さそり座の歌 910

 手紙(東野圭吾)と言う映画を見た。強盗殺人を犯して無期懲役になっている兄と、その弟との手紙のやり取りにまつわる物語だ。

 真面目に生きている弟は、いつもその前途を、兄の罪によって閉ざされる。住む家を追い出され、職場を転々と変わらざるをえなくなる。極悪非道の兄の噂が、いつしか弟の周りに広まり、暮らしを直撃するのだ。

 結婚して子どもができると、その小さな子どもにも、人殺しの兄の噂が付きまとう。弟は、そこで兄へ縁切りの手紙を書く。もうこれが最後の手紙だ。これからは、手紙をこちらに出すなど一切しないでほしい。そう言って、自分の子どもを守るために、兄を捨てるのだ。

 兄は、その手紙で、自分の犯した罪が、自分ひとりでは、とうてい償えないものであることを悟る。自分の見えないところでの、罪の大きさを知るのだ。

 およそ、そのような内容の映画だった。いかにもありそうな内容だが、よく考えてみると、私の回りにはそういう例は一例もない。個人的な環境に過ぎないのかもしれないが、あの人は犯罪者の肉親だとかは、話の端にも出たことがない。なぜなのだろうか。付き合いが狭いせいか、それとも、そういう情報がしっかり管理されているからだろうか。

 そういうことと、出てくる女性がいかにも出来すぎの類型的で、私にはどうもこの映画が、今ひとつ内面に迫ってこなかった。

 ただ、この映画の私の感じる主旨が、江戸時代の五人組の匂いがしたことは、いい面でもあり、また卑俗な面とも言える。犯罪の後始末は、自分ひとりで背負えない。その罪は、連帯して、身近な者へもかぶさっていくのだ。だから、愛する周りの者のことを思うなら、その犯罪の一足を踏み出すのをやめるんだ。

 確かに、そういうメッセージは強く残る。それをいろんな場面で人々にばら撒くことは、ひとつの犯罪防止運動にもつながることだろう。

 とはいえ、五人組は、犯罪防止というより、お上の言うことに楯突かないという面も強かったはずだ。一揆を起そうとする指導者が、そのジレンマに陥る状況は、よく描かれることだ。この映画の匂いが悪く進めば、ものを言えば唇寒しの時代へ変わるなどと思うのは、あまりにも、うがった見方だろうか。
 

さそり座の歌 911

 ある方のエッセイを読んでいたら、「正しいことを信条にしたらあかん…たのしいことをしたらよろし」と言う一文があり、はっとした。今をときめく、田辺聖子の言葉だそうだ。

 長く生きていると、だんだん人と一緒に暮らしていくことの難しさが分かってくる。それぞれの言い分がぶつかって、険しい雰囲気になることが多いのだが、自分の言い分が通って、相手が素直に変化してくれることなど、まずありえない。たいがい、腹を立てて喧嘩別れになるばかりだ。

 そんな暮らしを長いことしている者にとって、「正しいことを信条にしたらあかん」と言うのは、全くもってそのとおりだと、強くうなずいてしまう説得力があった。

 自分の言っている事に間違いはない。いくらなんでもそれはおかしいだろう。いい加減にしたらどうだ。何度言ったら分かるのだ。…と、自分の正しい理論を振りかざして、押さえ込もうとしても、事態は暗くなるばかり。よく考えれば、相手は相手で、自分は正しいと確信を持っているのだから、かみ合うはずもない。火花が散るばかりで、何も進展はない。不愉快な思いが、充満するばかりだ。

 そんな長い間の体験から来る悟りから、「たのしいことをしたらよろし」というのは、実に素晴らしい到達点に感じる。勿論、その悟りは、ほんの浅いもので、すぐ化けの皮がはがれるものではあるのだが・・・。

 しかし、努力目標として、ちょっと引いて、ユーモアや笑顔で受け流すことが出来れば、深刻な亀裂には至らないことが多い気がする。

 正しいことで斬りつけるよりも、ゆとりを持って、ソフトに対応すれば、意外と話が通じたりもする。

 とは言うものの、それがまた生半可なことで自分を変えられるものでもない。キリキリと、自分の正しさをいつしか押し付けて、相手にと言うより自分に腹を立てている。しかし、そんな私達にもう一つ田辺聖子の言葉がある。

「人間が人間のプロになれる頃には、八十才になっているだろう」

 相手を変えるということは、出来ないんだと分かったとき、人は一つのステップを踏む。そして、変える事が出来るとすれば、自分の心がけに、少しだけ可能性があることが分かってくる。

 しかし、自分自身との戦いも、なかなか手強い。その難しさを噛み締めながら、齢をとっていくのだ。人間のプロになるには、八十年かかると思えば、未熟な自分をそう嘆かずに済む。少しばかり気が楽になる。

 さそり座の歌 912

 このところ新聞を読むたびに、いじめや殺人で気持ちが暗くなっていたのだが、昨日の一面記事を見て思わず笑ってしまった。

 「納豆で減量」捏造 関西テレビが謝罪会見。そういう見出しと、最近どこでも納豆が品不足や売り切れというのを思い出して、よくいう「漫画やな」という気持ちが、笑いとなったのだ。

 しかし、勿論のこと楽しいとか、心が温かくなるとかの笑いではない。極端に言えば、世も末だなといった類の、絶望を感じさせるような、怒りを通り越した諦めの笑いだった。

 写真は無関係、学者の発言はなかった、中性脂肪やイソフラボンの測定はしていなかった、血液検査の数字は架空のものだった・・・いったいそれだけの骨をぬいた番組とは、何なのだろう。勇んで納豆を買い、せっせと食べていた人たちは、どんな気分になっただろうか?それに、製品はまだかと矢の催促を受け、設備投資や、大量の原料の買い入れをした納豆生産業者は、この冷酷な牙に凍えていることだろう。

 やらせとか捏造とかは、そう珍しいともいえない。つい最近、国を挙げてタウンミーティングのやらせが発覚したばかりでもある。

 しかし、怖いのは発覚したのはごく一部だということだ。まんまとのせられて買ったり、賛成したり、投票したりしているのに、気がつかないまま世の中が動いているのだ。どこかでにんまり笑って、ふふ・・・阿呆は操りやすいわいと、ほくそ笑んでるやつがいるはずなのだ。

 我々は、情報の何を信じたらいいのだろうか?テレビ、新聞、本・・・胡散臭いと思えば、どれも信用できなくなる。そうさせてしまった責任は、騙すほうにあったのか、簡単に騙されるほうにあったのか良くは分からない。おそらくは鶏と卵の関係だろう。

 賢い消費者とか言っておだてられるが、中性脂肪値がどうだ、血液検査の結果はこうだと言う数字に、なかなか疑問を挟めはしない。それを逆手に取り、平気で偽造をやってしまう番組作りがのさばっているかと思うと、うまい話は全て、それこそ眉唾で受け取るしかなさそうだ。これは怖いし、悲しいし、腹立たしい。しかも、それをどうにも変えられはしないと思えば、ただ虚無的に笑うしかない。狂ったように笑うしかない。

 さそり座の歌 913

 今日は2月10日。日教組の大会の始まる日だ。2月の初めと言うのに、春のような日差しが溢れて、我家の下の道はすいすい車が流れている。何事も変化のない、実に平穏な日である。

 5日ほど前の、私の勝手な予想では、我家の下に右翼の街宣車が溢れて、軍歌の洪水の中で顔をしかめているはずだった。それが、全く持って肩透かしなので、拍子抜けしてしまっている。

 今年になって、街宣車が時折通っていた。時折何台も連なって行くこともあった。普段にないことなので、不思議な気持ちで、長崎ナンバーの街宣車を見送ったりしていた。

 その訳がはっきりしたのは、5日ほど前だった。すぐ近くのビーコンプラザで、日教組の全国大会が開かれると言うのだ。その対策で、ビーコンの回りの道路は通行止めになると言う知らせもあった。

 日教組と街宣車の対立構図の模様は、新聞などで知っていた。商店街は休業し、街は右翼に占拠されるような感じだった。それを恐れて、会館が大会開催を断わるところもあったりして、言論集会の自由の問題も報道された。

 あの凄惨な洪水がやってくるのか?これは大変なことだ。道路封鎖の図を見ると、我家の少し下になっている。つまり我家の下の道路までは、自由に街宣車が行ける事になる。進入禁止箇所の前まで、街宣車がだんごになって身動きできない状態になるだろう。

 そんな予想のもとに、家族とも議論をして、大会前日から終了日までのレッスンを休むことにした。せっかく遠くから公民館などに集まってくれているのに、私の車が身動きできずに行けないことになれば、大変申し訳ないことになる。それで、二つの公民館の講座、デパートの文化教室を休むことにして、連絡に明け暮れた。最初は、右翼の車がとか訳を話していたのだが、だんだん面倒になってきて、とにかくちょっと用事でお休み、振り替えはいつしますとだけ知らせるようにもなった。

 嬉しいような、少しがっかりしたような複雑な気分だが、とにかく、過剰反応に終わった。我家の上の三叉路にバリケードが出来、街宣車は全て、よそへ流していた。下からのも、こちらへは全く来ずに、このところ街宣車は全く見かけない。台数は来ているのかもしれないが、地獄の坩堝の予定が、ビーコンに近すぎて聖地になったようだ。

 やれやれなのだが、休みにして空いてしまった時間が、何だか空虚で仕方がない。
 

inserted by FC2 system