さそり座の歌 942

 「船場吉兆」と言う高級料亭が、あきれた話題を提供している。刺身などの食べ残しを、次の膳に回していたというのだ。

 それに加えて笑ってしまったのは、そこのおかみが「食べ残しでなく、残されたお料理としてほしい」とマスコミに注文をつけたそうだ。これには、手をつけていない料理を、次に回して何が悪いかという底意が丸見えだ。それを読んで、分かっていないんだなあと、思わず笑ってしまった。

 いろんな事件が起こるので良くおぼえていないのだが、この料亭は、たしか産地の偽装で少し前に騒がれていた。しかし私の感覚では、出された肉が、神戸牛だろうが、豊後牛だろうが、そんなことはどうでもいいことに思える。得体の知れない肉を食べて、得意気に「う〜ん、さすが、松坂牛は違う」と悦に入っていた人もいたかもしれない。ま、それはそれで愉快ではないか。

 しかし、今回の事件は、ちょっと質が違う。吉兆でもやるくらいだから、他の店でもありうるのではないかと、我々消費者に、苦い疑惑を植え込んでしまった罪は重い。めったにない豪華なご馳走膳を前にして、これは全部新しいものだろうかと疑うのは、興ざめである。

 もちろん私は、「吉兆」という高級料亭を利用した事はない。たぶん、美食に明け暮れる金持ちが行くのだろう。接待漬けの官僚とかは、またこれかとろくに箸もつけずに、席を立つこともあるのかもしれない。

 飯を腹いっぱい食いに行くのが目的ではなく、その談合や陳情の会話だけが重要というケースも多いことだろう。我々の食生活とは違う食事風景が、値段の高い高級料亭の中で行なわれている気がする。

 安易な予想だが、ファミリーレストランとかに比べたら、箸をつけてもいない豪華料理が、高級料亭は、たくさん残るのだろう。それを、再利用したくなる気持ちが分からないでもない。しかし、もったいない大好きの私でさえも、この使い回しは気持ちが悪い。

 こういのは、現場の内部でしか分からないことだから、内部告発だろうか。それも、やはり従業員を大事にしていない証だろう。働く現場が荒れていなければ、みんなで職場を守ろうとするはずだ。しかし、これで吉兆はまた倒産の危機に陥ることだろう。

さそり座の歌 943 

 毎月出している音楽便り「エスプレシボ」が6月号で通算300号になった。今回は特別増刊号なので、いろいろ手間がかかった。編集、印刷をして、帳合いを取り、ホッチキスで留める作業が、家族の手助けで、ようやく終わった。

 出来上がりを眺めていると、何だかじんわり喜びが沸いてきて、「よし、今日は5週目でお休みだし、打ち上げをしよう」と、急に家族で食事に出かけた。

 そこで、「これ、何号までいくやろうか」という話が出た。「う〜ん、そうだな」とすぐには答えが出なかった。500号まで行くとしたら、あと17年、77歳か・・・どうだろうな、難しいかも知れんなあ。400号だと、あと8年ほどだから、68歳か、この辺が限度かな」。600号だと、85歳になるし、こんなことはありえないだろうと、みんなで笑った。

 エスプレシボの300号、そして今年の秋には、ルベックが30周年を迎える。そして、このさそり座の歌も、長い間の夢だった千回も、視界に入ってきた。

 それらはとても嬉しいことでもあるし、私の人生の大きな節目になることだろう。しかし、実現していない今からそれを言うのは、取らぬ狸の何とかでおこがましいが、「燃え尽き症候群」の到来に、漠然たる不安を抱いている。

 300号のエスプレシボに対し、いろんな方から、嬉しい原稿を頂いた。それは、確かに、これまでの積み重ねを認めても貰ったようで、嬉しいことだった。

 しかし、この騒動、興奮のの時期も、1、2週間で終わることだろう。その後は又、今までと同じように、301号、302号と次々締め切りがやってきて、それをこなしていくことになる。

 30周年の千人規模のコンサートが特にそう言えることだが、節目のイベント規模が大きければ大きいほど、その後の虚脱感は又独特のものがある。抜け殻のようになった私は、そのあと、どうなるだろうか。

 わからない。どうするという事もなく、又、たんたんと今まで来た道を続けるかもしれない。贅沢ともいえる無力感でつぶれるかもしれない。大きなイベントを励みに、よりいっそう、ギターへの情熱が深まって、新たな燃焼が始まるかもしれない。

 とりあえず、この300号の節目は、何事もなかったように、淡々とやり過ごして、見えない次の峰を目指して、歩き出したい。
 さそり座の歌 944

 茨の木(さだまさし著・幻冬舎)を読んだ。さだまさしと言えば、歌手として有名である。プロフィールによれば、ソロでのコンサートを、すでに3千回以上も行なっているそうだ。その人気、実力は確固たる地位を得ているのだが、今回2冊目(1冊目は精霊流し)になるさだの本を読んでみて、この人の作家としての力量に驚いた。いずれ、大きな文学賞を受賞することだろう。

 さて、今回の作品は、父親の形見のヴァイオリンを軸にした物語だった。前作は、自分の体験のようなヴァイオリンとのかかわりだった。今回は違うのだが、いずれにしても、ヴァイオリンに対する並々ならぬ思い入れが、さだを、ここまでのめりこませる作品を書かせることになったのだろう。

 昔から続いている酒屋は、時流の流れに取り残されてジリ貧を続けている。その店に対することで、主人公の真二は、店をやりくりする父や兄と大喧嘩をする。絶縁状態のまま父は死に、その形見にヴァイオリンが兄から送られてくる。その古ぼけたヴァイオリンを修理に持っていくと、それが、イギリスで作られたことがわかる。離婚し、退職した48才の真二は、半ば口実のような目的で、その父のヴァイオリンの製作者を探しにイギリスに渡る。

 その旅をする中で、真二は、父や兄と、心の中での和解をしていくことになる。ラストに、ヴァイオリン製作者の墓にたどり着くのだが、そのとき偶然ヴァイオリンケースから紙片が見つかる。父は、折々に、子ども達との誓約書を交わすという、ちょっと変わった事をしていた。その1枚が出てきたのだ。それは兄弟喧嘩をした後の二人の誓約書だった。

 一つ、お兄ちゃんは弟を力で支配しません。 一つ、お互いの意見を大切にします。一つ、一つしかない物は半分ずつに分けます。一つ、兄弟げんかせずに話し合います。一つ、二人兄弟なので、仲良くします。一つ、兄弟が困ったらどんな時でも助けに行きます。
 とあり、兄弟二人が名前を書き、拇印を押してある。

 小さな男の子の兄弟を前に座らせ、そういういわば厳粛な誓約書を書かせる父親が、今どこにいるだろうか。中には笑い出す人もいるかもしれない。しかし、私は、この小説の根底にある、奥行きの深い、優しさや悲しみの襞のたっぷりある人間像は、そういう教育からこそからこそ生まれてくるものだと思っている。

 その1枚の誓約書は、認知症の兄への思いを、真二に決定付けたのだった。

 さそり座の歌 945

 教員採用に関わる贈収賄事件が起きた。それぞれ日の当る人生を送ってきた方が、今は警察の留置場にいる。思いもかけない事態に、断腸の思いでいることだろう。警察署からの窓の景色を、どのような思いで見つめているだろうか。

 その逮捕は、親子や親戚、知人友人に大きな波紋を投げかけているはずだ。目の前が真っ暗になるというのは、こういう時かもしれない。

 それも大変なことだが、私の一番の悲しみは、よき教員であり、よき指導者であったはずの人から教えを受けた子ども達のことだ。校長や教頭まで上り詰めるまでには、膨大な数の教え子がいることだろう。過去のことはともかく、今学校にいる数だけでも相当な人数になるはずだ。

 つい最近、秋葉原で残酷な通り魔殺人が起きた。今回の事件は、刃物を使ったわけではないけれども、子ども達に切りつけたということでは、同じような気がする。

 子どもだからといって、純粋無垢でもない。社会悪の影響も相当受けて、かなりよこしまな汚れも身につけていることだろう。しかし、目の前にいる教育者の姿が、このようなものであるという事にであった事は、生涯の心の傷になる子もいることだろう。生徒は、暗い影を心に植え込まれたのだ。

 教育者が生徒の前で何か言っても、「何を偉そうに・・・」とせせら笑うような態度に、もし生徒がなったとしたら、その責任の取りようがあるだろうか。

 「どうせ、世の中真面目に行っても仕方がない。なんでも裏があって、勝手なことばかりしてるんだ」と、捻じ曲がったまま生きていかねばならないとしたら、その子の心を切りつけた傷は、人の一生を棒に振らせることにもなる。立ち直れないで、正しく、真面目に生きようとする心を、斬り捨ててしまうことにもなるのだから、余りにも罪は重い。
 
 子ども達の心を切り刻んだ通り魔の傷を、後に残った教育者が癒すことが出来るだろうか。それには、これまでの何百倍ものエネルギーを注がなければならないことだろう。効果があることを信じなければ、教育の持続は出来ないだろうが・・・。

 残された教員も、生徒もこれから大きな課題の重荷を背負わねばならない。
 

inserted by FC2 system