さそり座の歌 899
別府市長選が終わった。今回私は、棄権をしたのだが、何だか今、やりきれないような空虚な気持ちでいる。政治というものの不可解さを痛切に感じているからだ。人の気持ちというか、政治信条のあやふやさを目の当たりに見た思いがして、今回の選挙は、これまでになく後味が悪かった。
今回当選した現職は、教職員組合の出身で、労働組合とか、平和運動などが基盤のように思っていた。普通は、零細企業の人たちのための支援とか、米軍演習反対とか、大企業の思惑より、景観を守るというという方向へ行ったら、さもありなんと思える方だった。
しかし、今回は、超大型の店舗を誘致して、町の活性化を図ると全力で言うのだ。ちょっと前なら、それは明らかに保守本流の自民党的政治といえた。
その上不思議なことに、その自民党的立場のはずの対立候補が、市民の声を聞いてとか、海が見えなくなるのは反対とか、零細商店にひどいことになるとか、何だかしおらしいことを言うのだ。
簡単に言えば、頭と胴体が入れ替わっているような、奇怪なモンスターの戦いだった。「理屈と膏薬はどこにでも付く」の見本だろうか。たまたま何かの行きがかり上、どちらかへ転んだら、それを正当化する理屈とはどうでもなるのだろうか。それが政治家というものかもしれないが、長い政治生活における基本の筋というものは、存在しないものだろうか。
個人的には、大分まで映画を見に行くより、別府にそういうところがあればいいなという気はしていた。しかし、現職を支持する市議などの中に、胡散臭い黒い汚れが見え隠れしたりして、支持したい気分には少しもならなかった。
また誘致反対の候補には、対案がなかった。大型店舗に代わる、具体的な夢を抱かせる対案がなかった。これでは勝負は出来ない。
これで店舗誘致がつぶれれば、またうだうだと小田原評定が続くのだろうという予感がした。それで、またこれから、何年も草むらのままになる気がすると思い、人々は、何か具体的な変革を、この閉塞寒感の中に求めたのではないかという気がする。
この結果が、どうなっていくかはもちろん分からない。賛成派の言ういい面や、反対派の言う悪い面などがどのような形になるにしろ、いずれ目の前に現れる。
さそり座の歌 900
最近、モーツアルトにはまっている。というのも、「毎日モーツアルト」というテレビ番組を毎朝10分だけ見るようになったためだ。それは、ほんの10分の番組だが、私の朝の行事にきっちり組み込まれ、いつしかモーツアルトのこころよさに、陶酔することにつながっている。嬉しいことだ。
今年はモーツアルト生誕250年ということで、いろんなコンサートが開かれ、また、記念番組も放送されている。そんな特別番組の中でも、私の見ている「毎日モーツアルト」は、何と1年間の予定で放送されているのだ。2月から始まり、この6月で、27歳あたりまで進んだ。モーツアルトの膨大な手紙を組み込みながら、その生涯をたどっている。未完になる「レクイエム」を作りながら、35歳で亡くなる場面になるのは、来年の2月になるようだ。
その番組で、毎日1曲演奏が入る。それを聴き終わった後、「いい曲だな、もう一度聴きたいな」という願いが強くなった頃、丁度インターネットの販売で「モーツアルト大全集CD170枚組み」というのを見つけた。何しろCD170枚で1万5千円程度なので、ちょっと胡散臭いかなと思い、しばらく様子を見ていた。しかし、新品未開封で、かなりたくさん売り上げられているので、思い切ってそれを購入した。
それは、ドイツの製品で、日本の文字は全くない商品だった。ケースも紙で、170枚のCDが30センチほどのカートンボックスにコンパクトに納められていた。しかし、何しろ全集なので、何でも揃っている。音もいいし、ケッヘル番号を聞いて、CDを探せばすぐ出てくる。
それで、毎日、番組で放送された曲を、復習のような感じで聴きなおすのが日課に加わることになった。朝8時から10分間番組を見て、それから、放送された曲のCDを3,40分聴く。それは、朝の至福の時間となっている。と言っても、いつしかうつらうつらと、椅子でうたた寝していることも多く、モーツアルトの音楽とともに、まどろんでいる時間でもある。
今もこれを書きながら、K421の弦楽四重奏を聴いている。この曲は、妻コンスタンツェが今まさに出産の時を迎えようとする日に作曲されたものだ。子供ができることへの、喜びや不安、畏れなどが、柔らかい旋律を豊かに歌わせている。
これまでモーツアルトは、たくさんいる有名作曲家の中の一人で、特別傾倒していたわけではない。しかし、これから少なくとも、来年の2月の番組終了までは、モーツアルトとともに暮らしていけそうだ。