さそり座の歌 946

 「義弟(永井するみ著・双葉社)を読んだ。この作者の作品を読むのは、初めてのことだったが、いくつかの賞を受けているプロフィールに見合う実力を感じた。

 今の世の中、離婚や不倫は珍しいことではない。ごくありふれた現象として、あちこちに転がっていることだ。しかし、その自由謳歌に、応報の暗く厳しい闇が待っていることは、なかなか知る機会がない。後で初めて体験することだ。この作品は、その苦しく厳しい闇を描いている。

 連れ合いを亡くした者同士が、再婚をする。男側は9歳の少年、女側は16歳の少女を連れて、同じ家で暮らすことになる。表面的に問題があるわけではないが、その4人の関係は、様々な亀裂を生んでいく。同じ血を引く両親のもとで育つ子どもにはない問題が出てくる。

 少女は成績がよく、いい大学へ行き、弁護士になる。それを追って成長する少年は、自分の血の立派なことを示さねばならない父親に、がんじがらめにされてしまう。

 そして、そういう暮らしの中の、表に出せない鬱屈した姉と弟の心理が、いろんな問題となっていく。言い出したくても言えない、言ってはならない思いを内に秘めて、二人は別の場所で暮らしていく。

 その中に、弁護士をしている姉の不倫が絡んでくる。不倫相手が、姉の側で病死するのだが、表ざたに出来ないことから、その死体を弟の助けを借りて処分することになる。

 そういう背景があり、サスペンス小説は進んでいくのだ。読んでいると、いったいこれがどういう終わり方になるのだろうと、何度も考える。この流れで、ハッピーエンドへはいけないだろうと思いつつ、その結末が知りたくて、本から手が離せなくなる。

 端的に言えば、物語は破滅で終わる。それまで悶々と隠していた様々な鎖が、最後に弾け飛んで行く感じだ。姉と弟だからと言う鎖。不倫という鎖。その締め付けによって隠し通そうとするきしみが、次々に綻びとなり罪を作っていく。

 最後に、自分は何をしたのか、どういう思いがあったのかを洗いざらい書くことで、二人は解放される。すべてを白日にさらすことで、きちんとした罪と罰の世界へ進めるのだ。

さそり座の歌 947

 「アルバムを 開いては 私の幼い日の思い出 繰り返す」

 さだまさしの「秋桜」という曲の中に、そんな歌詞がある。我が家も、とうとうというか、ようやくその日が来た。このところ、式のときのスライドに出す写真選びで、妻と娘が、古いアルバムを開いて大騒ぎしている。

 生まれてから、幼稚園の頃までは、相撲取りのようにまん丸だった。7・5・3で、草履とか嫌がって、あちこちに脱ぎ散らしていたり・・・とか、いろいろ、それについて話し出すときりがなく、笑ったり唸ったりしながら写真を見ている。

 彼との付き合いは、大学時代からで、もうかれこれ10年ほどになる。何度か別府へ泊まりに来たりもしていた。このたび、彼のほうの島での僻地勤務が終わり、内地の学校へ戻ることになったので、具体化が進んだという訳だ。

 6月28日が結納だった。向こうのご両親と、こちら3名の6名が参加して、ホテル白菊で行なった。初対面だったが、感じいのいい方たちで、ほっとした。「ひろちゃんが来てくれたら」・・・○○さんと、**さんがピアノを習うようにしている。##さんのところは子供ができたら習いに来る・・・とか、もうすでに具体的なピアノの生徒の話が進んでいるのが、おかしかった。

 先日は、佐賀の式場での衣装選びがあった。白いウエディングドレス、色ドレス、それに白無垢など選ぶだけで一日かかった。帰ってきてデジカメ写真を見せられて、どれが似合うかと尋ねられた。これを馬子にも衣装というのか、どれもそれぞれの良さがあって選びがたかった。

 今が一番いいときかもしれない。次々何やかやと決めなければいけないことがやってきて、あれよあれよという間に日が過ぎていく。

 11月1日が佐賀での結婚式。祐徳稲荷神社で式を挙げ、ルネッサンス創世での披露宴となる。

 3月の終わりに、別府での披露宴を予定している。昨日一つ会場の下見に行ったが、まだ確定していない。予定では、1部を、娘とご縁をいただいた方々とのコンサート、2部を披露宴という形になりそうだ。

 それが終わり、勤め先の学校を終えて、4月に別府から佐賀に移ることになる。

 まだ実感はない。

さそり座の歌 948

 「だから、あなたも生きぬいて(大平光代著・講談社)を読んだ。変わった経歴の女性弁護士(中卒、自殺未遂、極道の妻、そして司法試験に一発合格)の自叙伝だ。

 発売2ヶ月で100万部突破とある。テレビ等のセンセーショナルな報道が背景にあってのことだろう。確かに、その経歴は興味深いし、司法試験合格までの苦難の日々は、一気に読ませるものがあった。

 しかしながら、読み終わった後、まず、こう誰もがうまくは行かないだろうなと思った。いや、ほとんどの人が、何がしかの立ち直りへのチャレンジをしても、思い通りにならずに挫折していることだろう。このサクセスストーリーは、それこそ宝くじに当るような、極々僅かな一例に過ぎない。しかし、だからこそ、「どうせ」という虚無思想に対して、この本は貴重といえるのかもしれない。

 いじめや貧困などで荒れている若者たちが、この本を読むかどうか分からない。読んでも、この本で重要な役割を果たす、終始励まし続けるおっちゃん(大平浩三郎氏)のような存在が必要だろう。この本が広まることで、全国に、おっちゃんのような存在になる人が、たくさん育ってくれたらと願わずにいられない。

 それに、資格を取ろうとする著者の意欲は、何か新鮮な風を私の中に送り込んでくれた。やれば何でも出来るとまでは言ってしまえないが、取り組みたいという意欲が私の中にも湧いてきた。「宅建」、「司法書士」、そして最後に、「司法試験」に合格していく様子を読みながら、学ぶという事の清々しい喜びを感じた。

 今、ちょっとした説明書を読むのも、面倒になっている。パソコンの、こういう事が解決できたらなと思うのだが、その解説書を読む気力がない。たぶん、30分か1時間の集中力があれば、解決の糸口が見つけられるはずなのだが、ついつい先延ばしにして、投げてしまっている。

 資格で最も難しいという司法試験に比べたら、私の周りにあるちょっとした問題は、爪から先にも当らないような、ほんの小さなものだろう。せめて、自分もそれぐらいのことには、立ち向かいたいものだと、この本に教えられた。老け込んで、脳を劣化させないようにしよう。
 
 

さそり座の歌949

 「猛女とよばれたた淑女 祖母・斉藤輝子の生き方(斉藤由香著・新潮社)を読んだ。「斉藤茂吉の妻にして北杜夫の母である輝子。その波瀾の生涯を孫娘が綴る。」と本の帯にある。また帯の別のところには「明治28年生まれの輝子は大病院のお嬢様として育った。・・・茂吉を看取ってから海外旅行に目覚め、89歳で亡くなるまでになんと108カ国を旅した」ともある。

 今でこそ海外旅行に庶民でも行ける様にはなったが、当時は大金持ちにしか出来ないことだった。108カ国という訪問の数が多いのにも驚くが、それをやり遂げられる経済力の裏づけは、普通の暮らしでは到底考えられないことだった。軍の命令で、宝石類を供出した時、三井財閥の次に斉藤家が多かったとも書いてあるので、その桁違いの財政力が良く分かる。敷地4500坪で、ローマ式建築の青山脳病院は、外国で見るお城のような堂々とした建物である。その病院の収入は莫大であったのだろう。

 こういつ背景の場合、いわゆる金持ちの自慢話になりかねない。庶民の暮らしでは考えられない超一流の場所での食事場面など、(それも事実だからどうしようもないが)、多少辟易させられる。

 しかし、そのいわば自慢話の横ブレを、二つの内容で、中和している。その一つは、斉藤茂吉と輝子夫婦の険悪な様子のことが赤裸々に書かれていることだ。輝子の気の強さ、我が儘に対して、茂吉もすぐに殴ったりする気の短さがあり、二人の暮らしは常に喧嘩と別居で続いている。

 もう一つは、輝子の次男であり、作者の父親でもある北杜夫の躁うつ病のことだ。この本を読んで、北杜夫と云う名前と久し振りに出会ったが、この作家を青春時代にかなり愛読した記憶がある。「どくとるマンボウ航海記」など、ユーモア溢れる内容を楽しく読んだものだ。

 当時、この作家が躁うつ病だとは知らなかった。北も病気のことをかなり書いているらしいのだが、私は今回初めてそういう状況を知り、この本の中で一番興味深く読んだ。燃える頭を冷やすために、濡れ手ぬぐいを頭に巻いて、ひたすら株を買いあさり、破産していく様子など、ぐいぐい迫ってくる迫力があった。

 そういうマイナス部分があることで、疲れを知らぬ未知への旅に精出す輝子の、贅沢な日々の様子も読むことが出来た。その天秤のつりあいで、かろうじてバランスを保っているような内容だった気がする。
 

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