さそり座の歌 902

 ある音楽団体の新聞の編集を引き受けて2年ほどになる。年3回発行で、今、7月発行の分の校正刷りが届いている。

 文字の間違いなどがないように編集委員を2名お願いしている。そのお二人にじっくり一晩校正してもらう。不思議なもので、見てくれる人それぞれが、必ず新しいミスを見つけてくれる。お陰で、あまり大きな問題を出さずに新聞発行が続いている。

 それに加えて家族も見てくれるのだが、この二人は、文字のミスばかりでなく、デザインの変更まで、遠慮なく直言してくれる。今回のも、1面の原稿が多すぎて字が小さいので、記事を二つほど、4面にまわせとか、いろいろと口うるさい。

 確かにそうしたらいいかなとも思うのだが、そこで私はいつもうじうじと煮え切らない。「お金を払っているんやから、何度でもやり直してもらって、いい物をつくろうよ」・・・そう責められると、胃がきりきりと痛み出すほどだ。

 この場面での私の優柔不断は、20代の頃7、8年働いた印刷会社での写植の仕事が思い出されることに起因している。文字を打ち、デザインをし、作品に仕上げて注文主に校正を出す。たいがいそれが、終業前の4時ごろ帰ってくる。何箇所かの訂正で、さっさと終わるときは、予定通り5時に帰れて、ギターのレッスンに行くとか、私用に差し支えない時間割になる。

 しかし、ラフな原稿の注文主に限って、出来上がりを見てから、「これをこちらに移せ、この分の原稿は書きかえる」とか、それこそ、始めからやり直しになるようなことを言って来る。しかも、明日までに刷り上げろとか言う期限も切ってくる。

 大幅やりかえへのむかつきと、これで5時に帰れないという腹立ちとで、くらくらと目まいがするような気分を何度も味わった。

 乱雑な原稿を、ようやく紙面にきちんとまとめ、かなりうまく行ったなと思っている物が、素人の無茶苦茶な意見で、どうしようもない改悪をさせられることも良くあった。

 そんな遠い30年ほども前の気分が、校正刷りを見る私を気弱にさせる。1面の二つの原稿を、4面に移すということを、自分がやらされるような気分になる。それを、業者に言い出すのは、気分がとても重いのだ。

 いい物を作ろうという家族と、私の複雑な思いが反発しあいつつ、いつも校正は中途半端のままに終わっている。


 さそり座の歌 903

 人は誰でも、程度の差こそあれ欲求不満や、倦怠、退屈等の渦の中で生きている。油断をすれば、むなしさや、さびしさもすぐ付きまとう。しかし、たいがいの人は、そのありふれた暮らしの中で、生きがいを見つけたり、賢くあきらめたり、いろいろな憂さ晴らしをしながら、それなりの日々を作っている。平凡には違いないが、人間として逸脱してはならない一線を、越えることはほとんどない。

 しかし、中には、踏み越えてはならない領域へ、突き進んでしまう人もいる。例えば、最近、わが娘と、近くの同じような幼児を殺害した若い母親がいた。子殺し、親殺しの珍しくない時代だが、やはりこれは衝撃的なニュ―スだった。

 私のかってな推理だが、この事件の第2の殺人は、この容疑者のさびしさから来ているのではないかと思う。

 わがままや欲求不満や、お互いの思いやりのなさなど、いろいろなイガイガの果てに離婚がある。幼い子供を抱えて、遊びもままならない。金もない。パチンコで遊んでも、いつもどこかには、空虚な風が吹いている。投げやりで荒んだ日頃の態度では、親身になる友人知人もなく、いわば孤立無援の中で、容疑者は破滅へ向かったのだ。極端な言い方をすれば、生まれて以来、いつも疎外され、倦怠や退屈の中で、誰からも認めてもらえない日を過ごしていたのだ。

 それが、ある日突然、悲劇のヒロインとなって強烈なスポットライトを浴びた。子供を思うやさしく若い母親は、その悲しみや怒りを、おびただしく群がるマスコミにしゃべりまくった。その仮面を、はじめて、他人が大々的に認めてくれたのだ。さびしさが吹っ飛んだ。退屈などどこにもなかった。

 しかし、第1の殺人は事故処理に終わる気配になり、気まぐれなマスコミもいつしか数が少なくなっていった。また、何の変哲もない倦怠の日々へ戻りそうになり、容疑者は、それに耐えられなかった。

 またわいわいと騒がれ、認めてもらうには、第2の殺人が必要だった。長い間の、さびしさや孤独や倦怠が、次の凶行へつながった。

 第2の殺人の理由に、娘を失った悲しみの絶頂にあった母親の言葉が出ていた。その虚偽の昂揚感が、最後のあだ花だったのだろう。それから少しずつ冷めていき、事件の全容がいつしか明るみに出た。 






さそり座の歌 904

 息子のCD「ソノリテ」が出たので、お盆の1週間前に田舎へ帰った。お盆で触れ合う親戚縁者に、CDが渡ればと思ったからだ。

 仏壇にCD10枚を重ねて供えた。手を合わせて位牌を眺め、先祖は、この妙なお供え物に驚いているだろうなと思った。代々百姓の家柄の果てに、この様なお供え物をする人物が現れたことを、きっと不思議に思っていることだろう。

 八十を過ぎた母親の手作りの昼食は、野菜の煮付けに、豆腐の冷奴などで、やはり味になじみがあった。それを食べていると、母が、「今日、郵便局へ行ってくれんかえ」と言うのだ。何でも私のために10年ほどかけた保険の満期が来たらしいのだ。しかし、受取人である私本人が行かないと手続きが出来ないらしい。

 もうはるか昔に田舎を出ているのに、母は、まだ私のことを思って保険をかけていた。乏しい年金から、1万数千円の保険を10年もかけていた。そして今年の満期に、たった5万円出ると言うのだ。10年の苦労の割には、悲しいほど小額の満期祝い金だった。

家から、旧道を5分ほど走ると、昔の木造の郵便局が見えた。小学校の社会見学で、引率されて入ったことがあった。木のペンキは剥げ、崩壊寸前のような、旧郵便局の前に、安っぽいサッシ作りの新郵便局があった。といっても、出来たのはもう相当前のことだろう。

 日曜日だったが、村の郵便局は開いていた。私は、その郵便局へ行くのは初めてだった。局員は親しげに、母に話しかけていた。地域に密着した、普段のつながりが見て取れた。「いろいろ厳しくなりましてなあ」と局員は、私の免許証をコピーし、書類を書かせた。

 おそらく「日曜しか息子は帰らんよ」と言う話が、温かく受け入れられる郵便局なのだろう。今、経済優先で、儲けの少ないところは集配しないとか、いろいろ民営化の後に影響が出始めている。それだけに、この温かさが嬉しかった。田舎に住む年寄りの数が少なければ少ないほど、今の郵便局が存続してほしいと、強く願わずにいられなかった。

 帰ってから、コーヒーを飲みながら、いろいろ話をした。「ま、何もなくて、よかったち思わんとな」「うん、保険ちゃそげなもんよ」

 久しぶりにまた、親が子を思う強い絆を感じながら、快晴の夏空の下を、街へ向けて車を走らせた。

 さそり座の歌 905

 ようやく涼しくなった。個人的なことだが、涼しくなると、音楽が楽しめるようになる。なぜだろうか。涼しくなるのと音楽とが、どうして結びつくのか不思議に思われる方も多いことだろう。今回はその訳を書いてみたいと思う。

 私の部屋は3階にある。ほんの3畳ほどの狭い部屋だが、ここは私の城といえる。パソコンがあってこうして文を書くし、メールのやり取りも頻繁にしている。テレビやステレオもあり、仕事をしていない時のほとんどの時間を、ここで過ごしている。

 しかし、この部屋のすぐ前を4車線道路が通っている関係で、その車の通過音が、とてつもなく大きい。その難点がこの部屋の長い間の悩みだった。窓を開けた状態では、話も出来なければ、音楽も聞こえないのだ。

 それに耐えかねて、2年ほど前だったか、道路側の窓を、二重サッシにした。この効き目は抜群で、轟々と言う車の通過音のほとんどを消してくれ、部屋はとても快適になった。俳句王国などの番組を見たり、好きな音楽をステレオで楽しめるようになった。

 とはいえ、その楽しみは、涼しい時に限るのだ。暑い時に二重サッシを閉めれば、音にはいいけれども、暑さがたまらない。それで、ついつい窓を開けてしまうので、音楽を聴くということから、遠ざかってしまうという訳だ。

 実は、この部屋にも一応冷房が付いている。だから冷房をつけて、窓を閉めればいいのだが、そこまでして音楽を聴こうという気力がない。

 仕事場で、一日の大半は冷房に浸かっている。生徒さんが来てくれてのレッスンだから、この快適空間は省けない。しかし、一日の仕事を終えて風呂に入り、やれやれというころ、私はもう冷房に入ろうとは思わない。体の芯がぐったりしているのを解放するには、窓を開けた部屋がいいのだ。扇風機でもあれば充分だ。(うちの女性軍は、いつでも冷房大好きなので、これは人それぞれだと思うけれども・・・)

 まあ、そんな訳で、冷房期間に限り、夜のくつろぐ時間は、二重サッシの窓を開けて暮らす。それで、音楽とはご無沙汰ということになるのだ。

 昨夜は、久しぶりに窓を閉めて、モーツアルトの弦楽四重奏を聴いた。その麗しい旋律に身を任せていると、大げさのようだが、生きながら天国にいる心持がした。これこそまさに至福の時というのだろう。いい季節がやってきた。 
 


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