さそり座の歌 848

 丁度一年前の今日一月二日に、私の個人的なホームページを立ち上げている。表紙の左下に小さく「since 2003.9:40.44」と記入しているのをたまに見ながら、一年目には何か書こうと思っていた。

 一昨年の末は、パソコン画面にかじりついてあれこれやいじっていた。リンクしている所にページが飛ばなかったり、転送がどうしても上手く行かなかったり、セキュリティーの関係でカウントが表示できなかったりもした。パソコンのことはまったく素人なので、本を読んで分らない時は途方に暮れて、この得体の知れないパソコンという物に、一人腹を立てていたものだ。何度か、「もうだめだ」と投げようとしたが、今思えば、それは大きな分かれ道だった。何とか開設にこぎつけて、この一年の間にいただいた副産物効果は計り知れないものがあった。

 数字だけが全てではないが、今私のホームページのカウントは「16410」を示している。およそだが、毎月千三百名余りの方、一日に換算すれば、毎日四十五名ほどの方がアクセスしてくれていることになる。これは大変な数字だと思う。先日開いた25周年の記念演奏会のアンケートでも、この演奏会をどうしてお知りになりましたかという問いに、ホームページを見てというのが、何通かあった。当然のことだが、このような回答はこれまでまったくなかったことだ。

 今や、ホームページでの情報発信は定着し、珍しくもなくなっている。企業はもちろん、私のような一般人も含め、それこそ星の数ほどもホームページはある。しかし、一度見たホームページを、何日か置いてもう一度開かせる魅力のあるものにはなかなか出会えない。何度か見て同じ内容だと、以後はまったく開きもしなくなる。やはり、マメに内容を更新するのがリピートの大前提だろう。

 しかし、更新していれば見てくれるかといえば、もちろんそうも言えない。見て楽しいとか、読んで面白いとか、何かひきつける物がなければ、誰も開かなくなる。ある意味手軽な情報発信だが、やはり人に届けるのはそんなに甘くはない。

さて、二年目のホームページは、これからどのような展開を見せるだろうか。

 今九時十分。もうすぐ開設一周年を迎える。

パソコンに全てを晒し去年今年  幸一

さそり座の歌 849

 今年は新年早々から、我家の中の大型構造改革が実現できた。何せ二十年という不思議なほど長期の懸案が、ようやく解決したのだから、これは特筆ものだといえる。

 事の発端は、いろんな曲折の末毎月一度の演奏の集まりを、この二月から音楽院でするようになったことだった。これまでホテルのロビーでしていたのだが、いろいろ不都合も出来て方針変更となった。我家なら誰にも気兼ねなく安心して出来るし、料金もかからない。しかし、二,三十人が入ってその前で演奏するには、スペースが余りにも狭い。その対策に家族で頭をひねった。

 まず教室にあるソファーを処分することにした。図体ばかりでかくスペースをとる割には、人が座れないし、既にスプリングが壊れたりもしていたので、一番にリストラの対象になった。その巨大不燃物をどうするか調べていたら、市役所に連絡すればいいことがわかった。

 それならということで、裏の倉庫で二十年前の引越し以来眠っている、レンジ台や乾燥機なども出すことにした。いずれ使うかも?と大事に保管していたのだが、二十年間倉庫の場所ふさぎでしかなかった。前から色々行き場に困る物があると、あそこが使えればと思うのだが、延ばし延ばしにしているうちにここまできてしまった。よく考えれば、こういうことは他にもあるのだが、ついつい延ばして先へ流してることが多い。中々一歩が踏み出せないものだ。

 市に電話すると、ソファーは八百円、乾燥機は六百円とかの値段の指定があり、それを振り込むと、取りに来る日の連絡があった。息子に手伝ってもらって、玄関前に六点の不燃物を並べていたら、当日の九時ごろ、十分もせずにトラックに積み込んで持っていった。長い間うだうだと気重にしていたことが、実にあっけなく消えてしまったので、拍子抜けしてしまったほどだ。

 それに加え、教室の壁を取るとか、スリッパや下足置きの改善の工事もして、我家の構造改革は一応終了した。
 一回目のサロンコンサートは明日だ。

さそり座の歌 850 
 最近読んだ新聞で、外食についての二つの対照的な記事に出会い、少し考えさせられた。

 一つは、牛丼の販売停止についての記事だ。アメリカの狂牛病の関係で、吉野家の牛丼がなくなるということで、四十九才の主婦がインタビューに答えて「毎日牛丼を食べに来ていたので、大変残念です」と言っていた。残念と言う雰囲気を表すのに格好な、たまたま偶然の一人かもしれないが、「毎日」と言う言葉に私は目を見張った。

 主婦が、「毎日」牛丼を食べに行くとはどういうことなのだろう。家族とか、家庭とかとは無縁の人だろうか。一人暮らしにしても、毎日とはいささか極端すぎる気がする。

話は変わるが、今年の新年会の話題で、学校の先生の家庭訪問のとき、親はペットボトルのお茶を電子レンジで温めて出すと言うことが出て大変驚いた。家で、お茶を沸かすと言う仕事がないところもあるようなのだ。お茶でさえそうだから、食事はすべて外食と言うようなところもあって、毎日吉野家の牛丼と言うことに結びつくケースもあり得ることなのかと、自信はないが想像してみる。

もうひとつの外食記事は年金問題についてのところだった。「年金が高くて、やっとどうにか払えるぎりぎりなので、外食など一度もしたことがありません」と、悲鳴を上げている報告だった。家族が三人いれば、毎月四万円ほども年金の支払いがある。勿論そのほかに、健康保険や、電気代などの生活雑費など削りようにも削れない出費があることを思うと、この記事はうなずける。確かにそうだろうなと納得させる。自営業の私も、この年金の支払いの重さは実感している。

それに引きかえ、「毎日牛丼」との落差が、私の中で蠢いて仕方がない。それは、富める者と貧しいものとの単純な落差なのだろうか。

 それとも、街で暮らす人たちが、二百数十円の一食にすがることも、貧しさの反映なのだろうか。薄利多売の見本のような牛丼だが、それが売れる背景には、根本的な経済の問題も絡んでいて、安い牛丼でしか食をまかなえないと言う人も、何割かは存在するのかもしれない。

 二つの外食について、読者の皆さんはどうお考えだろうか。いろんな角度からのご意見を聞かせていただければ、私の中の霧も少し晴れるかもしれない。

さそり座の歌 851

 鶏インフルエンザとかがあちこちで発症して、大変な騒ぎである。京都での死亡数を聞くと、生きものを飼っているというより、工場の部品の一部のようだ。たまたま今回、それが生身の生物であるということがはっきり見えたが、やはりそういう工場的な育て方、生かし方には、どこかに無理があるような気がしてならない。抗生物質とかを投与し、何とか生かしている効率的な綱渡りは、脆弱な生命操作の危険の上でのことだろう。

 鶏と言うと、幼いころの田舎の家を思い出す。母屋の裏に、余り材木を継ぎ合わせたような粗末な小屋があった。かまぼこ板を釘で打ちつけた扉の鍵を開けると、七,八羽の鶏がうれしそうに外に出てきたものだ。

 学校から帰ってからの仕事の一つに、その鶏の世話があった。入り口をあけ、そばのダイダイの木の下に小麦を撒いた。鶏たちはにぎやかな声を出しながら、しばらく小麦をついばみ、無くなれば、そこらあたりの草むらなどで遊んで、日が暮れるといつの間にか小屋に帰っていた。

鶏が小屋から出たあと、まだ温もりの残っているような卵を、割らないように大切に持って帰るのも仕事に一つだった。

 一時期、その小屋の三分の一ほどを仕切り、アヒルも飼っていた。今思うと良くそんなことが出来たなと思うが、そのアヒルたちを連れて家の前にある池まで水浴びをさせに行ったものだ。どうしていたのか良く覚えていないが、私の後に一列に並んで、アヒルが付いてきた。適当なころ、何か合図をたぶんしたのだろうが、アヒルたちはまた私の後ろについて、ガアガア言いながら一列に並んで小屋まで帰った。

 十才ほどの私は、どんな掛け声や、合図をして童画のような行進をしたのだろうか。そんなにアヒルが思いどうりに動いたと言うのが、何だか今となっては信じられない気もする。

 工場の鶏たちと、失われた私の原風景を一緒には出来ないが、今、その健康的な牧歌をを思い出すと、たまらない懐かしさが溢れてくる。

 

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