さそり座の歌 838

 年に一度のギター連盟の定演が終わった夜、最近亡くなったTさんのうちへお参りに行った。もうギターから離れてかなりの時が過ぎていたので、一緒に行ってくれたのは最古参のYさんだけだった。

 二階の仏間へ通されて、まず目に入ったのは、仏壇においてあるギターを弾いている写真だった。春の音楽祭での独奏している写真を飾っていた。

「仕事を辞めてから、ギターだけが趣味でしたから」…と奥さんが涙ながらにいろんな話をしてくれた。

葬儀屋さんから、生前何か趣味にしていたことはと問われてギターの話をした所、その演奏テープを通夜の時も葬儀の時も流してくれたそうだ。それに、あの世に行っても、ギターが弾けるようにと、棺の中に楽譜をたくさん入れてくれたりもしたと言う。

Tさんはかなり熱心に長いことギターに来てくれていたのだが、リューマチか何かの病気で指が曲がって伸びなくなり、やむなくギターから離れた。豪放磊落な方で、いつも周りを明るく笑わせてくれていた。顔をくしゃくしゃにした笑顔がよみがえって懐かしくなる。

レッスンに来ていた頃、どこかの山の中に名水を汲みに行くようになり、一つでも、二つでも一緒と、私には持てないような重い容器に水を汲んできてくれていた。それでご飯を炊いたり、コーヒーを飲んだりすると、やはり味が違うなと家族と話したのも懐かしい思い出になった。また、音楽院で出している新聞も大事にしてくれていて、「綴じているのが、こんくらいの厚さになったがな」と何度か手で示してくれたものだ。

「先生に来ていただいて、主人がどんなに喜んでくれていることか・・・」と奥さんに言われて、通夜にも、葬儀にも行けなかったことが悔やまれてならなかった。新聞のお悔やみ欄に載っていた名前にふと気が付いたときは、もう遅かった。Tさんの晩年に、ギターがそれほどの位置を占めてくれていたのかと思うと、身が引き締まる思いがした。しかし、お陰で私の仕事の存在意義も少し感じられて嬉しかった。

72歳といえばまだ若い。それでも二人の娘さんが、たった1本残っていた歯を二つに分けて胸のお守りに入れてくれたのだそうだ。いい奥さんと子どもに恵まれて、Tさんの幸せな生涯がしのばれた。

食道癌でのたびかさなる手術や入院は大変だったことだろう。今は、この蒸し暑い梅雨もない、さわやかな所で、あの豪快な笑顔を見せているだろうか。

Tさん有難うございました。私もこれからこの仕事を、もっともっと大事にします。

梅雨空の かなた

  音ある 黄泉の国         
      幸一

 

さそり座の歌839
 

 2ヵ月ほど前より、股関節の痛みの対策に鶴見病院の整形外科にかかっている。痛みの根治には、手術での人工関節しかないようだ。しかしそれは私の足の状況の場合、難易度の高い手術であり、十数年後には入れ替えの再手術も考えられるということから、しばらくは痛み止めやリハビリなどで、時間を稼ぐことになった。

それで週に2回、足の筋肉を鍛えるリハビリに通っている。筋肉が強くなれば、骨への負担が軽くなり、痛みの対策にもなるようだ。また、いざ手術の時にもその成果が大事な前提らしい。

 リハビリ室に入ると、ベッドに寝かされて、患部を三十分ほど温める。私は退屈なので、本を読みながらその時間を過ごすのだが、広いリハビリ室の他のどの患者も、誰一人としてそんなことをしている人は居ない。注意をされたことはないけど、これってマナー違反なのかな?(最も、最近はそこで眠ることも多いのだが・・)

 温めが終わると、足上げ十分だ。寝たまま片足づつあげては「5」数える。十分はなかなか長い。その後はゴムバンドで両足を縛って、股の開閉を七分間やる。知らなかったのだが、そのゴムにも強度がいろいろあり、私は一番やわらかい黄色のゴムバンドだ。いずれはバンドの色も変わり、足にも錘をつけるようだ。

それが終わると患部を上下からはさんで、低周波の電気治療が十五分ある。揉んだり、叩いたり、震わせたりといろいろ変化して、結構気持ちがいい。以上が終わると約一時間かかる。面倒といえば面倒だが、スポーツジムに通って体を鍛える人もいるのだからと思って時間を作っている。たぶんそのリハビリのお陰と思うが、最近痛みが少し薄らいだのは、うれしい限りだ。

 時間が下がるとリハビリ室が混むので、いつも朝一番に出かける。週に2回、朝8時ごろ車を走らせていると、通学や通勤の人たちにたくさん出会う。市役所の近くを通ると、八時半目指して急ぎ足で歩いている人たちの群れがある。「ああ、みんな働いているんだ。」「毎日毎日出勤して暮らしているんだ」と、これまであまり出会うことのなかった光景を見て、打たれるような気持ちになる。

そのお陰で、いろいろ御託を並べないで、真面目に練習しなければという、真摯な気分にさせられていることを、大変ありがたく思っている。

 




 




さそり座の歌840

 「僕の生きる道」という本を読んだ。余命一年と癌の宣告を受けてからの、青年高校教師の話だった。物語は、一年で亡くなるマイナス部分と釣り合うように、憧れの人との恋愛、結婚、そして学校でのいろんな成果などがプラス要因として織り込まれていた。

 いつだったか洋画を見ていたら、内容は恋愛もので、終わりの五分前まで熱々の楽しい場面が続いた。何と甘ったるい映画なんだろうと思っていたら、最後に男性が飛行機事故で亡くなるという悲劇の結末を仕組んでいた。その五分が、それまで延々と続いた甘ったるい部分と見事にバランスを取っていたので、記憶に残っている。

 しかし、これらはあくまでも物語や映画の話で、実際には、余命一年と宣告されたあとに、それに見合うだけのいいことがそうそうあるとは思えない。それどころか、それをきっかけに失う経済的な面や、去っていく人のことなどが、輪を掛けて迫ってくることもあるだろう。悲しく寂しいことだが、孤独のうちに亡くなった人も多いはずだ。

 そんなことも踏まえ『もし自分が、余命一年と宣告されたら』と考えてみた。

 つい最近の新聞に、交通戦争といわれる中での死亡数より、自殺者の数の方がはるかに多いことが報道されていた。人の生死について軽々しいことはいえないが、この方達のほとんどは、もっと本当は生きたかったのではないかと思う。リストラにさえあわなければ、家族のためにももっと働きたかった。資金さえあれば、こんな悲惨な道を選ぶことはなかった。治る見込みのない病気にかからなければ、世をはかなむこともなかった。…

 その裏には、社会的ないろんな問題もあるのだろうが、それはさておき、たくさんの人が自殺という道を、今選んでいる。それを思うとき、『余命一年』の宣告がどういう意味を持つのか考えてみたい。

いろんな方と出会って話をし笑いあい、ギターのレッスンをし、家族とおいしい物を食べるという暮らしがなくなる。それは経済貧困やリストラなどの苦難の材料の一つだろうか?基本的には重なる所が多いと思うが、私は、全てを失っても生きている体が残っている方と、いやおうなしに未来を断ち切られるケースとは一線を画したいと思う。なぜなら、やはり全てを失っても、生きることができたらと、自分は強く思うのではないかという気がするからだ。

こういう仮定の話では、どうあがいても現実感が出ないのでもどかしい。全てを失い体一つ残るということがどういうことなのか、余命一年の宣告がどのような衝撃を与えるのか、この生ぬるい暮らしの中では分らない。

しかし、余命一年はともかく、いずれ自分は遠からず死ぬんだと思うことは(なかなかそうは思うことも難しいが)、身の回りのことに、少しあざやかな色彩を添えることに通じる気がする。ほんの小さな出会いにしろ、コンサートにしろ、そのかけがえのなさを少しでも感じることが出来ればと思う。

そこで結論。『余命一年と宣告されれば』、周りのぼんやりした風景が、きりっと引き締まってピンが合う。家族とこうしてアイスクリームを食べてる何気ない時間が、どれだけ貴重なものかを実感して、大切に大切にアイスを味わうに違いない。周りの全ての味わいが、濃厚になる一年になるとすれば、それは何年分もの価値があるとも言えるだろう。

さそり座の歌 873

 最近、日本を代表するような大物の落日をいくつか見て感慨を覚える。世界一の金持ちとか言う肩書きまで目にした事のある、西武王国の会長が、今ボロボロになっている。

 落ち目になると、いろんな裏切りが出たり、内部告発があったり、週刊誌に醜聞を暴露されたりとさんざんな目に合う。悪いほうへ転がりだすと、それまでの権力行使や、政治家への依頼などでも、どうにも転落を防げなくなるのだろう。

 また、国営放送の会長辞任も、かなり物議をかもした。どう見ても当然のように、放送の検閲がなされている気がするが、そのことに対する感覚は、庶民と局とでは全く違うようだ。巨大な密室での勝手気ままな長い間の横暴は、さまざまな悪弊をはびこらせることになっているのだろう。

 水増し請求など、そのあまりにもなめた杜撰なやり口が、いつしかやはり人々の知るところとなり、会長の首を奪う事態へつながった。

普通は、そんなこともどこかで押さえ込まれ、うやむやになるところだった。しかし、今回は、受信料支払い拒否という一般大衆の怒りの声が、大組織を動かした。辞任後の顧問就任についても、朝日新聞のゼッケンに対する実況中止についても、ものすごい大衆の抗議の中で、硬直したような権力者が、方針を変えた。

その魔女狩りのような沸き起こる声は、場合によっては、とてつもない危険な面も含んでいる。しかし、今回の国営放送の対応は、「寝た子を起した」のではないだろうか。みんなで声を合わせれば、強大な権力へも立ち向かえることを、人々は学んだのだ。

普段は虐げられ、大きな組織や権力に、ものを言う気力もなくしていた雑草が、声をそろえることで、何かをなせることを知った。命がけの百姓一揆というような悲壮な決意ではなく、腹立ちを素直にそのまま声にし、ぶつけるだけで、巨大な山が動いたのだ。これは政治腐敗や、利益追求第一の企業での閉塞感に、新しい風となる可能性がある。どんなに敵失があっても、それを攻める手立てを見つけ得なかった人々は、ひとつの大きな成果をつかみ、これからの糧とした。

「おごる平家は久しからず」とか言うが、これまで西武王国も、国営放送も恐るべき長さの栄華を誇ってきた。しかし、それはやはり永遠ではなかった。やはり、人のすることには、どこかにいつしか油断やおごりの出ることを避けられない宿命のようなものがあるのだろう。怖いことだ。

 

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