さそり座の歌 886
十月三日と四日に、オンパクの行事でコンサートを開いた。二、三曲を弾く機会は結構あるのだが、二時間近いプログラムを発表するとなると、腹を据えて取り組まねばならない。
オンパク参加が決まり、会場、そして演奏曲目を決めてスタートしたのが、六月の末だった。それから演奏会当日まで、いつもずしりと重い荷を背負って毎日を暮らさねばならなかった。ギターの仕事を始めて以来、個人リサイタルは、ほとんど毎年のように開いているので、二十回ほどは体験があるといえばある。しかし、いつまでたっても、その重荷は変わらない。
今回は特に、いろんな障害が気になって仕方がなかった。まず始めは、8月の半ばに、福岡でギリアのコンサートを聴きに行っていた時、右手親指の爪が割れたことだ。トイレのドアを開けるときに、不注意があったのだが、その割れ目を見ながら、私は蒼ざめた。
クラシックギターを弾く人にしかわからないのだが、右手の爪は、ギター奏者にとっては、楽器に次ぐ大事なものなのだ。これが、二ヶ月ほどで元に戻るか不安でならなかった。
おかげで、爪はどうやら完治したのだが、コンサートが近づくにつれて、体調が気になりだした。ぞくぞくっと寒気がしたり、喉の奥がいがらっぽくなると、このまま風邪で寝込むのではという不安に襲われた。ここで、二、三日も休んだら、取り返せないだろうと思うと、風邪恐怖症になり、少しの症状に過敏になった。
また、今回は少し気合を入れて練習したせいか、指が痛くなって困った。プログラムを全部通したくても、一部の途中で、親指が痛くなり、練習を中断せざるを得ないときもあった。右手でハブラシを持って動かすと、痛みが走った。窓を閉めようとしても指が痛く、左手で閉めたりもした。
これまで、そんなにいろいろ重なったことは、なかった気がする。体の中の拒否反応が、もう限界と叫んでいるのかと思うと、このようなチャレンジが、後何回出来るのだろうと、心細くなった。
演奏会当日の朝、「ああ、どこも故障なくどうやら舞台に立てる。これだけで幸せだ」と、一人微笑んだ。三か月の戦いは、そんな経過で終わった。
演奏前秋空の雲動かざる
演奏を終えれば釣瓶落としかな
過ぎ行きしケにもハレにも
ゐのこづち 幸一
さそり座の歌 887
K病院に勤めている方が、ギターを習いに来ている。その方のお世話で、このたびK病院のロビーコンサートにお呼びがかかった。
この病院には、小学三年生の夏に入院して手術を受けた思い出がある。入院前は松葉杖だったが、その夏二度手術をして、松葉杖が要らなくなった。暑さの中で、腰から下にギプスを巻いていると、中がかゆくなって困った。長い竹の物差しを差し込んで、苦労してかゆみと戦ったものだ。また、ギプスが取れた後は、恐怖のリハビリが記憶に鮮明だ。長いこと動かさずにいて曲がりの悪くなった関節を、無理やり曲げられる痛さは、子供心に地獄の時間だった。
しかし、その甲斐あって、秋には歩いて学校へ行けた。それは、私のひとつの新しい時代の始まりだったのかもしれない。杖なしで歩くことを、友達に見られたときの照れくささや、内面のはにかみは、私の大切な思い出のひとつとなっている。
そういえば、その頃はまだ父が存命していた。病院に私を一人置いて帰る日、父は幼い私を不憫に思ったのか、バス停まで送りに付いていった私に、珍しくチューブ入りのチョコレートを買ってくれた。絵の具のはいっているような金属のチューブから、チョコレートの甘味を吸って、十歳の私は一人で病院に残った。その頃から、僅か三年ほど生きて、父は三十八歳で死んだ。
数えれば、あの入院から四十七年にもなる。線路下を通る道から、時折その病院を眺めることはあったが、中へ入ったことはこれまでに一度もなかった。
コンサートの当日、駐車場から玄関ロビーへ入っても、まったく昔の面影はなかった。あちこち見回して見たが、以前の記憶へつながるものは何も発見できなかった。建物自体からして、新しく建てかえられたのだろう。
ロビーに、最近出来たばかりという、初代院長のブロンズ像があった。私が退院の日、この院長が、部屋の真ん中に引いてある線の上を歩かせて、治療の成果を確認していた。その像を見ていると、いくらかそのときの顔が、思い浮かぶ気もした。
一時間ほどのコンサートだったが、八十名ほどの患者さんが、拍手をしてくれ、歌をうたってくれた。こういうことが出来る大もとが、この病院の昔々の治療にもあったのかと思うと、感慨深かった。
さそり座の歌 889
27回目のルベックの定演が終わった。終了した夜は、いつも打ち上げをする。今回も25名の参加があり、2次会のカラオケ会までおおいに賑わい、思いっきり笑った。
その打ち上げでの恒例は、コンサートで回収されたアンケートを読むことだ。まわし読みしていて、それぞれの演奏についての反応などに出会うと、大きな歓声が沸く。来てくれたお客さんの一言が、演奏者にとっては、どれだけ有難いか分からない。
そのなかで私が気になったアンケートの数枚には次のような記述があった。「会場が狭い」「椅子のあるだけ券を出すように」「プログラムが無かった」
今回は、固定席160、追加席40の計200席を想定して、計画を立てた。ところが、当日になってみると、次々に入場者が入り、椅子をあらゆる空きスペースに出しても、収容し切れなかった。階段に座る人、立っている人など、ご迷惑をたくさんかけた。その反応がかなりアンケートに表れていたのだ。
実は会場の最終打ち合わせに行くとき、少し迷った。そこは、電動固定椅子だと160で、パイプ椅子を並べてもらえば250になる。それを事前に選ぶのだが、行事の詰まっている時期だし、空きが多いのもさびしいからと、なんだかかなり弱気なっていた。それで160の固定椅子を選択したのだが、実際には300名ほど入った。完全に私のミスといえる。
25周年をしたときは、1千名を越えるホールで、何がなんでも一杯にするんだと意気込んだ。このときも、いまでもおぼえているが1140名の入場があり、やはりアンケートに「会場が狭い」という声があった。
コンサートを開くと、いつも客席の入りが気になる。全自由席の場合、開いて見なければ、どれほどの方が足を運んで椅子を埋めてくれるか、ほとんど予測がつかないのだ。出演の皆さんには、所定の枚数を買い取ってもらっているのだが、それが入場者数と結びつくわけではない。その何割が人の入りにつながるか、本来は読めるのかもしれないが、どうも私にはその能力が無い。だから、200名の想定で、プログラムの印刷は250枚ということになり、300名の入場では受付が途方にくれるという失態につながる。
しかし、500席のホールに、60名というのも経験した。これはまた、選択ミスの上に、後がひどく侘しい。我が家のある本箱には、これまでやったいろんなコンサートでの余りのプログラムがぎっしり詰まっている。コンサートが終わって帰るとき、まだ包みも開けていないプログラムが残っていると、愕然とする。
まだまだこれから、うれしい悲鳴や、悲しい呻きとともに、コンサートが続いていくのだろう。