さそり座の歌 938

 「魂萌え!(桐野夏生著・毎日新聞社)」を読んだ。最近読んだ桐野の「柔らかな頬」は小さな子どもを持つ若い母親が主人公だった。今回の作品は、五十九才の平凡な主婦を通しての物語だった。どちらも、女心のちょっとした襞の震えまで見事に捉えて表現していた。その、内面のかすかな動きを捉える筆力に、今回も驚かされた。いろいろな立場の心理がどうしてこのように克明に描けるのか、不思議でならない。

 平凡な会社員とその妻、そして長男と長女の四人家族の家庭がある。その中の、夫が急逝した後、残された平凡な主婦がたどる様々な出来事が、物語を動かしていく。

 隠されていた夫の不倫相手との葛藤、長男や長女の暮らしと、遺産の分配についての過激なやり取り、女友達との付き合いの中での世間というものへの目覚め等・・と、これまで子どもを育て、勤め人の夫を支えてきたありふれた主婦の前に、予期しない現実が押し寄せてくる。

 不倫相手、子ども達、そして女友達にしても、それぞれの暮らしの流れの中で留まることなく時間の渦に流されている。それぞれが懸命に生きているのだ。それに弾き飛ばされそうになりながらも、平凡な主婦は泣いてばかりいられなくなる。溺れないように自分を見つめ、周りと戦い、反発し、そして順応していくのだ。

 家族構成が同じ、そして今の私と同じ五十九才と言う年齢の設定が、私の個人的な暮らしとも結びついて、この本は、いろいろ考えさせられた。

 先ず五十九才という年齢は、まだ若いしエネルギーもあるようだが、もう老いという淵に来ていることも感じる頃だ。余り無茶は出来ないけれど、何かが物足りなくて、空しさがいつしか沸いてくる。揺れる天秤を、周りのいろんな現実が、淡い虹のほうへ、そして孤独の落胆のほうへめまぐるしく振り回す。

 たぶん五十九才ごろまでは、何となく家族というものは、幻のような共同体でいられることが多いのだろう。それが、自立していく子ども、そして連れ合いの死などにより、周りに人はいても、自分が一人であることを悟る日々になっていくのだ。幻は消え、これからの老いへの暮らしを、一人で生きるという事を、しみじみ味わうことになる。

 周りに人がいてくれれば有難いが、いつまでもそういう時代が続くわけではない。その時への覚悟を、少しさせてもらえた小説だった。

さそり座の歌 939

 「いよよ華やぐ(瀬戸内寂聴著・新潮社・上下巻)を読んだ。俳人「鈴木真砂女」をモデルにした小説だった。少し俳句と関わっていてその名前を知っていただけに、興味深く読んだ。

 読み終わった今、しんと冷えた何かが、私の体の奥深いところに、沁みているのを感じる。その気分を伝えるのは難しいが、あえて言葉にするとすれば、「さびしい充足感」とでも言ったらいいだろうか。

 「羅(うすもの)や 人悲します 恋をして」と言う句の背景が、この小説を読んでよく分かった。人が生きていくうちには、いろんな縁や出会いがあり、別れがある。目くるめく逢瀬の喜びがあれば、それを上回る地獄の修羅場がある。人を悲しませ、そして、その何倍もの涙を、自分も流すことになる。

 結婚相手の失踪、再婚、離別、上京、不倫など、まさに波乱万丈の真砂女は、96歳で大往生を遂げている。小料理屋の「卯浪」を90過ぎまで経営し、その生命力は驚嘆の的だった。

 その若さの秘密のようなエピソードが、小説の冒頭に出てくる。91才の時、店に出ていて疲れが出たのか、腰が痛いと医者の診察を受ける。医者が「しばらく温泉にでも行ってゆっくりしなさい」というと「嫌ですよ。そんな年寄りくさいこと」と答えるのだ。91歳の笑い話のようだが、実際、そんな雰囲気で小料理屋の常連を、いつも喜ばせていたようだ。

 ついでに生命力の蛇足の話をもう一つ。100何歳かで有名になった金さん、銀さんがテレビとかに出るようになって、貯金を始めたそうだ。その理由を聞いたら、「老後に備えて」と答えたと言う。

 何かに打ち込む生命力は、やはり天性のものがあるのだろうか。危ない橋を渡るかわたらないかの違いはどこから来るのだろう。たいがいは、人目やいろんな苦難を恐れて、平凡な道を歩んでいく。程ほどの年齢で、我が人生こんなものだろうと、波風のない日々を終える。

 それを突き破る真砂女の生命力は、見事なドラマになる。その、人も泣き自分も泣く地獄絵は、人並みはずれた生命力の賜だろう。凡人には到底真似られることではない。

 しかしながら、「来てみれば花野の果ては海なりし」の辞世の句がある。紺碧の広い海へ辿り着いた真砂女は、満ち足りた96年だったのだろう。

さそり座の歌 940

 それは確か、「鼻血が出て止まらないので、緊急入院しました。1ヶ月ほど、ギターをお休みします」というメール連絡から始まった。

 2月の終わりごろからだっただろうか。次々身のまわりの方から、心配な知らせが続いた。「心筋梗塞のため入院します」「大腸がんの手術で、入院します」、「事故で足の骨を折りました」、「子宮筋腫で手術のため入院します」、「網膜はく離の手術で入院します」、「運動していて隣の人とぶつかり、胸が痛むので、レントゲン検査に行きます」・・・と、記憶にあるだけでも結構な数が続いていた。

 ある人は、レッスンを済ませた直後、買い物に行って事故にあっていた。起こるはずもないようなことが起こっていたのだ。

 「**の娘ですが・・・」と、網膜はく離での緊急入院の知らせが、本人の代わりにあった時は、なんだか体にぞっと寒気が走った。「本人は、電話にも出られないのだな。なぜ、こんなにも悪い知らせが続くのだろう。」と、暗い闇に沈みこむような気がして、足がすくんだ。この暗雲を払うため、神仏にも祈りたい気分にさえなった。

 普段は病気とは無縁なような人が、思わぬ知らせで、二人も合奏団をお休みという事になっていた。今年は、30周年記念演奏会もあるのに、みんなが揃ってくれるのだろうかという不安も沸いてきた。思えば今まで、こういう心配は余りした記憶がなかった。考えてみれば、みんなが元気で顔ぶれが揃うのは、素晴らしい幸運なのかもしれなかった。

 私のホームページに、「風の花だより」という掲示板がある。私はそれに、短いコメントと、一句を毎日掲載している。そこに、余り悲しい知らせが続くので、祈りを込めて「流れよ変れ!」と書いたことがある。丁度、春分の日のことだった。

 春分の日は、この日より、昼の長さが夜より長くなるという、冬と春の境目のような日だ。何となく、この日を境に、この暗い流れが、大きく転換してくれたらという願いを込めて、「流れよ変れ」と書いたのだ。

 もちろん、それからのことは、偶然なのだろうが、以後嬉しい退院の連絡が相次いだ。骨折の方も、装具が取れましたとメールが来た。網膜はく離の方も、来週からレッスンを再開してくださいと、連絡があった。

 今年の冬は寒かったが、春分の日を潮目にして、ぬくもりの日が多くなった。有難い季節の変わり目だった。

さそり座の歌 941

 「深い河(遠藤周作著・講談社)」を読んだ。この作品は、かなり以前に読んだ記憶があった。映画も見た。調べてみると、十五年ほど前のことだった。当時かなり話題になり、マスコミなどでも盛んに取り上げられたものだ。

 読み進めて見ると、きちんと記憶に残って生々しい場面と、こんな所があったかなという所とまだらになっていた。それに、やはり四十五才の頃の見方と、還暦の今とでは、受け取り方が違っているように感じた。

 例えば、冒頭に、癌で妻が亡くなろうと言う時に、窓の外から「焼き芋〜」というのんびりした声が聞こえてくるところがある。なぜか分からないが、読み終わった後、それが一番に蘇って来る。誰が死のうが生きようが、そんなこととは何のかかわりもなく、人の暮らしは流れていく。人々の死や苦難のすべてを呑み込んで流れていく聖なるガンジス河と、「焼き芋〜」というのどかな売り声とがダブってくるのだ。年を取った分だけ、諦観が深まったのだろうか。

 遠藤周作は、キリスト教文学で名をなした人だ。「沈黙」という作品がベストセラーになり読んだ。踏絵などで信仰を滅ぼそうとする権力がある。その苦難のぎりぎりのところで、ここでこそ「神」の一声が聞きたいという、信者や読者に、冷たい沈黙ばかりが続く。

 この深い河でも、玉ねぎ(神)を求める大津という人物を通して、いわば神の不在を描く。人の身代わりになり首を折られた大津が、危篤と言うところで、この物語は終わっている。神をみすぼらしく、弱々しく、無力に描いていくために、大津という人物が登場している。

 いろんな宗派の対立が、インディラ・ガンジーの暗殺になり、イランやイラクでの民族戦争を起こすことになる。宗教が基にあり、敵を作ることで団結する戦いの構図が、人間世界の将来の虚無にもつながるようにも描いている。

 これでもか、これでもかといわば「沈黙」を描くことで、遠藤周作は、何を伝えようとしているのだろうか。物語の中に聖書の一節がある。

「彼は醜く、威厳もない。みじめでみすぼらしい。人はかれを蔑み、見すてた。忌み嫌われる者のように、彼は手で顔を覆って人々に侮られる。まことに彼は我々の病を負い、我々の悲しみを担った。」

 これがどういう意味なのか、しばらく噛み締めてみたい。

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