さそり座の歌 1066

 昨日、寒中見舞いのはがきが届いた。高校時代の友人で、臼杵に住んでいる方だ。遠くからコンサートにもよく来てくれていて、ありがたく思っていた方だ。

 その方が、昨年若い弟さんを亡くして年賀状を出さなかったというお知らせをくれたのだ。それも大変なことだったが、それに加えて、9月17日の豪雨の被害にあっていたことも知らせてくれていた。

 県南のあたりが豪雨でやられたというのは、何度もテレビなどで報道されていたので、何となく知っていた。もしかしたらという思いも少しはあったのだが、まさかという思いや、生来の不精から日を流し、何もしていないままだった。

 それがお知らせによると、120ミリの濁流にのまれ、車庫や倉庫が80pの浸水、住居は床下30pの浸水だったそうだ。まだ3万キロしか走ってない車も廃車になったという。

 避難した2階から、濁流の流れ込む浸水の様子の写真も添えられていた。昨年はあちこちで豪雨災害があった。新聞の写真を見て、大変だろうなとは思っていた。しかし、やはりどこか他人事だった。今回初めて知り合いの被害を知り、何だか身震いがする思いがした。現実の怖さがわかってきたのだ。

 この方はこの地区300戸の自治会の副会長で、復興の働き手として日々奮闘してきたようだった。その間、体調を崩し入退院も繰り返していたというから、まさに艱難辛苦の日々だった。

 豪雨の日から3日間は、陸の孤島になり、最も困ったという。しかし、人的被害がなかったのが何よりだったらしい。その生々しい状況が、克明に伝わってきた。

 お知らせには、もう一枚写真が付いていた。

 花火が上がり、海面に光の絵が輝いていた。

 高齢化率60%の地区の皆さんと、「災害に負けないぞ」と年末に復興イルミネーションを作ったというのだ。

 そこには、立ち上がろうとする人間の偉大な底力のようなものがあった。暗く落ち込んで嘆くばかりでなく、前向きに一歩を踏み出そうとする向日性が嬉しくなった。周りで軽々に喜べるような簡単なことではないのだろうが、その気持ちは復興へのエネルギーにきっとなることだろう。

 それにしても、自分の事ながら、こういう災害への鈍感さに呆れてしまう。いくらテレビや新聞で報道していても、それは、テレビや新聞の中だけのことなのだ。

 


さそり座の歌 1067

 三年前に娘の夫が仕事の関係で広島へ転勤になった。それから、月日の期限が過ぎ、この春また元の佐賀へ戻れる日が来た。

 だいたい私たち夫婦は不精な人間なので、知らないところへの旅行などめったにしない。しかし、泊るところがあり、車で案内してくれるつてがあると、何かにつけて広島へ出かけることになった。孫の誕生日とか、原爆資料館の見学など、娘の存在のおかげで、たぶんこの三年の間に十回近く広島へ出かけた。

 この四月から広島を離れることが決まった後、「では広島とのお別れに、最後に宮島へ行こうか」という相談がまとまった。

 三月の初めの三日間に予定を入れないようにし、楽しみにしていた宮島旅行が先日実現した。

 まず最初の日は、到着した日の夕ご飯に、広島名物のお好み焼きを食べることにした。「みっちゃん」という老舗で、広島で一番人気がある店が、広島駅にある。いつも行列が出来ていて、なかなか入れないところだそうだ。それで、私たちの電車が着く前から、娘と孫が並んで順番を確保してくれていたおかげで、私たちが着いてすぐに店に入ることが出来た。三種類の違う味を切り分けてみんなで食べた。それぞれどれもいい味がした。

 翌日の朝、娘の運転で宮島へ出かけた。シーズンのせいもあり、すごい人出だった。連絡船は鈴生りの人で溢れていた。

 狭い商店街は、人で溢れてなかなか前にすすめないほどだった。三軒に一軒はもみじ饅頭屋と牡蠣焼きの店が延々と続いていた。

 長い回廊を回って世界遺産の厳島神社を見物して回った。丁度干潮で、大鳥居は完全に陸地に存在していた。たくさんの人が、まるでベルリンの壁が壊れたように、大鳥居の周りに溢れていた。次の日の朝見たら、完全に鳥居の根元は水没していた。

 その夜は、坂の上の方にある「菊乃屋」というホテルに泊まった。車で荷物を取りに来てくれた時から、そのホテルの感じの良さがわかっていたが、到着してからも、従業員みんなが、このホテルをみんなで盛り立てるんだというような、明るいやさしさに満ちていた。ただ夕食には、牡蠣鍋、牡蠣何とかと次々に牡蠣が五品出て、最後に牡蠣フライが出た時は、牡蠣大好きの私も少々うんざりしてしまった。

 翌日の帰りに、「まだ広島の路面電車に乗ってなかった」という事で、宮島駅から何十年ぶり(別大電車以来)かで路面電車に乗った。途中の駅で降りて、また娘の車に乗り、満喫できた宮島の旅が終わった。

 娘がいてくれればこそ、広島駅に降りる機会を持つことが出来た。もうこれで、広島を訪問することは全くないことだろう。

 

 

さそり座の歌 1065

 正月二日に弟家族が訪ねてきてくれた。弟夫婦、子供三人、長男の嫁、そして一歳になる初孫の一家七人が勢ぞろいしていた。車が変わっていたので尋ねたら、みんなが乗れるようにレンタカーを借りたと笑いながら話していた。

今回の一番の目的は、名古屋に住む長男の子供のお披露目だった。もう伝い歩きしていて、我が家の二人の孫と小さい子同士で親しげにじゃれ合っていた。

到着前に、田舎から引きあげてきた父母の位牌に弟がお参りしたいという意向が伝わっていた。それで最初は、三階のパソコンの部屋迄みんなにあがってもらう予定だった。ここまで人が上がってくることはないので、今までになく整理整頓や掃除をして待ち構えていた。

しかし帰省していた娘が「赤ちゃんを抱いてここまであがってもらうの?」と疑問の話をして、急きょ仏壇を一階に運ぶことになった。写真やロウソク立て、そして位牌を袋に詰めた。一番重い空の仏壇は娘が持ってくれた。孫たちはお供え物のリンゴやお餅を運んだ。

一階の教室に祭壇(というほどでもないが)を作り、各部品を並べると、なかなか感じのいい仏壇になった。やってきた弟が早速お参りをしてくれた。

総勢十二名が談笑するのを、父母の写真が見下ろしていた。子供二人、孫五人、ひ孫三人、父母がいたからこそ、この係累が生まれたのだ。

父は三十八年のほんの短い生涯だった。いろいろやりたいこともあったのだろうが、かなわないままの人生だった。しかし今、この賑わいを見下ろしながら、きっと目を細めていることだろう。自分の生きてきたことは無駄ではなかった。この世に存在した価値が十分あったと、喜びをかみしめていることと思う。

私が入院したり、仕事するために家を離れた後、母は小さな弟を大学入学まで育てた。もう少し長生きして、弟のこのひ孫に出会えたらどんなにうれしかった事か。しかし、ぜいたくを言えば切りがない。

弟の家の三番目の娘は、この春大学を卒業して、就職が決まった。定年も近い弟だが、これで子育て完了という事で、人生の一段落を迎えることになった。

そんなもろもろの出来事を、今回ほど父母と結びつけて考えることはなかった。やはり、仏壇がその仲立ちをしてくれたのだろう。

 

 

 

 

 

 

さそり座の歌 1064

 実家のある田舎では、過疎が進んでいる。実家の前の道路脇に小さな空き地がある。私が小さいころ、そこに家があり、人が住んで暮らしていた。

 その小さな家には、正司はん(なぜかわからないが田舎では、名前の下に「はん」とつけて○○はんと呼んでいた)と、カメノはんという名前の老夫婦が住んでいた。

 正司はんは、急角度に腰が曲がっていた。極端に言えば、鼻の頭が地面に着くほどにも見え、両手を後ろに回して歩く姿が印象的だった。カメノはんは優しいおばあさんで、ある時、バザーか何かで使える無料の食券をくれたことがあった。それを持って行ってうどんを食べたのを覚えている。

 確かではないが、この老夫婦には子供が二人いたようだった。長男は、どこか街に出て行き、働いている様子だった。

 農繁期や夏休みになると、その家族が帰ってきた。たぶん長男は農作業を手伝っていたのだろう。

 何だか都会の匂いのする長男の奥さんと子供たちのことが、鮮明に思い出される。田舎では見かけないカラフルな衣装の奥さんから、声をかけてもらい、お菓子とかをもらった。なんだか眩しい美しさがあり、ドキドキしたものだった。

 田舎の夏では、パンツ一枚で平気で遊んでいたが、その町の子たちは違っていた。上品な半ズボンなどを見て、なんだか別世界の匂いを嗅ぎながら、一緒に遊んだ。

 夏休みが終わって、その子や奥さんたちが姿を消すと、その近所の色合いが急に醒めて、モノクロ像に変わる気がして、さびしくなった。

 長女の方は確か「百合ちゃん」と呼んでいた。ある時、隣保班の人たちがそろって「お喜び」にその家へ行ったことがあった。

 小さな部屋に、7、8名の近所の方が入り、老夫婦と百合ちゃんを取り囲んでいた。私も母の傍にいたので、その場面のことをはっきり覚えている。

 百合ちゃんが結婚することになり、お祝いに来たのだった。何でも、実家のあたりよりもっと山奥の村に嫁ぐらしかったが、それでも、良かった、良かったとみんなで喜びあっていた。

 長男家族、そして百合ちゃんは、どう変わっていったのだろう。あのころからもう60年ほど過ぎている。

 こんな小さなスペースに家が建っていたのかと思うほどの狭い空き地に、草が生えている。その端に、可燃物を捨てるゴミ箱がぽつんと置かれていた。

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