さそり座の歌
        829

 一週間ほどの前の新聞にKのことが出ていた。今その切抜きを見ながら、これを書いている。大きなハウスの中で、Kとその奥さん、そして5年前に就農したという息子さんとの3人がバラを抱えてカラー写真で写っている。

それは、大分県の農業従事者を表彰する「特別賞」に、Kが選ばれたという記事だった。「研究意欲に行政も脱帽」とかいう見出しもある。昨年のバラ栽培の売り上げは5千万円。そしていずれは1億円の販売額を目指したいとか言う、壮大な金額まで示す栽培成功の報告だった。

それを読んで、おお、これはKじゃないかと、私は思わず新聞を引き寄せた。彼は、小学校、中学校と田舎の学校で同級生だったからだ。じっくり記事を読んで、ええ、あのKがと、驚嘆に変わった。

ローテローゼ、スイートユニーク・・・それがバラの名前であることを、記事を読んではじめて知った。バラには、それらを含め、30種類ほどあり、Kはその全てを栽培しているらしい。

学生時代のKは、余り学業に優れているわけではなかった。いやはっきり書けば、たぶん最下位を争う中の何人かだったと思う。かといって、運動が得意で目立つとか、不良になって皆から嫌われるというようなこともなかった。言葉は悪いが、独活の大木といった具合で、ぬーっと突っ立っているばかりだった気がする。

ほとんどが、進学や就職で町に出て行く中で、Kは、ふるさとに残ったほんの数人の中の一人だったと思う。その後30年余り全く消息を聞くこともなかった中で、突然、バラ栽培特別賞の記事を読んだ。

すごいじゃん!私の中をさわやかな風が吹きぬけた。大学への進学や、大都会での月給生活こそが、幸せの目安という人生の定規を、彼は見事に覆してくれた。投げやりにも、卑屈にもならず「昼と夜、花の様子は驚くほど違う。時間をかけただけ発見がある」という暮らしをしてきた。

これまでなるには、勿論言い尽くせない色んな苦しいことも、たくさん乗り越えてきたのだろう。しかしへこたれることなく、、Kはこつこつバラ栽培に打ち込んできた。

K、よくやったな。おめでとう。同級生として誇りに思う。

さそり座の歌       830

 このことは書いたほうがいいのかどうか分からない。書いてしまえばそれが、本当に過酷な現実になりそうでもあり、憐憫を求めていると取られるのも辛い。しかし、自分の限界を自他共に認めるというためにも、かねてからの胸のつかえをここで一応吐き出しておきたい。

 今、私の体には、3つの問題がある。どのことも少しずつ進行しているので、今日明日どうこう言うことではないが、いずれは困ったことになりそうだ。

 まず、股関節の痛みのことだ。これは関節が少しずつ磨り減ってしまうことを、もう10年以上も前に宣告されていたのが、現実になってきたということだ。最近かなり痛みがひどくなったので、25周年を終えて、来年あたりに人工関節の手術に踏み切らざるを得ないかもしれない。そうなると、いろいろ姿勢が制約されてくるようなので、出来ないことも増えてくることだろう。

 最近、「責められて 聞こえぬ悲しみ 冴え返る」という句を作った。聞こえていないことによる不快な思いを口にしてくれるのは、ごく身近な人だけだ。他の方は、何で無視してるんだと、怒りを内向させているケースも多いことだろう。申し訳ない限りだ。実は、私の左耳はほとんど聞こえない。右もそう良くはないが、聞こうと努力すれば聞こえるので何とか暮らしている。

つまらない誤解や、不要な怒りなどが生じないように、耳のことは機会あるごとに周りに知らせるべきなのだろう。しかし、体や心の弱点を表に出すのは、なかなか気が進まない。勇気がいる。そっと隠せるものなら隠しておきたいとも思う。だが、仕事がら多くの人と接する以上、それを公にすることが、周りの方への心配りなのだろう。

音楽を仕事にしている性格上、聞くということは何にも増して大切な機能だ。それがどの辺まで許容されて続けられるのか、心配な点ではある。

もう一つは、腎臓病の名残でトイレが近いことだ。旅行で長時間バスに乗るといったことが、大変な苦痛になる。映画に行っても、そのことが気になって辛いことも多い。

歩けない、聞こえない、トイレが近い…と出不精になる3点セットがそろいつつある。だが、私は、ここにその泣き言を並べるつもりはない。これからの時間の流れの中で、いつかそのいずれかの問題で、心ならずも色んな担当部署から離れざるを得ないことを伝えておきたいと思うだけだ。自分自身も、冷徹にその覚悟をしておきたいとも思う。

18歳から20歳の頃、腎臓病で2年余り入院していた。その頃何度か「このまま死んでいくのかな」と思ったことを思い出す。あれから、何のめぐり合わせか、いつしか好きなギターを持ちながら、30年余りも生きてきた。入院している頃は、自分より不幸な人はいないと、勝手な思い込みをしたこともあったが、私より先に亡くなった方もかなりいる。今、よく聞くせりふで言えば、「失うものは何もない」という気分だ。これまでやって来たことに大きな満足感があるからだろう。

しかし、これから歩くことに不自由が出来ても、良く聞こえないということが起きても、出来るだけ長く仲間の中で暮らしていたいと切に思う。いろんな手助けをいただきながらでも、仲間の一員として、生を全うできれば、どんなにか幸せなことだろう。

(皆さんよろしくお願いします) 

 



さそり座の歌 
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 先日、信号待ちで車を止めていると、葬儀社の看板に2人の名前が書いてあるのが目に留まった。亡くなる方が多いんだなと思い、何気なく頭をめぐらせていると、はっとひらめくものがあった。

 最近あちこちに新しい葬儀社をよく見かける。競争が大変だろうに、よくやっていけるものだと思っていた。しかし、そのとき突然謎が解けたのだ。「そうか、我々団塊の世代がこれから死んでいくんだ。それを当て込んでいて、この商売が成り立つのだ」と、思い当たったのだ。

 昭和23年生まれの我々の生きていく空間は、いつも人が溢れていた。学校などは顕著で、1学級がたいがい40名を超え、その進学の席の奪い合いも大変だった。高度成長期を支える「集団就職列車」なども象徴的な出来事だろう。

 その流れが、最終レースの葬儀社に向かおうとしている。若者何人で年寄りを支えなければならないとかで、こちらには責任はないが、これから年金とかの老後保障も改悪が進むことは必至だ。そして集団お陀仏列車が突き進む。安楽に介護を受け、スムーズに葬儀が出来、落ち着く墓の下が待っているのかどうか分からない。そこも混雑でいろんな問題が起きて来るのだろう。

 新聞の広告で、舟木一夫が還暦で、赤い学生服を着ている様子が出ていた。彼が「高校3年生」のデビューの頃、ちょうど我々の多感な青春の目覚める頃で、その印象は今も鮮烈に残っている。

時折仲間とカラオケに行くのだが、もう40年ほどたつのに、当時の歌はなぜかよく覚えていて歌える。新しいレパートリーは全く増えないのだが、その想い出の曲があるので、カラオケも楽しめる。

あの舟木一夫が60歳かと思うと、今更ながら過ぎ去った時間の、はるかな遠さを感じる。去年の自分とは少しも変わっていないと思うし、10年前とでもそう変化があると思わない。気分的には、学生時代の舟木一夫のデビューの頃と何が違うのだろうかと思うことさえもある。

しかし、よく現実を見れば、歯も悪くなり、髪も薄くなり、やはり確実に年代は動いている。いつまでも幻影を追って感傷に浸ってはいられない。手際よくお迎えの準備をしてくれている方角へ目を向けて、しっかりと歩き出さなければ・・・。

 

さそり座の歌 870

 久しぶりに、またあの夢を見た。このところ見ていなかった気がするので、一日経っても忘れないでいる。

 それは16才ごろのことだ。高校に入学して1年ほど過ぎた頃、少しずつ体が壊れ始めていた。何とか頑張って行こうとするのだが、だんだん休む日が多くなり、2年生を3ヶ月ほど行き、ついに入院ということになった。以後、二十歳過ぎまで2年余り病院暮らしをし、学校へは戻れないままだった。

 幸いにも退院でき、その後働き出した。結婚して子供たちも出来た。しかし、なぜかその暮らしの中で、学校を止めた当時の夢をよく見た。

 かばんに教科書を詰めている。しかしいくら詰めてもかばんが大きく膨らむばかりで、日課表がそろわない。これでは学校へ行けないと呻いているところで目が覚めた。または、数学や物理などの教科書が開かれているのだが、皆目わからない。これは何のことだ。こんなに何も分からなくてどうするのだと、やはり呻いて目が覚めた。

昨夜の夢では、学校を休むから学校に電話してと母親に頼んでいた。ところが、(あとで思い出すと笑い出したくなるようなことだが)、自分が何組だったか思い出せないのだ。何年何組の誰々と伝えてほしいのに、どうしても、自分が何組だったか思い出せなくて、どうしたらいいか途方にくれているのだ。

 それらの夢は、いつも解決のつかない難問にぶつかり、もがき苦しむ場面ばかりだった。夢にはいろんな精神的な反映があるのだろうが、やはり自分の人生の流れの中で、あの挫折体験は、相当応えていたのだろう。もう終わったかと思っていたら、40年前のことがまた夢にあらわれた。

 しかし時折へんなことを思う。あのまま病気をせずに順調に進んでいたら、私は大変な自信家のいやみな人間になっていたことだろうと。今でも、いわばなんとも表現しようのない自分の自尊心に閉口することがある。自惚れや目立ちたがりが、あのままそれ相応の学校へ行き、それなりの成績で世に出れば、人を人と思わない思い上がった人間になり、周りの人々と暮らすのに、かなりの摩擦で苦労することになったことだろう。

 その意味で、あの挫折は、自分の精神にほどほどの弱さ、限界、あるいは命のはかなさを学ぶことになったはずだ。いろんなことが順調に行くと、つい人は調子に乗る。時折のあの夢は、調子に乗って暴走する私の熱さましの役割をしてくれているのかもしれない。

 今、何を反省する時期なのだろうか。

 

 

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