さそり座の歌 922
「おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒(江国滋・新潮社)を読んだ。江国滋闘病日記と云う、副題もあるように、発病以来の経過(わずか6ヶ月)を克明に記した、鬼気迫る記録だった。
この記録は、克明といってもまだ物足りないほどの詳細なものなのに、まず驚嘆させられた。何時に誰が来た。どんな話をして何分して帰った。医者の診察でどのような言葉が出た。昼食には何を食べた。何を食べて、何は半分残したとかも記録(全ての献立明記)。何時にトイレに行き、どんなものが出た。または何も出なかった。支払いをした(支払い項目や金額を明記)。夜の何時に汗が出て起き、パジャマを着替えるなどをはじめ、点滴や手術などの治療や、病状の記録ももちろん詳しい。
そんなミクロを寄せ集めて、何の意味があるのかと思うかもしれない。しかし、とにかく読ませるのだ。刻々と少しずつ変化していく記録が、まさに文学なのだ。言葉は悪いが、面白くて一気に終わりまで読んだ。
そしてその文章の合間、合間に、俳句が書かれている。それがまた、シャープと云うか、切れ味鋭い洒脱さで、うなるものばかりだった.その一部を紹介すると・・・
残寒やこの俺がこの俺が癌/春疾風勝って来るぞと門を出る(2月5日))/三枚におろされてゐるさむさかな/死神にあかんべえして四月馬鹿/啓蟄を過ぎて弱気の虫ぞろぞろ/夏は来ぬ我は骨皮筋右衛門/河骨や骨まで癌に愛されて/暴れ梅雨起きて激痛寝て鈍痛/これ以上痩せられもせずきりぎりす/
そこには、泣かせるペーソスが溢れている。暗くさびしい絶望を、このような形で俳句と言う文学にする、作者の天才的な洒脱精神は、他では見ることが出来ない。
骨まで転移し、肩の骨が折れている激痛の中で、死の直前までメモは続くのだ。そこには、文学を業とした人間の、すさまじいまでの執念があった。
死の2日前、原稿用紙の裏側に、敗北宣言と言う前書きがあり、本の題名にもなった「おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒」と云う辞世の句を残して、彼は62年の生涯を閉じた(8月10日)。辞世の句を書いてから二日後のことだった。
さそり座の歌 924
先日あるコンサートを開いてアンケートを取ったところ、大変なお叱りと、立腹のご意見が2通あった。
「カメラのシャッター音が常に聞こえて、大変不満。演奏に集中できない」「カメラのシャッター音がストロボのように何度も聞こえて、せっかくの素晴らしい演奏が台無し。次回からはカメラは締め出してください」
また、別の会場でのコンサートでは、「演奏前にBGMを流すのは、やめてくれないか」と直接言われた。
カメラの撮影の方にしろ、演奏会場のお世話係にしろ、皆さんコンサートを温かく支えようとする、善意の協力者である。意図して聴衆を困らせようなどとは、毛先ほども考えていない。
カメラの方は、このコンサートの記録がきちんと残るように、いい写真をなるべく多く撮ってあげようと、職務に忠実だった。普通なら大変ありがたい協力者といえる。しかし、残念ながら、そのシャッター音が、音楽に集中する方の耳に、どのような影響があるかまでは、考えが回らなかったのだろう。
また、BGMの件では、演奏までの待ち時間に、リラックスできるように、また退屈させないようにと、お世話係の方は考えているのだろう。中にはそれを喜ぶ方もいると思うので、全く無駄とも言い切れない。
しかし、私も個人的にBGMはどうかなと思うほうなので、その理由を書いてみたい。
大きなホールでのコンサートのとき、始まる前の静寂が私は好きだ。かすかなプログラムの擦れる音、咳の音、これからどんな音に出会えるのだろうという、楽しみがふくらんでくる時間だ。聴衆も、この状態では、会話も小さな声でしか話せない雰囲気になっている。
それが、開演までBGMが流れると、会場はざわつくし、耳も休めない。はいそれではと、チャンネルを切り替えるように、BGMをやめて、生演奏に入るのでは、せっかくの一期一会の気分が壊れてしまう。(始まっても、BGMを切り忘れているとかは、問題外だが・・)
音に飢えた状態で、コンサートを始めてもらいたいのだ。しばらく、視界の世界で遊び、からっぽになった耳で、どんな音楽が聞こえてくるのかと待っている喜びを、BGMは奪っているような気がする。
これからまだまだ、たくさんコンサートとかかわっていくのだが、いろんな情報をいただいて、出来るだけ改善していきたいものだ。