さそり座の詩 954 

 先日テレビを見ていたら、歌手の森進一とその母親の、これまで歩いてきた道を再現していた。名曲「おふくろさん」の陰に隠された、涙の物語だった。親子の断絶が、恐ろしい犯罪を多発させている今、親や家族に楽をさせたいという森進一の懸命な努力は、眩し過ぎるほどだった。

 それに引き換えと、自分のことを思った。これまで、私は、母親を楽にさせたい、心配をかけないようにしようとして生きてきただろうか。結果的にはわからないが、自分で自分を生かすことばかり考えて、無我夢中で生きてきた気がする。

 昨年30周年のコンサートを開いたが、その時田舎の親戚と一緒に、84歳の母親も来てくれた。その帰りにちょっと出会ったとき「なんも、加勢できんでごめんな」と、祝儀袋をそっと渡してくれた。

 振り返れば、援助ばかり受けたことを思い出す。20歳過ぎまでよく入院していた。最後の入院は2年ほどかかった。時折母が田舎から出て来るのが遅れると、病院の職員から入院代の催促があった。今でもなぜかおぼえているのだが、その金額は、3万何がしかだった。私は何の逡巡もなく、母に催促し、来るのが遅いのを恨んだ。

 もう40年ほど前になるが、退院後、私が初めて職についたとき、日給600円だった。そのことを思うと、その金額の多さが分かる。零細農業で、寡婦の母がどのような苦労をして、その金額を2年間も払い続けたのだろうか。今頃ようやく、そんなことを思う始末だ。

 これまで何も親孝行をしてはいないのだが、強いて言えばひとつだけある。かなり前に帰省した時、新聞が見当たらなかった。なぜか聞いて見ると、「お金がないから、もうやめたんよ」という。

 それで私は、「字を読まんで、テレビばかり見よると、呆けるで、お金を出してやるけん新聞取リよ」と奨めた。実は家に帰ったとき、新聞がないと自分がさびしいだけだったのだが、以来、家に帰ると、「はい、新聞代」と少しだけ援助するのが決まりになっている。

 これまで世話になったことを思えば、ほんの微々たるものだ。しかし、新聞のせいも少しはあるのかもしれないが、ともかく母は呆けずに84歳になってくれている。今年の母宛の年賀状には、「今年も、元気で庭の草取りに励んでください」と書いた。
 
 

 さそり座の歌 955

 新聞を見ていたら、二つの記事が目に止まった。ひとつは、NHK大河ドラマの出演者の年齢がおかしいと視聴者から指摘があり、妹から姉に変更するというお知らせだった。真田幸村の妹では、主人公の直江兼続との関係から、つじつまが合わないという指摘をした人がいたのだ。

 もうひとつは、その近くにあった「地裁、景観乱さず」という見出しの記事だった。ある漫画家の建てた紅白のストライプの家が気に入らず、裁判を起こした人がいたようなのだ。その裁判の結果、「異様な外観で平穏な生活が送れない」という訴えは退けられ、敗訴になったという内容だった。

 二つの記事を見て、自分の場合の他者とのかかわりのことを思った。簡単に言えば、「面倒くさい」「どうでもいいじゃないか」という、気力のなさを痛切に感じてしまったのだ。世の中にはいろんな方がいるという穴倉にもぐりこめば、それで終わりになってしまうところだが、なぜかそれが、今も気になっている。

 ぼんやりテレビを見ていれば、この時期の幸村が何歳で、その妹なら何歳のはずだなどとは、全く考えも及ばない。それがわかるだけでも、相当な博学の方だろう。しかし、万一(全くありえないことだが)私がそれに気がついた場合に、NHKに電話するかといえば、まずそんな面倒な事はしない。おかしいじゃないかと、家族内で笑って終わりだろう。だが、その発見者は、抗議の電話をする気力を持っていた。その違いは何なのだろうか。

 気に入らない模様の家が、近くに出来そうな時はどうだろうか。自分なら、生活の平穏が乱されるとまでは、たぶん言えないよなと、すぐに妥協してしまうことだろう。どうしてもいやだなと思い続けていても、では、裁判までするかといえば、この自分に限って100パーセントありえない。しかし、負けたとはいえ、時間も金もかけて、裁判に訴える気力のある方が、世の中にはいたのだ。

 気弱、面倒、投げやり、見て見ぬ振り、優柔不断、姑息、逃げ腰・・・私の気力を奪うものは何だろうか。何かすることで心が乱れたり、嫌な事に出会うことを、本能的に避けているのだろうか。

 その姿に、寂しさも感じる。しかしながら、これから先も、自分が柄にもない気力を出す事は、たぶんないことだろう。

さそり座の歌 956 

 「源氏物語全10巻・瀬戸内寂聴著・講談社」を読み終えた。こればかりを読むわけにいかないせいもあり、読了まで約10ヶ月という時間が過ぎていた。今さらながら、この作品の巨大さを実感している。

 しかし、この作品は、ただ長いだけではない。男心、女心の繊細な襞を、信じられないほどの筆力で描ききっている。細やかな心理の動きは、飽きることなく読者を魅了する。確かに、世界の認める、驚嘆すべき完全無欠の傑作である。丁度2008年が源氏物語千年紀にあたり、テレビでの特集番組も多く、それとも合わせて楽しむことが出来た。

 読み終えた今、心に残っている言葉が二つある。それは、「前世からの因縁」と「出家」だ。

 愛や夢が、叶ったり、また破れたりするたびに「これも、前世からの因縁なのだろう」と、よく登場人物が述懐する。人の心の思い通りにならない現実に対し、そうつぶやくことで、時の流れの様々なことを受け入れているのだ。それは、悪あがきをして身を滅ぼす前に、現実を認めていく当時の人間の叡智なのかもしれない。力を持たない、浅はかな人間であることを認め、もっと大きな、天の裁きのようなものに、身を任せているとでも言ったらいいのだろうか。

 なまじ、科学とか文明とかで洗脳された現代の人々は、「前世からの因縁」という事を、受け付けられなくなっている。賢そうに、それを笑い捨てて、どうにもならない自分の苦難に、あくせくのたうち回っている。「前世からの因縁」と、すっぱり現実を受け入れられたら、どれだけ重荷が減るかわからないのに。

 それから、源氏物語の登場人物の多くが、「出家」に関心を持っていることが印象に残っている。とうとう最後まで出家できなかった「紫の上」、最後に出家が叶った「浮舟」をはじめ、何かことあるたびに、出家が話題になる。ちなみに、源氏物語の作者の紫式部も、この10巻の著者の瀬戸内寂聴も出家している。

 恋愛、官位、富、そんな世俗のすべてを捨てて仏門に入る。女性の場合は、長い髪を切ることが、その象徴になる。山奥の粗末な家に住み、読経、念仏三昧の日を送る。そんな「出家」にあこがれている様子が、たくさんこの物語の中に出てくる。

 人間関係や、貧困など様々な生きにくい今の世には、出家という救いの道があるようには思えない。年間三万人をこえるという自殺でしか、解決できない現実がある。今の世にも、「出家」にあこがれて、それが叶う道筋があればと思う。

 源氏物語は、「前世の因縁」と「出家」を、私達が喪っていることを教えてくれた。
 

 さそり座の歌 957

 ついに花嫁の父となる日がやってきた。我が家での私と娘との暮らしを知っている方から、いろいろと声をかけられる「式ではきっと、泣くと思いますよ」とか、「めそめそとした感傷を、いつまでも書かないでくださいよ」とか釘を刺す方もいる。実のところ、まだ実感はないのだが、いずれ、いろんな新しい感慨を味わうことになることだろう。

 それはともかく、娘を送り出すにあたり、思いだすことが一つある。それは娘が小学生の頃の誕生日プレゼントのことだ。何度もあって他は忘れてしまった中で、一つだけくっきりと覚えているプレゼントがある。

 箱に入れた包みを開いていくと、その中には紙が一枚。それには「がまん」と書いている。娘はびっくりしていたが、そのプレゼントのことは、後々までよく話題になっている。

 小さな子供の胸に、その冗談のような「がまん」がどのように伝わったかは定かではないが、今日のこの日に、それを思い出している。物の溢れている昨今にこそ、また改めてそのプレゼントもあっていいのではないかと思うのだ。そしてそれは、娘から二人きりになる私達夫婦への、最大の贈り物にもなるのかも知れない。

 一応の子育ての終了まで、32年間妻と暮らしてきてお互いに思う事は、「相手を変える事は難しい」という事だ。いやもっと断定的に言えば、自分の思いを伝えて、相手を変えるという事はできないんだという悟り(笑)のようなものを感じている。青いうちは、相手に自分の要求を呑ませようと、よくぶつかり合ったものだ。その諍いの間で、子はかすがいという役割を、娘がよくしてくれたが、もうこれからはその救いがなくなる。

 話は反れるが、仏教の「諦める」という解釈に驚いたことがある。「諦める」という事は、「悔い、怨み、愚痴」が残る後ろ向きの言葉と思っていた。しかし本来は、「ものごとの道理をわきまえることによって、自分の願望が達成されない理由が明らかになり、納得して断念する」という、極めて理知的な前向きの言葉なのだそうだ。

 それに関連して私が思うに、「がまん」という言葉にも、同じような事があるのではないかという気がするのだ。「がまん」というと、ひたすら耐え忍んで、言いたいことも言わず、したいこともしない、後ろ向きのイメージがある。

 しかし、「がまん」をうまく育てることが出来れば、そこから希望へ通じる新しい芽が出ることもあるのではないかと思う。

 「あなたのいう事は納得できない。私の思いとは違う。しかし、あなたがそう言いたいという事は、理解できないわけではない」と、「がまん」は相手を認める橋渡しになる可能性がある。

 また、「言いたいこともあるけれども、あなたがそう言いたくなるのも、無理がないな。だいたいわかる」と、「がまん」は、相手を肯定するという、小さな花にもなり得る。

 32年間夫婦生活をしてきて思う事は、相手を思い通りに変えてやろうと、ブルドーザーのように押すことが、どれだけお互いに苦痛の時間を生んだかわからないということだ。

 ・・・と言いながら、人の心は脆弱なもので、二人だけになれば、また悟りとは程遠い暮らしを続けることになるのだろうが。

 この機会に「がまん」という栞を、二人の暮らしの中にも、時おり挟んで行けたらと思っている。
 
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