さそり座の歌 934

 「なげださない(鎌田 實著・集英社)」を読んだ。読んでいないのだが、この著者のベストセラーに「がんばらない」というのがある。その本のせいかかどうかはっきりしないのだが、癌などで苦しんでいる人に、周りの者が、口先で「頑張れ、頑張れ」と言うのはもうやめようと言う声がその頃から広がった気がする。「これだけ耐えてがんばっているのに、これ以上まだがんばれと言うのか」と言う、患者さんの悲痛な声が、私達の胸に刺さったものだ。なんだか「がんばらない」は、ぎすぎすした日々に、優しい虹をかけたような言葉だった。

 この作者は、「がんばらない」のあとに、「あきらめない」、「それでもやっぱり、がんばらない」、そして今回の「なげださない」と続けて本を出している。題名だけ見ていると、なんだか揺れているようにみえる。医療の現場で、沢山の苦しむ人々と接すると、いろんな思いが溢れてくるからだろうか。

 今回の本には、「アルコール依存症で、どん底から立ち直った人のこと」、「末期がんでありながら、転移しても再発しても決してくじけずに立ち向かって、癌が治った人のこと」、「光を失って絶望した世界から、盲導犬とともに福祉活動にいそしむようになった人のこと」等の、十篇の実話が取り上げられている。

 どれも、苦しんで絶望して、嘆き悲しんだあと、それこそ血の滲むような頑張りによって、自分の人生をつかんだ、感動のお話ばかりだった。

 「あとがきにかえて」で、著者は次のように書いている。「ぼくには、できないこともいっぱいある。ぼくはぼくで、がんばらないで、あきらめないで、なげださないで、生きていこうと思う」

 一見矛盾をはらんでもいるようにも感じる。しかし、この著者は、人を助ける仏なのだと思う。仏は、それぞれの病に応じて、いろんな救い方をするそうだ。「頑張れ」と叱咤激励したほうがいい人もいる。「ゆっくり休んだ方がいいよ」と寄り添うほうがいい人もいる。その根底には、目の前にいる人への、真実の優しさ、温かさがあることで、「がんばらない」も「なげださない」も人の胸を打つのだ。

 全編を読んでみて、この「鎌田實」さんの行動する「愛」の深さに、畏敬の念を持った。今の時代に、このような人がいるのだ。生きている仏に思えた。
 

さそり座の歌 935

 「柔らかな頬(桐野夏生著・講談社)」を読んだ。帯には、「直木賞受賞作。謎の幼児失踪事件。それは姦通という罪を犯した母親への罰なのか。人間の孤独と自由を追求する問題作」とある。

 端的に言えば、私はこの本で、久し振りに小説を読むこと、本を読むことの喜びの時間を持つことが出来た。最後の一ページまで、飽きることなくぐいぐいと物語を追う事が出来た。

 それがなぜなのか考えてみると、ストーリーの面白さだけではないことに気づく。極端な言い方だが、そこには現代人の抱える本質があった。この小説のバックに流れている人間を捉える目の確かさにひきつけられたのだ。それぞれの人の持つ、虚無的な閉塞感、そしてそこからの脱出願望を全編に流しながら、物語は進んでいく。

 社会派小説、ミステリー、サスペンス・・・と、いろんな要素を兼ね備えた筋立ては、我々のどこかにある、虚空を炙り出して行く。後になってみれば、ほんの少しの何かで、人生が大きく揺らいでいくことを納得させる物語が続いていく。

 少女が失踪して、母親はいつまでも子どもを捜し続ける。その中で、幾つかのパターンで、登場人物の中の犯人像を描き出す。そのどれも、それもありうるかもと思わせる。しかし、読者の心の中には、そんなことでこの事件の犯人が決まるのでは、つまらないとか、嫌だなと思わせて、それが、妄想であったり夢であったりするのだ。それが夢だと消されていくたびに、なんだか読者は安堵し救われる。

 そして、では、それなら、犯人は誰なのかと、最後の一ページまで引っ張られていくのだ。主だった登場人物が、どの人も犯人になりうる説得力のある筆力は、作者の力量に他ならない。

 それにしても、それがプロの力なのだろうが、いろいろな仕事の(例えば刑事内面等)細かいことが良く調査されているなと感心する。デザインとか製版会社の場面もよく出たが、以前自分が七,八年ほど仕事をした、写真製版の現場がなつかしく描かれていた。当時は、鉛の活字印刷から、写植の製版が時代の変わり目で、最先端だった。それが、この物語では、写植が滅び、パソコンへ移行すると言う時代の流れも描かれていた。

 現場の人間しか知らないようなことを、どうして書けるのか不思議になる。それだけでも、小説家には到底なれないと思う。

さそり座の歌 936

 「輝ける日々(ダニエル・スティール著、畑正憲訳・朝日出版社)」を読んだ。この作者は、全米一のベストセラー作家だそうだ。刊行数は5億冊を超え、すべての著書がベストセラー1位となり、その業績はギネスブックにも載っているという。

 そんなすごい作家なのだが、恥ずかしいことに、私はこの作家の本を初めて読んだ。たぶん、この著者のほかの作品に感動している人は、それを背景に、私とは違った感動をこの本から受けたのだろう。「全世界が涙した感動の実話。25カ国でベストセラー」と帯にある。

 「躁うつ病に苦しむ息子ニックとの壮絶で感動的な19年間」という内容なのだが、私は読みながら、一度も涙をこらえるようなことがなかった。何か言い知れぬ違和感が、最後まで付きまとって、素直に感動できなかった。

 確かに、壮絶な親子関係だと思う。その19年間の苦労は良く分かった。今、子育てが出来ずに、虐待や子殺しの多い中で、母親としての存在感は、立派なものだと思う。しかしながら、私は一人の女性として、また人間として、その生き様には少なからず偏見を持たざるを得ない。未婚の18歳で二人の子どもがいて、以後次々と子どもを産んでは、4度ほど夫を取替えている。名前を見てもイメージが浮かばないほどだが、子どもは9名いるようだ。その中の一人が、躁うつ病を病んで、若くして自殺したニックなのだ。

 欧米化したとはいえ、まだ日本人の意識とは、こういう離婚や訴訟世界のアメリカとは違うのかもしれない。その現実は、我々日本人の持つ許容範囲とは違うのだろう。しかし、私には、この作者の暮らしぶりが、子どものナイーブな心に、大きな影響を与えている気がしてならない。母親の渇きが、繊細なニックを滅ぼしたと言ってしまうのは、酷だろうか。

 文の中には、尊敬、愛、夢、希望、などの前向きで温かい言葉が多い。鋭敏なこの作者は、本能的に、読者が嫌う現実をうまくオブラートで包んで、見えないようにしている。例えば、「このニックは、ビル(一人の夫)の家系の遺伝によるものだ。それでどれだけ苦労させられているか」と言っているのではと思わせるところがある。よく読めばそういう事なのだが、それを見事に温かい言葉をちりばめて、夫を愛し、尊敬している話に変えている。

 そのような隠れた棘が時おり読み取れて、それをやんわりと正当化する文章が、私は余り好きになれなかった。

さそり座の歌 937

 「精霊流し(さだまさし著・幻冬社)」を読んだ。作家の浅田次郎が「思わず涙するほど悲しく、時に声立てて笑うほど面白い」と帯に書いているが、全くその通りだった。看板に偽りなし以上の引き込まれ方で、読みふけった。

 そのやわらかい抒情の中に身を浸すのがとてもこころよくて、本が終わってほしくないと思うほどだった。残りページが少なくなるに連れて、さびしさを感じる本などそう出合えるものではない。

 「精霊流し」は、長崎で行なわれる初盆の時の行事だ。亡くなった方へ親族、知人が思いを込めて飾りの船を出す。それによって、これまでの人生の中で関わった万感の思いを断ち切り、死者に別れを告げるのだ。

 この小説は、さだまさしの自伝だ。父母や、伯母や従兄弟など、別れていったいろんな人々との様々なかかわりを描いている。そしてその最後にいつも、その人々を送る「精霊流し」の場面が出てくるのだ。その様子が、生きていた間に、残された人とどう関わっていたかという反映が、人々の動きで切なくあらわれてくる。死に行く人を送ることで、生前の姿が、それぞれの人に語りかける様子を、この小説は、淡々と優しく語りかける。

 中でも女流ヴァイオリン奏者との別れは、特に切なかった。さだまさしが、毎日コンクールで一緒に戦ったときの一位の少女は、クラシックの世界で活躍していた。そして、さだまさしは、クラシックを捨て、ある種の挫折感の中で、歌の世界に入っていた。

 その女性との再会があり、「我々は戦友だ」と意気投合することになる。しかし、しばらくして、その女性は肺がんで亡くなるのだ。

 また、原爆のことにもかなりスペースを割いている。語り継がねばならないという、さだまさしの強い意志を感じて、その人間性に感動する。歌手として成功した自慢話などは全く無く、小倉でなく長崎に投下されることになったいきさつや、破壊され死体の溢れる街の様子などをあえて本に入れている。それは、長崎からの心底からの平和の叫びだった。

 我が家に一枚だけCDがあるのを思い出して、さがして見たら出てきた。「さだまさしベスト」を久しぶりに聴いた。北の国から、案山子、秋桜、無縁坂、そして精霊流し・・・そのタッチは、本の内容と同じだった。

 「笑い話に時が変えるよ。心配いらないと、笑った」いい歌詞だ。
 

inserted by FC2 system