さそり座の歌844

 私は、今度の日曜日の26日で、55才になる。実は、恥ずかしい話だが、何やかやと気ぜわしく日を送っているせいか、(呆け始めたのかもわからないが)今年自分は幾つだったのかなと迷う時期があった。暦か何かで調べようかと思いながら、あるとき病院に足の治療でかかったら、カルテに54才と書いてあるのに気付いた。それで自分の年齢を知るぐらいだから、いい加減なものだ。
 まあ、それはともかく、切りのいい年齢だから、この際何か始めようと思っていた。というのも、40才で俳句を始めて15年、五十才でお茶を始めて5年と、後で思い出すのに便利な前例があったからだ。振り返る時に、切のいい年齢だから何かを始めるというのもまた、気まぐれな話だが、きっかけは何でもいいのだ。始めるということが大切なことだと、自分に言い聞かせている。

 それで、いろいろ思いつくものを想定しては消去し、つい3日ほど前にようやく確定した。今回は、いろんな分野がある中で、体作りに焦点を当てることにした。いつも座って仕事をし、移動は車でということで、体力の増強や維持には全く気を使っていなかった。問題の足の筋肉も相当弱っているようなので、そのためにも、対策が必要だった。

 太極拳は、飛んだり跳ねたりしているようでもないから、私にも可能かな。プールの中を歩くのもいいかな。知り合いの行っているスポーツジムもいいかな…と、いろいろ案はあったのだが、調べて仕事と照らし合わせてみたりすると、どうもうまく行かなかった。
 そうこうしている内に新聞で「ダンベル体操」というのを見つけ出した。本を買って読んでみると、1日15分でとかいうのに引かれて、これなら何とか出来そうでもあり、家族も一緒にしてくれることにもなったので、それに決めた。

まずラジオ体操のレンタルCDを借りてきて、ダビングをした。確実に時間の取れる夜11時になると、居間に3人集まってきて、とりあえず学生時代に戻った感じでラジオ体操をする。まだ、ダンベルがきていないので、今はそれで終わりだが、それにダンベル体操のいくつかの型をやって終わりと言うプログラムを組んでいる。

始めて3日ほどだが、ラジオ体操だけでも結構な負荷になる。体がなまっているのが良く分る。首を回すとぐりぐりと音がする。運動して、風呂に入り、それから寝ると、なんだか眠りが深く、気持ちがいいようだ。

さて、切りのいい55才で始めた、我が人生の第3のイベントは、いつまで続くだろうか。これから生きていく大きな支えになって欲しいものだ。

さそり座の歌 845

 私の参加している俳句雑誌は3冊ある。昨日その中の一冊が郵送されてきた。じっくり読む前に、ぱらぱらっとめくっていると、目に刺さる記事が目にとまった。М氏が、この雑誌からの過激な退会文を書いていたからだ。

 М氏はシャープな句作りで有名な方で、中央俳壇でも認められている。博識でもあり、評論の類も多い。本誌にも、秀句ギャラリー鑑賞、現代俳句ナウと言う2本の連載記事を執筆している。そのМ氏が、突然これを最後に退会すると言うのだ。

 その退会の理由となる文を少し抜粋してみよう。「仲良くみんなが楽しむ場・・和気藹々、この方向を採る結社は大きくならなければならないし、必ず大きくなる。実にオメデタイことである」「本号を最後に、退会することにする。これで「秀句ギャラリー」という駄句の山に踏み入る苛立ちと、ぬるま湯によるボケを回避できる」・・・と遠慮会釈なく本誌を罵倒しての退会である。

 文脈からしてМ氏の言いたいのは、「選の厳しさによって作家を育てる」という方針がないことへの批判のようだ。簡単に言えば、こんなレベルの低い連中とは一緒にやっていられないということだろう。

 どこの世界でもこういう問題はよく出てくる。長年ギターの仲間作りの合奏団とかをいくつか運営していると、そういう批判もよく受ける。会を運営しようとする時、全体を見渡して、どの人もこぼれないようにと気を配るのだが、やはり初心者に近い人たちをフォローすることが多い。「難しくてついて行けません」という退会を恐れるからだ。しかし、かなり出来るようになった方からは、こんな簡単なのは面白くないという責めも受ける。その狭間でいつも悩むことになる。

 俳句にしろ、ギターにしろ、その根底には芸術がある。趣味とはいえ、その芸術の香りを少しでも味わえる所に導くことが、指導者の務めであり、求める方を長続きさせることにも通じることだろう。だからといって、厳しい選によって学び、一握りのエリートを作り出すようなやり方だけがいいと私は思わない。

 私のギターに対する方針は、「仲良く楽しみましょう」に他ならない。しかし、その広がりを喜ぶ中で、砂上の楼閣というような気持ちになることも時にはある。作っても、作っても次々時間とともに壊れていくような思いもしている。それは、自分の持っている力量でしかないのだろうが、私にはコンクールに挑戦するような奏者を育てる力はない。

 人はいつも自分のやっていることを正当化したがるものだ。私も、自分のやってきたことに対して誇りも喜びも持っているので、自分を否定するつもりはない。私についてきてくれている人も、ギターを喜んでくれていると信じたい。ただ、私にはカバーできない面が確かにある。それは、たぶんМ氏の指摘する面だろう。

 言葉が的確かどうか自信はないが、「住み分け」ではないかと思う。М氏はМ氏でその能力を充分に発揮できる場を見つけ、俳人を育てていくことだろう。私は、М氏の去った雑誌の方針が好きだし、主宰者の人間性にも惚れているので、これからもそれについていく。

さそり座の歌 846

「七十八年の歴史静かに幕 

T印刷が今月で廃業」

つい最近、そんな見出しの新聞記事が出て驚かされた。その会社の元社長であり、今の相談役のKさんが、長い間音楽院に通ってきてくれていたからだ。Kさんは声楽科のレッスンを受けていて、発表会ではいつも、シャンソンとかサトウキビ畑などの、ちょっとおしゃれな曲を歌っていた。

T印刷というと、市内でも大手の印刷会社で、何の心配も無い会社だろうと思っていた。Kさんは、会社を息子さんに任せ、いわば悠々自適の老後を、音楽を趣味にして暮らしているように見えた。傍から見ていると、それは素敵な老後の暮らし方のお手本のようでもあり、私の一つの憧れにもなっていた。しかし私の見えなかった現実は、厳しい情勢が長く続いていたようだ。

廃業の理由に「IT革命で顧客の自家印刷はプロ並になった」と書いてあった。時折、音楽院の新聞やチラシなどを見て、「きれいに出来てますね」と褒めてくれたのを思い出す。私はその時、その裏にあるものを、何も感じることが出来なかった。ただ、自分のパソコンの技術を認めてもらえただけだと思っていた。しかし、Kさんは音楽院に来て、机の上のものや、壁にはってある印刷物を見ながら、時代の厳しい流れと対面していたのだろう。何気なくパソコンで作っていた印刷物だが、その世間の流れは、いわばT印刷の息の根を止めることにもつながったのだから。

 二十代の頃、少し文学をかじったりしていたが、当時は「活字」という物に特別な夢というか、憧れがあった。自分の書いた物が活字になるということが、すばらしい勲章のように思え、それを持っていることは大きな誇りでもあった。

 今、活字は、自分の手の中にはいった気がする。ある程度のことは、やろうと思えば自分で出来る。しかし、もうあの活字に対する信仰のようなありがたい気持ちは無くなった。

原稿を印刷会社に持ち込み、校正をし、届けられた出来上がりに、胸をわくわくさせる喜びは、消えてしまった。

 

さそり座の歌 
847
 

年末になると、喪中を知らせる葉書がかなり送られてくる。そのほとんどは、普段年賀状をやり取りしている本人から見て、周りの方が亡くなった知らせだ。それらは、「彼は父親を亡くしたのか、大変だったなあ」ぐらいで終わることが多い。

 しかし今日いただいた喪中の知らせには驚いた。「この夏、妹が逝去いたしました。八月二十五日、肺炎のため急逝いたしました。生前は大変お世話になりありがとうございました」というような内容の文面で、差出人は全く知らない方だった。

 「えっ」と絶句して何度か葉書を読み直し、その理不尽が理解できた。姉が、妹の死を知らせてきたのだ。私と年賀状をやり取りしていた本人が亡くなっていた。

 そのHさんは、五年前に別府に越してきて、ギター合奏団のコンサートに二年間出演していた。その後仕事を他県で見つけて、また引っ越していった。そこで元気に働いていると、今の今まで思っていた。

 それが、確かまだ三十代の若い女性なのに、肺炎とかで忽然と消えた。いまどき肺炎とかで亡くなるのかと、腹立たしささえ覚えた。

 かなり飲めるほうで、打ち上げにはいつも最後まで参加していた。カラオケになると、「おいら岬の、とうだいも〜りよ」という古い曲を必ず歌った。若いのに、なぜあの歌が好きだったのだろうか。もう聞くすべもない。多分酔っていたからだろうが、歌は調子が見事に外れていた。あれは座を明るくするためにわざと面白く歌っていたのだろうか。それも分らないままになる。

 いつだったか葉書をくれて、「二十周年で作った制服を新しいどなたかに差し上げて」と書いてあった。もうこちらに帰る事もないので、制服を贈ってくれようとしたのだが、その返事を怠っているうちに、今日になってしまった。

 今、ルベックは、二十五周年に懸命になっている。振り返れば、この二十五年間に、合奏団でご一緒して亡くなったのは、Hさんが初めての事だった。

ご冥福をお祈りします。合掌。

カラオケの声よみがえる冬の夜 幸一

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