さそり座の歌 918

 娘が、この4月より、近くの私立小学校で音楽を教えることになった。3月の末に急な話が来て、断わりに行ったのだが、断わりきれずに、びっくり玉手箱が開いたように、新しい世界が突然我家にやってきた。

 大学の時に実習を何時間かして以来、もう6,7年経っている。それが、急に、クラスをまとめて授業するというのだから、周りから見るだけでも、大変なのがわかる。毎日毎日、暇があれば、教材や資料をひろげて、次の日の授業計画をたてている娘を見ていると、可愛そうなほどだ。ノイローゼとか欝とかにならねばいいがと心配にもなる。

 これまでは、何やかやと気軽に娘を引っ張り出して、いろいろ助けてもらっていた。妻の方も、一緒に買い物に行くとか、フォークダンスの教室に行くとか、娘と連れそって何かすることが多かった。

 しかし、もう今はとてもそんなことは言い出せない。結婚してよそに行ってしまうほどではないが、子離れしなければならない事態になった。

 しかし、毎日、帰ってきた娘から、食事の時などに、学校の様子や、いろんな学年の子ども達の様子を聞くのは楽しい。

 2年生はかわいいよ。3,4年はギャングエイジやなとか・・・それぞれの子ども達の反応を話してくれる。

 今日は、学校から帰っていると、一緒の方向に行く子供が、大きく手を広げて「せんせー」と抱きついてきたとか、4車線の道の向こうから大声で子どもが名前を呼んでくれたとか話していた。クラスが静かにならない時の苦労もあるようだが、子ども達との触れ合いは、何よりの癒しになるようだ。

 甘えん坊な子、すぐ泣く子、ふらっと出て行って帰ってこない子・・・子どもの顔のある数だけ、みんな性格が違う。それをまとめて授業しているようなので、よくやっているものだと、感心しながら妻と話をする。

 ちょっと閉口するのは、狭い我家に、娘の学校関係の色々な物が、所狭しと並んだことだ。習字や、奥の細道の鉛筆書きをする私の机の上も、何やかやで占拠されてしまった。ワークブック、各学年の提出資料など、実に様々なものが溢れている。何年続けるか分からないが、これは、これからずっと避けられない事態なのだろう。それでなくても乱雑な我家だったが、これからはなおさら、目をつぶっていなくてはならないようだ。
 

さそり座の歌 919 

 今住んでいる3階建てのビルの名前は、サンシティー紅葉坂ビルという。10軒が接して入居し、長屋になっている。いろんな業種の店が1階にあり、その家庭が、2階と3階に入っている。

 ここに入居して、24年ほどになるが、10軒長屋の商売には、いろんな盛衰があった。どういう訳か、うまく行かないところは、次々に商売の内容が変った。もう記憶も定かではないが、クリーニング店、パン屋、喫茶店、貸本などと、めまぐるしく商売替えしたところもあったほどだ。

 そういう中で、私のところの音楽院と、両隣の、ラーメン店、寿司屋の3軒は、実に堅実な店だと、時折ビルの人たちの話題になっていた。この3軒以外は、すべて、当初の店から他のものに変ってしまっているのだ。その退却のドラマをいろいろ見て、やはり、商売をするというのは、難しいことだなと身につまされることも多かった。

 しかし、寿司、音楽院、ラーメンの健闘振りを自慢していたのだが、ついにこの春、その一角を失うことになった。さびしくてならない。

 この次の日曜日で、ラーメン店を閉めるので、ビルのみんなで送別会をするという話が、つい最近あった。隣のラーメン店のおいちゃんに聞いてみると、奥さんの具合が悪くて、決断したそうだ。病気で、もうラーメンの鉢が持てずに、店の手伝いが出来なくなったそうだ。夫婦二人で助け合ってしていた店だから、奥さんが店に出られないと、やっていけないのだろう。

 このラーメン店のおばちゃんは、実にいい人だった。その人柄にどれだけ癒されたことか。あるとき、音楽院から出るピアノ等の騒音が問題になりかけたことがあった。そのとき、このおばちゃんが、「いいえ、私は気にならんよ」と話の広がりを折ってくれて、何とか事なきを得たことがあった。

 コンサート前に娘が遅くまでピアノを練習することもあった。しかし、おばちゃんは、「私は、ピアノが好きやから、がんばりよ」と、励ましてくれさえした。確かに、隣には相当聞こえていたのだと思うのだが、甘えさせてもらうことが出来た。

 そのおばちゃんも、ぶっきらぼうだけど、人情味のあるおいちゃんも、もういなくなる。過ぎて行った、24年の歳月が重い。

 さそり座の歌 920

 息子のコンサートが、京都の少し先の大津で開かれたので、主催者へのお礼や、席埋めにもなればと思って、妻と二人で出かけた。

 久しぶりに、「ソニック」や新幹線の「のぞみ」に乗ったが、乗り心地が良かった。「にちりん」とかだと、ごつごつ、がたがたと言う感じだが、何だかふわふわという言葉で形容したくなるほど、快適な電車になっていた。もうこのような旅をいつしたか忘れるほどなので、浦島太郎状態だったのだろう。

 それはともかく、おなじみのことだが、電車の中でも、乗換駅でも、とにかく人が多かった。いつもは自分の狭い世界だけで暮らしているので、これだけの人々が、それぞれ目的地へ向かって動いているのかと思うと、世間は広いなとしみじみ思いながら、人の群れを眺めた。

 新幹線の通路を挟んでとなりの席に、学者風の初老の外人がいた。本になる前の分厚い原稿を読んで、校正をしていた。時折お世話係のような若い女性がその隣にいて、通訳をして話したり、弁当を買ってきたりしていた。

 また斜め前には、サラリーマン風の男性が、これまた分厚い何かの解説書を読んでいた。指でたどってチェックし、良しここは理解できたと言う風に、ページを繰っていた。私のように気が向いたらページを開くと言う読書ではなく、これを覚えて仕事に使うんだという気合が、伝わってきた。

 違うところでは、薄暗い中で、携帯のゲームを何時間もしている若者がいた。電車が進む間、左手に携帯を構え不動の姿勢を続けていた。

 在来線では、若い女性が、右手でつり革をつかみ、立ったまま紙パックの紅茶をストローで吸っていた。退屈極まりないような顔で、おしゃぶりから口を離せないような、肥満の女性だった。

 そのほかいろんな人々が、電車を利用していた。そのどの人にも、眠るための家があり、勤めがあったりなかったり、知り合いが多くいたり、いなかったり、病気だったり元気だったり・・・と、様々な暮らしがその背景にあるのだろう。そして、それぞれの人は、私と同じように、自分の殻の中で生きている。何の接点も持たない群集の中で、記憶にとどめることもなく、人はすれ違っていくばかりだ。

 電車や駅で、そんなことを考えながら人を見ていると、何だかそれぞれの人が、いとおしくなるのだった。
 

さそり座の歌 921

 先日ある方から、よそにピアノを習いに行っている子どもを、わが家の娘につけさせてくれないかと電話があった。丁度娘はいなかったのだが、4月から学校へ出るようになって極端に忙しくしており、新規の申し込みはすべてお断りしていたので、その旨を話した。しかし、いろいろと理由を言って、なかなか折れそうになかった。

 お腹に次の子どもがいて、遠くまでもう送っていけないので、歩いて行けるお宅へ何とかお願いしたいと、強く粘るのだ。仕方がないので、娘が帰ってから相談してみますという事で、電話を切った。

 娘が帰ってからその話をしてみると、案の定、「もう、出来んよ」とにべもない返事で、機嫌が悪くなった。そこを何とかなだめすかして、向こうは今日、先方に断わりに行くと話していたから、とにかく断わるにしても、早く電話してと頼んだ。しばらくして電話してみたが、向こうは留守のようで、連絡が出来なかった。

 ところがその日の夕方、そのお母さんが教室に尋ねてきて、向こうさんとの交渉のいきさつを話してくれたそうだ。娘は嬉しそうに、とっても素晴らしい一件落着!とか言って笑っていた。

 今日で終わりにしたいと話すと、いえ絶対にやめないでと、泣いて頼むのだそうだ。でもここまで連れて来られないといえば、お宅の家まで出張するから何とか続けてもらいたいと懇願したと言う。そこまで言われれば納得せざるを得ず、こちらに話をしてしまったけれども、そんなことなのでお許し願いたいと言う、お詫びに来たのだった。

 娘は引き受けるとは言っていないのだが、粘られるとしぶしぶと言う可能性もあった。それだけに、重荷が思いがけない方向で取れて、こちらとしては良かった良かったという事になったのだが・・・

 しかしそのあと、それにしても凄いなと二人で感嘆した。そこまで生徒を大事にするという、情熱と云うか執着に、打ちのめされた。私達なら「あ、そうですか、バイバイ」と簡単に引き下がって承諾することだろう。これでいいのだろうかと、何だか生徒さんに冷たいのではと言う気にさえなってしまった。でも、泣いてやめないでとはとても言えないだろうな。この仕事を長くやっていて、どこかが乾いて失われているものがあるのではと、妙に考え込んでしまう出来事だった。
 
 
 

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