒に、お家にお参りに寄せてもらった。奥さんと小さな犬が出迎えてくれた。仏壇の写真を見ると、やはりあのKさんが飾られていた。まさかと思いつつも、これは現実なんだと改めて自分に言い聞かせた。

 金婚式をはるか前に済ませたという奥さんは、80才を過ぎていると言いながらも、いろんなことをしっかりとお話してくれた。「まじめだけがとりえの主人で」と言いながら、その堅物振りにより、いろんな諍いがあったのも、今はいい思い出の様子だった。最近体調を崩すことがあってから、一緒に風呂に入るようになり「今が私達の新婚やね」と二人で語らったというのがとても印象的だった。

 いつだったか俳句教室でKさんが、「家内が風邪を引いているんですよ。炬燵で寝るなというんだけど、全然聞かないから」と嘆いていた。我が家でも夫婦でよく「全然、私のいう事を聞いてくれん」と言い合うことがあるので、夫婦生活が50年過ぎても同じかと、ほほ笑ましい思いでその話を聞いた記憶がある。

 いろんな葛藤や喜びを奥さんに残して、Kさんは逝ってしまった。本当のさびしさに会うのは、いろんな後始末がすべて済んでからのことかもしれない。

 それにしても、Kさんは心身ともに健康的な方だった。聞いてみると、とにかくよく歩いたそうだ。どこへ行くのも、タクシーなど使うことなくよく歩いたと、奥さんが感心して話していた。

 俳句の話も隣同士で時おりしたが、Kさんは口癖のように「いいのが出来ません。どうしたらいいでしょうか」と言っていた。道を究めていく求道者のような真摯な姿勢が、時おり私を息苦しくさせたほどだった。私も手がかりのつかめない、茫洋としたままの俳句作りなのだが、Kさんのような深刻な焦りを持つまでに至っていない。Kさんの気持ちの強さを、少しでも身につけたいものだ。

 お参りして帰る途中で、廊下の壁にかかっている、Kさんのおしゃれな帽子を見つけた。
 
冬帽子廊下見下ろし主待つ 幸一

さそり座の歌 967

 これをやはり無常というのだろうか。毎年毎年、もう何十年も変わらず続いてきたことが、途切れようとしている。理屈ではいつかはと分かっていたのだが、心の中でのその情景は、永久に続くものになっていた。

 田舎に住む84歳の母親が、骨粗しょう症とかで、腰を悪くして不自由になった。後で聞いたことだが、トイレに行くのも這って行くような日もあったらしい。

 その事は、恥ずかしながら、母からの電話で分かった。近くに住む二人の従兄妹に、病院に連れて行ってもらい、買い物や食事などのお世話になったから、お礼の電話をしてほしいという知らせだった。

 毎年恒例なっている、母親を中心とした餅つきが、今年はじめて中止になった。年末に餅つきの日が決まると、いつも私や孫を呼び寄せる電話がかかってきていた。長いこと一人で暮らしているのだが、その行事は母に取って唯一の「帰っておいで」と、はっきり口に出せることだったのだと思う。

 それが今年は、腰が痛いとかで、餅つきは近所の従兄弟の家がしてくれた。それでも、私と娘はいつものように田舎へ行き母に会った。ご飯なども一緒に食べて、いろいろ話をした。

 「大丈夫、心配せんでいいよ」という言葉に安心して、田舎を離れたのだった。これまでの丈夫な母を思い、たいした事はなかろうと、たかをくくっていたからだ。

 ところが、2月にはいって、何も心配していない私のところへ、突然母親から電話がかかってきた。それで、急いで従兄弟たちに電話をしてお礼を言い、母の腰痛のひどさの様子がわかったという訳だ。
 
 そんなにもと思いながら、連絡が私になかったことが少しさびしかった。しかし、日々の仕事に追われている私に、連絡したくてもできない母の気持ちもよく分かった。実際、連絡を受けても、私にどんなことが出来ただろう。

 ようやく空いた日曜日に、田舎へ帰った。その話し合いで、今までは田舎を離れることを嫌がっていた母が、「いいところがあれば」と従ってくれた。その従順さに安堵もし、これが大きな変わり目かと、さびしくもなった。永遠に変わらないはずの景色が、大きく動いていく瞬間だった。

 さそり座の歌 968

 先日、ある女性経済評論家が、テレビに登場していた。よく知らない人だったが、物事を合理的に無駄なく行なうことを広めて、注目を集めている感じだった。

 その手法が分からないでもなかったが、それを行なうことで犠牲になる諸々のことを思うと、全面納得という気分にはなれなかった。

 それはともかく、その人の人生の分岐点になったという、心がけのスローガンが印象に残っている。

『妬まない』『怒らない』『愚痴らない』

 その三項目を大きく紙に印刷して壁に貼って以来、人生が好転して行ったらしい。収入が20倍になったというのが、その成果の売り文句だった。

 収入はともかく、その心がけは、自分の暮らしの精神衛生上にも役立ちそうなので、興味を持った。

『妬まない』・・・妬むという事は身のまわりにいる、似たような人への感情である。明らかに差のある人や雲の上の人には、妬みはそうない。自分よりかなり実力面などで下と思っている人が、力を認められ活躍するようになると、むかむかするという気分のことだ。負けているけど、それを認めたくないという気分から、いろんな妬みの攻撃的時間が生れてくる。そんな愚劣ともいえる、他人へのかかわりを捨てて、ひたすら自分を磨くことだけに専念するというのが『妬まない』の持つ心がけだろう。

『怒らない』・・・これは、まわりの人に、そして自分にも向けたことだ。感情むき出しにして怒っても、事態の解決はない。冷静に、こうなったらどうすることで次の発展への道が開けるかと分析し、熟慮断行することこそが、事態打開の一番だろう。それこそ無駄を省く合理的な対応に違いない。なかなかできることではないが。

『愚痴らない』・・・これは明らかに、自分自身への呪詛のことだ。既にできてしまった過去の失敗を、いつまでもひきずっている姿に他ならない。そこからいかに早く立ち直るかが、人生をよりよい方向へ向ける鍵だろう。いつまでも暗い拘りに捉われているのは、うつ病の始まりにもなりかねない。愚痴を言う暇があれば、目線をあげて、一歩でも二歩でも前へ踏み出したいものだ。

 なかなかできることではないからこそ、そこに立ち返る金字塔になる。私も、『妬まない』、『怒らない』、『愚痴らない』と書いて、パソコンの前の壁に貼ることにした。
 さそり座の歌969

 俳句の季語に「春愁」という言葉がある。春のそこはかとない遣るせなさを、漠然とあらわす季語だ。草木が芽吹き、花が咲き乱れて希望に溢れる時期に、なぜか愁いやさびしさがあるというのだ。人の心の微妙な奥深さを、季語は見事に捉えている気がする。

 還暦を迎えたあと、一年経ち、二年目も何だかあっけなく過ぎて行きつつある。日が過ぎていくにつれて、時おり心の奥底からぽっかり浮かんでくるものに、最近よく出会う。

 それは、形のないぼんやりしたものだ。さびしさ、かなしさ、むなしさ、無力感、虚無、靄のような人生の終末への畏れ・・・どう言ってもピッタリ来ないやんわりとした不透明な濁りは、私の気分の中をしばらくさまよい、いつしか消えていく。そして、それをしっかり自分で掴み取リ、消化できない苛立ちの日々がある。ただただ、毎日の仕事に流されて、その果てしのないバイオリズムに翻弄されるばかりだ。

 家庭的にも、仕事面でも取り立てて困ったことや不満があるわけではない。たぶん、いろんな苦難を抱えている方も多い中で言えば、幸せなほうだろう。しかし、それは比較の問題ではないのだ。それは、ごく個人的な、私の内面の微かな軋みで、人には見えないものを、自分だけで見ているのに過ぎないのだと思う。

 そんな日々の中で、倉田百三の「出家とその弟子」を読んだ。第三幕「親鸞聖人の居間」の中に、淋しさについて書いているところがあった。

 「その淋しさを抱きしめて生きて行かねばならぬ。」と、親鸞は説いている。酒や女では、魂を荒らされるだけで、益々淋しくなると言い、「その淋しさを受け取り、その淋しさを内容として生活を立てねばならぬ」と唯円を諭している。

 それは、よく精神疾患の対応に出されるキーワードの「あるがまま」の言い換えでもあるのだろう。

 私の中にある愁いは、一卵性双生児のように、私自身が作り出したものだ。私の分身であるからには、私自身しか対応できないものだ。多分、年をとるにつれて、これからこの淋しさや愁いは、ますます頻繁に出てくることだろう。しかし、できればこの淋しさから逃げることなく、抱きしめて行けたらと願っている。
 
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