さそり座の歌 914
時代が違うのだろうと思うのは、過去をなつかしがるからなのだろう。つまりは、老いたという事かもしれない。
例えば、小学校のころ習った歌に「たきび」と言うのがあるが、今は、落葉を焚くのは良くないんだそうだ。体の害になるという化学物質が出るので、禁止されたようだ。時代が違うなと思う。
落ち葉を燃やすとかは、それこそ、人類が火を使うようになって以来、人の身近なところ行なわれてきたことだろう。それをやめさせるという事に、私は、違和感を覚えてならない。それは、老いて過去をなつかしがる、郷愁だけのせいなのだろうか。
また、もうひとつ例を挙げると、日光に当たるかどうかも、時代が違う気がする。皮膚科医が新聞に書いていたが、皮膚にとって、日に当たるメリットは何もない。特に、子供は1時間以上日光に当てないようにした方がいいとも断言していた。
さびしくなる。昔は(あえてそう書くが)日差しの下で、元気に遊びまわるのが、元気のもとだったはずだ。我々の子どものころは、野や山を、太陽の光のあふれる中で遊びまわって、みんな健康だった。それが、今は、なるべく日に当てずに、もやしのように育てろと言うのだ。
変だと思うのだが、素人が何か言っても、どうにもなることではない。今は、温暖化や、公害などの環境汚染で、太陽の光そのものが変わっているのかもしれない。学問的な研究成果の上で、そういう意見が出回っているのなら、太刀打ちできることではない。
それでも、なぜか言いたくなる。郷愁が強すぎるせいか、どこかがおかしいのではないかと言いたくなる。何年か、何十年か後に、あれは、実は誤りだった。このデータと、このデータとを複合させると、プラスの方がはるかに多いことが分かった、とか言う日が来る様な気がしてならないのだ。
今、細分化されている研究者は、ピンポイントで、落ち葉を燃やせばこの物質が出るという事を捉える。確かにそうだろうが、それを含む総合的な視点はあるのだろうか。
日に当たることや火を見ることで、人の体の中によみがえる野生があり、それが、生命力や抵抗力につながることはないだろうか。その根源的な強さが、化学物質の一つや二つものともしないと、新発見の論文が出たりすることを願っている。
落葉焚きや日光浴を失うことへのさびしさから、その復権を待ち望んで止まない、今日この頃である。
さそり座の歌 915
ノンフィクション作家の柳田邦男の書いた、「新・がん50人の勇気」を読んだ。どの方もそれぞれの分野で名をなすほどの業績を残した方ばかりだからか、その生き様、死に様には、強い精神力が読み取れた。がんに立ち向かっていく様々な姿は、読み応えがあった。
闘い方のタイプには、およそ次の3つのスタイルがあるように感じられた。一つは、一切のがん治療をせずに、自然のままに任せる生き方である。即身成仏の実践の報告と言える。二つ目は、辛い検査や抗がん剤、手術などの現代医学に全てを任せ、がんに立ち向かって行った人々の報告である。三つ目は、抗がん剤などの自分で信じることの出来ない治療は拒否し、アガクリス、鮫軟骨、活性化自己リンパ球療法などの、代替療法でがんに立ち向かった報告である。
不思議に思うのだが、そのどのタイプにも、なぜか一時期、小康状態と言うか、やや回復傾向の時期がある。たぶん、その頃、それぞれの方は、「自分の選択に間違いはなかった。この方向で行けば、他の方とは違う、自分だけの特別の未来があるのでは」と、ひそかに思ったのではなかろうか。
私の個人的なことも言えば、やはり、そのような状態になったときに、自分だけは何か特別な結果があることを想定して、心のどこかで安堵感を持つのではないかと思う。
例えば、身の回りで見聞きした体験から、私は抗がん剤と言うものに、不信を持っている。抗がん剤を使う前の様子からは、想像もできない速さで患者が弱っていくのを見たり、その苦しさを聞いたりした。そのせいで、私は抗がん剤だけは拒否したいと、いつの頃からか心に決めている。そして、わずかながらも、その先には自分勝手な理論と願望で、特別な結果があるのではと夢見ている。その淡い夢にすがれるうちは、幸せなのだろう。
しかし、冷酷な現実だが、そのどのタイプの闘いも、多少の長短はあれ、みんな命を落として終わっている。それぞれの淡い夢は、一見、破れているように感じる。
とはいえ、本書は、がんに勝った人々の報告なのだ。人が最期を迎えるときに、どのような態度で、りっぱに受容して行ったかを描いている。ある人は、家族が来ても心配させないように「大丈夫、大丈夫」が口癖だった。意識が朦朧として、死の寸前になっても「大丈夫、大丈夫」と、うわごとを言ったそうだ。
いつか終わる命を、どのように終わらせることが出来るのか、少しは考えておきたい。
さそり座の歌 916
新聞を見ていたら、不意に写真が目に飛び込んできた。引力につられて良く見ると、それは同級生がおじさんになった写真だった。(自分も変わっているのではあるが・・・)髪は白くなり、見慣れない警察の制服を着ていたが、それは確かに、ふるさとの中学で一緒に過ごしたOだった。笑っている上の前歯に隙間があるのも、昔のままだった。
その記事は、人とポストという欄で、Oがわが市の警察署の副署長に就任したことを知らせるものだった。仕事への意気込みやこれまでの経歴が書いてあった。何でも、刑事畑一筋で、暴力団とも渡り合ったりしてきたらしい。
ふーん。あのOがなあ。私は、感慨深くその記事を読んだ。同級生はみんな、それぞれいろんな道を歩いて生きている。何かにつまずいて、車ごと海に飛び込んだのもいた。麻薬を手がけて警察につかまったのもいた。そんな特殊なケースを除いて、他の者がどんな暮らしをしているのか、ほとんど伝わってこない。でも、Oと同じように、どいつも人生の終盤を迎えている年代になっているはずだ。みんなどうしているのだろうな。定年を前にして、ふるさとへ帰ろうと決めている者もいるのだろうか?
なんにしろ、Oのように、功成り名を遂げたケースを耳にしたのは、初めてのような気がする。
Oは柔道をしていて、さわやかなスポーツマンだった。豪放磊落というのか、健康的な明るさが印象に残っている。
学生の頃は、ほとんど何かしらみんなにあだ名が付いていたが、当時の私のあだ名は「ドラ」だった。中学生になって急に声変わりした時、それをドラ声ということから、「ドラ」と呼ばれるようになったのだ。このあだ名をつけたのが、Oだった。
体育館の入り口の下にあるトイレで、並んで小便をしていると、「ドラ、今の試験できたか」とか、Oが話しかけてきたものだ。Oの声は大きく、それこそドラ声だった。
あれから四十五年過ぎた。Oは、刑事はやる気と勇気…とかで、犯人を捕まえてきたらしい。子ども三人も育ち、長男も刑事だという。もちろんいろんな危ないことも乗り越えてきたのだろうが、子どもがあとを継ぐ親になれたようだ。
今日は、同級生の、嬉しい新聞記事を読むことが出来た。