さそり座の歌 950

 大分の教育界に起こった重大問題は「背信の衝撃」という決まった見出しで、連日報道されている。その中身についてもいろいろ言いたい事はあるが、今回は、事件の主要人物となっている、ナンバー2のT現審議官について書いてみたい。

 実をいうとこの人物は、私の中学の時の同級生である。学業も優秀で、体格がよく柔道でも活躍していたが、卒業後は、全く付き合いがなかった。県職員などの異動時期に、上級の部署では写真入で紹介があるが、最近その中に彼を見つけて、「偉くなったんだなー」と思った程度のかかわりである。
 しかし今回の報道を見聞きしながら、他の人には持ち得ない感情が私の中にいつもあった。見ず知らずの人には、「逮捕されたのか、ふーん」程度で終わる。だが、Tに対しては、Tの日々の暮らしが思いやられてならなかった。

 Tがテレビカメラの前で、椅子にのけぞるように座りながら、「コメントできません」とうつろな表情で弱々しく繰り返していた。また自宅が家宅捜索されたと写真入りでも報道された。また逃げているのか、本当に悪いのか分からないが、入院しているとも伝えられている。

 それらを知るたびに、Tの深い深い苦悩や葛藤を思った。何百万円か貰って、あっさり早く逮捕された人は、はじめは衝撃だっただろうが、その日を境に反省と諦めの平穏へ少しずつ近づいていったことだろう。

 しかしTの場合は、20万円だけの問題では、即逮捕になるのは難しかったようで、長い疑惑の時間ばかりが過ぎている。その間の彼の気持ちを思うと、「蛇の生殺し」とか、「真綿で首を絞められる」と言った言葉が浮かんでくる。

 Tを弁護するようだが、長年の悪い慣習を引き継いだ時、そこできれいさっぱり「悪いことはやめよう」とは中々言えない事だろう。たまたま何かの巡り会わせで、今年、現状が暴露されたが、同じようなことをして知らん顔をしている人も相当いるはずだ。それにTは一番中枢にいたから、表に出せない暗部をたくさん知っているのだろう。この事は絶対しゃべるなよと言う超大物の圧力もあるのかもしれない。

 そんな中での毎日は、それこそ「針のムシロ」だろう。それで、Tが免罪されるわけではないが、「いつ逮捕されるか」という恐怖の時間の中でのぎりぎりの苦悩は、察して余りあるものがある。
 さそり座の歌 951

 西武ライオンズが4年ぶりに優勝した。小学生の頃の西鉄以来のファンだから、およそ50年も応援してきたことになる。

 西武というと、広岡監督の下、清原、秋山、工藤、そして今年の優勝監督の渡辺等がいた頃は、本当にいい思いをさせてもらった。黄金時代だったが、今その頃の選手が監督としてよみがえりつつあるのも興味深いことだ。

 昨年、渡辺が新監督と発表された時、なんだか少しがっかりした。余り期待はしていなかったのだが、シーズンに入るととにかく若手が良くホームランを打って勝つのにびっくりした。カブレラ、和田と中軸が一気に抜けてどうなることかと思っていたのに、大変身していた。

 優勝が決まった後、野村監督のコメントを聞いた。「優勝が決まった瞬間、コーチや選手が渡辺監督のところにすぐ駆け寄っていったでしょう。あれが西武の強さのすべてですな」

 それは、監督とコーチや選手の信頼関係を作って、チームを一丸とすることがいかに難しいかを語っているのだろう。甘やかせばつけ上がる、叱れば反発するといったつわものを束ねて、一致団結するという事は、大変なことだ。
 その選手たちを、今までどこの球団もしなかった早朝からの超ハード練習をさせることが出来、しかも結果を出したのだから、渡辺監督の手腕は称えられていい。

 それと、もうひとつ印象に残ったコメントが、投手で大活躍した岸と涌井から出た。完封の後、中二日で無失点リリーフした岸が「西口さんを、第7戦で投げさせてあげたかったので、がんばりました」と言った。

 負ければ後がない6戦目を取り、岸の願い通り、7戦目は西口が先発した。しかし、2回で2点取られて、無念の降板。そのあと西武投手陣の継投が巨人を無安打押さえ、逆転勝ちという事になる。そこで好投した涌井が「西口さんを負け投手にしたくなかった」と、なぜか二人の若手実力投手の口から「西口」という名前が出た。これまで先輩にいろいろお世話になった恩があったのだろう。西口が聞けば感涙ものだ。

若手を育てた西口も立派だが、主戦投手になった若者が、奢ることなく先輩をたたえるムードがあるところにも、西武の強さが隠されているのだろう。
 

さそり座の歌 952

 この秋60歳になり、先日年金受給の手続きを済ませた。もらえる金額を見ると、とてもそれだけでは暮らしていけそうにもない額だった。しかしまあ、ともかくここまで元気に働けてこぎつけただけでも、有難いことだと思っている。

 それはともかく、昨日、社会保険事務所から「国民年金についてのお知らせ」の葉書が届いた。その文面を読んで、ちょっとカチンと来た。

 「あなたは、平成*年*月*日をもって期間満了日に到達し国民年金の保険料を納付できる期間が終わりましたのでお知らせします。」

 その、『納付できる期間が終わりました』という所に、首をかしげたのだ。好き好んで保険料を払っていたようだが、もう払い込む事は出来ないのだぞ・・・という命令を受けたような気がしたからだ。

 これが例えば、「納付していただく期間が終わりました」であれば、私は素直に葉書を受け取ったことだろう。だいたいこの保険料とは、どういうものだろうか。自分の貯金通帳に貯金するようなものだろうか。それとも、みんなで老後を支えあうという、助け合いの主旨のものだろうか。
 
 自分の貯金なら、これまで積み立てた分をすぐ全額返せともいえるが、それは言えない。早死にすれば、ほとんど取られ損になる。今まで納めたのは,どなたかの年金になるだけのことだ。だいたい保険とはそういうものだから、その不合理もわからないではない。

 国というひとつの軸があって、「皆さん、働けなくなったお年寄りのご支援のために、ご協力をお願いします。」という事で、いずれは自分もそういう時期が来るのだからと、国民年金が成り立っているのだと、私は思う。

 その国から、かなり手前味噌な例文だが、次のようなお知らせがあったらどうだろうか。

 『あなたは、40年の長きにわたり、経済的に負担が多い苦しい時も休まず、国民年金の主旨をよく理解していただき、毎月の納入を欠かさずして頂きました。お蔭をもちまして、国民年金により、たくさんの方が助けられてきました。誠に感謝に耐えません。

 これからは、あなたが皆さんのご支援を受ける番です。どうぞこれまでの疲れを癒して、年金を受け取ってください。有難うございました」

 大変贅沢な願いだろうが、「納付できる期間が終わりました」と比較してみてほしい。

 さそり座の歌 953

 「次は何をお望みですか?」と題する小文を読んだ。これを書いたNさんは、敬虔なクリスチャンで、神様との対話を書いた内容だった。

 あちこちが痛いとか、耳が聞こえなくなる、転びやすくなるといったような加齢による症状は、神様から預かった機能を、少しずつお返ししているというのだ。

 Nさんは、「以前に、肋骨を7本お返しして、そのお蔭で、今日まで生かしていただけた」とも書いている。

 そして最後は、「すべての機能をお返ししたら召される時だ。それまで素直に神のご指示に従って生きよう」とまとめている。

 これを読んだからと言って、誰もがこういう気持ちにはなれないだろう。しかし、そのように思いつつ年齢を重ねていけるNさんを、お手本にはできる。

 ああだ、こうだと、愚痴や不満を吐き散らしながら、齢を重ねていくのが楽しいだろうか。もちろん楽しくはない。とはいえ、やはり、いろいろな機能が衰えていく事は、辛くさびしいことだ。しかし、このNさんのお手本があることを知っていれば、少しは心が和らぐかもしれない。

 先日、30周年のコンサートを開き、多くの方のご協力のお蔭で、盛況のうちに終わることが出来た。

 しかし、それが華やかに終わっただけに、その終了後に、ギター仲間の中のかなり年輩の方から、少しさびしい声も聞こえてきた。「35周年の時もこれだけのことが、私にやれるでしょうか。頑張りたいとは思うけど、もう死んでいるかも知れんし・・・」といったような、先を心配する声がしたのだ。

 1年先の事も分からないが、5年先のことなどは、もちろん尚更分からない。そこに想いを馳せることが難しい年代があるのも確かなことだろう。その落差を思うと、さびしくなる気持ちも分からないではない。

 私もそうだが、どの方も、いつどのようなことが待っているか分からない。どこまでいけるか、不安にもなる。

 しかし、そういうときに、ふとNさんのことを思いだせたら、少しは気持ちが楽になるかもしれないと思う。お任せして、行ける所まで行けばいいのだ。思し召すままに素直に従って、機能をお返ししていこう。

 そんな思いを、今、持てただけでも、Nさんの小文との出会いのご縁を、大変有難く思っている。
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