さそり座の歌 962

 芸能人の覚醒剤使用が話題になっている。清純派の女優の逮捕劇には驚かされた。しかしながら、それはいわゆる氷山の一角で、その汚染は、相当根深いのだろう。

 ニュースやドラマなどで、白い粉や吸引の様子を見たり聞いたりしている。しかし、勿論私は、ほんものを見たこともなければ、その恍惚を体験したこともない。だから、それが如何に魅力的なものかは想像でしかないのだが、女優生命にも関わるようなリスクを乗り越えさせるような魔力が、覚醒剤には潜んでいるのだろう。

 ささやかなものだろうが、私は、演奏前や文を書く時に、コーヒーの覚醒作用に頼ることがある。含まれるカフェインに、頭をすっきりさせ、意欲が満ちてくるような効き目があるからだ。その何倍もの効果があるとしたら、ひ弱な精神の私は、もし身近で、覚醒剤が手にはいるのなら手を出すかもしれないと思ったりもする。

 ジャズメンなどの演奏者が、覚醒剤で、普通ではありえないような乗りのいい演奏をするらしい。忘我の状態で、音楽の真髄に迫る境地へ入れるようだ。これなど一度はまると、覚醒剤なしでは演奏できなくなるのもうなずける。体は蝕まれ、取締りの恐怖があっても、今日一日の、このほんの2時間の集中力をもらえるなら、危ない橋も渡りたくなる。

 演奏家にしろ、作家にしろ、もし覚醒剤の力を借りての作品が評価される場合、それはまやかしだろうか。素面の実力だけが、その人の持つ本当の力なのだろうか?投げやりかもしれないが、その一瞬だけを求めて、いわば命がけで何かを残すことは、強さだろうか、それともやはり弱さだろうか。

 覚醒剤に頼って何らかの作品を残したあと、素面の自分がそれを見たり聞いたりしたとき、どんな気持ちになるのだろうか?いわば夢遊病者のような自分の作りだした作品を見たとき、空しくなるだろうか。それともいいものが出来たと、自分を称えるだろうか。

 当然の事ながら、麻薬はほんの一瞬の幻を見せてくれるだけなのだろう。再現できる芸術を残すためには、余りにも体の消耗が早すぎる。そういうものに頼る弱さのある人間には、生涯をかけての地道な精進ができるはずもない。

 やはりそれは、芸術とは無縁という事なのだろう。
 
 
 
 
 
 

 さそり座の歌 963

 12月20日にファミリーコンサートをすることになった。以前なら、夜中でもいつでも集まって、自由に練習できたのだが、肝心のピアノ奏者が家を離れたので、今度からは練習がそう簡単には行かない。

 それで、それぞれの予定をすりあわせて、11月23日の祭日に、とりあえず一度練習することにした。別府組で練習時間を何時からにするかの相談をしていて、娘がその日何時までこちらにいるか確かめることになった。

 「23日は何時ごろ帰る予定?」というメールを送ると「22日の土曜日の夜帰るよ」という、こちらにとっては、少しとんちんかんな返信があった。

 そのとき、「帰る」というのは、やはり生まれ育ったところへ行く時に使うんだなと、再認識した次第だ。ふるさとを離れて50年近くなる私でさえ、田舎の母に電話する時「明日帰るから」と言っているのにも思い当たったからでもある。

 そういえば、長男の嫁は東京生まれで、別府に来てくれた。盆などのレッスンが長く休めるときには、両親のいる東京へ里帰りしている。妻が、「娘を送り出してみて、初めて本当に、東京のお母さんの気持ちが分かった」という話をしていた。高速で2時間ほどで行き来できるのに比べれば、やはり東京は旅費もかかるし遠い。

 ある人が「地続きのところにいてくれたらいいよ。うちの娘なんか、海の向こうのロスアンゼルスに行ってしまった」とか言うので、大笑いしたこともある。それぞれ、皆さんいろんなケースの子離れをしているようだ。

 11月1日に、日本の歌シリーズの3回目になる私のリサイタルを開いた。その日は佐賀から娘夫婦も応援に来てくれて、受付などを手伝ってくれた。丁度その日は、一年前に娘夫婦が挙式した日だったのだ。

 結婚して1年たつと、「紙婚式」というのだそうだ。リサイタルのあと、喫茶店で長男夫婦、娘夫婦、そして私達夫婦の6人で、ささやかな打ち上げをした。「紙婚式おめでとう」と、水で乾杯をして笑いあった。

 そういえば、私達の30年はなんというのだろうと調べてみたら、「真珠婚式」だった。行けるかどうか分からないが、憧れの金婚式までには、ヒスイ、ルビー、サファイアと、まだまだたくさん峠がある。

 ましてや、紙婚式から金婚式までは遥かな先のことだ。娘たち夫婦は、これからどんな旅をしながら、いろんな式を越えていくのだろうか。

 さそり座の歌 964

 朝の練習をしていると、低い日差しが、スポットライトのように、ギターを弾く私の姿を照らしてくれる。その日差しのライトを、舞台に上がったつもりにしてと、練習したりもするのだが、何度やっても、練習と本番は違う。

 先日、31回目になる年に一回の定演が終わった。もう慣れそうなものだが、今年も、体が硬くなり、息をすることを忘れて、リズムがぎこちなくなるのが分かった。

 少しでも気持ちの中に不安があると、どうしてもそれが演奏に出てしまう。今年は特に、ほんの4小節の最後のところが、難関だった。掴みにくい和音がいくつかあり、なかなか指の形がきちんと決まらないのだ。数日前のリハーサルでもうまく行かず、これは大変と、それこそ死に物狂いで練習した。プロとしてのプライド、曲の最後でずっこける恥ずかしさを思うと、練習せざるをえなかった。

 その練習をしながら、ほんの5秒ほどのところがすっと気持ちよく行ったところで、聴いている方には、その裏にある練習のことなど分かってもらえないだろうなと思った。間違えれば、聴衆全員に分かるような衝撃だが、うまく行ったところで、何事もなかったような時間が過ぎるだけだ。

 これまでも、よく恥をかいてきた。いつだったか、演奏の終わった後、見送りの挨拶に立っていたら、7、8歳の子供が私のところへ来て指差し、「間違えたー」と素直に、しゃべった。親が飛んできて、「これ、そんなこと言うんじゃないよ」と、すぐに子供を引きずって行ったが、勿論、その親も間違いの事は分かっていたのだろう。

 そんなことにもめげずに、恥の上塗りを繰り返しながら、ここまで来た。それは鉄面皮の所業だったのだろうか?自分の中の甘えが、安易な発表を許してきたのだろうか?

 よく話が出るのは、演奏は、3箇所間違えたら、97点ということで、素晴らしい成績ではないのだ。極端な話しになるが、ほとんどの音を正しく出しても、いくつかこければ、その評価は零点に近くなる。その上、ハイレベルになれば、ノーミスで弾いても、音楽性がないとこき下ろされることも良くある。

 それでも、なぜか人前で演奏したくなる。これは、厚かましさからくる「ビョウキ」なのかもしれない。

 ちなみに、今回の最後の4小節は、固くなりながらも、何とか音を出すことが出来た。やれやれ。
 

さそり座の歌 965

 ファミリーコンサートが終わった次の日、10年ほどいっしょに暮らした豆(猫)が、炬燵の中でひっそりと死んだ。このところ痩せて、歩くのもままならなくなっていたので、それなりに覚悟は出来ていたのだが、やはり固くなっているのを発見した時は、愕然とした。

 どういう偶然からか、この猫を佐賀からこちらに連れてきた娘も丁度家にいて、3人で看取り、そして見送ることが出来たのは幸いだった。娘が気まぐれに拾ってきてくれたお蔭で、私達家族は、いろんな癒しをもらうことが出来た。それは、極端に言えば、我が家がばらばらにならずに過ごせた、元であったのかもしれないとも思うほどだ。

 貰って来た当時は、まだ妻が勤めていて、夜勤で夜中に帰る事が良くあった。寝静まった深夜に部屋に入ると、「お帰り」と出迎えてくれるのがどれだけ嬉しかったかわからないと何度も話していた。看護の疲れ、人間関係の疲れが、そのやわらかな鳴き声と、抱きしめる温もりで、かなり消えていたのだろう。

 ときおり私も、何かで猛烈に腹が立った時、(そういうときに限って)豆が擦り寄ってきて、穏やかな顔で「まあ、まあ、そうむきにならないで」と見上げられたものだ。それで、妻への小言をやめてしまうこともあった。豆は、ささくれた心を見透かすかのような、凄い霊感を持っている気もするほどだった。

 冬至の日、初めてペットの火葬などをしてくれるところのお世話になった。大分市にあるその施設は、曲がりくねった細い道を登った山の中にあった。

 紙の棺に豆を収め、薔薇の花や、好きだった鯵の刺身なども入れた。読経のあと、順番に白い綿で口を濡らして、蓋を閉めた。最後のお別れだった。

 そのしばらくあとに、お骨を拾い壷に収めた。小さな壷を持って家に帰ったのだが、本当に身近な人の葬儀をした感じだった。

 帰りながら、時折車に豆を乗せると、なぜか運転席の膝に来て、外を見ていたのを思い出した。あの足先の膝につく感じが、今も鮮明に残っている。

 その夜は冬至粥の夕餉だった。戸をあけるのが上手だった。ご飯がないと、通りかかった人を引率して、えさ箱と人の顔を交互に見て、小さな声で鳴いた。そんな想い出話が延々と続いた。

 いろんな想い出をたくさん残してくれた豆が、星になった。
 
凍て星の 一つ増えたる 我が心 
在りし日を 偲ぶ夕餉や 冬至粥 

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