さそり座の歌1070

小林一茶(俳句鑑賞マラソンB)

 

 芭蕉の「奥の細道」をお手本にするかのように、多くの俳人は漂泊の旅に出ました。一茶も、各地を精力的に行脚している記録が残っています。中でも三〇才から三六才までの六年半にわたる、途方もない時間をかけた西国漂遊の旅が特筆されます。四国や九州の各地を、少しでも縁ある俳人を尋ねて行脚しているのです。

 ところでこの行脚の内容にはおよそ次の三種類があるそうです。乞食行脚(自分の俳句を見てもらっても相手にされず追い返される)、上がり行脚(上がり端で、俳句をいくつか読んでもらい、安宿を教えてもらう)。座敷行脚(読んだ句が亭主の気に入り、まあ上がってと座敷に通される)

 行脚と言っても、俳句の武者修行の日々で、レベルの高い句が出来なければ、乞食同然の暮らしになるというのですから、相当の覚悟のいる旅になるのです。

 三度くふ旅もつたいな時雨雲(享和句帖)

 我好て旅する旅の寒さかな(西国紀行)

 秋の夜や旅の男の針仕事(寛政句帖)

 当時は無名に近い一茶でしたので、西国旅行は苦難の連続であっただろうと推測されています。食事にありつけなかったり、泊るところもなく野宿したことも多かったようです。

 馬の屁に目覚めてみれば飛ぶ蛍(西国紀行)

 夏の夜に風呂敷かぶる旅寝哉(寛政句帖)

 しかしながら、その修行の成果が少し出て、「まあ上がって」と誘われることもありました。四国松山の栗田樗堂宅に二十日間も滞在し、歌仙を巻巻いた記録も残されています。

 六年半の旅を終え、一茶はようやく江戸の俳人として認められていく事になります。 

さそり座の歌 1068

小林一茶(俳句鑑賞マラソン@) 

 五月の終わりごろ、押谷隆さんより「一茶について何か書いてみませんか」という依頼をいただきました。これはいいチャンスと、一茶に関する本をとりあえず六冊購入し、気合を入れて読みました。一茶についてはほとんど知りませんでしたが、どの本を読んでも面白く、これは本格的にやらねばと、研究者すべてが参考資料にする「一茶全集全八巻(信濃教育会編)も購入したところです。

 なんだか前置きばかりが長くなりましたが、今回はとりあえず一茶が俳句の道に進み、生涯研鑽を積むことになった一番大きな理由を書いておきたいと思います。

 一茶は三歳で実の母を亡くし、八才の時継母を迎えます。この継母との折り合いが悪く、 

一五才で江戸に奉公に出ることになります。 

 六十年踊る夜もなく過しけり(文政句帖)

 しかしながら、江戸での暮らしは辛酸を究めました。風も通らない裏長屋に住み資産家俳人の太鼓持ちのようなこともしながら、食いつないでいきます。辛いことがあると故郷へ帰ります。しかし、遊び人のような一茶は毛嫌いされ、しまいには泊めてもくれず白湯の一杯も出されなくなります。疫病神と追い立てられて、仕方なく一茶は何度も江戸にもどり、何とか俳句で身を立てなければと古文や漢文などを学んだりして自分を磨いていかざるを得なかったのです。

 これが、やさしい継母で「一緒に力を合わせて暮らしましょう」「いつでも帰っておいで」という雰囲気だったら、俳人一茶は誕生しませんでした。一介の百姓として生涯を終えていたことでしょう。

さそり座の歌 1069

小林一茶(俳句鑑賞マラソンA)

 今月は、六十五年の生涯を生きた一茶のおおよその全体像を書きたいと思います。

 信濃柏原で出生。十五才で江戸に出て、奉公の後俳句にのめりこむ。五十一才で遺産相続問題が解決し、故郷の柏原にもどる。六十五才の時に火事で焼け出され、その後に住んだ土蔵で死去。

 一茶は、亡くなるまでに二万一二00の句を詠んでいます。ちなみに、芭蕉(九七六句)、蕪村(二九一八句)と比べてみると、一茶がどれだけ俳句を作ることに情熱をかけていたかがわかります。

 一茶の句の特色は滑稽、風刺、慈愛、飄逸、童心、自嘲と多面体の人間模様が句になっています。わび、さびの芭蕉風の句とは別の世界で「一茶調」と呼ばれました。

 一茶は、筆まめでたくさんの記録を残しています。日記類では、「寛政句帖」「享和句帖」「文化句帖」(三〇代〜五〇代)、「七番日記」(四〇代〜五〇代)、「八番日記」(五〇代から晩年)と、途切れることなくその日の出来事や詠んだ句を克明に記録しています。

 また、「急逓記」(俳句仲間との交流記録)、「随斎筆記」(俳諧師の作品収集記録)、「俳諧寺抄録(読書、学習記録)等もあり、それらは、歴史学的観点からも貴重な資料になっています。

 膨大な俳句や文章を残し、文学に生きた一茶でしたが、出自の農業から離れていることに対する自虐の気持ちを、生涯持ってもいました。

 耕さぬ罪もいくばく年の暮れ(文化句帖)

 鍬の罰思いつく世や雁の鳴(八番日記)

              


さそり座の歌1071

 小林一茶(俳句鑑賞マラソンC)

 

 秋の風乞食は我を見くらぶる(文化句帖)

 乞食にも馬鹿にされるほど、一茶の江戸の暮らしは貧乏でした。俳諧の大物には、庄屋、札差、医者、薬問屋など裕福な暮らしをしている人物が多い中で、一茶の貧しさは有名になっているほどでした。

 涼風の曲りくねって来たりけり(文化句帖)

 暑き日や見るもいんきな裏長屋(八番日記)

 元日もここらは江戸の田舎哉(文化句帖)

 梅がゝやどなたが来ても欠茶碗(文化句帖)

 当時、本所や深川一帯は隅田川の「川向う」

と呼ばれ、江戸の下町にも入らない場末町と言われました。曲がりくねってくる風は生温かく、陽もよく射さない暗い裏長屋が、一茶の長年の江戸暮らしの住処だったのです。華やかな正月の賑わいからも、さびしく取り残されたところで暮らしていたのです。

 痩脛を抱合わせけり桐一葉(享和句帖)

 よりかかる度に冷つく柱哉(享和句帖)

 南天よ炬燵やぐらよ淋しさよ(享和句帖)

 雪ちるやきのふは見えぬ空家札(七番日記)

 青物売り、肴売り等の棒振り、日雇取り、駕籠かき、軽子、牛曳き、夜商い、紙屑買い等のその日暮らしの人々の中で、一茶は暮らしていました。隣に挨拶もせず、朝になれば突然いなくなってしまう夜逃げもあったようです。

 福の神宿らせ給へおこり炭(七番日記)

 木がらしに三尺店も我夜也(文化句帖)

 しかし、そういう環境の中でも、一茶にはそれをはねのけていく向日的な生命力がありました。間口三尺の小さな借家でも、我が家があるという事に、自分の未来を託していたのです。

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