さそり座の歌 890

 穏やかな2005年の12月31日だ。今年は12月に入ってから、かなり長く寒かった。例年の暖冬に慣らされた肌には、いささか応えたが、年末は、暖冬の雰囲気になって過ごしやすくなっている。

 そんな中、昨日は田舎で餅つきがあった。80歳になった母が、やはり今年もその段取りのほとんどを取り仕切って、子や孫やいとこ達を動かし恒例の行事を終えた。

 今年を振り返れば、この餅つきの恒例をはじめとして、予定の恒例行事はすべて終了できた。今年1年の喜びは、長年の連続である行事が、当然のことのように決められた日々に納まってくれたことに尽きる。ありがたいことだ。

 しかし、新聞ニュースではいろんな暗いニュースも多かった。幼い子どもが殺されたり、建築偽装事件など、嘆かわしニュースが耳に刺さった。
 偽装事件関連で倒産した社長が、「30年ほど積み重ねてきた会社が一瞬のうちに消えてしまい、何がなんだか分からない」と言うようなことを言っていた。まさに一寸先は闇と言う見本のような出来事だった。もちろん、営利主義で突き進んだ自業自得の結末ではあるのだが、その気持ちは良く分かった。

 とはいえ、震度5で崩れますから出てくださいと言われた人たちは、この正月をどんな思いで過ごすのだろうか。たくさんのビルのたくさん人たちの一寸先の闇も、悲惨で怖いことだった。人生のすべてをかけるような大金をローンなどで作っての、束の間の幸せからの転落は、察して余りある地獄だ。

 私の周りで続くいろんな恒例行事も、少しずつどれかがいつかはとまっていく。それこそ一寸先は闇だ。

 いつだったかなにかで「死を思うことで、生が輝く」と言う短い文を読んではっとしたことがある。

 いつかは母の居る餅つき風景も終わる。いつかはこのさそり座の歌も終わる(1000回が悲願なのだが)。20歳まで病気ばかりしていた私が、いつの間にか30数年するすると生きてきたが、それにも終わりは必ず来る。

 生々流転、無常の世を噛み締めることで、「恒例」といわれる行事のありがたさが、身に沁みてわかる。それを支えてくれる家族や、音楽関係の方や、いろんな人々の健康や気持ちの持続が、かけがえの無いことであることがわかる。

 心底からの感謝で、この1年を終えたい。

さそり座の歌 891

 新しい年が始まった。毎月の定例行事もいくつかこなして、つつがない滑り出しといえる。しかし、何かが私の中でくすぶっている。繰り返しの持続は、なかなかできることではないし、貴重なことなのだが、もう一つ燃えてくるものが無い。新鮮な、眼を輝かすようなものを内面で求めているのかもしれない。
 そんな気持ちの中に、なぜか父のことがよみがえる。38歳で死んだ父のことだ。
 父は結核で吐血を繰り返し、最後は痰を気管に詰まらせて窒息して死んだ。苦しさに半身を起こして息絶えた父の頬を、母は何度も手で叩いて言った。
「やりたいことが、あるんじゃろ。やらないけんことが、あるんじゃろ」
 体をゆすぶって、何度も何度もそう叫ぶ母の姿を、13歳の私は、泣きながら後ろから見ていた。

 きっと父は、枕もとの母に「やりたいことがあるから、まだ死なれん。やらないけんことがあるから、まだ死ぬわけにはいかんのじゃ」と繰り返していたのだろう。

 病気で教員を辞めた父は、何がしたかったのだろう。やらなけらばならないこととは、何だったのだろう。38歳という年齢の先には、まだいろんな可能性が残されていたはずだ。しかし、次第に弱っていく体を見つめながら、そこをどう打開しようともがいていたのだろうか。今この年になって、ようやく少し、父の、その孤独と冷たい不安の戦いが分かってきた。

 あれから45年過ぎた今、そんな父のことを無性に懐かしく思い出す。なぜなんだろう。
 習字の練習や、いろんな行儀の悪さなどで、よく父から叱られた。叱られるのが怖くて、嫌いだった。しかし、いつまでも、いつまでも私だけの父だった。
 
 私は、父よりも20年も長く生きた。まだ少しは寿命も残っているようだ。やりたいことをやれる時間がある。やらなければならないことがあれば、それに取り組む時間もある。

  しかし、私はこれから何を目指せばいいのだろう。それが分からない。やりたいことを遂げられずに命を絶たれた父。時間は残されているけれども、明確な指標を持てない私。
 
 この、悲しいような究極の対比の中で、私は自分を見つめる。ひょっとしたら、父の遺言を、私は今、反芻しているのかもしれない。
 

さそり座の歌 892

 一月の終わりにハーモニアス別府と言う音楽団体の主催する「ニューイヤーコンサート」が開かれた。私はこのコンサートにかかわるようになって10年ほどになる。毎年何らかのお手伝いをしてきたのだが、今回は演奏者との折衝という役割が回ってきた。

 12回目になる今回は東京からピアニスト1名、隣の市から小学校6年生のコンクール優勝者を1名の計2名の出演者が予定されていた。

 6ヶ月ほど前より、いろいろな打ち合わせの連絡が必要になった。事前に出す新聞原稿の依頼などから始まり、演奏会が近づくにつれていろんなやり取りが行われた。

 その中で反省したのは、自分がいかにせっかちかと言うことだった。終わってみれば、どれもきちんと返事が来て、滞りなく行事は済んだのだが、そのやり取りの中で、私は不安や苛立ちの時間をかなり過ごした。

 私は、メールでも手紙でも、その反応がすぐあるはずと決め付けていた。だから、お尋ねのメールを打ってしばらく返事がないと、いろんな不安に襲われた。

 忙しすぎて、演奏に立ち向かえないようなノイローゼになっているのではないか。お願いした入場券のことで、気分を壊して、不機嫌になっているのではないか…等々、心配しだすと切りがないのだった。

 祈るような気持ちでメールを開く。しかし、依然として何も入ってない画面を見て、何度も悄然としたものだ。しかし、そんなことを家族に話すと、それは私の「すぐ返事を出すもの」というきめつけの前提がおかしいのだと、笑われる始末だった。打てば響くように、すぐさま返事が返ってくるなど、この忙しい時代に人様に要求する方がおかしいのだと言う。実際あとで、いろんな事情を聞くと、そうでしたか、それは、それは…ということがかなりあった。

 いろんなコンサートが開催されている。普通は入場券を買って、ただ気楽に聞きに行くだけだ。会場に行けば当然のようにそこに演奏者がいて、演奏が聴ける。

 その当然のことのうらに、やはりいろんな苦労があることが少しだけ分かった。上手く行って当たり前のことだが、万一何か不都合が出来て、演奏者がこられないと言うような事態になれば、どう収拾していいか見当もつかないほどだ。

 演奏会当日の前後に、雪がかなり降った。東京からの飛行機も運休があったが、たまたま今回は演奏者の便に変更はなかった。

 人災、天災をすべてクリアーして、コンサートが成立すると言うことを、今回の役割ではっきり味わうことが出来た。

さそり座の歌 893

 毎月第4金曜日におこなっている病院コンサートが、1月も予定通り開かれた。今回で、176回目で、年数で言うと、14年と8ヶ月続いていることになる。

 長い間には、いろんな事がもちろんあったが、余り苦労した記憶はなく、割に順調に楽しんでここまで来たような気がする。ところが、どういうわけか今回は、いろんなトラブルがかさなって、記憶に残るコンサートになった。

 まず、前日、ピアノの奏者から、インフルエンザで具合が悪いと言うメールが入った。無理すれば何とかと言うことだったのだが、患者さんにうつると悪いからとか言う話になった。それで代わりを探したのだが、すぐには見つからず、「マスクをして厚着をして頑張って」と無理をお願いした。ところが夜更けになって、熱が出てきて、やはりいけそうにもありませんと言うことから、どうしても、出演が不可能になった。

 2曲のソロと、声楽の伴奏2曲を急にはなかなか頼めないが、何とかそれは手当てをつけて、当日に望んだ。

 当日マイクなどの準備をしていると、マイクスタンドのマイクをつける部品が見当たらない。それを病院に保管しているうちにその部品だけ外れて、どこかへ落ちてしまったようだった。スタッフの方が、あちこち熱心にさがしてくれるのだが、どうしても見つからない。

 いろいろやってみて、やはりどうにもならず、マイクスタンドの先にテープでマイクをぐるぐる巻きにして、何とか固定した。

 さてリハーサルとなった。ふとピアノを見ると、3つほどピアノの鍵盤がさがったままになっている。自動演奏装置の不具合からか、それがどうしてもコンとロールできずに、誰も直せない。メーカーに問い合わせても、もちろん急のことで間に合いはしない。

 いろいろやって見たり、論議するうちに、「では、以前使っていた電子ピアノを倉庫から出してきたら」と言う案が出て、急遽スタッフが飛んでいった。

 まあ、そんなトラブル3点セットがあって、176回目が終わったのだ。今までも何やかやあったとは思うが、これほどのことははじめてだった。

 あと2年ほどで200回になるので、そのときは、記念の大きな会をしようという話も出ている。1ヶ月に一度のこの目覚ましのようなチャンスが、私の練習のサボりをいつも監視してくれている。ありがたいことだ。


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