さそり座の歌 926
毎週火曜日の午後は、ギターの出張レッスンに出かけている。目の不自由な二人の方の自宅に出かけて、口移しのレッスンをしているのだ。
いつものように、最初は、Sさん宅を訪れる。Sさんは玄関まで出迎えてくれ、「今日はだいぶ涼しいですね」とか言いながら、応接間に入っていく。
そこまではいつもと変らない流れだった。しかし、応接間に一歩入って、「うっ」と思った。いつもの場所に、ギターも譜面台も用意されていなかったからだ。
「先生、今日は、そこのソファーに掛けて下さい」と、Sさんがいつもと違う場所へ私を導いた。私は、全てを察した。
ソファーに座った私に、何か言いたそうにして、Sさんの顔がゆがんだ。涙が滲み、すべり落ちてきて、しゃべろうにも感極まって声が出ないのだ。
「よく頑張りましたよ、80歳まで続けたんですからね。立派なものですよ」と、私のほうが声をかけて、慰めた。
しばらくして、Sさんの奥さんも出てきて、両手を突いて、「家まで来ていただいて、長い間よくしていただいたのに・・・」と、丁重に挨拶してくれる。Sさんは、奥さんの持ってきたハンカチで、しきりに涙をぬぐっていた。
先生の30周年記念コンサートまでは、どんなことがあってもがんばるから・・・と口癖のように言いながら、今日まで来ていた。しかし、しばらく前から、ギターを抱える姿勢が、ちょっと弾いていると、ずるずるっと崩れるようになっていた。もうそろそろ無理かなと思いながらも、何も言わずに励ましていた。
目の悪くなる前に7年、そして失明後5年ほどになりますかね、とかいう思い出話をして、お茶を飲んだ。もうこのドアを開けて、この部屋へ入ることもないかも知れない、と思いつつ、Sさんにお別れの挨拶をした。
玄関で靴を履いていると、壁を伝って出てきたSさんが、見えない目で私を見つめた。そして、その目から、大粒の涙がこぼれた。
Sさんは目が不自由。そして奥さんは耳が不自由。笑いながら、「二人で一人前だから」とよく話していたが、これからお二人が、いつまでもお元気でと祈りつつ、S邸をあとにした。
時が過ぎてゆき、少しづつ身のまわりが変わっていく。
さそり座の歌 929
11月13日、『「鉄腕」稲尾さん死去』という夕刊の文字が目に飛び込んできて、息を呑んだ。つい最近、別府に新球場が出来、併設の稲尾記念館の様子なども新聞で見たばかりだったので、「まさか」と思うばかりだが、残念ながら誤報とかではなかった。
有名な言葉だが、「神様、仏様、稲尾様」と呼ばれたほどだから、本物のスターとして、野球を知るほとんどの方の胸の中に、稲尾は存在していたことだろう。中でもこの別府に住む人々の、稲尾に対する愛着はまた格別なものがあるに違いない。
沢山の方の思いいれの対象である稲尾だが、私も、その端くれの一人だ。出会いは、私が10歳の頃だった。丁度、もの心つき、文字が読めだした頃、稲尾の活字は新聞の中で大きく躍っていた。私は、大スター稲尾の新聞写真を切り抜いて、机の前の壁に貼っていた。稲尾になりきって、壁にボールをぶつけて遊んだりしたものだ。
以来50年が過ぎたが、私の野球の楽しみは、その頃の稲尾からスタートしたのだ。稲尾が好きで、西鉄が好きで、その流れに続く太平洋クラブとかクラウンライターとかの弱小球団も好きで、たどり着いた現在の西武も、私の大事な野球の楽しみの対象となっている。
稲尾の活躍は、夢を持たせるだけでなく、それを本当に実現して見せてくれた。いい選手も多く、金持ちで、上品で、ファンも多い磐石の「巨人軍」を、田舎の野武士軍団が見事に打ち破る様は、すばらしい快感だった。それも、真に実力のある、稲尾という本物のスターが存在したからに他ならない。
そのせいだと思うのだが、私の野球の応援は、一に西武、二に、巨人に勝つ球団となっている。どこでも、とにかく巨人をやっつける球団は好きになる。西武が勝ち、巨人が負けるというパターンを、スポーツニュースで見るのが何よりの喜びになる。しかし、アンチ巨人も元をたどれば、稲尾になるのかもしれない。
稲尾は、少年の私に夢をくれた。今の少年たちに、こんな夢を贈るスターがいるのだろうか。
そう思うと、今さらながら、「有難うございました」とお礼を言いたくなる。
謹んで、ご冥福をお祈りします。合掌。