さそり座の歌 825

歌姫のソプラノそよぎ街芽吹く

今年のニューイヤーコンサートは、「佐藤美枝子ソプラノリサイタル」だった。日本人で初めてチャイコフスキーコンクールで優勝し、今一番引っ張りだこで目覚しい活躍をしている世界の歌姫だ。

歌姫の涙の余韻寒牡丹

 私は、昨年に引き続き舞台袖の担当でコンサートのお手伝いをした。その役得で、リハーサルから本番までたっぷり艶のある心にしみてくるソプラノに浸ることができ、至福の一日だった。
 それに加え、こちらまで胸熱くなる美枝子さんの一面にも出会えた。演奏会の終了後、色々なつながりのファンが楽屋に押しかけているのには明るく応対していた。それが終わり、今日中に東京へ帰るという伴奏ピアニストを送り出した後のことだった。デビュー当時から親しくしていて、今回も送り迎えなどをして一番身近にいたYさんと数人が残り、廊下で立ったまま「お疲れ様、良かったですよ」と美枝子さんに声をかけた。
 その時一瞬間をおいて、美枝子さんの表情がくずれた。「だめでした。申し訳ない」「もう一度1部を歌いたかった」と言いながら、涙を何度も拭いた。舞台メイクが涙で流れるのを見ながら、その芸術への真摯な態度にわれわれは圧倒された。素人耳には素晴らしく聞こえても、彼女の気持ちの中で望むレベルには届かなかったのだろう。あとでYさんが「昔から変わらない」と言っていたが、やはり世界へ伸びる人は自分への厳しさが違っていた。演奏するものの端くれとして少し反省しなければ。
 余談になるが、彼女は今回大分、別府と二度の舞台の過密スケジュールの間を縫って、小学校の子供たちを訪問していた。なんと、その小学校は私の母校だったのだ。「海岸線から左に入ったとたん空気がぜんぜん違うのよ」「来浦(くのうら)の素朴な子供たちが、みんなで歌ってくれ、手紙もたくさんいただき、これから読むのが楽しみ」とわが故郷のことをたくさん打ち上げで話せたのも、この上ない思い出になった。

824
へのリンク

さそり座の歌 833


 
 
先日ある会議の終了後、パソコンの便利な話から、昔のタイプライターの苦労などの話が弾んだ。「急ぐときに限って、最後でタイプを打つ失敗をして、苦労したものよ」と、もと市役所勤務の方が懐かしそうに言っていた。それぞれの人が、いろんなワープロからパソコンへの進化の歴史を体験していた。

 このさそり座も、始めはガリ版刷りだった。鉄筆を握り、カリカリと原紙を切りながら、間違えたらロウで消したりしていた。それが、たぶん20年ほど前と思うが、ワープロに変わった。一台目のワープロは、東芝ルポという一行窓のワープロだった。字が、点点のつながりで出来ているのが良くわかる文字だった。しかし、丁度音楽院の始まったころで、教室案内など。いろんな文書を作ったものだ。

 その後、テレビ型のキャノワードα350、そしてその進化したカラーのノート型キャノワードJ1と続いた。それぞれに、郵便振込みの定型文書や、住所録などが入っていて、それを捨てられずに、ごく最近までそれらは現役でいた。最近いろいろ苦労しながらも、それら全てが、パソコンに収まり、今はまだ使えるけれども、机の下で眠っている。考えてみればもったいない話だが、やはり機能進化の便利さから、いつしか場所ふさぎの不用の長物と化している。

 ワープロと並行して、パソコンも入れた。最初は、マックだったが、その後ウインドウズの98に変わり、さらにXPと続いた。今は3台目ということになる。

 今この原稿を打っているXPはデスクトップだが、超薄型で、場所をとらない。しかし、前のデータも時折必要なこともあるので、そのXPの左隣に、前のブラウン管型の大きな98も保存している。

 使わなくなりながら部屋のスペースを占有している三台を見ながら、こうして今6台目の筆記用具XPに向かっている。それぞれに、私の生き様を報告するために、分身となって働いてくれた記憶がよみがえる。私はそれらの前で、羽根を抜いて織物を編む「つう」のように暮らしてきた。これから何年生きて、あと何台織物用具が変わるのだろうか


さそり座の歌 861 
 
 このところ真夏日と言われる日が10日余りも続いている。最近にない猛暑だが、この日差しや風の動きを感じながら、そういえば、こんな日が以前にも確かにあったと、何だか懐かしい思いもしている。

 これに似た風景は、まだ私が小学生の頃のことだ。田舎の土ぼこりの立つ道路がじりじりと焼け、向日葵もしょぼくれていた。そんな中を、パンツ一枚、ゴム草履の裸姿で、近所の子どもたちとよく遊んでいた。川に行って水浴びをするのが、毎日の日課でもあった。

その当時、親から「おまえは夏痩せするから」と言われたのを思い出す。カンカン照りの暑い日が続くと、食欲をなくしていたせいで、夏の間に体重が減っていたようだ。しかし、裏の井戸で冷やしたトマト、キューリ、西瓜など、おいしく食べたのを思い出す。素麺も好物だった。またごくたまに、三ツ矢サイダーを飲むときもあったが、あの水滴のついたコップ、時折泡の昇る透明の冷たい液体は、極上の喜びをくれたものだ。

そして、その映像の向こうには、いつも両親がいた。しかし、その頃から4、5年後に父親はあっけなくこの世を去ってしまう。以後40年ほど私の過去に父親は存在しない。

しかしなぜか、このところ折に触れてほんの数年の記憶の父親を思い出す。なぜこんなところで父親のこんな場面を思い浮かべているのだろうと、自分自身をいぶかしく思うことも多い。

川で水に浸かっていると、岸上から、監視当番の父がこちらを見ていた。わたしに、そこに座れと言って、長々と説教していた父親。座敷の机の前に正座して、筆字を書いていた父親。・・・ごくごくありふれたなんでもない絵が、ぽっ、ぽっと浮かんでは消える。

それが、どういう意味を持つのか私には分からない。だれにでもある、ごく個人的な親に対する思い出を感傷的に思い起こしているだけなのだろう。でも、岸辺の姿でも、正座姿でも、それは私だけが持っているものだ。その中にある情感や匂いは、だれにも分からない。私だけのものだ。

そういえば、こういう暑い日が続くときまったように昔は夕立があった気がするが、それはこのところ全くない。どこか日本の遠くで、大雨の大災害が起きているというアンバランスは、子どもの頃の地球とは、やはり少し変わってきているのかもしれない。水不足や熱中症などの問題が、これから広がらないように願うばかりだ。

 
 


さそり座の歌 862 

 この夏、北九州にある「響ホール」で、九州ギター音楽協会のフェスティバルがあり、仲間と一緒に参加した。その時私は、演奏出番までの空き時間に、ロビーのソファーに寄りかかりながら、ある感慨にふけった。

 丁度5年前の夏に、やはりこのホールで同じ催しが開かれた。そのとき、このホールの近くに住む叔父夫婦が、花束を持って訪ねてきてくれた。同じソファーに差向かいに座って、しばらく話をした。とりとめのない話だったが、その光景は今も鮮明に残っている。

 それから5年過ぎた今、当時と状況は大きく変わっている。母方の兄弟で一番若かった叔父だったのだが、心臓をやられて突然亡くなった。車にガソリンを給油している途中心筋梗塞で倒れ、そのままだった。63歳だった。亡くなる数年前より、叔母のほうが痴呆になり、その世話に疲れていたという話が後で伝わってきた。

 叔父には子供がなかった。しかし、叔母には、前夫との間の子供があり、叔父の死後はその子供たちが取り仕切った。その子供たちの一番にしたことは、時間がたつと難しくなるからと、定期などの預金をおろす事だったとか言うさびしい話も伝わってきた。以後、叔父たちの住んでいた家は売り払われ、痴呆の叔母は施設に入れられた。今はその連絡先も知らない。

 幼いころ八幡の叔父の家に遊びに行くのが楽しみだった。道路より下にある家で、小さな階段を下りていくと、秘密の花園のようにきれいにした家があった。私のこどもたちも、時折遊びに行って泊まり、叔父、叔母に可愛がってもらった。

 旅先から絵葉書をくれたり、本を送ってくれたりと、なぜか気にかけてくれていた。勤め先の大学で使われた試験問題を送ってきて、受験勉強に役立たせようとしてくれたこともあった。問題は難しく、私には少しも歯の立たない問題で途方にくれたものだが・・・。

姉の子供である私に、叔父がなぜそこまでしてくれたのだろう。やはり自分の血のつながる子どもがいないということのさびしさが、そんなところに現われたのだろうか。

 それもこれも、もう感傷でしかない。人が死んで、時代が動いていく冷徹な現実を、しっかり受け止めるほか術はない。

 


inserted by FC2 system