さそり座の歌823 
 新聞で、元関脇寺尾のインタビュー記事を読んだ。突き押し相撲一筋で、二十三年つとめ、通算九百三十八敗と言うのは、最多記録だそうだ。勝負である以上、いつも勝つことを目標に土俵に上がり、いわば生活を賭けて全力を尽くす。負け続ければ、すぐに下に落ちていき、終いには引退と言うことにもなるので、ある程度は勝たなければ、現役を長く続けることは出来ない。しかし、いくら全力でぶつかっても、負けるときは負ける。その黒星の、悔しさや、屈辱や自信喪失や、自分への怒り等の積み重ねが最多記録なのだ。その敗北の最多という記録に、私は胸を打たれた。
 人はそうそう打たれ強くはない。恥をかくのは避けたいし、人に弱みは見られたくない。もし屈辱の目にあうことになるのならと、初めから腰を引いて勝負を避けている場合も多い。 
 楽器をやっている者にとっては、人前に出て行くことは一つの勝負だといえる。自分の力を見られ、いやそのふだんの力さえ出せずに脂汗をかいて、恥のどん底に落ちることもよくある。それを思うと、勝負に参加する気力はなくなり、いつしかもっともらしい理由で封印されることになりかねない。
 このような小文や俳句などの文芸作品を出すことも、また人前で話をしたりすることも、一種の勝負と言えるだろう。その先には、勿論喜びもあるが、恥や敗北感も常に付きまとっている。

 だが、寺尾のように、敗北の積み重ねが結果的にひとつの誇りになるのを読んで、もっと気楽に敗北をこれからの生きていく中に取り入れられないものかと考えた。確かに辛いことだが、敗北をひどく気にすると、いろんなところから引退せざるを得なくなる。そして、ひとり外野で、自分は何もせずに訳知り顔の評論家になったりして、嫌味な人間になることもある。しかし、それでは、これからの残された人生、退屈の中に眠ることになるかも知れない。
 どんなに駄作ばかり作ってもいいし、人前で恥をかく演奏をしてもいいんだ。勝負の現役であることこそが貴重なのだと思う。敗北と言う贈り物はつらいが、それを避けていたのでは、ほんのたまにしろ勝利の喜びと言う生のメリハリにも出会えないのだから。

さそり座の歌 831 

 1年前に叔父が87歳で亡くなった。その子供は5人いるのだが、そのうちふたりは会計事務所をしていて、昨年の挨拶のとき、「3月15日を4,5日過ぎて亡くなってくれて、ほんとにありがたかった。父も、子供のことを思い頑張ってくれたのでしょう」と言っていた。
 その一周忌を3月21日する予定にしていたら、その叔父の奥さんになる叔母が、今度は83歳で昨日亡くなった。たまたまこの日、7年間寝たきりの闘病が、肺炎で終わりを告げた。丁度、関東方面から帰っていた従兄弟たち家族は、一周忌と同時に通夜もし、翌日には葬式もすることになった。慌しいことになったが、勿論申告時期も済んでいるし、叔母さんもまた子供孝行な亡くなりかただった。

 その葬儀に参列した。始めに、するするとスクリーンが下がって、想い出の写真が映し出された。その映像を見ているうちに、中学生のときのことを思い出した。
 それは父が吐血をして危篤の頃だった。命日が3月17日だから、時期としては丁度今頃になる。田舎の家のベッドの周りには、近しい親戚の叔父叔母などが詰め掛けていた。
 4,5日して、小康を得た頃、何か家の用事を頼まれて、私はバスで一時間ほどの町へ出かけた。その時どうしたことか、家の前まで行く最終バスに乗り遅れてしまった。仕方が無いので、海岸線周りの次のバスに乗った。そのバスは、今度亡くなった叔母の家の近くまで行ったので、そこで降りて泊めてもらうことにしたのだ。叔母は、いつものように優しく、食事をさせてくれ、泊めてくれた。

 しかし、そこの叔父も泊り込んでいる、我が家では、子供が帰ってこないと心配していた。特に危篤の父が心配したようだ。しかし夜の道を5キロも歩くのは無理だったし、当時は電話もなかった。

 翌日叔母さんに連れられて、家に帰ったのだが、その時、今度亡くなった叔母さんが、「何で知らせんのか」とかわいそうなほど叔父から叱られていたのを思い出す。一生懸命優しくしてくれたのにと思うのだが、その剣幕には何も言えなかった。

 恥ずかしいことだが、ほんとに今ごろになって、「ああ、子供が帰ってこなかったら、心配しただろうな」と思った。心配された私のほうとしては、「そんなに心配することはないのに」と、今の今まで気軽に思っていた。しかし、よく考えれば、大変なことだった。

その日より5日後に父は息を引き取るのだが、最後の最後まで、大きな心配をかけていたことになる。

その叱られた叔母さんも、叱った叔父さんところへ旅立った。叔父さんが、「いい所だから、おいで」と、呼んだのだろう。

夫(つま)の待つ 

召されて春の 

浄土かな

さそり座の歌 
857

 三、四年前に買った洗濯機が壊れた。以前のもそうだったが、ボタンを押して操作をする表示板に、エラーがでて全然働かなくなる。いろいろ機能がいっぱいついて便利なようだが、どうもコンピュータを組み込むと、誤作動などで壊れやすい気がする。

 それはともかく、買い換えるか、修理をするかと議論しているうちに、洗濯物がたまって何度かコインランドリーに通った。現金を機械に放り込んでいると、何とかしなければという声が大きくなり、買ったところに電話した。

 買ったところの店員はすぐ来てくれたが、「これはうちでは直せません。メーカーに行かせます」「たぶん、修理代が、二万円ほどはかかると思います」とか言って帰っていった。

 しばらくしてメーカーから電話があり、「修理に行きますが、修理をしてもしなくても、出張費として四千円いただきますけど宜しいでしょうか」という確認の電話だった。

 今更、修理に二万円以上もかかるのなら買い換えますという方針転換も面倒だし、流れに乗ってメーカーからの出張を待った。電話の翌日、訪問時間の電話があり、修理技術者がやってきた。その人は調べると「まだ三年ほどで壊れるのは、お宅には責任がありません。こちらで直します」そういって、二階まで何度もいろんな機材を、汗を拭きながら運んで、狭いところに洗濯機をひっくり返し、二時間ほどかけて修理し元通りにした。支払いは、出張費の四千円だけだった。

 おりしもある自動車メーカーが欠陥を隠し、それは運転ミスだとか、整備不良だとかで逃げているうちに、会社の存亡にかかわるようなことになっている。この洗濯機のメーカーも、何らかのミスがあったのかもしれないが、こうして修理してもらえれば気持ちがいい。はい二万円と請求されても、そんなものだろうと払ったことだろう。ミスは許されないことだが、後の対応には大きな差があった気がする。そういえば、メーカーからの電話は、開口一番「大変ご迷惑をおかけしております」と何度か言った。よく考えれば当然のことだが、今までの感覚からすれば、「大変面倒なお願いですが、修理をお願いします」と、こちらが頭を下げる気分だったので、なんだか新鮮な気がした。 
 ちなみにそのメーカー名は「シャープ」で
ある。



さそり座の歌 858 

 気晴らしにどこかへ行こうと、5月の末の5週目のお休みに沖縄へ行った。以前山口へ行ったとき、レンタカーの良さを実感していたので、今回も、飛行機、ホテル、ナビ付きレンタカーの3点セットでの予約を取った。娘と交代で運転すると、好きなところへ自由に行けて、今回も、満足できる旅行が出来た。

 その旅行の内容は別の機会に譲ることにして、今回は、二階級特進?のことを書こう。本当は、あまり書きたくはないのだが、自分史の日記だから、正直に書き残しておこう。

 およそ一年ほど前になるが、右足の股関節が痛み出して、医者にかかるようになった。以来、毎週足あげのリハビリに通っている。とは言え、普段の生活は、あまり変わってはいない。2本足で歩く暮らしを送っている。

 しかし、今回の旅行では、まず第1段階の昇進?として、杖を持った。広い空港の中など杖を突いて歩くとやはり足の負担は軽かった。

 それに加え、今回はなんと特別昇進で、車椅子というもののお世話になることになった。多少抵抗はあったが、広い首里城や水族館など、あれを全部歩いていたらと思うと、ぞっとするほどだ。ひめゆりの塔の資料館では、ゆっくり女学生の手記などを読むことも出来た。これが、歩いていたのでは、すぐきつくなって、早々に、出てしまうことになっていたことだろう。

 それが出来たのも、妻や娘が強く奨めてくれ、暑い中を厭わず車椅子を押してくれたからだった。有難い限りだ。そして家族もだが、観光先のどこもバリアフリーにはずいぶん気を配っていて、私たちを見かけると、実にこころよい対応をしてくれた。首里城とかの内部は複雑な作りだが、階段の椅子が上がったり、車椅子を乗り換えたり、別のルートを開けてくれたり、様々な配慮をして歓迎してくれた。歩いている一般客より、優遇してくれるような気がするほどだった。

 しかし、もうこれで、私の旅行スタイルが決まってしまったのかと思うと、なんだかさびしくなる。あまり信じたくはないが、もう、ギターの仲間とトレドの町やアルハンブラ宮殿を歩いて廻るようなことは、不可能なのだ。

二階級特進は、老いへの時の流れの現実を厳しく突きつけてくる。車椅子に乗って動いているとき、はて、自分は歩いて動くことが出来ていたのだろうかと、自問してしまうようなこともあった。

 家に返ってからは、そんなことはおくびにも出さず、杖も持たずに動き回り、仕事をこなしている。せめて、この状態が長く続いて欲しいものだ。

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