さそり座の歌 947
「アルバムを 開いては 私の幼い日の思い出 繰り返す」
さだまさしの「秋桜」という曲の中に、そんな歌詞がある。我が家も、とうとうというか、ようやくその日が来た。このところ、式のときのスライドに出す写真選びで、妻と娘が、古いアルバムを開いて大騒ぎしている。
生まれてから、幼稚園の頃までは、相撲取りのようにまん丸だった。7・5・3で、草履とか嫌がって、あちこちに脱ぎ散らしていたり・・・とか、いろいろ、それについて話し出すときりがなく、笑ったり唸ったりしながら写真を見ている。
彼との付き合いは、大学時代からで、もうかれこれ10年ほどになる。何度か別府へ泊まりに来たりもしていた。このたび、彼のほうの島での僻地勤務が終わり、内地の学校へ戻ることになったので、具体化が進んだという訳だ。
6月28日が結納だった。向こうのご両親と、こちら3名の6名が参加して、ホテル白菊で行なった。初対面だったが、感じいのいい方たちで、ほっとした。「ひろちゃんが来てくれたら」・・・○○さんと、**さんがピアノを習うようにしている。##さんのところは子供ができたら習いに来る・・・とか、もうすでに具体的なピアノの生徒の話が進んでいるのが、おかしかった。
先日は、佐賀の式場での衣装選びがあった。白いウエディングドレス、色ドレス、それに白無垢など選ぶだけで一日かかった。帰ってきてデジカメ写真を見せられて、どれが似合うかと尋ねられた。これを馬子にも衣装というのか、どれもそれぞれの良さがあって選びがたかった。
今が一番いいときかもしれない。次々何やかやと決めなければいけないことがやってきて、あれよあれよという間に日が過ぎていく。
11月1日が佐賀での結婚式。祐徳稲荷神社で式を挙げ、ルネッサンス創世での披露宴となる。
3月の終わりに、別府での披露宴を予定している。昨日一つ会場の下見に行ったが、まだ確定していない。予定では、1部を、娘とご縁をいただいた方々とのコンサート、2部を披露宴という形になりそうだ。
それが終わり、勤め先の学校を終えて、4月に別府から佐賀に移ることになる。
まだ実感はない。
さそり座の歌949
「猛女とよばれたた淑女 祖母・斉藤輝子の生き方(斉藤由香著・新潮社)を読んだ。「斉藤茂吉の妻にして北杜夫の母である輝子。その波瀾の生涯を孫娘が綴る。」と本の帯にある。また帯の別のところには「明治28年生まれの輝子は大病院のお嬢様として育った。・・・茂吉を看取ってから海外旅行に目覚め、89歳で亡くなるまでになんと108カ国を旅した」ともある。
今でこそ海外旅行に庶民でも行ける様にはなったが、当時は大金持ちにしか出来ないことだった。108カ国という訪問の数が多いのにも驚くが、それをやり遂げられる経済力の裏づけは、普通の暮らしでは到底考えられないことだった。軍の命令で、宝石類を供出した時、三井財閥の次に斉藤家が多かったとも書いてあるので、その桁違いの財政力が良く分かる。敷地4500坪で、ローマ式建築の青山脳病院は、外国で見るお城のような堂々とした建物である。その病院の収入は莫大であったのだろう。
こういつ背景の場合、いわゆる金持ちの自慢話になりかねない。庶民の暮らしでは考えられない超一流の場所での食事場面など、(それも事実だからどうしようもないが)、多少辟易させられる。
しかし、そのいわば自慢話の横ブレを、二つの内容で、中和している。その一つは、斉藤茂吉と輝子夫婦の険悪な様子のことが赤裸々に書かれていることだ。輝子の気の強さ、我が儘に対して、茂吉もすぐに殴ったりする気の短さがあり、二人の暮らしは常に喧嘩と別居で続いている。
もう一つは、輝子の次男であり、作者の父親でもある北杜夫の躁うつ病のことだ。この本を読んで、北杜夫と云う名前と久し振りに出会ったが、この作家を青春時代にかなり愛読した記憶がある。「どくとるマンボウ航海記」など、ユーモア溢れる内容を楽しく読んだものだ。
当時、この作家が躁うつ病だとは知らなかった。北も病気のことをかなり書いているらしいのだが、私は今回初めてそういう状況を知り、この本の中で一番興味深く読んだ。燃える頭を冷やすために、濡れ手ぬぐいを頭に巻いて、ひたすら株を買いあさり、破産していく様子など、ぐいぐい迫ってくる迫力があった。
そういうマイナス部分があることで、疲れを知らぬ未知への旅に精出す輝子の、贅沢な日々の様子も読むことが出来た。その天秤のつりあいで、かろうじてバランスを保っているような内容だった気がする。