さそり座の歌 958
結婚して佐賀へ行く娘夫婦の住む家が、最近やっと見つかった。何しろ家探しの条件が、「グランドピアノが置けて、周り近所の迷惑にならないところ」という難問なので、なかなか見つからなかった。
それが見つかってやれやれとなった時、娘が大学に入学した時のことを思い出した。生まれて以来18年ほど一緒に暮らした後の別れなので、それなりの淋しさを覚悟していた。
初めて家を離れて、大学の近くのアパートに一人暮らしをする日のことだった。夫婦二人だけになって、少し感傷的になりそうな夕食の頃、娘から電話があった。
「どうしても、鍵が開からんのよ・・・。どうしようか?」というのだ。
アパートの入り口のドアの前で、何度やっても鍵が開からないと、途方にくれているようなのだ。そう言われても、こちらでどんなことが出来るか?と考えるけど、遠いここからでは、いい案もない。とりあえず知り合いの佐賀のギターの先生に電話して、行って見てもらうことにしただけだった。
寒いのに、入れなかったら、どうしよう?と、こちらはおろおろして連絡を待つばかり。
結局、同じアパートに住む初対面の先輩女性が助けてくれて、何とか解決したようだった。その連絡が3時間ほどして届いたときは、夫婦で大喜び。「何しろ良かった、良かった」の大合唱だった。
・・・ということで、しんみり、娘がいなくなった静寂をかみしめることなく、子離れのスタートが出来てしまった。
今回も同じようなもので、普通なら、結婚式が終われば、それで家を離れて、少しはしんみりするところだ。
ところが、娘の出すたった一つの条件というのが難関なので、なかなか家が見つからない。1ヶ月たち、2ヶ月たち・・・と娘がいてくれるのはうれしいのだが、だんだん不安になってきた。そういう事を知らない方からは、「娘さんがいなくなって寂しくなったことでしょう」とよく言われる。いろいろ言うのも面倒なので、「ええ、まあ(もごもご)・・・」とかで話を濁すことも多かった。たまに娘を見かける方が、「里帰りですか」と声をかけることもあり、これもまた曖昧に対応する時間ばかりが過ぎていた。
まあ、そんな体面もあり、いい家が見つかるのかという不安も出てきたので、何しろ、何とか無事に娘を送り出したいと、強く願う日々になった。
それがようやく、解決できて、何とか前に進みだしたので、ほっとしているところだ。これぐらいごたごたすれば、出て行ける段取りになってよかったと思うばかりで、感傷などを味わうこともないことだろう。
なかなか親孝行な娘だと、喜んでいる。
さそり座の歌 960
最近、パチンコ店に油をまいて火をつけた男が居た。又、街の大通りで、何人もの人を殺傷するような事件も以前起きている。そしてその犯人が「誰でも良かった」と言うのだ。特定の人に恨みがあっての犯行ではなく、犯人がこの世で生きていること自体が、袋小路の闇になっていることからの犯行だった。
競争至上主義、成長至上主義、経営効率至上主義・・・経済の事はよく分からないのだが、そういう風潮が出てきて以来、人の心が切り刻まれて乾いている気がしてならない。人より先に、いつも利潤追求があるのだ。
そんな暮らしの中で失ったものの一番大きなものは「安心」ではないかと思う。不況だからと、簡単に、大量の首切りが行われる。労働者は、まじめに働いていても、いつどうなるか分からないという不安の中で暮らしているのだ。又、病気になったら、老人になって働けなくなったら、その先に安心が待っているだろうか。
そんな現状を思うにつけ、もう化石のような言葉かもしれないが、「終身雇用」という事が出来ていた時代が、かってあった事を思い出す。たぶん、今の市役所などの公務員は、終身雇用と言うのだろう。大過なく務めれば、定年までは、安心して仕事に取り組むことが出来る。昔は、一般の会社にも、同じような「安心」が獲得できていたのではないだろうか。
このやさしさ、安心を、もう取り戻せないのだろうか。国際競争に打ち勝ち、世界戦略を推進するためには、働く人たちは「蟹工船」状態のままで、いつまでもがまんしなければならないのだろうか。
終身雇用には、経営効率の上で、相当のデメリットがあるのだろう。しかし、ボロボロになるまで競わせて、役に立たなくなれば、直ぐに捨て去るという理論は、誰のためのものだろうか。大多数の働く人たちが望んでいることだろうか。
いつ首になるか分からないと言う刃物の上で働くのと、終身雇用という安心の上で働くのと、どちらかを選ぶという選択肢はもうないのだろうか。
安心して老後を迎えられる年金、病気になっても、安心して暮らせる社会保障・・・それは、すべて夢物語だろうか。
もうすぐ、選挙がある。