さそり座の歌 836

 最近、退職に関する話が身近に多い。35年勤めて、このたび外資系のコンピューター会社を退職したという話が、仲間内のメーリングリストに流れた。又長年市役所に勤めて退職した女性は、朝、布団の中で「バンザイ、バンザイと」そのまま寝られるのを喜んだと書いているのも読んだ。又別の男性は、退職後が第2の青春で、ギターを楽しんでいるとも書いていた。

 どの仕事もそれぞれ苦労があり、又喜びもあったことだろう。それから解放される時、喜びとさびしさはどちらが強いのだろうと思う。勿論、個別によってちがうだろうが、今私は、その方々の「解放」という気分にあこがれる。

 期日までに仕上げねばならないこととか、先輩、同僚たちとの人間関係の齟齬とか、いろいろあっただろう重苦しい全ての荷物を肩から下ろして、なにもかもと、すっきり離れて自由になる。そのかっちりとした切れ目が、私にもほしい気がする。

 私の仕事には定年がない。しかし、時折「定年がなくていつまでもやれていいですね」といわれることもあり、そうだなとも思う。とはいえ、この終わりのない旅は、どこでけじめがつくのだろうか。毎年毎年、繰り返すコンサート開催の歯車から外れる時は、体が壊れた時だろうか?

 もっとも、自分でかってに退職を決めても、それはそれで自由になるのが、自営業のいいところだ。ただし、きちんとした職場に勤めていた方のような退職金や年金などの、老後にたよるようなものはほとんどない。やはり、好きなものをやっている自営業には、それなりの自己責任があるということなのだろう。つまりは、食って行こうとする限りは、定年という解放には縁がないのだ。晴れての解放はやはり、憧れでしかないのだろう。 さりながら、退職後を第2の青春と捉える方もいる。その点から言えば、28歳までの勤めを辞めて、このギターだけの仕事に入ったのは、私の第2の青春のスタートだったのだと思う。やはり時が過ぎると、その時の感激がいつしか薄れてくる。ほんとうは、これだけ長く第2の青春時代が続けられていることを、感謝すべきなのだろう。それを解放されたいと願ったりするのは、初心を見失っているからに他ならない

さそり座の歌 837 

 
日曜の午後が空いたので、ビデオ店に行った。すると、昨年テレビを見逃して、いつか見たいなと思っていた「北の国から」が出ていたので借りてきた。二十一年も続いたもので、今回が最終回となり、テーマは「遺言」だった。前編、後編の2巻組みで5時間近くあったが、連続して最後まで見通した。

 このドラマには、ある特有の臭いがあり、それを嫌う人も居ることは承知している。説教臭い雰囲気や、やたら涙の場面の多い感傷が鼻につく場合もあるのだろう。

 それはともかく、いわば我が家は(たぶん他の家庭もそういうところが多かったから支持されたのだと思うが)この番組とともに、子育てをし、家庭が次のステップを踏んできた。小学校入学前後の、蛍や純が、そのままドラマの中で卒業し、働き、恋をしていくように、我が家の子どもたちもいろんなドラマを残してここまで来た。

 同時進行で二十一年続き、今回は「遺言」をテーマにした最終回だった。父の日の今日、それを見ながら、過ぎて行った20年を思い、「遺言」の意味を考えた。

 何度も遺言の指南を受ける「五郎」に「まだ本当に自分が死ぬと思って書いていない。自分が居なくなった後の、子どもや孫の様子を思い浮かべながら書きなさい」と教えている。

 しかし、結局遺言は出来ないままで、五郎の生きてきた日々の暮らしの全てが、子どもたちへ残る遺言になるような終わり方だった。

 この番組では北海道の自然がいたるところに挿入されている。春の咲き乱れる花々、延々と続く農地のみどり、紅葉の輝き、降りしきる雪…四季が巡っていく。植物が芽を出し花をつけ枯れていくように、人も生まれ死んでいく。その大きな輪廻のようなものを、20年余りかけてこの番組は作ってきたのだ。

 最後に、五郎と孫との別れを克明に描いていた。老いるということは、親しいものと、ひとつひとつ別れていくことを、覚悟させる意味合いだったのだろうか。

 もう、私の家庭の「北の国から」は終わった。今はもう、子どもたちそれぞれが新しい「北の国から」のドラマ制作に入っている。今日は、その区切りの父の日だったのだろう。

父の日や 遺言テーマの  
   ドラマ見る 幸一

さそり座の歌 871

 地域新聞のお悔やみ欄を見ていたら、ある医院の副院長が亡くなっていた。枠組みで大きくその方の経歴などが紹介され、診察の見立てもよく、患者から信頼されていたことなども書かれていた。

 副院長は45歳だった。ということは、親である院長は、70歳をたぶん超えている方だろう。私は、その院長も、亡くなった副院長とも一面識もなかったのだが、なぜか他所ごとながら、いつまでもその悲しみを反芻せざるを得なかった。

 丁度その医院の横通りに信号がある。そこで止まったとき、今もこの建物の中で、息子を亡くした院長は、診察の仕事をしているのだろうかと思った。しているにしても、腑抜けのようになって、げっそり痩せているのではなかろうか。それとも、気丈に以前と変わりなく、笑顔を見せているのだろうか…などと考えながら信号待ちをした。

 医学の学校行けるように育て、あちこちで研修も積み、跡継ぎとして、一緒に仕事が出来るようになったと言う喜びのときは、束の間の絶頂だったのだろうか。医学関係だから、その治療には、もちろん最善を尽くしたことだろう。しかし、その甲斐もなく、厳しい現実がやってきた。

 その玉を失った喪失感が、老いた体にどれだけこたえているかと、冷たい風になって私の心に吹いてくる。これから何を目指して働けばいいのかと、途方に暮れているのではないかとも思う。

 私にも2つの玉があって、そのためになるのなら、どんなコンサートを開いても、コンクールや勉強に出かけても、苦労に思うことはなかった。苦労どころか、それが出来ることは、大きな喜びだった。

今それなりに、幸いにも同じ音楽の仕事をするまでになっていることは、かけがえのない玉の輝きだといえる。

 もし私が、万万一その玉を喪うようなことに出会うとすれば、その悲しみや絶望感に、私自身が耐えられる自信はない。

 それを思うにつけ、その老いた院長のことを考えないではいられない。逆縁の慟哭を越えることは、どれほど残酷な仕打ちかわからない。でも、その院長は、それを超えて生きて行かざるを得ないのだ。

さそり座の歌 872

 日曜日の午後、ある葬儀に参列した。57歳という働き盛りの若さで、誰にも予期できなかった突然の他界だった。ほんの数日前まで、そんなことは夢にも思っていなかったはずのご家族の方には、大変な衝撃だったことだろう。察して余りあるものがある。

 大きな組織の長として、これから果たす役割が、彼にはまだまだたくさんあったことだろう。残された部下の代表の方は、そのあまりにも突然の訃報に、途方に暮れている弔辞を読み、涙をさそった。

 読経を聞きながら、「なぜ私でなくて、彼だったのか」とふと思った。これから社会に貢献できる諸々の能力などを比較すれば、彼のほうがはるかに重要なような気がする。しかし、神様はその順番を、彼を先にし、私の方をあとにした。

それを思うとき、われわれにわからないもっと大きな神の思惑があるのか、それとも神というものは存在しないのかと、不遜なことまで考えを広げた。

 死は何の前触れや計画もなく、ランダムに人を襲うのだろうか。厳粛で神聖であるはずの人の死は、どんな法則も存在せず、きわめ軽薄なくじ引きのようなものでしかないのだろうか。

 同じように車が行き交い、テレビでは雑多なニュースが流れ、果てしない時間の河が流れていく。しかし、もうその流れの中に彼はいない。そして、束の間の涙も、いつか乾き河はいつもと変わりなく流れていく。それは、もちろん私が死んだとて同じことだ。

 周りのたくさんの弔花を見ながら、私の時に、誰がこのような花輪を飾ってくれるだろうかと考えた。大きな企業や、裕福な方とのお付き合いはほとんどないので、ほとんど期待できないだろうと思うと、少しさびしい気もした。

 人を悼む場にいながら、思いはいつかそんな自分のことに行くのだ。悲しみの涙のすぐあとで、小さな自分の世界へ目が行ってしまう。亡くなった方には申し訳ない気もする。しかし、何が起ころうと、けっきょくは自分が可愛いということで、人と人のつながりの脆さも身にしみてくる。私が死んだとて同じことだ。死ねば、人は潮が引くように離れていく。

彼は、私よりたった1年しか長く生きられなかった。しかし、私が彼以上に長く生きられる保障はどこにもない。

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