さそり座の歌826  
 
かねてからの念願だったホームページを作った。なかなか豪快な自己アピールでちょっと照れくさいが、その名前は『竹内幸一と行く文学・音楽紀行』と付けた。内容を音楽関係だけに絞って、仕事の宣伝を主にしようかとも考えた。しかし、どうせならこのさそり座や俳句なども入れたいと思い、欲張っていろんなものを押し込んだ。これを読んでもらえば、私のすべてが分かるとひそかに自負している。
 今年の正月休みは、その制作のためにほとんどパソコンの前で過ごした。1680円の「はじめて作るホームページ・ホームページビルダー6,5」の本だけが頼りだった。ああでもない、こうでもないと作っては壊し、壊してはまたはじめからやって頭をひねり続けた。投げたくなるときもあったが、どうかした弾みで、ボタンを押すときれいにページが飛んだりするようになり、ようやく何とか形になっていった。
 これまではもっぱらメールで、周りの方々と接触していた。仲間25名ほどでメーリングリストもし、いろんな話題が飛び交っている。その人たちや、いろんなことでメールアドレスを教えていただいた他の方に、音楽院の新聞や、このさそり座などを送っていた。知り合いに送るのだから、大体まあそれなりに目を通してくれて感想なども返ってくる。
 その中に安住していても良かった。実は、不特定多数の中にホームページを出しても、いったい誰が見てくれるのだろうと、懐疑的にもなっていたからだ。しかし、知り合いの方にしても、ひょっとしたら押し付けられているだけの場合もあるとしたら、読みたい方だけに読んでもらうほうがいいのではとも考え、ホームページに踏み切った。
 素人のつくりなので、体裁も良くないし、読みやすくもない。不安がいっぱいの中での公開だった。ところが、不思議でならないのだが、1月10日に公開して、1月末でカウンターは570余りを示している。平均して一日に28名ほどの方がアクセスしてくれているのだ。う〜んと思わずうなってしまった。初めて巨大な情報化社会の一端に触れた。

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さそり座の歌 834

 4月29日に、毎年恒例になっている「春の音楽祭」を開いた。年に1度を積み重ねているうちに、いつの間にか今年は、20回という数字になっている。ここまで早かったような気もするし、1回目は、もうはるか昔のような気もする。

 思い立って、1回目のプログラムを引っ張り出してみた。音楽祭の1回目は、1984年の4月8日に「野いちご」で開かれている。演奏プログラムを見るといろいろ面白い。

 数字的な面で言えば、当時の出場者数は33名で現在の約半数ほどだ。出演者が少ないので、中に講師演奏の時間や、ゲスト3名の演奏を入れたりしている。また記録してある講師数を見ると4名で、これは現在10名に増えている。

 今でもギターを続けている名前が二人あった。佐藤とし子さん(ソルのギャロップ演奏)、そして、なんとこの1回目に手嶋修一さんがアルハンブラ宮殿の思い出を弾いている。

 加えて、私の子供たちのことも、プログラムを眺めると感慨深いものがある。

 娘はプログラムの1番で演奏している。曲目は、バイエル73番、74番で、5歳とある。たぶん幼稚園に行き始めた頃だろう。それが、大学でピアノを学び、今はこの音楽院でたくさんの生徒を抱えている。出身大学の関係で、佐賀での演奏活動も多い。

 息子のほうは、プログラム7番で、人魚の歌、かわいいオーガスティンの2曲をピアノで参加している。南立石小1とあるから、まだギターは始めていなかったのだろう。(翌年、カルリのアンダンテでギター出演している)

 1回目は4月8日だから、それこそピカピカの1年生だった息子が、いろんなギターコンクールを制覇し、パリまで出かけてギターを学び、そこで、フルート奏者の連れ合いまで見つけてきている。

 音楽祭では、舞台の世話、司会、お土産渡しなど講師の皆さんが手分けして動いてくれ、長時間の催しがスムーズに進んだ。10年ひと昔というから、もうふた昔が過ぎたことになる。もう私がいなくても、この行事は続いていくことだろう。新しい世代の成長を見ながら、うれしいような、少しさびしいような時の流れをかみ締めている。

 

 

さそり座の歌 
863 

 昨夜のことだ。風呂から上がって浴室から出ようと、左足を踏み出したとき、その足が大きく前に滑った。咄嗟に洗面台を右手で叩きつけるようにおさえ、左手で肌着の入れている箪笥に触れ、何とか倒れずに踏みとどまった。

 大きな音がしたのと、叫び声で近くにいた娘が飛んできた。素裸なのだが、足を大きく伸ばした体勢をどうにも立て直せずにしばらく動けなかった。現実がどうなったかと確認するように、我に返るまでにちょっと時間が過ぎた。おもむろに、我に返ったようにそろそろと足を引き戻し、立ち上がった。そこで、突然の衝撃から覚め、心配そうに見る娘に、やっと笑顔で「大丈夫」と言えた。

 居間のソファーまで歩いて行き、家族の心配そうな中で足首を見た。無理に伸ばしたせいで、くるぶしの下あたりに、赤い筋がいくつかついていた。痺れたようで痛みはなかったが、足首に湿布を巻いて応急手当をした。

 幸いその後あまり足は痛まなかったが、右手の肘が今も痛い。体を支えるのに、強く打ったからだろう。

 普通なら風呂から上がって、それこそ口笛でも吹くようにしながら、一日の仕事からの解放感に浸るところだ。やれやれ今日も終わった、さあ、メールでも開いてみるかという、ゆとりのひと時となる。

 しかし、ほんのわずかの運命の展開で、事態は大きく変わるところだった。万一、足の筋が切れたりしていたら、これからの数ヶ月どうなっていただろう。だいぶ前から右足の股関節が痛んでいるので、今はほとんど左足1本で歩いているような状態だ。これで、左足が使えなくなったら、おそらく歩けないと言うことになる。

 これから年末まで、ほとんど日曜日も無いようにコンサートが続く。いなければいないでどうにかなって行くには違いないが、やはり、その混乱は避けたいし、何よりも、私自身が今休みたくはない。いつまで体が続くか分からないが、まだ、現役の仕事を続ける時間を神様が与えてくれたということなのだろうか。そのありがたさ、そして紙一重で地獄があることをも含めて、教示をしてくれた出来事だった。

さそり座の歌 
864 

 運転免許証の更新があった。これまでは、近くの警察署に行っていた。しかしこの方法だと、目の検査や手続きで一度行き、その後指定されたときにまた出かけて講習を受けるというやりかたで、免許を手にするまで、2度も出かけねばならなかった。

 それで、今回は人から聞いていたので、1回で済むという県の自動車学校へ出かけた。朝9時ごろ着いたのだが、もうすでに人が溢れていて、駐車スペースを探すのに苦労した。しかし、番号順に目の検査や写真を撮っていくと、すぐに講習開始時間待ちになった。9時45分から30分の講習で、なんと着いて2時間もしないうちに、免許証を手にして帰ることができた。これからは、このやり方に限ると、新しい選択に満足したものだ。

 その上、今回始めて、ゴールドという5年有効の免許証を手にすることができた。実は前回、無事故無違反なので、きっとこれだろうと思って出かけたら、期間3年の免許証だったのでがっかりした記憶がある。そのとき、何か手続きでもいるのだろうか、事務の間違いではないかとか思いながら、結局そのまましょんぼり帰った。しかし、今回わかったのだが、ゴールドをもらうには、過去5年間無事故無違反でなければならなかった。つまり、以前起した一旦停止違反があることで、5年間の無違反期間がなかったのだ。

 そんなこともあり、なんだかゴールド免許が嬉しかった。しかし、有効期限の誕生日を見て、「ああこれの更新のときは、もう還暦を過ぎているんだ」と、なんだか遠くの世界が急に近づいたようで、一寸さびしくなった。

 時折仲間と宴会などしていると、「もうあと何回、紅葉を見られるか。せいぜい見て20回もあるかないか・・・」と、60歳近辺の年頃の人が、妙に悟ったようなさびしい言い方をすることに出会う。今までそんな感傷に同感することはあまりなかったのだが、今回免許証の5年という区切りを見て、「あと何回、免許証の更新ができるのだろうか」と、人生の結末まで目が行ってしまった。

60、65、70、・・・75。いいところ、あと3回の更新だろう。その中のどこかで、免許証の有効期限を残したまま、この世とおさらばということになる。

 残りの時間が長いか短いか、皆目わからない。わからないことは、ぼんやりする時間も多くなるだろう。しかし、凡人の私には、そんな先の見えないゆるやかな進行しか耐えられないことだろう。

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